2026年5月28日木曜日

最終講義「人間は合理的なのか?」(3)―理性はバイアスを制御できるのか

  本記事までかなり間延びしてしまったが、私の最終講義の最終パートは、「理性はバイアスを制御できるのか」、言い換えれば、「内省的システムは直感的システムを監視して、もし非合理的直感があれば、それを修正したり上書きしたりできるのか」という問題を扱っている。

 この問題は、拙著『「生きにくさ」はどこからくるのか進化が生んだ二種類の精神システムとグローバル化』をはじめとするいくつかの著作の中で取り上げてきた。内省的システムは、進化によって増大した認知的容量によって支えられているが、概していえることは、この性能が高ければ直感的システムの産物であるバイアスなどを抑制することができる (この性能の指標として知能指数がよく用いられる。知能指数は、狭い範囲の能力という神話が流布しているが、現時点で認知的容量の汎用性を示すもっとも適切な指標である)

 私は、現在、この問題、すなわち内省的システムによる直感的システムの制御についての検証を、「歴史的自然実験」という方法で行うことを提唱している。歴史的自然実験とは、それぞれ異なる条件で発展してきた異なる地域・社会の比較で、地理、気候、資源へのアクセスなどが独立変数となり、社会的発展、政治的組織化、経済システムなどが従属変数となる。心理学に適用するということは、社会の大きな変化に対してどのような精神の変容があったのかを推定することを意味している。

 内省的システムによる制御として、私は、17世紀後半からのヨーロッパの啓蒙の時代と第二次世界大戦以降の、攻撃性 (暴力) の減少とヒューマニティあるいは人権意識の高揚という現象をターゲットにした。この変化を、内省的システムによる直感的システムの抑制という切り口で説明すると、確かに第二次世界大戦後の人権意識の高揚や暴力・犯罪の減少に、フリン効果と呼ばれる知能の向上が関係しているかもしれない。しかしそれ以上に影響力があったのは、小説の普及とそれによる人々の共感の増大であろう。小説は、人々の心の中にナラティヴを形成して、実は内省的システムではなく直感的システムの感情に働きかけ、大きな行動力を生み出す。ストウ夫人の『アンクル・トムの小屋』が奴隷解放を促進したことはその一例である。共感が弱者に振り向けられて、それが内省的システムによって制御されると、人権意識の高まりという現象に結びつくわけである。実際、第二次世界大戦後は、人種差別、障がい者差別、性差別、LGBTに対する差別などが、完全に消失はしないが、小さくなっている。この攻撃性や差別の減少は、偏見などのバイアスの内省的システムによる抑制の結果である。

 そうすると、最後の問題は、現代の人権意識の高揚と政治的二極化というパラドクスをどのように説明するのかである。そもそも政治的二極化は、昔から存在したものが、SNSの普及によって顕在化しただけではないかとも考えられるが、仮にそうだとしてもなぜ人権意識の高まりによって小さくなっていないのかが謎である。この解答として、2つの要因を挙げることができる。第一は、共感の狭さである。確かに弱者への共感は人権意識を高めやすく、また、内省的システムによる制御を受ければ差別の軽減に向かわせてくれるかもしれない。しかし、ナラティヴの源は直感でありまた感情を伴いやすい。これが、望ましくない方向に向かうと、政治的対立をより大きくする。ロシアのウクライナ侵攻が始まった時、戦死者に対する強い共感が、容易に降伏しないゼレンスキーへの憎悪に結びついたような事例があてはまる。第二は、マイサイドバイアスと呼べるもので、これはマイサイドに有利になるような思考のバイアスである。総じて知能指数が高いほど認知的バイアスを抑制でき、論理的思考力や蓄積された知識がバイアスの抑制に使用される。実際、差別の減少は、多くの正しくない知識が修正され続けてきた結果である。ところが、マイサイドバイアスだけは抑制されない。つまり、知識や思考がマイサイドに有利になるように使用されるわけである。トランプ支持者が、温暖化は二酸化炭素の排出が原因ではないということの証明のために氷河期の周期などについての知見に自分の思考力を注ぎ込んだりする傾向は、知能が高くても抑制されないわけである。かくして、このパラドクスは解決できるが、では、どうすれば二極化を防ぐことができるのか。それは今後の宿題である。

 

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2026年5月10日日曜日

縄文ミステリーサミット雑感―縄文人は、かなり特殊な狩猟採集民?

  昨日(58)NHKBSで「縄文ミステリーサミット」の再放送があったので視聴した。縄文時代について、近年の研究成果が、私たちのような素人にもわかりやすく議論されていて非常に見応えがあった。特に、動物土偶について、イノシシ、クマなど、集団間では多様だが、一集団で発見されているのは一種類の動物で、トーテムのような存在であるという知見は、初耳だったので興味深かった。一般に、トーテムとなった動物は食用にせず、食物タブーと結びつきやすいともいわれているが、縄文人の場合はどうだったのだろうかと気になったが、それは番組では取り扱われてなかった。

 心理学の立場から気になったのは、集団内の階層性と集団間・集団内闘争である。概して、階層性が生じたのは農業革命以降と考えられている (それでも、階層が登場するのは季節性のものと考えられていたり、逆に農耕以前のスンギール遺跡での発見のように、特定の個人にかなりの多くの人々の労力が貢納されたりという推察もある)。狩猟採集民とされる縄文人の間では、状況によってリーダーが登場したかもしれないが、世襲もなく階層性は現れていないという結論だった。ただ、三内丸山遺跡でのクリの栽培などを考慮すると、縄文人は本当に農業革命以前の社会といえるのかどうかが気になった (稲作だけが農耕ではない)。また、クリは比較的貯蔵が可能だが、それによって貧富の格差が生じていなかったのかなどをもう少し議論してほしかったなと思う (ヨーロッパでは、農耕以降、貧富の差や階層社会は、保存しやすい小麦栽培地域では生じやすく、保存しにくいジャガイモ栽培地域では生じにくいという話を聞いたことがある)

 もう一つの問題は、縄文社会における戦争や殺人である。日本では、大規模な集団間の戦闘・戦争が起きたのは、稲作の弥生時代以降で、縄文時代にはほとんどなかったようだ。この事実について、狩猟採集民なので「移動容易性 (番組では、「フッ軽」という表現が用いられていたが)」が高かったという説明が与えられていたが、この説明は納得しにくかった。まず、農業革命以前は、確かに戦争は大規模ではないが、戦闘や暴力で命を落とす人々の割合は、決して低かったわけではない。狩猟採集民の部族間、親族間の闘争等による死亡率は10%から15%と推定されている。ところが、縄文人骨の考古学的研究からは、この割合は1%に満たない (それでも現代人と比較すると高いので、決して治安が良いとは言えないだろう) と推定される。つまり、縄文人は、狩猟採集民族としてかなり特殊だということがいえるわけである。ということは、縄文人の争いの少なさの理由を説明するのに、狩猟採集民全体の特徴である「移動容易性」で説明することにかなり無理がある。縄文人の場合は、人口密度が低かったので、世界の他地域の狩猟採集民よりも移動がより容易だったのかもしれないが、それならば、縄文人特有の戦闘・戦争の少なさは、低人口密度を要因とすべきだろう。そうすると、次に生じてくるのは、なぜ日本列島において人口密度が低かったのだろうかという疑問である。縄文人は食が豊かだったとする言説もあるが、それならば人口が増えてもおかしくはない。まさか、嬰児・胎児殺しの伝統があったのだろうか (そう思ったら、あの目が大きな土偶は、ひょっとしたら嬰児・胎児への鎮魂じゃないかという妄想も湧いてきた)

 番組としては非常に興味深いが、時間の不足からか、世界の狩猟採集民との比較という視点が少なかったのが非常に残念だった。縄文人は、かなり特殊な狩猟採集民だと思うが、それが、日本列島という地勢的・生態的な要因によるものなのか、あるいは偶然に形成された文化の影響なのか、興味は尽きない。