2018年10月28日日曜日

中国とはどうつきあっていくべきなのか

 1014日に中国の人権弾圧についての記事を書いたが、その直後の16日に発売されたニューズウィーク日本版において、「日本人がまだ知らないウイグル弾圧」という特集があり、習近平政権の怖さを改めて思い知らされた。ただ、ニューズウィークもいろいろと「やらかす」週刊誌なので、眉に唾を付けることは忘れてはいけない。

 さて、この習近平が日本に急接近しだしてきた。私はジャーナリストではないので、この背景については考える材料をほとんど持っていない。おそらく、よほど追い詰められた状態なのではないかとは思うが、一市民としては隣国と摩擦があるよりは良い。しかし、やはり中国は一党独裁による国なので、日本が中国の覇権主義や人権弾圧に加担することがないか常に注意を払わないといけないだろう。

 中国はなぜ用心しないといけないのか。それを考える大きな枠組みの一つが、ダグラス・ノースによる制度的なアプローチだろう。彼らの共著が、幸い、『暴力と社会秩序―制度の歴史学のために』というタイトルで邦訳が昨年出版された。この本の中では、民主主義的で豊かな国家になることができるのかどうかという鍵として、アクセス制限型秩序―アクセス開放型秩序という区別が提案されている。彼らによれば、国家の起源は、小規模な狩猟採集的社会秩序の延長にあるが、そこにおいては国民の統制という点で、国民からの富や情報あるいは意思決定へのアクセスは常に制限されなければならない。それがアクセス開放型秩序に向かうためには、市民による政治参加、政府の意思決定をガラス張りにする制度、政党や経済的組織などの団体を保護する法的制度、そして個人や法人の財産権の保護と暴力の禁止が保障されていることが必要である。

 この原則に照らし合わせると、中国はまだまだアクセス制限型秩序の国であるといわざるをえない。一般に、アクセス制限型秩序の国は、独裁的な経済政策によってある程度は豊かになることができる。とくに公教育が未整備な状態では、ある程度見通しをもったリーダーの独裁によってある程度は発展する。明治期の日本の殖産興業、ロシア革命後のソビエト連邦の5か年計画などがこの好例だろう。中国も政治は一党独裁のまま、経済だけ資本主義を取り入れることによって現代の発展に結びついている。しかし、この豊かさへのアクセスが制限されたままでは、いつまでたっても民主主義的な豊かな国家になることはできない。経済における利益が、独裁を維持するために使用される割合が高いと、軍事費の比率が高くなり、そしてその軍隊を制御できなくなるリスクが生じてくる。

 安倍政権は、どのような意図があって習近平のすり寄りを受け入れている(あるいは、受け入れているように見せかけてる?)のだろうか。安倍政権も、ガラス張りであるべき政治の意思決定にかなり問題があるように思える。中国との交渉を任せておいて大丈夫なのだろうか。

2018年10月18日木曜日

「西郷どん」―吉二郎のグローリー・シーキングの悲劇


 今年のNHK大河ドラマである「西郷どん」について、本ブログではこれまで「翔ぶが如く」と比較しての批判的なコメントを述べているが、家族の視点からの描き方は見事である。この点については、「翔ぶが如く」を超えていると思う。それが顕著に見られたのが、1014日放映の、渡部豪太演ずる吉二郎の戦死である。

 この時期の薩摩藩下級武士の西郷家は、長男の吉之助が異例の出世と名声を得た一方で、家を守っている次男の吉二郎が生活苦の中で百姓をしているという非常のバランスの悪い状態になっている。この点を吉之助に抗議した長妹の琴のセリフも良かったが、自分も戦争に行きたくてたまらなくなった吉二郎の精神状態を、渡部豪太が、たいへん見事に表現していたと思う。吉之助とともに三男の慎吾や末弟の小兵衛が戊辰戦争にすでに従軍しており、生死の境をさまよった慎吾は、「やめておけ」と忠告する。

 しかし、これは吉二郎にとってはとても酷な状況だろう。この忠告に従わず、結局は北越戦争で戦死した吉二郎にとって、従軍は愚かな選択だったということは簡単かもしれない。しかし、ドラマは、あるいは吉二郎を演じた渡部豪太は、それ以上のメッセージを私たちに与えてくれたと思う。彼にとって、単調で華やかさに欠ける百姓仕事はたいくつで仕方がなかっただろう。また、当時の薩摩では、勇敢であることが最も尊いとされた価値観が共有されている。そうした中で、兄弟の中で一人だけ家で百姓仕事というのは耐えられなかっただろう。

 人類学者のDavid Anthonyは、男性の地位や役割が主に戦争で手柄をたてたかどうかできまるような社会では、若い男性は手柄をたてる機会を求めて紛争を好む傾向があると述べている。これはグローリー・シーキングと呼ばれ、幕末の薩摩だけではなく、人類に普遍的に見られる傾向である。現代でも、イスラム国の戦士になろうとする若者に共通に見られるのは、この傾向である。彼らは、希望が持てない退屈さの中から戦士になっていくわけである。

 1014日のドラマは、グローリー・シーキングに踊らされた吉二郎の悲劇を、グローリー・シーキングが従軍という形で若い男性の中に生まれてしまう時代背景への批判としても描いていたと思う。幕末あるいは新政府ができたこの時代は、古い体制を改革するのにこの傾向はどうにも避けられなかったことなのだろうか。永遠の宿題になりそうだ。

2018年10月14日日曜日

中国の脅威と人権問題―なぜ日本のメディアは問題視しない?

 なぜ韓国の左派系の新聞にしても、日本のメディアにしても、中国の脅威についてはトーンが低いのだろうか。日本で中国の脅威を述べたりすると、感情的な嫌中や嫌韓と同一視されるというリスクもあるが、日本の場合、日中戦争や太平洋戦争の加害国という負い目も大きく、侵略を反省しない歴史修正主義者とみなされることが嫌なのだろう。

 しかし、習近平が国家主席になって以降、中国の脅威はさまざまな形で現れるようになっている。最近の米国の中国に対する圧力は、日本ではまたトランプの横暴が出たのか程度の認識のメディアが多い。しかし、米国のペンス副大統領の104日の講演では、経済だけではなく、安全保障分野でも、中国に「断固として立ち向かう」いう主張が行われている。現代の戦争はITが勝敗のカギを握るが、その分野の遅れを自認している中国政府は、米国をはじめとする世界の知的財産をあらゆる手段を使って入手するよう指示しているようだ。

 南シナ海での東南アジア諸国への軍事的圧力も無視できないが、より重大な問題は人権抑圧だろう。1989年の天安門事件は知られているかもしれないが、新疆ウイグル、内モンゴル、チベットにおける人権抑圧については、まだまだ一般には知られていない。先日、新疆ウイグル自治区において、イスラム教徒への再教育キャンプについての報道があった。過激派の取り締まりが目的とされてはいるが、実質は、人権運動家・独立運動家の収容所送りである。また、内モンゴルの問題については、楊海英による『墓標なき草原:内モンゴルにおける文化大革命・虐殺の記録』に詳しい。さらに、香港の雨傘運動(民主化運動)に対する弾圧も、その圧力を増しつつある。

 また、インターポールの総裁である孟宏偉が、インターポール本部があるフランスのリヨンからの帰国後、中国当局に身柄を拘束されているようである。理由はまだ私たちにはわからないが、リヨンというと私の記憶の中に引っかかるものがある。以前、日仏共同研究のプログラムの共同研究の相手がリヨンの研究所だったという理由から、リヨンには数回滞在している。その時に、リヨンでは中国政府への反政府組織が活発という印象を受けた。今はどうなっているのかわからないが、当時、街のところどころに中国政府によるチベット弾圧への批判のチラシが貼られていた。あるとき、私がそのチラシを眺めていると、近くにいた東洋人がこちらを見ていて、私が彼のほうに視線を移すと、彼は足早にそこを去っていった。よく考えれば、東洋人である私は中国人と間違えられる可能性は大きい。もしその男が当局側で、私を反政府組織の一員と疑ったらしばらくは尾行がつくのではと心配したが、幸いそれはないようだった。すると、可能性が大きいのは、その男が反政府組織の一員あるいはそれへのシンパであり、東洋人である私を当局側と疑ったことかもしれない。

 リヨンでの一件は今となっては知る由もないが、中国の反政府組織は世界の至る所にあるのかもしれない。孟宏偉の拘束は、おそらく習近平の意に沿わなかったことが理由であって、リヨンの反政府組織とは無関係だろうとは思うが、何やら気になる符合ではある。

2018年10月11日木曜日

同じ憲法改正反対でもーハンギョレとマハティールの格調の違い


 929日付の革新系の韓国紙ハンギョレは、安倍晋三首相の両隣に母方の祖父岸信介元首相、父方の祖父安倍寛氏の写真を並べたコラージュを1面に大きく掲載した。「安倍晋三の選択」と題した特集で、「平和主義者」だった安倍寛氏の路線を歩まず、岸氏の宿願だった憲法改正を実現し「戦争が可能な国家に日本を変えようとしている」と主張したようである。そして、「日本軍国主義の侵略と植民地支配を経験した韓国、中国などはこれを不安な目で見守らなければならない状況だ」とコメントしているようだ。

 一方、親日家として知られるマレーシアのマハティール首相は、28日に、米ニューヨークの国連本部で会見し、日本で憲法改正の動きが出ていることに「戦争に行くことを許すようにするなら後退だ」と述べている。そして、日本の現行憲法を評価し、日本の憲法を参考に自国マレーシアの憲法改正を検討しているという。

 ハンギョレには申し訳ないが、同じ憲法改正反対でも、マハティールの主張と比較すると、どうしてかくも格調が低くなってしまうのだろうか。日本人の中には、「戦争ができる国にしたい」と思っている人はほとんどいない。また、文明進歩という点から見れば、マハティールの「後退」という指摘は正鵠を射ている。したがって、ハンギョレの記事と比較すると、マハティールの主張には私たちも大きく同意することができるのだ。

 しかし現実には軍備の放棄は極めて困難である。1945年以降周囲を巻き込んだ大国同士の戦争が終わり、また、2000年以降戦争やジェノサイドは起きていない。この平和を確立する上で、リヴァイアサンとしての米軍の役割は評価できると思う。もちろんすべてが良かったというわけではないが、多国籍軍の中心としてのアメリカが信頼できる理由は、何といってもアメリカが民主主義の国であるからであって、軍隊が暴走しない「制度としての装置」を持っているからである。しかし、世界にはまだまだ軍隊の暴走を止めることができない国がある。もちろん止めることができる国とできない国にきれいに二部できるわけではなくて程度問題なのだが、その可能性が高い国にはリヴァイアサンの役割を担わせることはできないし、むしろリヴァイアサンによる掣肘が常に必要である。

 日本がアメリカの力を借りたり、軍備を放棄できなかったりする大きな理由の一つに中国の存在がある。その理由は、中国が健全な民主主義国家ではなく、軍隊が暴走したら止めることができるのかを常に疑われているからである。ハンギョレの記者はこの点が理解できているのだろうか。できていないのだとすれば、普段どんな論文を読み、諸外国のどんな記事を読んでいるのか非常に気になる。あるいは理解しておきながら、中国にすり寄らないと自国の経済的不利益を被る可能性があるのでこのような記事を書かないといけないのだろうか。よくわからないが、日本を叩いておけばとりあえず職は失わない、というのが正解だろう。