2019年12月19日木曜日

“Adapting human thinking and moral reasoning in contemporary society”刊行 (3)―笑いについての考察


 11月末に刊行された” Adapting human thinking and moral reasoning in contemporary society”では、私はもう1つの章を執筆している。章タイトルは Laugh and laughter as adaptation in human beings: Past and presentである。なぜこのタイトルの書籍に「笑い」についての章が含まれるのかと、疑問に思われるかもしれない。しかし、社会的哺乳類として進化したホモ・サピエンスが、ダンバー数を超えてどのように大規模な協同が可能になったのかという問題に対して、「笑い」はその1つの戦略であるという視点からその機能を論じることができ、本書のテーマに合致するわけである。つまり、「何かをみんなで笑う」という経験は、人々を結びつける機能があるというわけだ。ちょうど宗教的な集まりが人々の結びつきを強固にするという機能と似ている。

 しかし「笑い」には、もう1つ、他者を嘲笑するという機能もある。どちらの機能も、「笑い」が何らかのズレを認識することによって引き起こされる点にその源泉がある。ズレには、習慣からのズレや規範からのズレがあり、失敗などのズレを引き起こした本人を巻き込んでの笑いになることもあるが、そうでなければ、たとえば規範からのズレにたいしては嘲笑になりやすい。つまり、規範からのズレを生じさせたということで非難の対象になるわけである。さらに嘲笑も、笑っている人々同士の関係を強める作用があるといえる。

 嘲笑は、ホモ・サピエンスを含む社会的哺乳類としての霊長類における順位制において極めて高い適応的機能がある。順位制においては、自分の順位を上昇させるという適応課題と、集団の調和を保持するという適応課題がそれぞれの個体にのしかかる。嘲笑は、された側の順位の低下を招きやすく、また同時に、集団のメンバーと協同で嘲笑をすれば、嘲笑している側のメンバー間の関係が強まることになる。地位上昇と調和保持という両方の問題に有効なわけである。また、順位制への適応という視点から、自虐的な笑いがなぜ受けやすいのかという理由も明らかになる。自虐は、自嘲として自分の地位を低下させる可能性もあるが、他のメンバーに、「自分は地位の上昇の野心を持っていませんよ」というメッセージになるわけである。したがって、他のメンバーは、安心してその自虐を笑うことができるのである。

 情報化社会としての現代では、コミュニケーションは複雑化している。まず他者への攻撃として、身体的な暴力がここ70年の間に大きく忌避されることになり、相対的に言葉が武器として選択されるようになった。もちろん言葉の暴力としてハラスメントと認定される場合もあるが、嘲笑は、最も受け入れられやすい他者攻撃の戦略になっている。ジョークを含んだ嘲笑は、身体的暴力に代わるものとして、その個人の知性が高いと評価され、順位制の中で地位の上昇をもたらすことにもつながる。一方で、受け入れられやすいはずの自虐でも、ときには批判されることもある。たとえば、自他ともに美人と認められる40歳を過ぎた女優が、「どうせ私は結婚できないから」と自嘲したとしよう。「美人は結婚に有利」という常識からのズレとして、この女優の仲間内では、笑いを誘うかもしれない。しかしこの自虐がメディアによってさまざまに伝えられると、独身は惨めだという価値観を押し付けるものとして、独身を選択した女性を傷つけることになる。情報化社会では、仲間内では笑いになっても、不特定多数に発信されると許容されにくくなることが起こりうるわけである。


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