2020年1月9日木曜日

本当に「寛容性」が失われているのか? (2)―グローバル化の副産物


 前回の記事で、ここ50年ほどで、「寛容性」が失われたどころか、人々の人権意識は高くなっていると述べた。ただし、トランプ現象に見られる、排外主義の復活は懸念材料である。排外主義を唱えるポピュリストが政治権力を容易に握ることができる欧米での潮流は、日本におけるヘイトスピーチと結びつけて考えれば、現代の大きな脅威といえるかもしれない。

 しかし、排外主義は今に始まったことではない。元をたどれば、霊長類の集団間の争い、狩猟採集民にも見られる他部族への敵意など、ヒトの認知機構における進化的に古いシステム(「スロー」と対比される「ファスト」)からの出力である。他部族の異装やタトゥーは、嫌悪と恐怖を引き起こすものと決まっていた。したがって、見知らぬ人に対して警戒せず信頼できるという現代のこの状況が奇跡だということを、私たちはまず認識すべきだろう。

 拙著『「生きにくさ」はどこからくるのか』でも述べたことだが、文化的発展は、私たちの理性(スロー)がこの野生(ファスト)を飼いならしてきた歴史であるともいえる。しかし、スローからの出力は、強い感情を伴っていて、ファストで修正することは困難である。これは、たとえばヨーロッパ系米国人が、差別をしてはいけないというのは「頭では」分かっているのだが、実際に貧しいアフリカ系の人々に接すると恐怖を感じたりするという例に代表される。この50年で、いくら人権意識が高まり、差別が減少したとしても、「スロー」は依然として休火山状態なのだ。

 スローからは、したがってちょっとしたきっかけで差別感情や排外感情が出力される。この50年間の地球上のグローバル化の速度は、私たちの脳あるいは認知機構が受容できるものをはるかに超えている。そうすると、外国人の増加が私たちの予想を上回り、いつのまにか、たとえば日本の観光地ではどこを向いても外国人という状況になり、当然文化摩擦も増える。「頭では」差別してはいけないと思っていても、食事の作法一つとっても、それが異なっていると嫌悪感が生じてしまうということになる。さらに、これまでマイノリティとして庇護すべき存在と考えていた人々が、自分たちの権利を主張し始めると、「頭では」それが正しいと判断しても、ファストは反感を生じさせてしまうわけである。

 ヨーロッパの場合は、それがもっとひどいことになっている。ヨーロッパの人々は、中東やアフリカの人々に対する負い目から、難民は受け入れなければならないという規範をもっている。しかし、難民とはいえない不法移民が次々にやってきて、さまざまな問題を引き起こしてしまうと、彼らの忍耐にも限度がある。特に、非ヨーロッパからの移民たちが、彼らの人権意識の低さをそのままヨーロッパに持ち込むと、ヨーロッパ人の中に反感が生じてしまう。

 私たちの世代はグローバル化に慣れていない。しかし、新しい世代、つまり周囲に外国人や文化背景を異にする人々があたりまえのように存在する環境で育った人々はそうではない。このような人々が多くなる2030年後は、このアンチグローバリズムとしての排外感情は小さくなるのではないだろうか。私は、現代問題視されている排外感情はグローバル化の副残物として、一時的なものではないかと思っている。

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