2019年2月19日火曜日

大河ドラマ「いだてん」-視聴率が低いなんてもったいない


 2019年の大河ドラマが「いだてん」に決定したと報じられたときは、歴史ドラマ好きな私としては、かなり落胆した。また、これまでの大河ファンが離れてしまって視聴率が低迷しているようだ。しかし「いだてん」は、近代の歴史のおもしろさを十分に表現すると同時に、ドラマとしても秀逸なものになっていると思う。宮藤官九郎の、速いテンポの展開にヒューマンドラマを織り込んだ物語は、見ていて楽しいし、何よりもそれを名優たちが見事に演じていると思う。日本賛美が少々目に付くこともあるが、日本が、スポーツにおいて世界の舞台に向かっていく黎明期の躍動感を感じさせてくれる。

 主演の金栗四三を演ずる中村勘九郎は、田舎の出身者として、おそろしく周期に気遣いをしながらも、間の悪さ、空気の読めなさ、とんちんかんさを醸し出しながら、希望と戸惑いをうまく表現していると思う。彼が演ずる金栗が、オリンピックなどの経験を経て、今後どのように成長していくのか非常に楽しみである。私は、心理学から見た演劇の持論として、ある特定の感情をうまく表現できるだけではなく、複雑な感情が絡まったときに、演じられている人物自身が自分の感情がわからない状態を、表情やしぐさで演じられるのが名優だと思っているが、「いだてん」の勘九郎はまさしくこれにあてはまる。勘九郎に勝るとも劣らず、やや屈折した複雑な心情を表現しているのが、三島弥彦役の生田斗真だろう。生田クンは、「軍師官兵衛」での敬虔なクリスチャン大名の高山右近や、映画「土竜の唄」で見せたハチャメチャ感など、さまざまな顔があるが、いくつかの異なる顔を持っている三島を魅力的に演じてくれている。

 他にも、嘉納治五郎の役所広司、四三の兄の中村獅童など、名前をあげればきりがないほど名優が輝いている (そういえば、中村獅童は「八重の桜」では佐川官兵衛を演じ、戦死したのは熊本だったなとどうでもいいことを思い出した)。「八重の桜」といえば、綾瀬はるかだが、「いだてん」での破壊力は、八重以上だろう。「八重の桜」つながりでちょっと物足りないのは、「白虎隊総長」兼「前髪クネ男」 (勝地涼) の存在感の薄さである。あるいは今回は、意図的に存在感を消しているのだろうか。

 ド存在感といえば、三島弥彦の母を演ずる白石加代子である。これは白石さんにしかできない怪演だろう。で、その白石さんに決して負けていない存在感を示しているのが三島家の女中を演じている杉咲花である。実はこの女優は初めて見るのだが、タダものじゃない感が漂っている。

 ただ、登場人物が多すぎて、わかりやすさが犠牲になっているようにも思う。はたして物語を、志ん生に語らせる必要があったのかという点も疑問で、またビートたけしではこの役に違和感を抱いてしまう。彼の噺を聞くのに苦痛を感ずるのは、私だけではあるまい。

2019年2月15日金曜日

心理学の論文における「仮説」って?

 学術論文を書くには労力が必要である。残念ながら、自分の中ではこのエネルギーの減少を感ずるが、それに反比例するように多くの査読が舞い込んでくる。査読論文や日本で出版された論文について気になる点は、ここ10年程の傾向なのか、やたら「仮説」が羅列されたものが多いのである。科学論文は、良きにつけ悪しきにつけカール・ポパー流の仮説演繹法が基本なので、仮説を明示することは悪くはないのだが、仮説演繹法の基準から外れたものが多いのである。

 最も多いのは、これまで行われた実験事実から、さして確認するほどのことでもないような「仮説」を提示するタイプである。仮説は、それらの実験事実を説明する理論から演繹的に導かれるはずなのだが、その理論はあまり明示されないまま、過去の研究でこういう事実が発見されているので、本研究でもそうなるだろうという「仮説」になっているのである。私はこれを密かに「仮説帰納法」と呼んでため息をついている。この論法が学術的意義を持つとすれば、先行研究における「事実」が頑健ではない場合である。そうでなければ、このような「仮説」はほぼ無意味である。

 次に多いのは、やたら仮説が多い論文である。この傾向も、結局は理論が何かわかっていないことに由来する現象ではないかと思うが、仮説が4種あるいは5種もあると、読むほうはうんざりしてしまう。仮に、3種の仮説が提示されているとしよう。すると、私の頭の中では、それぞれの仮説が支持されたか否かで、23乗、計8通りの可能性を考える。そして、その8通りのうち、どの場合が仮説を導いた理論を支持するのだろうかを想像する。仮説が3種でもかなり認知容量を超える作業なのだが、4種あるいは5種も明示する書き手は、読み手のこういう状況を想像しているのだろうか。科学論文は、読み手に優しいことが大原則だが、この意味をもう一度考えてほしいものである。

 仮説が多い論文に見られる傾向なのだが、仮説で予測していることがらがやたら細かいというものも散見される。たとえば、

仮説1. Xを行うと、測度Aの得点は増加する。

仮説2. Xを行うと、測度Bの得点は減少する。

というものである。私などは、「Xを行うと測度ABの差が増大する」くらいが良いのではないかと思うのだが、すべてを予測することを金科玉条のごとく守っているとこういう硬直したものになる。心理学の測度には相対的なものが多いのだが、ABがそうだとするとこのような予測を行うことにそもそも無理がある。それで、たとえば仮説1のみ支持されたような場合に、よく見かけるのが「理論は部分的に支持された」とかいう訳のわからない結論である。「部分的に支持って?」とため息が漏れてしまう。理論と説明のための原理が正しいかどうかは確率的なものなので、どの程度の確率でということなら理解できるが、「部分的に」と書かれると読み手はどう解釈してよいのか困惑してしまう。ポパー流の仮説演繹法にもいろいろと批判はあるので、必ずしもポパリアンたれとは言わない。しかし、査読者・審査者あるいは将来の読み手に理解しやすいものを書くということだけは守ってほしい。