2019年8月15日木曜日

落語はやめたほうがいいー大河ドラマ「いだてん」雑感


 大河ドラマ「いだてん」の視聴率の凋落が止まらない。主人公が金栗四三から田畑政治に代わり、ロスアンゼルスオリンピックからベルリンオリンピック、戦争と激動の時代を名優たちが生き生きと演じているこのドラマが低視聴率というのはたいへんもったいない気がする。

 比較的このドラマに評価が高い私自身でも、あの落語は何とかならないものだろうかと思う。少しは本筋とつながるのかもしれないが、はっきり言ってどうでも良いストーリーが展開されている。落語の天才なのかもしれないが、自堕落で妻に甘えっぱなしの若き日の志ん生には、なかなか共感できるものがない。本筋のスポーツでもちょっとそういう傾向があるが、伯楽が天才を見出すストーリーは、好きな人もいるのかもしれないが、私はそういう直感主義には「はぁ、これが天才?」と訝るだけである。それに、せっかく本筋で盛り上がっていて、その続きにワクワクしているときに落語が入る。民放のドラマや取材モノなどで、盛り上がったところでコマーシャルを入れる安っぽい演出を真似ているのかと腹立たしくなる。

 本筋はみごとだと思う。たった2人が参加しただけのストックホルム大会から、日本のスポーツにおける国際社会に参加していくという高揚感と、その背後に戦争への足音を忍ばせて不安感を醸し出す演出は、息を詰めて見ざるをえない。とくに、五・一五事件で暗殺された犬養毅が塩見三省によってみごとに演じられており、ドラマ全体に緊張感を高めたと思う。おそらく今後は、オリンピックに出たアスリートの戦死等も報じられて、上質な反戦ドラマになっていくのではないだろうか。始まったころは、ちょっと国威掲揚的で嫌だなと思っていたが、それも徐々に薄まっている。

 また、女性の社会的地位が低い時代から、徐々に女性アスリートが育っていく過程も見ていて興味深い。寺島しのぶが猛女のような二階堂トクヨを演じ、ブルドーザーのごとく女性アスリートの道を開拓したあと、自分もやってみようというシマを杉咲花が個性的に演じた(実は、関東大震災で亡くなったあとは、しばらく「シマロス」が続いた)。その次の世代は、女性についての固定観念と戦いながら村田富江や人見絹枝が女性アスリートのあり方を模索した。さらにその次の世代が「前畑ガンバレ」で有名な前畑秀子である。前畑になると、もう「普通の女の子」の延長だ。これらの世代間対比の描き方は見事で、この流れがどのように東京オリンピックの「東洋の魔女」に至るのかたのしみである。

 しかし、大河ドラマが東京オリンピックの国策ドラマに堕しているという印象が、結局は低視聴率に結びついているのかもしれない。


過去の関連記事
大河ドラマ「いだてん」-視聴率が低いなんてもったいない

2019年8月13日火曜日

跳び箱パンー大阪市立大学オープンキャンパス


 810日と11日に、大阪市立大学の杉本キャンパスでのオープンキャンパスが行われた。私たちが高校生の頃はこのようなイベントはなかったし、前任校で積極的にオープンキャンパスをやり始めたころは、私自身かなり批判的だった。学園祭のようなノリも好きになれなかったし、わざわざ夏休みに受験生にそんな活動に時間を割かせるのに罪悪感を抱いていた。それよりも、高等学校の3年生くらいで、「自分のやりたいこと」といって、自分の方向性を狭めてしまうのもどうかなと懐疑的だったのである。

 しかし、昨今はオープンキャンパスも花盛りとなり、受験生集めに必死な私立大学のみならず、多くの大学において高大連携の一環としても、奨励されているようだ。大阪市立大学の心理学教室でも心理学実験を体験するコースが人気のようで、悪い気はしない。

 さて、このオープンキャンパスの人気商品の一つが、「跳び箱パン」である。大阪市大を卒業された方が経営されているパン工房で作られているようで、跳び箱の形をしたなかなかユニークなものである。大阪市大のオープンキャンパスでは、苦難を、跳び箱を越えていくように乗り越えようという趣旨で、何名かの教員が、座右の銘であるとか、受験生へのメッセージが書かれた跳び箱パン販売という企画があった。

 私もこれに参加し、「最悪を想像し、それが思っているほど悪くないということが分かれば、世の中に怖いものはない」というメッセージを寄せた。これは、私がこれまで何回か苦難を経験した時に試みたものである。受験生のときに、第一志望の大学の入学試験直後にまず行ったことは、予備校の願書やパンプレットの取り寄せだった。某予備校のパンフレットを眺めながら、「予備校生活も楽しいかも」と落ちた後の心のケアを未然に行っていた記憶がある。幸い、現役で合格したので、予備校生活は未経験となった。

 最大の苦難は、今から18年前の悪性リンパ腫の闘病である。幸い、比較的抗がん剤が効くタイプといわれていたので、そのときの考えられうる「最悪」は、治療でいったんは腫瘍は叩けても再発を繰り返すというものだった。そのときに抱いたのは、最悪でもなんとか45歳くらいまでは生きらるのではないかという望みである。そして、それならば、そのときにやり残したと思っていたことができるだろうと、ほっとした気持ちになったことを覚えている。

 幸い、今年還暦を迎えることができたが、やり残していることはまだまだ多い。

2019年8月10日土曜日

カマキリの謎


 子どものころ、猛烈にカマキリを捕えたかった時期があった。私は小さいころから昆虫が好きで、捕えた虫を小学館の昆虫図鑑で調べるのが面白かったのである。その中で、強烈な憧れがあったのがカマキリである。なぜカマキリなのかと質問されても、明確な回答を返すことができないが、あの前足で被捕食昆虫をしっかりと捕えて食べる様子に、何か悪童の好奇心を刺激する残虐さがあったのかもしれない。

 しかし、このカマキリはなかなか見つけることができなかった。近所の竹やぶに、バッタやコオロギがたくさん生息していて、よくそこに虫取りに出かけた。ショウリョウバッタ、トノサマバッタ、オンブバッタ、エンマコオロギ、イナゴ、キリギリス、ウマオイなどはたくさん捕まえたが、カマキリはどうしても捕まえることができなかった。当時の昆虫図鑑には、オオカマキリ、コカマキリ、ハラビロカマキリが本州に生息する代表的な種類とされていて、実際に見たこともあったのだが、自分ではなかなか見つけることができなかったのである。なお、やや珍しいものとして、チョウセンカマキリやヒメカマキリがいるのだが、私自身は実際に見たことはない。ところが、小学校の低学年の頃だったと思うのだが、保育園の玄関の前でヒメカマキリを見つけた夢を見たのである。現物を見たことがないにもかかわらず、夢の中では、その大きさ(23cmと極めて小さい)から、ヒメカマキリに違いないと確信し、何とか捕まえたいと焦っているうちに目が覚めた。今でも覚えている夢なので、よほど印象に残っているのだろう。

 ある程度昆虫等についての知識、とくに食物連鎖についての知識を得るようになると、カマキリは昆虫の中では食物連鎖の頂点に立つので、ある程度十分な被捕食昆虫がいないと生息しないということが理解できた。そうすると、その竹やぶにはたくさんの被捕食昆虫がいたとしても、それでも少ないのだろうと納得していた。

 ところがである。決して広いとはいえないわが家の庭に、けっこうカマキリが出没するのである。被捕食昆虫としては、チョウやバッタが時々紛れ込むくらいで、けっして豊富とはいえない。また、子どものころに通った竹やぶに比べればはるかに狭い。それにもかかわらず、帰宅したときに家のドアにカマキリがとまっていたり、窓から家の中に入り込んできたり、子どものころの私だったら狂喜するようなことが何度かあった。つまり、私が子どものころにカマキリを発見できなかった理由を説明できるはずだった「被捕食昆虫不足説」はみごとに棄却されるに至っているのである。

 最近カマキリが増えているのだろうか? 温暖化の影響の一つだとすれば心配である。

2019年8月3日土曜日

推論研究のゆくえ (3)―London Reasoning Workshop参加記

 718日と19日にロンドンのBirkbeck Collegeで行われた12th London Reasoning Workshopに参加してきた。昨年は行けなかったので、2年ぶりの参加である。このワークショップは、世界のトップクラスの推論研究者が集まり、いくつかのシンポジウムに分けて一人30分ずつの発表が2日間で行われて、非常に中身が濃い。私は、水難事故の予測に後知恵バイアスが影響しているという研究成果を19日に報告した。

 今世紀に入ってから、推論における記述理論と規範理論が、命題論理学から、効用と確率の計算にシフトしている。この理由は2つあり、そもそも人間は命題論理学にそれほど忠実ではないということと、“If p then qの命題論理学に基づく真偽の取り決め自体に問題があるということである。その結果、効用と確率の計算に、推論の規範的合理性を探求する取り組みが行われてきた。もう1つの流れは、スローだが柔軟な情報処理が行われる高容量システムと固定的だがファストな情報処理が行われる低容量システムを仮定する二重過程理論の理論的発展である。

 その結果、ワークショップに参加してみて、現在の研究動向に4つの方向性があるという印象を受けた。まず、効用は、実用的な効用と認識的な効用に分類することができるが、前者は、推論ルールに従ったあるいは違反した場合の損得と直結している。1989年に提唱された、社会的交換において騙し屋に敏感なアルゴリズムが作動するという研究を受け継いでいる。この方向で現在行われ始めているのが、モラル推論・モラル判断の研究である。モラルそのものが規範かどうか、モラルに従ったり違反したりすると、どのような効用が得られるのかという問題に加えて、本ブログ記事でもたびたび扱った、意識的なモラルと無意識的なモラルに二重過程理論を適用した研究が行われている。

 認識的効用は、20年以上前に、ウェイソン選択課題における「カードをめくることによってどの程度の情報が期待できるか」という基準として提唱された。現在では、命題の不確かさや自分の推論の不確かさなどについてのメタ推論研究として発展している。そのために、一部にかなりの数式好きがいるのだが、残念ながら、私はなかなかこの数式好きにはついていけない。

 メンタルモデル理論も発展を続けている。しばらく前にJohnson-Lairdがかなり重い病気と聞いていたが、しっかりと健在であり、自身で発表を行っていた(London Reasoning Workshopでは、どんな「大物」も発表時間は30分である)。現在は、モデルの数と認知負荷の関係よりも、シミュレーションとしてのモデル操作に力点が行われている。そして、前世紀の課題であった、どのようなモデルが優先的に生成されやすいのかという点について、二重過程理論のファスト処理メカニズムが援用されている。

 二重過程理論における現在の最も中心的な課題は、スロー処理がどのようにして喚起されるのかという点である。前世紀では、ファストな処理によってバイアスが生ずるが、スローな処理によって修正可能ということが想定されていたが、では、誰がどのような判断でスローな処理を起動させるのかという問題は残されたままだった。あるいは逆に、ファストな処理によるバイアスが修正されないままだとすると、どのようしてそのバイアスの影響を受けた出力が、直観的に「合理的である」と判断されるのかという問題も生ずる。現在、これらはメタ推論の問題として議論されているが、ファストな処理の出力の中に、論理的直観に従ったものがかなり含まれているという視点が導入されている。これは、進化心理学者がファストな処理は進化の中で淘汰されてきたので当然合理的であるとする主張と矛盾しない。


過去の記事
推論研究のゆくえ (1)―メンタルモデル雑考
推論研究のゆくえ (2)―メンタルモデル vs 新パラダイム