2020年3月23日月曜日

大河ドラマ「麒麟が来る」の信長―ピュアなサイコパス?


 今年の大河ドラマ「麒麟が来る」は、女優の交代などでゴタゴタがあったが、毎回楽しませてもらっている。非常に興味深いのは、染谷将太演ずる信長である。歴史上の有名な人物がどのようなパーソナリティだったか、あるいはどのような精神的疾患傾向があったのかは病跡学がお得意とする領域だが、信長も、天才的なひらめきや決断力、独創性、「うつけ」と呼ばれた青年期、比叡山焼き討ちの残虐性などから、いろいろと推察されてきた。なかでも、宿敵の浅井と朝倉を滅ぼした後、浅井長政、浅井久政、朝倉義景の頭蓋骨を箔濃にしたというエピソードは彼の残虐性を表すものとして扱われている (当時は、それほど残虐なし好ではなかったともいわれているが)

 そういう点から信長は、これまでのドラマや映画では、ちょっと狂気もあるが、権威や常識にとらわれない豪放磊落な人物として描かれてきた。「徳川家康」の役所広司がその代表的なイメージを具現化したといえるだろうし、「軍師官兵衛」の江口洋介もそれに分類できる。

 しかし、「信長 KING OF ZIPANGU」の緒形直人は、母親の土田御前に愛されなかった信長の孤独感を表現することに重きを置いていた印象が強く、今回の「麒麟が来る」の染谷将太の信長もどちらかといえば孤独感重視型だろう。ただ、染谷将太の信長は、とてもそれだけではとらえきれない人物を表現しているように思える。すでに、竹千代 (家康) の父である松平広忠の首を、父の信秀のもとに贈り物といって届けるように、残虐さを垣間見せてくれる。しかし、それが、裏の顔がちらりと見えるといった感じの残虐さではなく、無邪気な子どもが蝶の羽を無造作にむしり取るような残虐さという印象が強い。

 染谷さんが演ずる信長は、無邪気な子どもっぽさがあり、アスペルガーのように周りの空気や人の気持ちが読めないというパーソナリティを骨格にし、母親に愛されない孤独感とサイコパスを兼ね備えた人物といえるのではないだろうか。それでいて、アスペルガー独特の洞察力と独創性があって、周囲の人々に魅力を感じさせる人柄をもっているわけなので、相当役作りは難しいのではないだろうかと思う。一言でいえば、周囲を惹きつける「ピュアなサイコパス」である。

 この信長に、十兵衛光秀はどのように接していくのだろうか。322日の、信長、竹千代 (家康)、光秀がそろったシーンでは、信長にかなり戸惑いを感じながらちょっと惹きつけられていく感を長谷川博己がみごとに演じていた。信長に魅力を感じながら、最後は謀反を起こすという筋道がドラマではどのように描かれるのか、またそれを長谷川博己がどのように演ずるのか、非常に楽しみである。

2020年3月17日火曜日

いい加減にして欲しい「いい加減なテスト」ー睡眠姿勢と相性の関係


 もう10年ほど前に、私の以前のブログで、あるウェブサイトにあった睡眠姿勢と男女の相性の関係についての記事を批判したことがある。私は現在でも、わが大学の「心理学研究法」という授業でこれをサイエンスマインドも研究倫理もないひどい例として紹介しているが、なんと同じものが2019年に某ウェブサイトにアップされているではないか。

 記事内容を読めばわかるが、恋人同士が一緒に寝た時に、相手がどんな睡眠姿勢かで相性がわかるのだとか。これによれば、睡眠姿勢は、仰向け、うつ伏せ、横向きの3タイプに分類されている。仰向けになって眠る人は、腹部という弱い箇所を見せているという意味で、完全に相手に心を許しているのだそうだ。逆に、うつ伏せの人は、心を許していないらしい。また、横向きは、内臓に負担がかからない姿勢ということで不安を感じていて、相手に甘えているそうである。

 このライターが何をどこまで調べて書いたのかはわからないが、睡眠姿勢とパーソナリティの関係は、すでに英国のChris Idzikowskiという心理学者が仮説を提唱し、それがBBCに掲載されている(ただし、相性との関係までは述べられていない)。発表されている論文などから、この仮説は少なくともリサーチデータに基づいていることは推定できる。彼の分類は、より細かく、6種類だが、あきらかに上のライターの「睡眠姿勢と相性」の説明と食い違っている点を列挙しよう。Idzikowskiによれば、「うつ伏せ(freefaller)」は、社交的でせっかちだが神経過敏とあって、「睡眠姿勢と相性」のライターが述べているような、相手に心を許しにくいことまでは言及されていない。また、仰向けのうちの「大の字スタイル(starfish)」は、控えめで良い友達になれるパーソナリティだが、やはり心を許しているかどうかとは関係がなさそうである。3種類の横向けのうち、「胎児型(the foetus)」が「睡眠姿勢と相性」でいう横向きに近いかもしれないが、初対面の人にシャイとは書かれているが、甘えん坊とは記されていない。また、横を向いて両手を伸ばす「慕い型(yearner)」は、その命名に似ず、疑い深くシニカルとある。

 このIdzikowskiの結果は、あくまで統計的な傾向であって、睡眠姿勢とパーソナリティの関係には、複合的にさまざまな要因が絡まっているので、簡単な因果の図式を当てはめることはできない。よって、私自身も、仮に彼の主張を受け入れたとしても、睡眠姿勢から自分や知人の性格を安易に推定することを避けるであろう。それでも、彼の結果と例のライターによる「睡眠姿勢と相性」とどちらを信ずるかといえば、圧倒的に前者であろう。

 なぜかくもいい加減なものが相性診断と称してネット上に登場するのだろうか。この診断は、直感的に納得できるような「理論」を提示している点がクセモノである。「仰向けになって眠る人は、腹部という弱い箇所を見せているという意味で、完全に相手に心を許している」というように、いかにもありそうな筋書きで直感に訴えているのだ。

 この種のテストの大きな問題は、倫理的配慮の欠如である。たとえば、この診断をそのまま信じたカップルが、うつ伏せ寝のパートナーに不信感を抱いたりする可能性がないだろうか。それで、要らぬ不信感を生じさせて別れてしまった場合、誰がこの責任をとるのだろうか。かつて、血液型性格判断を素直に信じたある会社の人事部が、血液型で相性がよいとされる人事配置をしたり、また、性格的に否定的な評価を受けている血液型の人を採用しなかったりしたという事実もある。こういったことを考えれば、「睡眠姿勢と相性」の診断も、簡単に笑って許容できるようなものではないのである。

 少なくとも研究者としてトレーニングを受けていれば、「睡眠姿勢を相性」診断を書く前に、Idzikowskiの関連論文には目を通し、睡眠姿勢とパーソナリティの親和性や依存性などとの関係を調べるだろう。そして、関係が弱いものであれば、現実の判断への適用を見送るだろう。しかし、このライターはそういうことはまず行なっていない。読者がおもしろいと思ってとびついてくれれば売れるという商業主義の中で、この種の判断・診断は永久になくならない。専門の研究者は、下らないポップ・サイコロジーとして冷笑・無視しているのかもしれないが、倫理的問題をより前面に出して批判していく必要があるのではないかと思う。

関連記事

2020年3月11日水曜日

犯罪が増えた? (2)―やっかいな反資本主義イデオロギー


 前回の記事では、犯罪が減少しているにもかかわらず「増えている」という主張を批判したが、もう一点違和感を感ずる点がある。それは、「最近は不可解な犯罪が増えてきた」という主張である。そして、それが、競争を原理とする資本主義によって「物質的には豊かになったが、精神は貧しくなった」ためであると締めくくられている点である。私も資本主義が必ずしも最良のシステムと信じているわけではないが、反資本主義イデオロギーは事実認識に大きなバイアスを与えているようでやっかいだ。

 殺人事件等がメディアで特に大きく取り上げられるようになったのは高度経済成長以降で、起きるたびに「現代社会の病理」というレッテルが貼られてきた。2001年の附属池田小学校事件や2008年の秋葉原通り魔事件などでこのような論評が目立ち、「不可解な犯罪」の典型とされた。しかし、この原型がアモックにあるという主張はほとんど見かけなかった。アモックとは、東南アジアの狩猟採集民で観察された現象で、部族内でトラブルなどがあった後に引きこもっていた男性が、突如多くの村人を殺害するという引き起こす大量殺人である。現代の大量殺人の多くもこの延長である可能性があるという論評は、なぜほとんどなされなかったのだろうか。

 また、19801990年代は、青少年による殺人があるたびに、当時の大学・高校受験システムや競争社会が悪いとする論評が多かった。1980年の神奈川金属バット両親殺害事件や予備校生による1988年の女子高生コンクリート詰め殺人事がそうである。このような事件では、「犯人も受験などの競争社会の被害者」とされていた。

 そうした中で、いわゆる「高学歴者」が殺人を犯したりすると、学歴社会がやり玉にあげられ、「知識は身に着けたかもしれないが人間性の教育が忘れ去られた」など、「物質的に豊かになったが精神は貧しくなった」の延長で論じられることが多かった。ところが、このようなメディアが「成長」を遂げたなと感じられたのが、2014年の名古屋大学女子学生殺人事件と佐世保女子高生殺害事件である。私は、これらこそ「不可解」と感じた。おそらくメディアも、「不可解」すぎて、「学歴社会によって人格がゆがんだ」のような単純な図式を当てはめることが困難と思ったのだろう。

 私がもう少し話題にならないかと思っていることは、血縁者による殺人である。血縁者殺人は、昔は全殺人に占める割合は多くなかった。しかし、殺人が全体的に減少している中で、家族内殺人などの血縁者による殺人だけはあまり減少せず、その結果、現在の日本では、殺人の約半数が血縁者によるものとなっている。血縁者は、進化的な適応という点で最も信頼できるはずで、互いに殺しあうことは少ないはずである。たとえば13世紀のイングランドでは殺人の約6パーセント程度であった。血縁者による殺人あるいは家族内殺人は、人間の精神の病理が反映しているようで、これこそ「不可解」である。このような殺人は、現代のモラルや人権意識の向上という文化背景の中で、抑止されにくいのかもしれない。

2020年3月7日土曜日

犯罪が増えた? (1)―ヒュードラのように死なないこの主張


 最近、また日本で犯罪が増えていることを警告した書籍が出版されたようだ。読みもせずに批判するのはあまり褒められたことではないかもしれないが、読むのもバカバカしいし、著者インタビューの記事が掲載されていたのでそれから内容を推定した上での記事であることをまずお詫びしたい(読んでいないので、著者名と書名はにここでは記していない)。実際、マーティン・デイリーとマーゴ・ウィルソンの共著である『人が人を殺すとき』やスティーヴン・ピンカーによる『暴力の人類史』、さらにはピンカーの近著である『21世紀の啓蒙』などの著作や多くの論文において、殺人をはじめとする犯罪が、時代が新しくなるにつれて大きく下がっていることが何度も示されている。それにもかかわらず、「犯罪が多くなった」というこの種の主張は、何度否定されてもギリシャ神話のヒュードラ(首が何度切られてもまた生えてくる)のように登場する。

 拙著『「生きにくさ」はどこからくるのか』においても、私は、第二次世界大戦後、犯罪発生率の低下とともに人権意識の高まりなどのモラルの向上が見られ、それは、高等教育の普及と情報化にあると推定している。下の表は拙著にも掲載したが、日本における1950年からの10年刻みの殺人等の発生率を示している。一般刑法犯、殺人、傷害、強姦などは確実に減少している。なお、強制猥褻の増加は、人権意識の高まりによって女性が被害を訴えるようになったためであり、ここには載せていないが、DVの摘発件数が2015年に8000件だったのが2019年には9000件を超えるようになった事実と符合している。ただ、強制猥褻については、2015年をピークに減少し始めているようである。


人口10万人あたりの発生件数
                    
一般刑法犯
殺人
傷害 
強姦
強制猥褻
1950
1736.96
3.44
50.85
4.23
1.41
1970
1222.75
1.90
48.57
4.93
3.15
1990
1324.01
1.00
15.72
1.25
2.21
2010
1238.70
0.83
20.80
1.01
5.52

 にもかかわらず現代は犯罪が増えたと認識される理由は何だろうか。犯罪が大きく報道されることによる「利用可能性バイアス」(情報の利用のしやすさによって生ずる判断のゆがみ)や、「社会が良くなった」よりは危機を訴える書籍のほうが出版されやすいという「出版バイアス」などいろいろあるかもしれない。しかし、最も問題と思えるのは、資本主義などの発展の原理を敵視することによるイデオロギーに基づくもとだろう。「資本主義が人間の欲望を増幅させ、人間のモラルが低下して犯罪が起きている」と主張したい人たちは、現代のモラルの向上を認めたくないようである。私は、上の表に示されるような事実を認識し、人間がどのような文化習慣や制度を確立することによって、このような改善の積み重ねがあったのかということを精査することが非常に重要と考えるが、ヒュードラはこの大きな妨害要因である。

関連記事