2021年4月25日日曜日

剣術の稽古での脛当てのモヤモヤーあれ、いつのまになくなった?

  NHK大河ドラマ『青天を衝け』では、江戸末期の天領の農民の生活がリアリティをもって描かれていて、役者もみな上手く、見応えがあるドラマになっている。とくに、栄一の父親を演じている小林薫は、『おんな城主』の龍潭寺の和尚と同じように、厳しさを秘めた慈父を演ずるのが本当に上手いと思う。井伊直弼が桜田門外で暗殺され、安藤信正が坂下門で襲われ、栄一たちがどのように幕末の動乱に巻き込まれていくのか、今後の展開を楽しみにしている。

 それにしても、気になったまま結局解決しなかったのが脛当てである。第2回の放送だと記憶しているが、栄一たちが剣術の稽古をしているときに、確か脛当てをしていたと思う。また、脛を狙った剣の撃ちもあったと思う。私はそれで、この脛を撃つ剣は柳剛流なのではないかと推測した。実際、流祖の岡田惣右衛門奇良は武州蕨で生まれているので、栄一たちが柳剛流で稽古をしても不思議ではなかったからである。

 ところが、何を調べても栄一の剣は神道無念流となっており、ドラマのエンディングでの解説でも、栄一が学んだ剣は神道無念流であると述べられていた。神道無念流では、脛当ては着けず、脛を撃つような技もない。そして、ドラマの中でも、いつのまにか剣術の稽古から脛当てが消えている。結局脛当てのことはわからないまま、モヤモヤだけが残ってしまった。

 また、栄一の剣で、ちょっと気になったのは脇構えである。これまでのドラマの中で、立ち合いで時々見せていたが、北辰一刀流の道場破りの真田範之助と剣を交えた時にも、脇構えをとっていた。脇構えとは、右足を引き体を右斜めに向け刀を右脇に取り、剣先を後ろに下げた構え方で、面と突きががら空きになるので、現代の剣道の試合では脇構をとる剣士は全くいない。脇構えでは、剣を自分の身体で隠せるので、剣の長さを相手に悟られないようにできる。また、正面からの相手だけではなく、背後あるいは右側からの相手にも対応できるという長所がある。したがって、脇構えは完全に実戦向けであり、竹刀の長さが決められていて、背後から襲われる心配がない立ち合いでは、その有利さは完全に失われることになる。それにもかかわらず、一対一の稽古や立ち合いにおいて栄一がとる脇構えは何なのだろうか。実戦に近い幕末の剣術ではもっと用いられていたのだろうか。それとも栄一の得意技が脇構えからのものなのだろうか。またひとつモヤモヤが増えてしまった。

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2021年4月19日月曜日

ミャンマーの軍事クーデター

  ミャンマーに突然の軍事クーデターが起き、すでに3か月近く経とうとしている。当初は、すぐに鎮圧されるのかと思ったが、国軍の多くが加わったクーデターで、反対するデモの人々を殺害したりして、軍による独裁化が進みつつあるようだ。メディアなどに対しても相当の情報統制が行われているようである。

 これで思い出したのが、ジャレド・ダイアモンドの『危機と人類』に書かれた、1973年のピノチェトによるチリの軍事クーデターとその後の軍事独裁である。このクーデターの背景には、その前の大統領であるアジェンデの、市場経済からの無理な社会主義的計画経済への移行によって起きた経済の破綻がある。私は、社会主義的計画経済とまではいかなくても、文在寅がかなり左派的な思想で経済政策にも失敗しているので、韓国がチリのクーデター前夜と似ているのではないかとちょっと心配していたが、今のところ大丈夫なようである。

 ミャンマーでは、ロヒンギャなどの少数民族の問題を抱えているものの、民主化も進み、経済的にも豊かになりつつあるので、軍事クーデターは意外だった。ミャンマーの場合は、この急激な民主化によって進みつつあったシビリアンコントロールに対して軍事勢力側が大きな危機感を抱いたことによるクーデターのようだ。当初は、国民の支持も得られない「窮鼠猫を嚙む」ようなクーデターは長続きするはずがないと思っていたが、デモを弾圧したり、スーチー氏を断罪したりで、独裁的支配を強めているようである。

 それにしても残念なのは、周囲の国々が、この事態に対して指をくわえているしかないという事態である。内政不干渉という原則があるのだろうが、国連の安全保障理事会が必死に停戦を勧告しても、軍事独裁政権は聞く耳を持たないようだ。この政権は、いくら国際的に孤立しようとも、ミャンマー国内で権力を維持できればそれでよしなのだろう。これは北朝鮮政権と同じで、経済制裁くらいではなかなか倒れないようだ。旧ユーゴスラビアでのように、国連軍が入って監視下に置くようなことができればまだ進展の可能性があるのだろうが、現状では無理なのかもしれない。デモの人々への弾圧を防ぐためには、何らかのリヴァイアサンが必要なのではないかと思う次第である。このままでは、民主化を願う人々の見殺しである。

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2021年4月1日木曜日

日本のジェンダーギャップ指数の異様な高さについての雑感―勤勉革命の負の遺産?

  日本は、比較的産業が発展し、民主化が進んだ国であるはずなのだが、ジェンダーギャップ指数は相変わらず異様に高く、先日、120位という報道があった。「異様」と呼びたいのは、ジェンダーギャップ指数は、その国の民主主義の度合いや、非属人性(法やルールなどの適用が、被適用者が誰かということと無関係であること)の高さと関係が深いが、日本は民主主義や非属人性がかなり高いにもかかわらず、この指数が低いからである。120位というのは、かなり非民主主義的な国よりも低いといえる。この問題は掘り下げてみる必要があると思うが、「日本人男性の意識が変わらないから」等ではとても回答にならない。日本よりも非民主的なのではないかと考えられる国でも、似たような状況のはずなのだが、ジェンダーギャップ指数は日本よりも低いからである。ここでは、産業化や脱家族主義化の途中で迷い込んでしまった日本特有の袋小路について考えてみたい。

 拙著『生きにくさはどこからくるのか』でも、昨年度の理論心理学会のビデオ講演でも述べたが、戦後70年の人権意識の高まりは、産業化による豊かさが教育の普及をうみ、教育の普及が民主主義をもたらしたとして説明できる。実際、多くの国において、殺人・暴力や紛争だけではなく、差別は減少傾向にある。日本も例外ではないはずなのだが、このジェンダーギャップ指数が高いままなのだ。

 注目すべきは、日本を産業化し、豊かにした要因の特異性だろう。非欧米圏でいち早く産業化に成功した重要な要因と考えられるのが、勤勉革命と脱ネポティズムであるといわれている。勤勉革命(industrious revolution)とは、すでに下記の記事でも紹介したが、産業革命(industrial revolution)とほぼ同じ時期に日本で起きた、家畜が行っていた労働を人間が肩代わりする資本節約・労働集約型の生産革命である。これによって形成された勤労観が、現代の長時間労働に大きな影響を与えていると考えられる。この勤勉革命精神は、明治以降の、あるいは太平洋戦争後の産業発展の大きなエネルギーになったのではないかと思われるが、一方で、IT化などの効率や合理化などへの憎悪をもたらし、それが非生産的な長時間労働に結びついている。

 働き手が長時間労働になると、家事や子育てに支障が生ずる。家事は、家電製品の普及により、この50年で随分と軽減されたが、子育てはそうはいかない。家事の軽減で、前世紀の遺物である「寿退社」は随分と少なくなったが、子育ては、いくらイクメンが増えたとはいえ、やはり女性の社会進出の大きな障害になっている。仕事を持っていても、保育園に子どもを迎えに行くために長時間労働をあきらめれば、管理職等への昇進の確率は低くなる。しかし、もし三世帯同居などの大家族ならば、妻に代わって子どものめんどうをみる人員がいるので、子育てはあまり社会進出の妨げにはならない。大家族によって比較的ジェンダーギャップ指数が低くなっているアジアの国が、タイ(75)やシンガポール(54)である。アジアの中では、日本はかなり非家族主義的でネポティズムの度合いは低い。儒教国からは反儒教的で野蛮とも評されてきたが、一族の誰かが経済的に成功するといろいろな親戚がたかりに来るということも他のアジア国と比較して少なく、この非ネポティズムが、近代的な企業を促進させた。しかし同時にアジアの中でいち早く核家族化をもたらした要因にもなっているが、核家族だと、子育ては妻の負担となりやすい。

 つまり、勤勉革命精神の長時間労働と核家族がこのジェンダーギャップ指数の高さをもたらせているといえるだろう。この袋小路から抜け出すためには、この無駄な長時間労働の短縮と、長時間労働を美徳とする勤勉革命精神を捨てるべきだろう。働いた時間よりも、成果主義を取り入れれば、存外簡単に解決する問題かもしれない。

 

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