2021年6月27日日曜日

科学基礎論学会観戦記 (2)―ハイテク社会における「説明」のあり方

  科学基礎論学会で、もう1つ興味深かったのは、「形式システムの公平性、公正性、透明性―科学技術に支配されつつある現代社会のための挑戦」(Fairness, Integrity and Transparency of Formal Systems: Challenges for a Society Increasingly Dominated by Technology) というシンポジウムで議論されたテーマである。

 この領域については素人なので、ちゃんと理解できたかというと心もとないが、科学における基本的な哲学的問題である「説明」について、AIなどの形式システムがどのようにかかわれるのかということが、私が勝手に興味をもった問題点である。私自身も、実際の研究においていったいどのような説明が適切なのかあるいは規範なのかについては、ケースバイケースで直感的に選択しているように思う。還元主義的になる場合もあれば、因果モデルを適用したりする場合もあり、近接的な説明もあれば究極因的な説明もある。たとえば、「リンゴはなぜ美味しいのか」を説明するのに、近接的な説明ならリンゴの成分と舌の味覚神経細胞の関係を還元的に調べたりするかもしれない。一方、究極因的説明の代表は進化論的な説明で、「ヒトはなぜリンゴを美味しいと感ずるように進化したのか」という問いに言い換えてそれに答えることになる。

 この伝統的な「説明」にインパクトを与えたのが、AIなどの形式システムのようだ。元来、幾何に代表される数学的な証明は、自動性があり、誰の目にも明らかな透明性をもち、「説明」として完全である。しかし、AIによる説明は、この延長線上になく、極めて複雑なものになり、ある部分はブラックボックスとなって透明性にも欠ける。AIは、数学の証明を適用できない複雑な現象をより完全な形で説明ができるようにしてくれるかもしれないが、説明の王道である単純性を欠いてくるわけである。現代のテクノロジー社会は、「説明」という点で、単純性と完全性のトレードオフに悩まされるということになる。

 素人の私は、残念ながらそれぞれの話題提供者の提案をきちんと理解できなかったが、公平性(fairness)という概念が導入された理由がわかりにくかった。もちろん公平性という概念が重要なことはわかるのだが、あいまいな概念によって却って「説明」の理解が後退したような気がしたからである。もし、もう一度このような議論を聞く機会があれば、もう少し勉強してからと思うのだが、他領域を本格的に取り組もうとすると骨が折れる。

2021年6月24日木曜日

科学基礎論学会観戦記 (1)―ヒト脳オルガノイド雑感

  科学基礎論学会の第66回年次大会が佐金先生を大会委員長として先日大阪市立大学で開催された。「大阪市立大学で開催」といっても残念ながらウェブ開催で、私は自宅から参加した。私は会員ではないが、非会員として講演に招いていただき、たいへん楽しい時間を過ごすことができた。科学基礎論学会は、科学哲学の学会で、私が専門とする認知心理学とは領域的に比較的近く、何名かの会員の先生方とはこれまで研究会やワークショップなどでご一緒している。とはいえ、アウエー感満載であった。

 発表やシンポジウムのテーマには刺激的なものが多かった。今世紀に入って、科学の進歩による倫理の問題が数多く提起されているが、太田先生によるヒト脳オルガノイドについてのものもその1つである。オルガノイドとは、試験管などの生体外で培養される組織の細胞、ES細胞またはiPS細胞から、自己組織化により形成されるもので、病気のメカニズムを知ったり、再生医療に適用されたりする。しかし、ヒト脳オルガノイドが他の動物の脳に移植されると大きな倫理的問題を引き起こす。この理由は移植された動物の脳あるいは精神メカニズムがヒトに似てくるからである。この話題で私が真っ先に思い出したのは、クローン人間の臓器移植を扱ったカズオ・イシグロの『わたしを離さないで』である。ヒト脳オルガノイドについては、そこまでの道徳的嫌悪感はない。それでも移植された動物がヒトに近い意識を持つかもしれないので、その動物を実験に用いることに倫理的問題はないのかという問題が提起される。この問題へのアプローチには、意識がどのような意味で価値があるのかという議論が必要になってくるが、大別して、肯定的視点と中立的視点があるようだ。前者は、意識自体に価値があるとするもので、ヒト脳オルガノイドによって移植された動物がヒトと似たような意識を持てば、その意識を抹殺させてはいけないとする。後者は、意識自体に内在的価値を求めるのではなく、何らかの特性が追加されて、たとえば意識をもって生きることの快などによって、その価値を問うというものである。結論として、どちらもそのままの形ではこの問題を議論するには不十分だが、肯定的視点は、意識をもった個体の存在論的な本質を追求することによって、ヒト脳オルガノイドの道徳的な位置について示唆を与えるのではないかということである。

 私自身はこの問題には素人だが、素朴に2つの疑問が生じた。1つは安楽死の問題である。私は個人的に、医療の驚異的な発達とともに、私たちは安楽死を議論しなければならない時期に来ていると思っているが、これは意識の肯定的視点だけでは議論はストップする。「絶対に認められない」の一言で終わる。一方、意識を持つことの快・不快、さらには苦痛という価値を付加した中立的視点からならば、苦痛に満ちた意識を消去する権利が議論の土俵に上る。テーマはヒト脳オルガノイドなので、安楽死とは関係がないのかもしれないが、ちょっとだけ気になった。2つ目は意識の一次元性についての問題である。現時点ではヒト脳オルガノイドを移植された動物の意識についてそれほど問題視されないだろうが、このシンポジウムでの議論は近い将来にこの動物たちがヒトに近い意識を持つのではないかということを想定したうえでのものである。しかし、ここに意識の一次元性を仮定してもよいのだろうか。つまり、ヒト脳オルガノイド移植動物の脳がかなりヒトに近いものであったとしても、そこで経験される「意識」と私たちが経験する「意識」の違いは程度問題なのか、あるいは質的な違いはないのかという疑問である。たとえば、AIやロボットの知能が高くなってヒトを追い越したときに、ヒトに対して謀反を起こさないかという問題に、現在では多くの科学者がノーと答えるが、その理由は、知能の一次元性仮定に無理があるからである。つまり、知能が高いAIといっても、やはりヒトとは質的に異なるので、謀反のようなことはありえない。意識の一次元性については、質問すべきだったかもしれない。

 

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2021年6月17日木曜日

まさかとは思うがー素人が妄想した赤化統一

  以前、ジャレド・ダイアモンドの『危機と人類』で紹介されたチリのクーデターによる独裁軍事政権についての記事を書いた。チリは、南米の中でも伝統的に民主的な国なので、そんな国においてこういうことが起きたのだということに多くの人が恐怖を感じたようだ。私はそれに加えて、韓国における文在寅政権に対するクーデターの可能性に触れた。文在寅には、韓国のかなり人々の不満が鬱積しているからである。

 しかし、まさかとは思うが、文在寅自身がクーデターを起こす可能性はないのだろうか。これまでの韓国の大統領が、辞任と同時に多くの罪状で告発されて収監という例が多い中で、文在寅が行ったさまざまなこと、特に北朝鮮へのすり寄りは、政権党交代があれば辞任後に罪に問われる可能性はかなり高いのではないかと思う。そうすると、みすみす収監されるよりは武力的赤化統一に賭けてみるというのは彼個人にとって悪い選択肢ではない。

 私は、在韓米軍などの配置や諜報活動についてはほとんど知らないし、武力的赤化統一は極めて非現実的なことなのかもしれない。しかし、文在寅が韓国軍の腹心将校を味方につけ、中国あるいはロシアの支援を受けて、北朝鮮軍を韓国に招き入れ、武力的赤化統一を試みたらどうだろうか。もちろんこの北朝鮮軍の動向はつぶさに米軍等に知られるが、少なくとも北朝鮮国内での移動には在韓米軍は手を出せないであろうし、韓国領内に入ってきても青瓦台と韓国軍が招き入れたということになるとやはり攻撃を加えるわけにはいかない。そして、ソウル市民を人質にして武力的赤化統一を図るわけである。文在寅の長年の夢である朝鮮半島の統一を成し遂げ、大統領退任後の訴追や収監を回避できるという、一石二鳥の方法である。ここまで事が運べば、在韓米軍は内政干渉になるのでこのクーデターに対して攻撃を加えることはできない。さらに在韓米軍に助けを求めようとする韓国人は、おそらくそのときに敷かれる戒厳令下での利敵行為として取り締まればよい。これで、とりあえず第一段階はクリアできる。

 この武力的赤化統一の成否について、ミャンマーの軍事クーデターは参考になるだろう。ミャンマーでは、海外からの干渉は現時点で無力である。赤化統一のクーデターが成功すれば、在韓米軍といえども内政干渉として手を出せなくなる。また、ミャンマーより有利な点は、ロシアや中国の支援を受けることができるということだ。内政では、この赤化統一に従わないものは主体(チェジュ)思想を歪曲するものとして歴史歪曲禁止法などによって、政敵を次々に収監することができる。歴史歪曲法は、親日家を取り締まる以外にも役に立つ。こうすれば、少なくとも230年はこの赤化統一を保てる。まさかこういうことは起きないとは思うが、文在寅個人にとっては悪い選択肢ではないということが気掛かりである。

 

ジャレド・ダイアモンドの『危機と人類』を読む(2)ーチリ軍事独裁の恐怖

ミャンマーの軍事クーデター


2021年6月14日月曜日

『21世紀の啓蒙』(Enlightenment now)を読む(2)―進歩恐怖とバイアス

  前回の投稿で、いわゆる「進歩的知識人」の進歩嫌いが、ロマン主義運動にたどり着くとするピンカーの主張を紹介した。しかし、それは一つの側面であって、そもそも「知識人」と称する人々は「進歩恐怖」と呼べるくらいに進歩を嫌っているには、さまざまな理由があるというのがピンカーの意見である。

 概括すれば、これは「進歩的知識人」のインテリ文化の特徴であろう。世の中は現在よりも良くなるだろうか悪くなるだろうかという問いに、「良くなる」と答える人間は、おバカだと思われる風潮がある。楽観主義者ならともかく、楽天家とか夢想家、極端な場合は「極楽トンボ」などと命名され、オツムがちょっと弱い人間というイメージが付随するのだ。現在、世界的規模で生じている地球温暖化の環境問題や紛争・テロに無関心なおバカさんというわけだ。また、実際、何かを評するときに、肯定的な評価をする人よりも否定的な批評をする人のほうが賢いとみなされやすい。「進歩的知識人」は、この傾向にちゃっかりと乗っかっているというわけだ。

 しかし、知識人が本当に進歩的であろうとすれば、人々のネガティヴィティバイアスを修正することが大きな役割の一つである。人間の認知は様々なバイアスの影響を受けるが、このネガティヴィティバイアスを引き起こしている利用可能性バイアスが心理学において知られている。利用可能性バイアスとは、利用可能性が高い情報を根拠に判断を行うことによって真実からズレていく現象で、代表的なものがメディアの報道の多さを根拠にした判断である。たとえば、日本におけるこの1年の新型コロナウイルスによる死者数は、肝炎ウイルス関連の死者数と比較してどの程度と推定できるだろうか。実は前者は約14000人、後者は約40万人で圧倒的に後者が多いのだが、私たちは新型コロナウイルスの死者数が多いのではないかと思ってしまう。これは前者の報道が頻繁だからである。

 そして、このバイアスを生み出すニュースには、良かったことよりは悪かったことのほうがはるかに多いのである。かくして、人々は良い出来事よりも悪い出来事の方が多いという方向への利用可能性バイアスの影響を受け、悲観主義に陥るというわけである。「進歩的知識人」の役割は、この利用可能性バイアスを修正することにあると思うのだが、むしろ人々の性向におもねるようにして、このバイアスに加担している。彼らが果たすべき役割は、過去を評価し、そこから未来に向けてシミュレーションを行っていくうえで、利用可能性バイアスによって隅に追いやられたパラメータを復権させていくことなのではないかと思うのだが、なかなかそういう「進歩的知識人」は現れてくれない。

 

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