2023年2月22日水曜日

文学部が目指すもの―ホモ・クルトラエとしてのヒト・人間の探求

  文学部は何を目標とすべきか。そして心理学はどういう点でその目標に貢献できるのか。これは、私が現在の大学の文学部・文学研究科に赴任して以来、ずっと考え続けている重要課題である。残念ながら文学部は、経済学部や法学部と比較して社会の役に立つとあまり思われてはいない。しかし、人間あるいはヒトとは何なのかという問題を追及する人文学あるいは人間学を追求できる組織としての諸領域を包括しており、またそれを求められているのではないかと思う。いや、仮に社会において現実にそのような要請がなかったとしても、人間・ヒトとは何かという見解を示し続けることは必要だろう。

 人間・ヒトとは何なのかという問いには、それぞれの学問領域によってさまざまな回答がある。たとえば、経済学ならば、ホモ・エコノミカスと捉えての追求がなされるかもしれない。一方、文学部というところはさまざまな領域が含まれているが、それぞれの領域は、社会的哺乳類としてのヒトが集団あるいは社会を構成し、その環境でヒトらしくあるいは人間らしくなってきた戦略の研究と位置付けることが可能である。たとえば、集団内の利害調整のために何が正しいのかを模索しながら道徳を考案するという戦略は、現在は倫理学によって研究が行われている。また、集団内の人々を結びつけるために、あるいは他のメンバーを説得するために、言語、さらには物語が考案されたが、これらは現在では言語学や文学の研究領域となる。人々を結びつける戦略としては宗教も考えられるが、創造された「我らの神」は、副産物として「救済」と呼ばれる死の恐怖の緩和をもたらしている。この戦略を研究対象とするのはもちろん宗教学である。有史以降あるいは近代になってからの戦略には、集団メンバーの識字率上昇や知識の共有のための教育システム、社会が人々の幸福のために機能するためのデバイスなど、教育学や社会学の対象となるものが含まれる。この視点から見れば、心理学はこの戦略時に頭の中で行われていることあるいは戦略実施を可能にする能力を明らかにすることが期待される。また、歴史学は、これらの戦略の発展の記録である。

 これらの戦略を総称したものが「文化」である。文化というと、芸術などが思い浮かぶかもしれないが、広義には、社会集団を発展的に維持するための戦略あるいはソフトウエアと解釈することができる。すると、法システムや経済システムの構築も当然ながら文化に含まれるが、これらを対象とする研究が行われるのは法学部や経済学部であって通常は文学部ではない。しかし、いずれも戦略としての文化の研究であるといえる。

 ヒト・人間とは何かという問いへの文学部が可能な回答は、このような文化という戦略を創始・発展させてきた種であるということになる。つまり、ホモ・クルトラエ(culturae)なのである。実際、文部科学省のウェブサイトの人文学の機能というページには、人文学は、個別の研究領域に背後にあって知識を生み出している「人間」についての学であると記されているが、ここで記した私の見解は、この文言の「知識」を「社会的集団としての戦略」に置き換えたものと一致する。社会とは何なのか、文学とは何なのかなどは、この目標の下位に位置づけられ、また、法律とは何なのかや政治とは何なのかという問題も包括する。

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2023年2月16日木曜日

人権意識の高揚と差別の減少―「私たち」はどこまで拡がる?

  第二次世界大戦後の人権意識の高揚と差別の減少は、多くの国で見られる現象である。この現象は、高等教育の普及による人権への啓蒙活動、書籍やドラマ・映画等による弱者への共感の増大、これらの精神活動を支える知能の増大(フリン効果)などによって説明可能だと思う。

 人権意識の高揚は、暴力や殺人を含む犯罪の減少、人種差別や性差別への禁止と嫌悪、捨て子や子どもの重労働の禁止から、動物への虐待の嫌悪なども含まれている。これらの中で、最近日本において注目を浴びているのがLGBT差別への批判である。私自身は、これは大変望ましい傾向だと思うし、最近の世論調査では、同性婚を認めるべきという回答が64%で、認めない方がよいという25%を大きく上回っていた。若年層ではこの傾向がさらに顕著だった。

 あいかわらず「昔はよかった。現代人はモラルが低下している」と思っている人も、このLGBT差別については「昭和の価値観」として、現代のモラルの上昇を実感しているだろう(ひょっとしてLGBTを許容するようになった昨今をモラル低下と見なすとてつもない人もいるかもしれないが)。この短期間の変化は、おそらくLGBTについての医学的知識の普及と、ストーリーとして語られることによる共感の増大だろう。異なるものへの差別の減少は、多様性の受け入れ、言い換えれば「私たち」の範囲の拡大として捉えることができる。かつては異端だったLGBTの人々が「私たち」の中に含まれるようになった結果と解釈できるわけである。

 アブノーマルなセクシャリティは、対象異常(小児や死体など)と目標(方法)異常(サディズムや露出など)に大別できるが、20世紀の前半までは、LGBTは、対象異常とされていた。異性の成人のみが正常な対象というわけである。しかし、多様性を包摂という理念から、これを「異常」であるとは考えないようになり、LGBTは「私たち」の範疇にはいるようになった。それでは、この「私たち」の拡大は今後も続くのだろうか。おそらく、現時点では異常とされ、嫌悪感を催す対象あるいは目標であっても、とくに無害であるものは、徐々に受容されていく可能性を否定できない。何をもって無害とするかはいろいろと議論もあるかもしれないが、たとえば屍姦について考えてみたい。屍姦自体は犯罪なのかどうかのグレーゾーンのようだが、これが女性の遺体に対するものなら、おそらく遺族には耐えられないだろうし、相当な嫌悪を引き起こすことは誰にでも容易に想像できる。では、最愛の女性を失った男性が、火葬にする前日にどうしても彼女の遺体と一夜を共にしたいという欲求についてはどうだろうか。「対象異常」の一言で済ませられるだろうか。あるいは他の例として、妊娠を伴わない近親愛はどうだろうか。これも比較的無害なのではないかと思うが、嫌悪を感ずる人は決して少なくはないはずだ。

 このような嫌悪的なものをLGBTと同一にするなと思われるかもしれない。しかし、たかだか100年前のヨーロッパではゲイは犯罪だったし、多くの人々が嫌悪を感じていた。それが現在ではかなり許容できるようになっている。死体愛や近親愛も、現時点では大きな嫌悪を催す。しかし、50年後、100年後はもっと受け入れられるようになる可能性はないだろうか。なぜなら、彼らだって「私たち」の仲間なのだから。

 

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