2020年6月30日火曜日

私だって間違えられるのは嫌だ―新大学英語名University of Osakaに物申す

 大阪市立大学は2022年度から大阪府立大学と合併して、大阪公立大学になる。しかし、この英語名であるUniversity of Osakaが物議を醸している。Osaka Universityである大阪大学からクレームがついているのだ。このUniversity of XX Universityの違いは、確かに厳密にはある。前者は、Xの大学あるいはXな大学としての命名だが、後者はそうではない。したがって、カリフォルニア州立大学はUniversity of Californiaだが、ハーバード大学がUniversity of Harvardになることはないし、日本でも慶應大学がUniversity of Keioになることはない(慶應の大学? あるいは慶應な大学?)。

 しかし、現実には混同されやすいことが確実である。なお、現在の私の大学である大阪市立大学はOsaka City Universityだが、これでさえもOsaka Universityである大阪大学としょっちゅう間違えられる。大阪大学は知られているみたいで、私の大学名の英文名を見た人たちが、なるほど大阪大学はニューヨーク市立大学(City University of New York)と同じように市立大学だったんだと勘違いするわけである。

 このUniversity of XX Universityについて英国と米国の大学教員にそれぞれ聞いてみたが、やはり厳密には異なるが、極めて混同されやすいので、University of Osakaは止めたほうがよいという意見であった。確かに日本では、静岡大学がShizuoka University、静岡県立大学がUniversity of Shizuokaで、どちらも命名として間違っていない。しかし、他と間違えられないということが名前の機能の1つなら、後からつけたほうが変更すべきだろう。世界では、英国のYork UniversityとカナダのThe University of Yorkがたびたび混同される。また、英国のNewcastle UniversityとオーストラリアのThe University of Newcastleも同じように混同されるようだ (愛知県の新城市が市立大学をつくるときに英語名に気をつけないといけない)

 そういう状況を踏まえれば、大阪大学のクレームは十分に理解できるし、私だって間違えられるのは嫌である (ただ、大阪大学側の「すでに論文等でUniversity of Osakaが使用されている」といういうクレームには賛同できない。単なる不注意なだけじゃないだろうか)。では、どんな英語名が考えられるだろうろうか。Osaka City and Prefectural Universityだと府市統合された場合に困るし、CityPrefecturalのどちらを先にするかを市大と府大の間でもめそうだ。それよりは、それぞれが伝統ある大学間の統合による大学なのだという意味を尊重して、Osaka United UniversityあるいはUnited University of Osakaはいかがだろうか。サッカーが強そうな名前だ(意味不明ですみません)。

2020年6月22日月曜日

占術家出井房龍壱氏とのコラボ『心理学と占い』シリーズ(5)―最終回『信頼できる心理テストとできない心理テストとの違い』


 占術家の出井房龍壱さんとの『心理学と占い』シリーズもついに最終回となった。最終回は、『信頼できる心理テストとできない心理テストとの違い』がテーマである。出版されているのかどうかは知らないが、インターネット上には、信頼できない心理テストがワンサカと掲載されている。少しは心理学会からクレームがあってもよいと思うのだが、今のところ野放しのようだ。それで、ここでは信頼できる心理テストとできない心理テストの違いについて解説した。

 このタイプで最も多いのが、「これが何に見えますか」と質問して、その回答パターンによって性格や心理状態について推測するものである。これは、心理テストの中の投影法と呼ばれるスタイルで、何に見えるかという解釈に個人の深層が反映されるという想定で使用されている。インターネット等で紹介されているテストの作者は、投影法テストなら自分にも作れると思って倫理についてはほとんど無自覚のままやっているのかもしれない。しかし、信頼できるものとして実際に使用されているテスト、たとえばロールシャッハテストなどでは膨大なデータの蓄積がある。さらに、健常者だけではなく、統合失調症や神経症の患者などの臨床的なデータも豊富で、それがテストの妥当性と信頼性を支えているわけである。インターネットの投影法もどきには、もちろんこういう裏付けはない。

 信頼できないテストのもう一つの問題は、先行研究の知見の無視である。ユーチューブでお話したことは、2020317日の記事で書いた内容そのままなのだが、睡眠姿勢と男女の相性の関係についてのインターネットで見つけた心理テストの批判である。研究の作法として、先行研究の無視あるいは盗作は大きな倫理的問題なのだが、この種の心理テストでは無法地帯になっている。

 こういう批判に対していつも出てくる反論は、「このようなテストは、友人同士で楽しめばよい。つまらないことに目くじらを立てて水をさすな」というものである。しかし、過去に (あるいは今も?) 血液型と性格の関係が信じられてしまって人事考課等に使用されたという事実を踏まえると、やはり倫理的配慮が必要である。被暗示性が高い人はこういういい加減な心理テストで大切な友人や恋人を失うような可能性があると、十二分に考慮しなければならない。そこで私の提案である。現在、タバコにかなり注意喚起の文言が義務付けられているように、これらのいい加減なテストがインターネットや雑誌に掲載されるときは、次のような文言を義務づけるというのはどうだろうか。
「このテストは科学的裏付けがあるものではありません。使用することによって安易に他の人の性格を判断しないようにしましょう。」


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2020年6月18日木曜日

遠くなった開城(ケソン)―金正恩と金与正は統一を危険視?

 私がケソンという地名を知ったのは、2005年に韓国に滞在したときである。ソウルのある大学で講演をし、その後に近くのレストランに連れて行っていただいたのだが、料理がとてもおいしかったことを記憶している。「ここの食材はケソンからの直輸入だから」とある先生が教えてくださったのだが、恥ずかしながら私は、「南国っぽくないけど、本当にフィリピンから輸入?」と勘違いしてしまった。当時、ケソン(開城)は、南北融和の象徴で、北朝鮮の食材はおいしいというのがソウルの人々の常識だった。ところが、2020年の616日、ケソンの南北連絡事務所は北朝鮮によって爆破されてしまった。

 素人の意見だが、やはり金一族は文在寅の太陽政策による朝鮮半島の統一は望んでいないのではないだろうか。2年前の板門店会談には驚いたが、金一族にとって統一における最大の問題は、統一されたときの自分たちの処遇だろう。いくら文在寅が、金の家系は抗日独立の最功労者であるとし、天皇あるいは貴族のような位置に置いたとしても、それで納得する人々がどれだけいるだろうか。そのような政策を推し進めるためには、韓国の反対派を徹底的に弾圧しなければいけないが、それはアメリカをはじめとする多くの国が黙っていないだろう。よほど中国やロシアに後ろ盾になってもらって文在寅もしくは「共に民主党」による独裁が続かない限り難しいだろう。また、北朝鮮の人々の中にも金一族の独裁に反対している人々は多いはずだ。とくに、収容所から解放された人々が金一族の象徴化を認めるはずがない (ただし、文在寅が、収容所の政治犯は犯罪時の法で裁かれるべきとして釈放しなければ、この心配はなくなる。脱北者による北への宣伝を法で取り締まろうとするほどの人間だから、それくらいのことはやりかねない)

 このように考えれば、金正恩や金与正が、かりに赤化統一であったとしても、その統一が自分たちの利益に反することは十分に認識しているはずだ。命まで奪われなくても、多くの財産は取り上げられることになる可能性が高い。さすがにアメリカに締め上げられたときは板門店会談に臨もうと考えたのかもしれないが、その後は、統一の妨害のために文在寅や韓国を激しく批判する機会を物色していたのだろう。激しく批判すれば、少なくとも金正恩や金与正を取り巻く人々の忠誠心を高めることもできるのではないだろうか。金一族は、チャウシェスクやホーネッカーにならないために、国内の引き締めに必死なはずだ。今回の南北連絡事務所の爆破は、そのための都合のよいショーだったのだろう。「政治が乱れた貧しい南が我々に縋りついてきたが、無礼なので連絡事務所を破壊した」、これに留飲を下げる北朝鮮の人々が何人いるのかはわからないが。

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2020年6月12日金曜日

占術家出井房龍壱氏とのコラボ『心理学と占い』シリーズ(4)―第4回『占いを求める理性』

 占術家の出井房龍壱さんとの『心理学と占い』シリーズも4回目を迎えた。3回目では、直感的(ファスト)な迷信等が一つ一つ熟慮的(スロー)な理性によって否定されてきたことを述べたが、4回目では、それでも理性は占いを求めているという私の考えを述べている。

 まず、占いや科学的根拠がない性格判断がなぜ信じられやすいのかについて説明している。これは、今ではどこにでも転がっている解説なので、新鮮味はほとんどない鉄板の「利用可能性バイアス(availability bias)」とバーナム効果である。前者について、最初に科学的用語として使用したのはカーネマンとトヴァスキーで、このYouTubeでの説明以外で有名な例は、Rが最初に来る単語とR3番目に位置する単語はどちらが多いかである。terminalserviceなど、英語には3番目に位置する単語が実際には多いのだが、それらはrememberrainbowと比較して思い出されにくく、ついつい最初に来る単語が多いという判断が行われる。「利用可能性バイアス」は、この認知的バイアスを説明するための概念である。つまり、最初に来る単語の利用可能性が高いわけである。YouTubeでは、これを、彗星が「現れる」「現れない」×災いが「ある」「ない」といういわゆる2×2の随伴表に適用している。彗星が現れてそのあと災いがあったりしたことがあると、それは記憶に残りやすい。つまり「彗星が現れる」と「災いがある」セルの利用可能性が高くなり、「彗星が現れると災いが起きる」と信じられるようになる。バーナム効果は、今では良く知られるようになったが、誰にでも該当するような曖昧で一般的な性格をあらわす記述で「あなたは~でしょう?」と言われると、「自分に当ててはまる」とか「自分の性格を言い当てられた」と感じてしまう現象である。悪用されないようにしなければならない。

 第4回のメインテーマは、「それでも理性は占いを求める」である。占いあるいは「神の声」の利点は、一言で述べると、不確実な状況で意思決定が必要な場合における自信や確信をもたらしてくれることである。そもそも現実に解決しなければならない問題の多くは、不良定義問題(ill-defined problem)であり、いわゆる計算困難性(computational intractability)を伴う。つまり、正解を知るためにものすごい数の可能性を検討しなければならず、それはほぼ不可能なのである。しかし、それでも何かを選択しなければならないとき、いくら不確実であっても、実行時には「えいっ」と自信をもっていなければ成功はおぼつかなくなる。占いは、こういう状態で後押しをしてくれるわけである。

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2020年6月8日月曜日

正義連(正義記憶連帯)の正体ー善意の暴走ではなくただのセカンドレイプ

 正義連(正義記憶連帯:旧挺対協)の独善性について、私は2018121日の挺対協(韓国挺身隊問題対策協議会)を批判する記事で述べたが、ついに、慰安婦被害者のリーダー的存在である李容洙(イ・ヨンス)氏によって、その横暴さが暴露されるに至った。現在、問題視されているのは尹美香(ユン・ミヒャン)らの金銭に関わる疑惑だが、個人的には、憎悪を拡散させることを目標として、それに反対する被害者たちを侮辱した道義的責任が問われるべきだろうと思う。

 前回の記事でも書いたが、そもそも1994年の村山富市内閣総理大臣によるお詫びの表明、およびそれによる「女性のためのアジア平和国民基金」の見舞金を受け取った元慰安婦への暴言は許しがたい。「(日本側が)罪を認めない同上金を受け取れば、被害者は自ら志願して赴いた公娼となる」という、2000年から代表になった伊貞玉(ユン・ジョンオク)発言から、当時の挺対協が人権団体とは名ばかりのものであるということを認識すべきだっただろう。さらに、2015年に朴槿恵大統領と安倍首相との間で交わされた慰安婦問題についての日韓合意のときでも、お金を受け取った(47人中34人が受け取った)被害者に対して、「アジア女性基金のお金をもらう人は、自ら進んで出かけた公娼であることを認めることと同様だ」と侮辱的な発言をしている。これは被害者たちへのセカンドレイプともいえる行為である。

 今回の李容洙氏の暴露的告白で印象的な点は、水曜集会(慰安婦問題で日本政府を糾弾するために水曜日に行われてきた抗議集会)を止めるべきという発言である。彼女によれば、これは韓国の人々に日本に対する憎悪を植え付けている行為であって、むしろ日韓の相互理解のためには、こんなことよりも若い人々による文化交流が重要であるとのことだ。このメッセージは、日本から直接被害を受けた人物からのものとして、人々に訴えるものがあるだろう。

 ただ、日本人も、この李容洙の告白を、軍が関与して慰安所を設立したということの免罪符にしてはいけなけない。どの国でもやっていたというのは言い訳にならないし、むしろ人類の普遍的な罪として反省していく必要があると思う。戦争の醜さの一面として、男性が女性を商品としていることの問題として反省し、すでにいくつかの教科書にも記載されているように、きちんと学校教育で教えられるべきだろうと思う。そうすると、「反省しない行為」とは、正義連に疑義を唱えたり水曜集会を批判したりすることなのではなく、買春や援助交際をするなど、女性をモノとしか考えていないこと全てを指すことになるる。韓国をはじめとする東南アジアへの買春旅行などもってのほかだ。もちろん、軽々に正義連あるいは挺対協の運動に参加し、彼らのセカンドレイプに加担した人々にも大きく反省してもらいたい。

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2020年6月2日火曜日

占術家出井房龍壱氏とのコラボ『心理学と占い』シリーズ(3)―第3回『迷信は理性に敗れた?』

 占術家の出井房龍壱さんとのコラボ『心理学と占い』シリーズも3回目になった。今回も、直感的処理システム(ファスト)と熟慮的処理システム(スロー)を想定する二重過程理論をベースにしている。そして、二重過程理論の最もホットな話題の1つである、スローはファストを制御できるのかという大きな問題を、理性が迷信を制御できるのかという領域に焦点を当てて、検討している。この大きな問題は、拙著『「生きにくさ」はどこからくるのか』で議論してる核心の問題でもある。

 迷信は、直感化してくると、理性によって修正されにくい。直感は強い感情と結びつきやすいが、恐怖や怒りと結びついていると、特に修正されにくようである。それでも、歴史的に見ると、言い換えれば歴史の自然実験としてみると、科学の発展とともに、徐々に迷信は否定されたり、廃れたりしていく。雨の原因は雷神様ではない、病気の原因は神の怒りではない、不幸は魔女が原因ではない、彗星は物体と大気圏の摩擦であって不幸の前兆ではないなど、多くの迷信が否定されてきている。内山節氏も、『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』において興味深い事実を指摘している。昔は、キツネにだまされた話が至る所にあったのだが、1965年を境に、それがほとんどなくなったということである。このときに日本人の心の中にどのようなことが起きたのかは定かではないが、1964年の東京オリンピックを終えて、テレビなどの電化製品の普及による科学への信頼、街灯などによる暗闇の減少、キツネが出そうな里山の開発などが影響しているのだろう。

 しかし、熟慮システムによって科学的思考が促進されても、恐怖などの強い感情と結びついた迷信は、なかなか消滅しない。「頭(熟慮システム)ではわかっていても、怖い」という、理性と迷信の弁証法的併存状態が続くわけである。たとえば、頭では仏滅は迷信に過ぎないと思っていても、この日に結婚式を挙げる人は少ない。それと同じように、たとえば「今日の占い」のようなものでも、迷信とわかっていながら、良い運勢だとされると何となく一日が嬉しい。

 では、どのような迷信が廃れやすいだろうか。一つは、それを守るためにおそろしくコストがかかるものである。毎日1万円を寄付しなければならない宗教行事は、現代では長続きしない。また、橋などを作るときに実際に生きた人を埋める「人柱」も廃れた。人の命というコストは高すぎるというわけだ。この場合、魔女狩りが無くなったのと同じ理由で、犠牲者がかわいそうという共感的な直感が働いたためであるともいえる。
 しかし、日本には死者が出ているにもかかわらず続いている宗教行事もある。泉州のだんじりや、諏訪大社の御柱祭である。この場合、「人柱」のように、人を直接死に至らしめることが目的になっているのではなく、あくまで死者は偶然の副産物という扱いだからだろう。あるいは死者は防ぐことができるという制御感によって、廃止されないのかもしれない。

 最後になるが、このビデオの中で、私は「仏滅」を、「ふつめつ」と発音している。「ぶつめつ」でも「ふつめつ」でもどちらでもいいのかなと思っていたが「ぶつめつ」が正しいようだ。あ~あ、恥ずかしい。

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