2020年12月30日水曜日

茨城県のヤンキーとエセックスガール

  私は、国民性という用語は好きではないが、県民性も同じように好きではない。にもかかわらず、「茨城県はヤンキーが多いというイメージ」という記事が興味深かったので、自分の主義に反してちょっとこの現象を考えてみたい。なお、その記事ではあくまでイメージ調査と記されているので、実際に茨城県にヤンキーが多いのかどうかまでは定かではない。

 茨城県民には申し訳ないが、この記事からすぐに連想されたのは、英国のエセックスガールである。エセックスガールとは、田舎臭い英語とされるコックニーに似たテムズ河口域方言で話し、派手好きでナイトクラブが好きな誰とでも寝るエセックスあたりからロンドンに出てきた女という意味で、私がエセックスにいた時には、他の地方の英国人から、「絶対に使うな」といわれていたステレオタイプ的侮蔑表現である。エセックスは、ロンドンから北東に670キロで、まさに東京に対する水戸という地理的位置になり、訛りなどからいろいろと笑い者にされているという点も似ている。

 茨城県とエセックスに共通するのは、どちらも大都市に近い田舎であるという点だろう。茨城県民の県民性、エセックス州民の州民性というよりは、このような状況で生ずる典型的な人間の行動といえそうだ。京都府でも、ちゃんとした統計で確認したわけではないが、校内暴力が絶えなかった時代に非行に染まりやすい中学生は京都市内というよりも市の周辺の地域に多かったということを聞いている。

 大都市周辺で見られるこのような現象の大きな理由は、都会への憧れと劣等感だろう。大都市から大きく離れてしまえば、都会そのものを知らないので、あるいは都会の情報はメディアや伝聞でしか伝わってこないので、憧れがあったとしてもそれは別世界の出来事になる。しかし、もう少し身近になると憧れに手が届く範囲になる。また、都鄙の違いを直接見せつけられるようになる。かといって、スノッブな都市文化の一員になろうとしても、それはかなり困難で相当の努力が必要になる。そうなると自然と染まりやすくなるのは、都会のサブカルチャーやアンダーグランドカルチャー、すなわちナイトクラブやヤンキー文化ということになる。サブカルチャーであっても、地元に戻れば「都会の匂いを身に着けた人間」というわけだ。ロンドンではこんなのが流行しているのよと派手な衣服を身にまとえば、もちろん顔をしかめる人もいるだろうが、エセックスではそれなりの注目を集めたというわけだ。

 エセックスガールに比べれば、まだチバラギのほうが使用許容度は高く、千葉県民や茨城県民も自虐にも使用しているようだ (映画『翔んで埼玉』の自虐ぶりは称賛に値する。納豆を鼻の穴に突っ込まれる刑は受けたくない)。それでも、このヤンキーを茨城の県民性としてラベルを貼り付けたくはない。単に、大都市からちょっと離れた周辺で普遍的に見られる文化的現象である。

2020年12月11日金曜日

皇室って必要なの?(2)―テオコンサバティズム批判

  私は皇室の歴史的な研究については素人だが、日本の皇室はつくづく他国と比べて奇妙だなと思う。皇居の一般参賀などに熱狂的に出かけたり、強固に戦争責任を主張したりする人は別として、私を含めて多くの日本人には、他国の王室に比べて政治に口をはさむわけでもなく、使われる税金は少なく、まあ昔からあるものならとりあえずとくに存続に反対はしない程度の存在だろう。波風立てて積極的に廃止運動を起こそうというわけでもない。

 そういう意味でおそらく政治的にはほぼ無害なのではないかとも思うが、政治利用された過去もあり、また皇室一般参賀やパレードなどでの熱狂、メディアに見られる皇室メンバーへの最上級の敬語、神道的権威を目の当たりにすると、テオコンサバティズム的反動への危惧を感ずることがしばしばある。テオコンサバティズムとは、神権的保守主義を指し、ネオコンサバティズムをもじった造語である。

 テオコンサバティズムに共通するのは、神権などが廃れると、人々はアノミーに陥り、モラル的基盤を失ってしまうという危機意識である。彼らにとって現代は、物質的には豊かになっているのかもしれないが、モラルが廃れて精神が貧困になっている時代と位置づけられ、それを取り戻すためには神権を取り戻すことが重要なのである。欧米のテオコンサバティズムは、18世紀の啓蒙以前の教会の力が大きかった時代を理想の時代と見なす傾向があり、日本のテオコンサバティズムは天皇の権威が大きかった戦前を理想の時代と考えているようだ。前者は異端尋問と魔女狩りの時代であり、後者は日本が軍事的自己肥大を起こした時代で、とても理想とはいえないはずなのだが。

 最近のテオコンサバティズムは、進化理論という「科学的装い」を身にまとっていて厄介である。人間が国家と宗教的一体感を感ずるのは進化の中で形成された生得的な欲求であり、この「自然な」欲求が満たされるためには神権をもった王が必要というわけである。しかし、これは進化理論の誤用である (テオコンサバティズムのことは嫌いでも、進化理論のことは嫌いにならないでくださ~い)。私たちの祖先が一体感を抱いてきた単位は部族または氏族であり、国家という単位ではない。国家は、ホモ・サピエンスの進化史の中で極めて新しい集団で、これを一体化させると覇権に有利になるのは古代文明以降である。王権や神権はこの一体化のために考案された装置の一つで、仮にこれによって得られた満足があったとしても、決して生得的なものではない。神権や王権による国家の形成は、人類の「自然で生得的な欲求」ではなく、無理に無理を重ねた歴史であり、不要ならいつ捨ててもかまわないものである。そして、革命などによって実際に捨て去った国は多い。

 現代の日本の皇室が、テオコンサバティズムによって一気に強権化する可能性は極めて低いとは思う。むしろ、テオコンサバティズムに内在するそのような無理矛盾が積もりつつあり、今回の秋篠宮長女の件で、それが一気に露呈したといえるのではないだろうか。これではとても国家と一体感を感じさせる装置にはならないし、中途半端な装置で一体感を強いられると、皇室つながりで甘い汁を吸っている人たち以外の多くの国民には、迷惑以外の何物でもないものになる。

 

関連記事

皇室って必要なの?(1)―公務って何?

2020年12月8日火曜日

論文を募集します―Frontiers in Psychologyの特集号 ”The Role of Culture in Human Thinking and Reasoning”

  1か月ほど前に、Frontiers in Psychologyの担当の方から文化と思考についての特集号を出したいので、ゲストエディタになって欲しいという依頼があった。ゲストエディタは3名以上の多国籍チームが望ましいということで、英国Wolverhampton大学のNiall Galbraithさんとパリ第8大学のJean Baratginさんに加わっていただけることになった。特集号のトピックは、タイトルにもあげたようにThe Role of Culture in Human Thinking and Reasoningである。

https://www.frontiersin.org/research-topics/18106/the-role-of-culture-in-human-thinking-and-reasoning

 説明文にあるように、role of cultureは、必ずしも文化が思考や推理に影響を与えていることを示す研究だけではなく、より挑戦的な、思考が文化を創造・創発するような研究も歓迎したい。また、実証研究だけではなく、理論的研究・思弁的研究も歓迎で、心理学だけではなく、文化人類学などからの投稿も歓迎したい。

 

Call for papers

Dr. Niall Galbraith, Dr. Jean Baratgin, and I, who are guest editors of Frontiers in Psychology, are calling for papers. The title of research topic is The Role of Culture in Human Thinking and Reasoning. We encourage those who are engaging in this topic to submit an abstract and a manuscript. Please visit the following website which shows the details of this topic.

https://www.frontiersin.org/research-topics/18106/the-role-of-culture-in-human-thinking-and-reasoning

2020年12月7日月曜日

皇室って必要なの?(1)―公務って何?

  秋篠宮家の長女の結婚について、相手の小室氏にいろいろと難があるということで問題になっている。日本においては、結婚は両性の合意に基づけばよいはずなので、双方が気に入っていれば、問題なく結婚できるはずであろう。しかし一方で、多くの国民の間では、歓迎ムードとは程遠い状況が続いているようだ。

 この問題は、結局は、天皇・皇室という、人間には自由と平等があるという現代の理念とどうみても矛盾する制度あるいは存在に帰着するのではないだろうか。もちろん残念ながら人間は結果的に平等とはならない。裕福な家庭と貧しい家庭、裕福な国と貧しい国、民主主義国家と独裁国、どこで生まれるかによって人生は大きく変わってくる。しかしわざわざ皇室という制度を作り、そこで生まれた人間には職業選択や結婚の自由を与えないというのは、普遍的な人権としての自由にかかわる大きな問題だろう。一方で、皇族による「公務」という世の中の役に立っているのかわからない仕事や、「名誉総裁」というわけがわからない皇族のポストに、国民のどれくらいが納得しているのだろうか。たとえば災害などがあって、自分自身がボランティアをしていたり、被災民だったりするとき、そういう極限に近い状態で、天皇や皇族に来てもらって満足するだろうか。そういうとき、メディアでは美しい話が出来上がるが、正直、迷惑と思っている人がかなり多いはずだ。このような活動に税金が支払われて、「皇族方が公務で多忙」といわれても、「だったら、やめたら?」としか言いようがない。また、幸い、私が所属している学協会には皇族を総裁あるいは名誉総裁としているものはない。もし名誉総裁という皇族用ポストがあったりすると、学協会の運営面で正直迷惑以外何物でもないだろうし、皇族を名誉総裁に頂くとその学協会が有利になるような慣習があるとすれば、それはそれで問題視されるべきだろう。また、迷惑がられているのを肌で感じながら、○○殿下と呼ばれて総裁に就任するのも辛いだろうなとも拝察する。

 日本の文化継承としての皇室は必要なのかもしれないし、私も天皇制を廃止して、アメリカ合衆国やドイツ、フランスのような国にしろとまでは言わない。しかし、公務がこなせないので宮家を増やすとか、皇女という制度を新たに設けるという案には一国民として、とても賛成はできない。不要な公務をわざわざ用意しているとしか思えない。皇室と国民双方を互いに幸せにしない制度は、ウインウインどころかゼロサムゲームにもさえならない。私も、これまでは皇室には中立的だったが、今回の一連の騒ぎで、なぜこんな人たちに税金と名誉職が必要なのかという疑念が大きく膨らんでいる。

 関連記事

かなりはまる『ダウントン・アビー』 (3)―貴族の価値観と労働運動、それぞれの人生


2020年12月3日木曜日

不覚にも涙がー『すみっコぐらし とびだす絵本とひみつのコ』 (ネタバレ注意)

  昨年台南を訪問したとき、ホテルの近くの百貨店で「すみっコぐらし」のキャラクター商品を見つけ、sumikko gurashi kokoga ochitsukundesuというメッセージに思わず共感を覚えて買ってきたのが写真のペンケースである。当時、このキャラクターについて私は全く知らなかったのだが、台湾で大人気とのことだった。また、『すみっコぐらし とびだす絵本とひみつのコ』というタイトルで昨年映画化もされているようで、先日、TVでそれを見てみた。

 主要登場キャラクターは、ペンケースの中の図でいえば、前列左から、とんかつ、とかげ、ねこ、後列左がしろくま、右がぺんぎんである。私のペンケースではぺんぎんが大きく描かれているが、このぺんぎんは自分がぺんぎんであることに自信がなく、アイデンティティの危機という状態のようだ。彼は、昔は頭にお皿があったのではないかという疑念が常にあり、その証拠にキュウリが好きなようである。

 映画のストーリーは、彼らがよく行く喫茶店の地下室で見つけた「世界の童話」の絵本の中に入ってしまったというところからメインの展開を迎える。絵本の中で、すみっコたちは、「桃太郎」、「マッチ売りの少女」、「人魚姫」、「アラジンと魔法のランプ」など、いろいろな世界を駆け巡るのだが、そのうち、これまでずっと一人だったという、灰色のひよこに出会う。ひよこは、自分が誰だかわからないようで、アイデンティティ危機のぺんぎんは、大きな共感を抱くようになる。

 あるとき、何羽かの白鳥がやってくる。灰色ひよこは「みにくいアヒルの子」だったのかと白鳥のところに寄って行くが、そこに本物の「みにくいアヒルの子」が現れて、白鳥に変身していく。ひよこはそれを見ているだけだった。私は、「えっ? 違うの?」と叫んでしまった。悲劇はさらに続く。元の世界への出口を見つけたすみっコたちは次々と戻っていくのだが、絵本の中の住人であるひよこは戻ることができない。ひよこをどうしても連れていくことができないことを知ったすみっコたちは、泣く泣くひよこを残していくが、私は不覚にもここで涙が出てしまった。

 ひよこは絵本の見開きの真っ白なページに誰かがいたずらで描いたもののようだった。真っ白なページにぽつんと一人なので、ずっと友だちもいなかったのだ。これを知ったすみっコたちは、そのページに何羽かのひよこを描いてエンドとなる。これはハッピーエンドなのだろうか。絵本の中というファンタジーの異界でのぺんぎんとひよこの結びつきは強固だった。しかし、ひよこを自分たちの現実の世界に連れてくることはできない。異界から来た異人が異界に戻らなければいけなかったり (かぐや姫や羽衣伝説など)、異界から一人戻ってきて現実に戻れなかったりする (浦島伝説や寒戸の婆)話は多いが、異界が真っ白なページという想定はほとんどないのではないだろうか。

 異界を、自分と対比される他者と考えてみよう。他者という存在は、強く結びついたと思っていても、実際にその人のことを完全に知ることができるわけではない。また、その人の主観を体験できるわけでもない。この不可知性が寓意として映画で表現されているという解釈は考えすぎだろうか。あひるのページにお友達をたくさん描くという行為は、その不可知性の中での、できる限りの大切な努力なのである。