2018年8月26日日曜日

下品に見えるが一応真面目な思考実験


 私は、人間の精神が、直観的な判断をもたらす進化的に古いシステムと、熟慮的な判断を可能にする進化的に新しいシステムから構成されているとする二重過程理論の視点で研究を続けている。二種類のシステムを想定したうえでの問題の一つに、新しいシステムが古いシステムを制御できるのかどうかというものがある。この理論を信奉する研究者たちの当初の想定はかなり楽観的で、進化的に新しいシステムが、古いシステムからの出力を柔軟に修正していくと考えられていた。

 しかし、古いシステムは強い情動と直結しており、このような情動的出力は修正しにくいという指摘も数多くなされている。よく取り上げられる例だが、口の中の唾液は平気で飲み込むことができるのだが、コップに溜めた自分の唾液を飲むにはずいぶんと抵抗がある。頭では (進化的に新しいシステムからは)、口の中の唾液もコップの中の唾液も同じ自分の唾液であると判断できるが、やはりコップの中の唾液を飲むにはずいぶんと抵抗がある。進化的に古いシステムが、それを不潔と判断して大きな嫌悪感をもたらせるからである。言い換えれば、新しいシステムは、古いシステムからの嫌悪というこの出力を制御することができないわけである。

 この知見と照らすと、少々抵抗を感ずるのが、人間あるいは動物の像の口から水が出てくる泉水である。今はさすがに飲むことはできるが、自分が小さい頃は、ちょっと気持ちが悪いなと思っていた。それでは、以下はどうだろうか。飲んだり食べたりは可能だろうか。

(1) ブリュッセルにある小便小僧のペニスから出てくる水。

(2) 排尿のポーズの実物そっくりの男性裸像があり、ペニスの先から出てくるビール(そういえば、私の大学の同級生に、紙コップでビールを飲むときは、必ず「検尿は美味いな」と言いながら飲む奴がいた)

(3) 排泄のポーズの実物そっくりの男性裸像があり、その肛門から噴き出てくるカレー。

(4) 嘔吐のポーズの実物そっくりの男性像があり、その口から出てくるお粥。

(5) (3)に、排泄のときと酷似した音がついている。

(6) (4)に、嘔吐のときと酷似した音がついている。

 自分で書いていて気分が悪くなってきたが、(1)(4)ならなんとか我慢して食べたり飲んだりすることができるかもしれない。しかし、空腹に耐えきれないときは、(5)(6)でも食べるかもしれない。



2018年8月24日金曜日

ドブロヴニク滞在記―アドリア海の真珠と戦争の爪痕

 今年の夏は、出張ではない純粋なヴァカンスとして、クロアチアのドブロヴニクに1週間余り滞在した。中学生のころ、「バルカン半島はヨーロッパの火薬庫」と習ったが、当時の旧ユーゴスラビアはチトーによって統一されていたので、あまりピンとはこなかった。しかし、今回初めて訪れてみて、この地域の歴史的複雑さを改めて実感させられた。

 ドブロヴニクは、アドリア海の真珠と呼ばれていて、世界遺産に登録されている。旧市街が城壁で囲まれており、その中に大聖堂、総督邸、いくつかの教会や修道院などの歴史的建造物がある。最上段の写真にあるように、建物はライムストーンで造られており、また統一されたライトブラウンの屋根は、本当に美しい。

 歴史的に、ローマ帝国や東ローマ帝国の版図であったりしたが、中世は、ラグーサ共和国(共和国なので、王宮ではなく、ヴェニスのように総督邸がある)と呼ばれた地中海の海洋共和国の一つで、ヴェニスがライバルであった。ラグーサ共和国はオスマントルコとヴェニスの間の緊張の中で独立を保ったが、ナポレオン戦争の後、結局はオーストリア=ハンガリー帝国に飲み込まれるに至る。

 第二次世界大戦後は、チトーの指導の下、ユーゴスラビアの一部となるが、その崩壊後のクロアチアの独立をめぐって、1991年から1995年にかけて紛争(正しくは、戦争というべきかもしれない)が起きている。独立に反対するクロアチア領内のセルビア人グループやそれを後押しするセルビアとの紛争である。

 これらの記録は、ドブロヴニク市街を見下ろすことができるスルジ山頂にある、独立戦争博物館の展示資料で知ることができる。この山はセルビア側からの砲撃をかなり受け、また市街地にも砲弾が降り注いだようである。観光客で溢れかえる旧市街を散策の後に、この博物館の当時(といっても、20数年前なのだ)の記録写真を見ると、いかに悲惨な状況だったかがわかる。下の写真は、現在の聖母被昇天大聖堂の内部と、戦時中のものの対比である。修復等によって若干変化があるようだが、人々が呆然とするような惨状であったようだ。

 今年のワールドカップではクロアチアは準優勝だったが、1998年、あの日本が初めてワールドカップに出場したときに3位になっている。日本もクロアチアに敗れている。そうすると、あの出場は紛争終了後わずか3年ということになる。選手たちはまたサッカーができる喜びを味わっただろうし、人々には平和の象徴のように感じられた快挙だっただろう。

2018年8月22日水曜日

モラルについての心理学―大阪市大のセミナーから


 3月にフランスのツール大学を訪問したが、今度はツール大学より、Veronique Salvano-Pardieu先生が来日されて、大阪市立大学にほぼ1か月滞在された。その間に、私を含めたいくつかのセミナーを日本側からのものとして提供し、それらの締めとして7月25日に、Judgement of blame in children and adolescents with intellectual disability, and in adolescents with autism spectrum disorders.というタイトルで、Salvano-Pardieu先生の講演会を行った。さらに、その前に、大阪市大側から研究員の谷口さんによるHow does psychological distance from a crime case affect a guilty judgment? : Causal relationship between implicit and explicit inference. というタイトルでの研究発表もしていただいている。

 どちらの研究も、犯罪や暴力などの不道徳的な行動に対してどの程度非難をするかというものである。谷口さんの発表は、犯罪に対する心理学的距離が量刑推定に影響を与えるとするもので、対象の心理的距離が遠いほど抽象的に理解するというTropeの解釈レベル理論の、犯罪領域における検証である。解釈レベル理論の予測通り、昔の犯罪は心理的距離が遠く、具体的な解釈がなされにくくなって量刑が小さく推定されるという結果であった。これをバイアスとすれば、量刑推定という実践的な司法領域への貴重な知見であるといえるだろう。

 また、Salvano-Pardieu先生の研究パラダイムは、暴力などの不道徳行動がどの程度非難されるのかというものである。そして、主要な独立変数は、不道徳行動の意図性と結末の重大さである。ベースとなっている枠組みは、直観的な過程とその出力を制御する熟慮的な過程を想定する二重過程理論で、結末に対しては直観的な義務論的な推論が働き、意図に対しては熟慮的に心の理論が機能すると推定されている。つまり、結末の重大さは直観に訴えるのだが、その推論に対して意図が考慮された熟慮的な内省が制御的に働くというわけである。

 現代のモラルの心理学は、コールバーグの古典的な研究から、さまざまな他領域の知見が導入されて、非常に大きな発展を遂げようとしていると思う。また、グローバル化しつつある現代において、さまざまな価値観を持った人々が共生を余儀なくされているが、そのような状況で、文化的価値観の違いから、道徳的衝突が至る所で発生している。それらの差異は、西洋と東洋、伝統的文化社会と都市文化社会の対立となって現れているようだ。お中元など、上司に季節の贈り物が当然という文化の出身者は、それが賄賂に当たるとされる文化に溶け込もうとすると困難を感じるはずである。また、このような衝突は、集団対集団、あるいは個人対個人だけではなく、個人内でも起きているはずである。集団の利益を優先するか個人の利益を優先するか、自分から遠い人よりも自分に近い人を優先すべきかどうか、私たちは日常においていろいろと迷いを感じている。このような問題に、私たちの研究がどれだけ貢献できるのかわからないが、学際的、比較文化的な道徳判断共同研究を始めてみようかなと思案中である。