2020年1月18日土曜日

悲劇のモデルとしての香港―アヘン戦争と逃亡犯条例

 香港の人々にはたいへん申し訳ないことだとは思うが、歴史的に二度にわたって周辺国に悲劇のモデルを提供したのではないだろうか。最初は、有名なアヘン戦争である。英国が、清からの大幅な輸入超過を解消するためにアヘンの輸出に踏み切り、それを取り締まった清に対してしかけたのがアヘン戦争である。敗れた清は、1842年の南京条約によって香港を英国に割譲した。このニュースは、オランダや清の商船員を通じて幕末の日本にも伝えられ、西洋の軍事力が東洋に比して圧倒的に優勢であるという事実として、日本人に大きな衝撃を与えた。つまり、日本人にとって「あのようになってはいけない」という悲劇のモデルの役割を果たしたわけである。

 その178年後、香港は、今度は台湾の人々にとっての悲劇のモデルとなった。それも、香港が中国に返還されたことによって生じたことで、何という歴史の皮肉だろうかと思う。2020年の台湾の総統選挙において、現職の与党・民主進歩党の蔡英文が再選を果たした。中国との関係強化を主張した国民党の韓国瑜に対する圧勝であった。この背景には、一国二制度(1997年に香港が英国から中国に返還された際、50年間は香港の自治と資本主義経済などが認められるという制度)を守らずに、香港の自由を締め付けてきた近年の習近平による施策がある。とくに「逃亡犯条例」改正案は、香港と中国本土との間で容疑者の引き渡しを可能とするものであり、そうなれば香港市民が中国当局の取り締まり対象になる可能性がある。それは一国二制度を根本から揺るがすものである。香港市民が完全撤廃を求めたのは当然で、さらに行政長官選や立法会選での普通選挙の実現のための激しいデモは周知の通りである。

 中国政府は、1949年の分断以来の台湾での主権を主張し、台湾は最終的に中国と統一されなければならず、必要であれば武力行使を辞さないとしている。これによって、「今日のウイグルは明日の香港、今日の香港は明日の台湾」という危機感は、多くの台湾の人々に共有されている。中国に強硬な姿勢をとっている蔡総統は、勝利演説で、台湾を力ずくで奪還するといった脅しを放棄するよう中国側に求めている。「私はまた、中国当局が、民主主義的な台湾も、我々の民主主義に基づいて選出された政府も、脅迫や威嚇行為を認めないということを理解してくれると願っている」が彼女の言葉である。

 香港は、今回は日本人に悲劇的なモデルとして認知されているだろうか。昨年某時事番組で、香港のデモがテーマになったとき、中国政府の圧力というその背景が議論されなかったのは異様だった。習近平、あるいは中国政府に対する大きな忖度が働いていたのだろうか。そして、最後にゲストがコメントを求められたときのある女性評論家の発言が「日本の若者はおとなしいわね」だった。日本と香港では民主主義への危機感が桁違いだと思うが、そういう認識はなかったのだろうか。それとも忖度にまみれた確信犯だったのだろうか。

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2020年1月13日月曜日

めざせJ1昇格―2020年シーズンの京都サンガ

 2017年と2018年のシーズンはおそろしくひどいサッカーだったが、2019年シーズンの京都サンガは、中田一三監督のもと、パスとポゼッションのなかなか面白いサッカーを見せてくれた。京都は、20112013年シーズンも大木武監督によるパスサッカーだったが、大きなサイドチェンジもなくゴールよりもパスが目的であるかのような袋小路にはまったサッカーという印象だった。それに比べて2019年のサッカーは抜群に面白く、一時はJ2で首位だったのでJ1昇格を期待していた。しかし、守備を固められてカウンターという、ポゼッションサッカーの典型的弱点を突かれ始め、8位という成績で終わってしまった。ポゼッション率が上回っているにもかかわらず負けが多かった後半は大きな反省材料だろう。

 2020年シーズンは、中田一三監督のもとでコーチをしていた實好礼忠が監督になった。彼はJ3でガンバ大阪U-23の監督をしていたが、さて京都ではどのようなサッカーをするのだろうか。個人的には、おもしろいようにパスがつながるサッカーは捨てて欲しくないし、これに積み上げるとすれば、ポゼッションにこだわらず、守備あるいは前線のプレスからのカウンターを中心とした縦に速い攻撃を追加することだろう。現代のサッカーで、ポゼッションを中心にチームを機能させようとするとたいへんだと思う。世界でポゼッションサッカーといえば、リーガのバルセロナ、エールディヴィジョンのアヤックス、イングランドプレミアのノーリッジが思い浮かぶ。アヤックスは健闘したものの、バルセロナはあの豪華メンバーで苦労しているし、ノーリッジにいたっては現在最下位である。

 2019年に前線を牽引した、仙頭啓矢、小屋松知哉、一美和成がチームを去る。これだけ大幅に入れ替わるとチームとして機能させるために時間がかかるのではないかと心配するが、新しく加入しているプレーヤーを見ると、2019年のサッカーに京都は何を積み上げようとしているのか素人でも何となく理解できる。ヨルディ・バイスには堅い守りの構築、荒木大吾、中川風希、飯田貴敬には縦への速い攻撃、ピーター・ウタカには決定力、李忠成には前線からのプレスだろうか。2019年は中盤の底の庄司悦大からの長短のパスが効いていたので、これに縦の速い攻撃が加わると強力になる。

 京都は、これまで客寄せパンダのような元日本代表を連れてきては失敗している。元日本代表がメディアで取り上げられることを期待しているのかもしれないが、やはりサポーターをはじめとする観客は、おもしろく強いサッカーをしなければスタジアムには行かない。その点、ことしの補強は、2019年のサッカーで足りなかった部分を補っていて、個人的には非常に期待がもてる。スタジアムも新しくなり、開幕が待ち遠しい。

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2020年1月9日木曜日

本当に「寛容性」が失われているのか? (2)―グローバル化の副産物


 前回の記事で、ここ50年ほどで、「寛容性」が失われたどころか、人々の人権意識は高くなっていると述べた。ただし、トランプ現象に見られる、排外主義の復活は懸念材料である。排外主義を唱えるポピュリストが政治権力を容易に握ることができる欧米での潮流は、日本におけるヘイトスピーチと結びつけて考えれば、現代の大きな脅威といえるかもしれない。

 しかし、排外主義は今に始まったことではない。元をたどれば、霊長類の集団間の争い、狩猟採集民にも見られる他部族への敵意など、ヒトの認知機構における進化的に古いシステム(「スロー」と対比される「ファスト」)からの出力である。他部族の異装やタトゥーは、嫌悪と恐怖を引き起こすものと決まっていた。したがって、見知らぬ人に対して警戒せず信頼できるという現代のこの状況が奇跡だということを、私たちはまず認識すべきだろう。

 拙著『「生きにくさ」はどこからくるのか』でも述べたことだが、文化的発展は、私たちの理性(スロー)がこの野生(ファスト)を飼いならしてきた歴史であるともいえる。しかし、スローからの出力は、強い感情を伴っていて、ファストで修正することは困難である。これは、たとえばヨーロッパ系米国人が、差別をしてはいけないというのは「頭では」分かっているのだが、実際に貧しいアフリカ系の人々に接すると恐怖を感じたりするという例に代表される。この50年で、いくら人権意識が高まり、差別が減少したとしても、「スロー」は依然として休火山状態なのだ。

 スローからは、したがってちょっとしたきっかけで差別感情や排外感情が出力される。この50年間の地球上のグローバル化の速度は、私たちの脳あるいは認知機構が受容できるものをはるかに超えている。そうすると、外国人の増加が私たちの予想を上回り、いつのまにか、たとえば日本の観光地ではどこを向いても外国人という状況になり、当然文化摩擦も増える。「頭では」差別してはいけないと思っていても、食事の作法一つとっても、それが異なっていると嫌悪感が生じてしまうということになる。さらに、これまでマイノリティとして庇護すべき存在と考えていた人々が、自分たちの権利を主張し始めると、「頭では」それが正しいと判断しても、ファストは反感を生じさせてしまうわけである。

 ヨーロッパの場合は、それがもっとひどいことになっている。ヨーロッパの人々は、中東やアフリカの人々に対する負い目から、難民は受け入れなければならないという規範をもっている。しかし、難民とはいえない不法移民が次々にやってきて、さまざまな問題を引き起こしてしまうと、彼らの忍耐にも限度がある。特に、非ヨーロッパからの移民たちが、彼らの人権意識の低さをそのままヨーロッパに持ち込むと、ヨーロッパ人の中に反感が生じてしまう。

 私たちの世代はグローバル化に慣れていない。しかし、新しい世代、つまり周囲に外国人や文化背景を異にする人々があたりまえのように存在する環境で育った人々はそうではない。このような人々が多くなる2030年後は、このアンチグローバリズムとしての排外感情は小さくなるのではないだろうか。私は、現代問題視されている排外感情はグローバル化の副残物として、一時的なものではないかと思っている。

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2019年12月30日月曜日

本当に「寛容性」が失われているのか? (1)―サイレントマジョリティの反旗

 ここ数年、さまざまなメディアや出版物において、日本人の寛容性が失われていることが主張されている。不祥事に対するメディアの「これでもか、これでもか」という過剰な追及と不寛容やネットでの炎上などが証拠としてあげられており、さらに、ご丁寧に、寛容性が失われていることの説明として、現代人の病理や人間関係の希薄さ、あるいは政治の劣化などがあげられている。しかし、そもそも本当に寛容性は失われているのだろうか? これが事実ではないとすれば、これを説明すること自体がばかげている。ネッシーの存在を確信して、恐竜がなぜ現代まで生き延びたのかを説明しようと試みるようなものだ。

 とくに、この「寛容性が失われている」を現代人あるいは現代日本人のモラルの喪失ととらえると、本質を見誤る。モラルについていえば、太平洋戦争以後、犯罪等は確実に減少しているし(もちろん、この理由として、科学的捜査技術の進歩もあげられるだろうが)、世界的な潮流の一環として、日本においても、人権意識の高まりは確実に見られる。もちろん、差別が無くなったとはいえないが、「差別はいけない」という意識は人々の間で大きく共有されるようになった。

 そもそも、たとえば昭和の時代は今よりも人々は寛容だったのだろうか。戦時下における非国民非難の非寛容は、特殊な状況下ということもあるので比較対象になりにくいかもしれない。しかし、同じような非寛容は、昭和30年代あるいは40年代は至る所にあった。もし現代の非寛容が強くなったように見えるとすれば、かつて近辺の関係者だけにとどまっていた非寛容の対象が、情報化が進むことによって、それ以外の対象にも及ぶようになった結果だろう。とくに、インターネットが普及して、自分の意見を表明することが容易になり、また匿名で他者を非難することが可能になったことが大きな要因であろう。サイレントマジョリティが意見を発信するツールを得て、彼らの不満が人々に知られるようになっただけの現象ともいえる。武器の発明が人類を残虐にしたのではないのと同じ理由で、インターネットが人々を不寛容にしたわけではない。

 現代日本を不寛容と考えている人々の、もう1つの根拠は、モンスターカスタマー、モンスターペアレンツ、モンスターペイシェントなどの出現かもしれない。しかし私は、これらは、上述の人権意識の高まりの副産物だろうと思う。人権意識の高まりは、人々のモラルを普遍的に押し上げるわけではない。「弱者であってもモノが言える」という風潮の中で、これまで、生産者に対して弱者だった消費者、教師に対して弱者だった親、医師に対して弱者だった患者が、不満を述べ始めた結果として、モンスターが誕生したのだろう。彼らが、サイレントマジョリティとして、不満を表現できなかった社会よりはましなのではないかと思う。もちろん、私も、これらの問題は放置してよいと考えているわけではなく、何らかの対策が必要だろうとは思う。しかし、これらの現象をもって、現代人の精神の貧しさとか、モラルの低下に結びつけて議論するのは不毛以外なにものでもない。

2019年12月19日木曜日

“Adapting human thinking and moral reasoning in contemporary society”刊行 (3)―笑いについての考察


 11月末に刊行された” Adapting human thinking and moral reasoning in contemporary society”では、私はもう1つの章を執筆している。章タイトルは Laugh and laughter as adaptation in human beings: Past and presentである。なぜこのタイトルの書籍に「笑い」についての章が含まれるのかと、疑問に思われるかもしれない。しかし、社会的哺乳類として進化したホモ・サピエンスが、ダンバー数を超えてどのように大規模な協同が可能になったのかという問題に対して、「笑い」はその1つの戦略であるという視点からその機能を論じることができ、本書のテーマに合致するわけである。つまり、「何かをみんなで笑う」という経験は、人々を結びつける機能があるというわけだ。ちょうど宗教的な集まりが人々の結びつきを強固にするという機能と似ている。

 しかし「笑い」には、もう1つ、他者を嘲笑するという機能もある。どちらの機能も、「笑い」が何らかのズレを認識することによって引き起こされる点にその源泉がある。ズレには、習慣からのズレや規範からのズレがあり、失敗などのズレを引き起こした本人を巻き込んでの笑いになることもあるが、そうでなければ、たとえば規範からのズレにたいしては嘲笑になりやすい。つまり、規範からのズレを生じさせたということで非難の対象になるわけである。さらに嘲笑も、笑っている人々同士の関係を強める作用があるといえる。

 嘲笑は、ホモ・サピエンスを含む社会的哺乳類としての霊長類における順位制において極めて高い適応的機能がある。順位制においては、自分の順位を上昇させるという適応課題と、集団の調和を保持するという適応課題がそれぞれの個体にのしかかる。嘲笑は、された側の順位の低下を招きやすく、また同時に、集団のメンバーと協同で嘲笑をすれば、嘲笑している側のメンバー間の関係が強まることになる。地位上昇と調和保持という両方の問題に有効なわけである。また、順位制への適応という視点から、自虐的な笑いがなぜ受けやすいのかという理由も明らかになる。自虐は、自嘲として自分の地位を低下させる可能性もあるが、他のメンバーに、「自分は地位の上昇の野心を持っていませんよ」というメッセージになるわけである。したがって、他のメンバーは、安心してその自虐を笑うことができるのである。

 情報化社会としての現代では、コミュニケーションは複雑化している。まず他者への攻撃として、身体的な暴力がここ70年の間に大きく忌避されることになり、相対的に言葉が武器として選択されるようになった。もちろん言葉の暴力としてハラスメントと認定される場合もあるが、嘲笑は、最も受け入れられやすい他者攻撃の戦略になっている。ジョークを含んだ嘲笑は、身体的暴力に代わるものとして、その個人の知性が高いと評価され、順位制の中で地位の上昇をもたらすことにもつながる。一方で、受け入れられやすいはずの自虐でも、ときには批判されることもある。たとえば、自他ともに美人と認められる40歳を過ぎた女優が、「どうせ私は結婚できないから」と自嘲したとしよう。「美人は結婚に有利」という常識からのズレとして、この女優の仲間内では、笑いを誘うかもしれない。しかしこの自虐がメディアによってさまざまに伝えられると、独身は惨めだという価値観を押し付けるものとして、独身を選択した女性を傷つけることになる。情報化社会では、仲間内では笑いになっても、不特定多数に発信されると許容されにくくなることが起こりうるわけである。


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2019年12月9日月曜日

“Adapting human thinking and moral reasoning in contemporary society”刊行 (2)―モラルについての自然実験


 11月末に刊行された Adapting human thinking and moral reasoning in contemporary societyでは、私は2つの章を執筆している。これは、編者特権ではなく、章が足りなくなると出版できないということで、慌てて1章を追加した次第で、共に編集に加わっていただいたVeronique Salvano-Pardieuさんも2つの章を担当された。

 そのうちの一つである4章は、Morality and contemporary civilization: A dual process approachというタイトルで、「スロー」なモラルが「ファスト」な衝動を制御することができるのかどうかという問題を、歴史の自然実験で検証しようと試みたものである。拙著『「生きにくさ」はどこからくるのか』では、「ファスト」のモジュールの中に現代の繁栄の基礎があるということに主眼が置かれていたが、この章では、モラルの向上の問題に焦点が当てられている。

 1027日の「法と心理学会」で話したこととはこれを基にしているが、この章では、歴史の自然実験として、18世紀のヨーロッパの戦争・暴力・残虐性の減少と、第二次世界大戦以降の戦争・殺人・犯罪・暴力の減少と人権意識の高まりという2つ事例が取り上げられ、それがどのような意味で「スロー」による「ファスト」の抑制なのかという問題が論じられている。概して、「ファスト」は、「怒り」や「恐怖」など強い感情と結びついている。したがって、「ファスト」と結びついた残虐性、例えば魔女に対する恐怖に駆られて行われる拷問等は凄惨を極め、「スロー」では修正されにくい。いくら「スロー」が魔女は迷信に過ぎないと理解しても、恐怖を消すのは困難なのである。現代でも、仏滅について、「スロー」は迷信だと判断してくれるが、「ファスト」はタブーを破って仏滅に結婚式をすることの恐怖を引き起こす。

 しかし、自然実験の結果、魔女狩りが消滅したことは事実である。私は、スティーヴン・ピンカーに同意して、これを、「スロー」による「ファスト」の直接の制御というよりは、「スロー」が「ファスト」の「心の理論」あるいはメンタライジングを制御することによって、拷問を受ける魔女への共感や同情を呼び起こした結果と解釈している。つまり、「ファスト」の恐怖がもたらす感情を、共感がもたらす「かわいそう」という感情で飼いならしたわけだ。

 この解釈は、犠牲者同定効果と呼ばれる現象とも一致する。この効果は、犠牲者が明示的になると、その犠牲者への同情が大きくなるというもので、たとえば、災害があったとき、そこの特定の犠牲者がクローズアップされると、寄付が集まりやすい。メンタライジングによって、犠牲者の悲しみを共有することが可能になり、強い感情が引き起こされて、行動を喚起しやすくなるわけである。これは、いいかえれば、「1人の死は悲劇だが、100万人の死は統計」という言葉に表わされる。乱暴かもしれないが、これをモラル判断に適用すれば、1人の死は直感的な義務論的判断に、100万人の死は熟慮的な功利論的判断に相当する。 前者はカント、後者はベンサムによる主唱で、カントが好きな人には申し訳ないが、直感による義務論的判断は、行動へのエネルギーはあるものの危なっかしい。社会全体にモラルが浸透するためには、功利論的な規範に向けての、義務論的判断のエネルギーによる人々の行動が最も適しているというのが結論である。


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「スロー」は「ファスト」を制御可能か? ―歴史的自然実験による検証


2019年12月1日日曜日

“Adapting human thinking and moral reasoning in contemporary society”刊行 (1)―本書の簡単な紹介


 IGI Globalという出版社から、フランスのツール大学のVeronique Salvano-Pardieuさんと私の編集で、“Adaptinghuman thinking and moral reasoning in contemporary society”という書籍が先日刊行された。これは、認知科学の研究者に、この現代の成立と現代文明への適応をどのように考えていくのかについて語ってもらうという趣旨で企画され、最終的に12の章が編集されて出版ということになった。

 ジャレド・ダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』やスティーヴン・ミズンの『心の先史時代』から、ユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』や『ホモ・デウス』など、ここ30年ほどで、人類はどのようにして文化を創り上げてこの発展した現代に至ったのかについての、いわゆるビッグ・ヒストリーのアプローチの書籍が増えた。これらは、現代人のモラルが失われたという幻想をあたかも事実として、それを説明しようとする(「事実」なら説明する価値があるが、「事実」ではないことを説明しようとしているから不思議である)浅薄な現代論とは一線を画しており、主としてNatureScienceなどの国際誌で発表された膨大な資料に基づいて「物語」が編まれていて、非常に読み応えがあると思う。

 自分もこういう書籍を書いてみたいという野望は常に抱いていたが、残念ながら私一人ではとても書けないし、私が渉猟することができる適切な文献は多くない。そこで、モラル推論について研究をされているSalvano-Pardieuさんとともに、認知についてのさまざまなモデルを想定している研究者に声をかけての企画となった。とくに、私たちが多かれ少なかれ関与している、「ファスト」と「スロー」を仮定している二重過程理論は、進化的に新しい「スロー」がこの現代の繁栄にどのように貢献しているのかという視点を提供してくれるのである。

 12章は4章ずつの3セクションからなり、第1セクションでは、進化的な視点から、主として推論やモラル推論について議論している。すべての章において二重過程理論が想定されており、人間の推論にどのよう適応的な意味があるのかという基本的な問いかけと、それがモラル判断にどのように適用されているのか、さらには「ファスト」が「スロー」をどのように抑制するのかが議論されている。

 第2セクションでは、現代社会における推論が4つの角度から議論されている。とくに私は、迷信が徐々に信じられなくなる (たとえば、内山節が『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』の中で興味深い論考を行っている) ということと、科学を突き詰めると逆に神を信じてしまう人間の不思議さが興味深く、この領域の適任者として北星学園大の眞嶋先生がこの中の1章を執筆されている。

 第3セクションの執筆者たちは、それぞれの立場から、教育あるいは政策論を語っている。モラル推論への教育的介入や教師による推論に加えて、哲学者(名古屋大のLai先生と戸田山先生)からはアカデミックライティングを通した論理学教育が提唱され、政策学者からは現代社会における知識管理の一環としての知的資本の管理の重要性が主張されている。

 IGI Globalは非英語圏からの学術書の出版を奨励しており、著者の世界的なネームバリューがイマイチということで、売れないので書籍が高額になっている。しかし、さまざまな分野の認知科学者が人間の思考やモラル推論から現代を語るという、これまでにないユニークな構成になっている書籍だと自負している。また、割高にはなるが、IGIのサイトからはそれぞれの章を購入することも可能である (私の章は2章ありますが、請求いただければ、著作権に触れない範囲で原稿のpdfをお送りできます)