2020年2月20日木曜日

ミルグラム実験とハンナ・アーレント―加害を人類普遍の罪として受け入れてもらえるために


 前回の記事で日本の戦争責任謝罪について書いたので、もう少しこの問題を掘り下げてみたい。実は、10年以上も前の英国在住中にロンドンの帝国戦争博物館(IWM)を訪れたのだが、そこで強く印象に残ったことがある。それは、ナチスのホロコーストについてのもので、アウシュビッツでの記録ともに展示されていた、ガス室などでホロコーストに加担した人々についての記述である。残虐性が浮き彫りにされていたというよりは、彼らが、いかに「普通の人」だったかということが強調されていたのだ。つまり、ドイツ人が悪いとか、ナチスの協力者が非人間的であるとか、そういうことではなく、ホロコーストが文化普遍的な人類の悪行として描かれていたのである。

 そのときに感じたことは、ソウルの西大門刑務所歴史館との違いである。ここでは、日本あるいは日本軍が韓国の人々にいかに残虐な行為を行ったかということが、これでもかこれでもかと展示されている。個人的に、韓国ではまだまだ日本の残虐行為を普遍的な人類の罪と捉えるのは難しいのかと悲しかったが、ジャレド・ダイアモンドの『危機と人類』のドイツの反省・謝罪を読んでみて、ドイツおよび周辺国が、ナチスの協力者の罪を人類普遍的なものと理解するために、双方とも並々ならぬ努力があったということが理解できた。

 ユダヤ人がナチスあるいはその加担者の残虐な行いを人類普遍の罪として理解しようとした代表的な例は、両親がユダヤ人であるスタンレー・ミルグラムによる服従実験である。1963年に発表されたこの実験では、参加者は「教師」として、課題を間違えた「生徒」に電気ショックという罰を与え、間違えるたびに電圧を上げていくように、権威をもって命じられる。この「生徒」は実はサクラで、実際には電流は流れていないが、参加者が機械を操作すると見事な演技で苦悶を表現したようである。その結果、普通の人間のはずの「教師」になった参加者が、命じられるままに電圧を上げていったのである。この実験は、現在では倫理的な問題から追試することができないが、「普通の人間が権威によって残虐になってしまう」ということを示したものとして貴重であろう。

 この実験が計画された直前に行われたのがアドルフ・アイヒマン裁判である。エルサレムで行われたこの裁判を、ドイツで生まれ育ち、ニューヨーク大学で教鞭をとるユダヤ人哲学者のハンナ・アーレントがニューヨーカー誌の特派員として傍聴し、同誌に連載記事を書いた。これは、バルバラ・スコヴァ主演で「ハンナ・アーレント」というタイトルで映画化されている。この映画によれば、彼女は、アイヒマンが大量殺人を指揮したとは思えぬほど凡庸な人物であることを知った。アイヒマンは、役人として自らの役職を忠実に果たしていたに過ぎなかったのである。そして、アイヒマンを裁く刑法的な根拠は存在しないこと等を主張した彼女の記事がニューヨーカーの連載記事として掲載されると、これらの記事は「ナチスを擁護するものだ」としてユダヤ人社会の感情的な反発を招き、彼女は大学から辞職勧告まで受けるに至った。しかし、「アイヒマンは、ただ命令に従っただけだと弁明した。彼は、考えることをせず、ただ忠実に命令を実行した。そこには動機も善悪もない。思考をやめたとき、人間はいとも簡単に残虐な行為を行う」という彼女のメッセージは、徐々に支持を得るに至る。

 被害者側が、加害を「人類普遍の罪」として受け入れるためには、さまざまな困難を乗り越える必要がある。日韓あるいは日中の場合は、イデオロギーの対立という途方もない問題に取り組まなければならないが、前回の記事で書いたように、日本の歴史教育の反省や博物館等における加害の展示は、その第一歩になるのではないかと思う。

2020年2月15日土曜日

ジャレド・ダイアモンドの『危機と人類』を読む(3)ー日本は戦争責任の反省をしていないのか?


 これまでのジャレド・ダイアモンドの書籍は、『銃・病原菌・鉄』に始まって、『文明崩壊』や『昨日までの世界』など、どれも評価が高い。ここで紹介している『危機と人類』も傑作だと思えるが、これまでの書籍と比較して、アマゾンなどでも日本人から否定的な評価を受けている部分がある。それは、日本の戦争責任について記述した部分についてである。現代の日本の危機として、周辺国(韓国、中国、北朝鮮)とのトラブルがあるが、それが戦争責任の反省および謝罪が足りないためであると主張されている点が問題であり、視点が少々一方的ではないかということだ。

 これまで、しばしば韓国から、反省と謝罪について「ドイツを見習え」というメッセージが送られているが、これに反発する日本人は少なくない。とくに、ここ数年の文在寅の政策的反日には、日本人だけではなく、韓国人からもやりすぎだと批判が起きている。私も個人的には、日本が行ったこととドイツが行った特定の民族浄化とはレベルが違うので、比較することは無理なのではないかと思っていた。

 しかし、ドイツが行った反省と謝罪について記された箇所を読むと、確かに日本は反省不足だったのではないかとも思える。ドイツでも、連合国によるニュルンベルク裁判の後の1950年代はナチス協力者への追及はあまり行われていなかったようだ。政府役人が務まりそうな人物の多くがナチス協力者なので、全員を追及すると役人になれる人材がいなくなるのである。しかし、1958年にナチス犯罪追及への中心的機関が設立され、その追及の一環として、フリッツ・バウアーがアドルフ・アイヒマンの潜伏先を突き止めている。また、ミュンヘン近郊のダッハウの強制収容所跡に博物館が設立され、残虐な歴史的資料が解説とともに展示されている。これらは、「ドイツ人は自らを裁くべし」という姿勢で貫かれていて、このような流れが、1970年のブラント首相によるポーランドにおける謝罪に結実している。

 いくらやったレベルが違うといっても、確かに日本はドイツと比較してこれほどの反省・謝罪を行っていない。不十分さが感じられるのは、戦争責任者を戦後の政界から排除することと教育である。とくに、中国や韓国(あるいは北朝鮮)の人々が不満を抱いているのは歴史教育で、真珠湾攻撃は教えられていても、日本が日韓併合で何を行ったのか、日中戦争時にどのような残虐行為があったのかの教育が不十分だろう。南京虐殺については被害者数についていろいろと不明点もあるが、似たようなことはあったはずだし、捕虜に対する人体実験や、ペスト菌、コレラ菌、パラチフス菌等を撒布した浙贛作戦はまだまだ知られていない。橋本龍太郎首相は1997年に「心からのお詫び」と「深い反省の気持ち」を表明した。しかしこれは、日本のざまざまな残虐行為の証拠が露になったので不承不承行ったという印象が中国や韓国の国民の間で強いのである。

 フランスもアルジェリアに対して行っては十分な反省・謝罪は行っていないようであり、国家間のこのような交渉は難しい。しかし、今すぐに日本で可能なことは教育だろう。イデオロギーに関わるのでついつい表面的に流されている20世紀の歴史教育をもう少し手厚くし、加害の歴史を、たとえば上野の博物館群のどこか、あるいは大阪の歴史博物館などではっきりと展示するのが良い方法ではないかと思う。過去を反省できることは、真の国力の一面なのではないだろうか。

2020年2月6日木曜日

ジャレド・ダイアモンドの『危機と人類』を読む(2)ーチリ軍事独裁の恐怖


 ジャレド・ダイアモンドの『危機と人類』には、いくつかの国の危機の例が分析されているが、ダイアモンドの同僚たちが最も恐怖を感じたというのが、チリの独裁軍事政権である。チリは、南米の中でも伝統的に民主的な国なので、そんな国においてこういうことが起きたのだということがショックなようだ。この原因の一つとして政治の二極化が指摘され、現代のアメリカにおいても起こりうる恐怖として実感されたわけである。

 チリでは、1970年にサルバドール・アジェンデが大統領になった。彼は、マルクス主義の政府をうちたてることを目標として、市場経済を社会主義的計画経済へと移行していった。アメリカ資本銅鉱山を接収したりして海外資本の大手企業を国有化したりしただけではなく、カストロはじめ多数のキューバ人を入国させていた。その結果、大きな経済危機を招き、そのために起きた財政赤字を解決するために紙幣の増刷を行い、ハイパーインフレへと突入していったのである。

 それで起きたのが、1973年のアウグスト・ピノチェトのクーデターである。ピノチェトの敬虔なカトリックで温厚な老紳士というイメージから、多くの人々が軍事政権は一時的と信じた。しかし、アジェンデの自殺の後、彼の支持者であった人民連合のメンバーの多くが拘束され、拷問を受けたり殺害されたりした。また、国家情報局が創設されて追及は国外へも及び、1976年時点で13万人が逮捕されたようである。この体制は、1989年に政権が民政移管され、キリスト教民主党出身のパトリシオ・エイルウィンが19年ぶりの選挙で大統領に当選・就任するまで続いた。

 健全な民主主義の国で起きたこの一連の危機の要因に政治の二極化があるとすれば、現代の民主国家においても十分に起こりうるとして恐怖を抱くのは理解できる。日本とて例外ではない。しかし、現時点でそれよりもリスクが高いのは韓国だろう。大統領が交替するたびに前任者が訴追されたり自殺したりと、現代の民主主義国家の中で政治的二極化が最も大きい国の一つかもしれない。文在寅の北朝鮮あるいは中国寄りの政策に危機感を抱いている国民は少なくはなく、経済政策でも効果をあげていないようだ。さらに、司法改革と称しての自分に忠誠を誓いそうな高級公職者不正捜査処を設置しようとする試みは、独裁化の臭いが強い。このまま独裁化に移行しても怖いし、さらにそれを打倒するには軍事クーデターしか残されていないという状況になるのも怖い。

 しかし、現代は1970年前後とは大きく異なっている。現代の二極化の要因とされる情報化の促進も、どのようにすれば独裁化をストップできるのかという情報を多く人々にもたらせている。70年代と比較して、政治と民主化についての情報がはるかに人々の間に浸透している。楽観的かもしれないが、情報化社会において人々がいったん民主主義を享受すると、チリでの危機のようなことは起きることはないのではないだろうか。