2026年7月24日金曜日

特集号の論文を募集しますーAnalogical Reasoning and Relational Thinking: Cognitive Foundations of Intelligence and Rationalities

  このたび、Journal of Intelligenceというオンラインジャーナルの特集号のゲストエディタに招待された。特集号のテーマは、Analogical Reasoning and Relational Thinking: Cognitive Foundations of Intelligence and Rationalitiesである。類推 (analogical reasoning) は、私はこれまで扱ったことはないが、関係的思考 (relational thinking) は私のもう35年前の博士論文のテーマである。私の近年の興味は、内省と直感を想定する二重過程理論をベースとした内省による直感の制御で、上記の研究からは長い間離れているので、私自身にゲストエディタが務まるのか不安ではあるが、これらが認知的基盤として知能や合理性を支えているという視点には、非常に興味がある。

 類推と関係的思考が知能の認知的基盤であるという理由は、これらは、人間がパターンや規則を見出し、具体的な経験を一般化し、知識を新しい状況に適用し、抽象化を行うことを可能にするからである。また、これらの認知プロセスは、創造的思考、言語の関係構造の習得、そして信頼、互恵、同盟関係の構築といった社会的知能にとっても不可欠である。実際、知能テストにおいてしばしば使用されている「レーヴン漸進的マトリックス」のような類推的推論課題は、一般的知能 (もし存在すとすれば) を測定するのに最も適していると主張されることもある。

 規則やパターンの検出は、膨大な情報を並列的に処理する必要があり、これらの認知的活動は、内省的というよりは、直感的システムではないと不可能である。そして、そのミクロレベルでの処理は、pゆえにqといった演繹的な推論ではなく、似たようなものを結びつける連想によって行われているはずである。さらにその場合、何をもって「似ている」のかという判断は、生得的傾向と経験的蓄積によって瞬時に直感によって行われる。

 そうすると、確かに知能の基盤としての、連想あるいはそれを可能にする直感的システムという位置づけができるとは思うが、それでは、一方で、知能の本質は巨大な認知的容量に支えられた内省的システムであるとする立場と矛盾しないのだろうか。連想によって生ずる推論にはあまり適切ではないものもあるが、それを抑制する働きを内省的システム (実行機能) が担当しており、その部分に知能の本質を求めれば、「矛盾しない」という暫定的な結論を得ることができる。たとえば、コウモリはネズミよりも鳥と似ているという連想が生じても、科学的知識に基づく内省があれば、それを抑制することができるわけだ。

 しかし、あまりにも抑制が強いと突飛な発想、いいかえれば創造性までも抑制してしまうことになる。創造性は、連想の多様性に支えられ、この多様性の中から適切なものが選択されて社会的に評価されるものになる。このように考えると、内省的システムをベースとする「知能」は、創造性を妨害することもあるかもしれないし、不適切な連想だけを抑制あるいは上書きして、よりよい創造性をもたらすことになるのかもしれない。

 いずれにしろ、私自身は個人的にここ何年間かは内省的システムベースで知能や合理性を考えてきたので、連想ベースの類推や関係的思考についてのこの特集号の企画には、興奮を覚えている。刊行されるのはまだまだ先のことだが、興味深い論文を集めることができることを祈っている。



2026年7月19日日曜日

スペインvsアルゼンチンーポゼッションサッカーの復活はなるのか

 2010年のワールドカップ南アフリカ大会で、フェルナンド・トーレスやイニエスタを擁するスペインが、ボールを保持してショートパスを繰り出して相手を崩すスタイルで優勝した時に、私はこれがサッカーの完成形なのかという印象を抱いた。ところが、その後、ハイプレスから縦に速いサッカーが全盛を迎え、ボールを保持しているプレーヤーがプレスを受けてボールを失うと、大ピンチに陥るという問題を抱えて、スペインのスタイル (ティキタカとも呼ばれる) は、絶滅危惧種になるのではないだろうかと思っていた。

 ところが、2024年のユーロ大会で優勝し、さらにこの大会でも自らのスタイルを守り抜いて、ポルトガル、ベルギー、フランスといった強豪をねじ伏せてアルゼンチンとの決勝を迎えることになった。ヤマルという神童が右サイドにいるにしても、今大会のスペインチームを眺めてみて、スター選手は他の強豪にちょっと見劣りする。センターフォワードのオヤルサバルも、得点はあるものの、ゼロトップあるいは偽9番と評されている。それでも、ボール保持で守備は堅く、すばらしいパスワークで相手守備陣を崩す。そして、その中心にペドリがいる。

 不思議なのが、このチームを作り上げたルイス・デ・ラ・フエンテが決してこれまで監督としての評価が高かったわけではないことである。ブラジルのアンチェロッティにしろ、イングランドのトーマス・トゥヘルにしろ、ヨーロッパのビックチームで輝かしい戦績をあげて、その後に代表監督になっている。ところがフエンテは、ビルバオなどの弱小チーム (こういっては失礼だが) をへてスペインの世代別やオリンピックの監督になり、代表監督になって2024年のユーロで優勝監督になった。概して組織力を強化するには、優秀な監督ではないと無理と思われるが、フエンテはすばらしい監督なのだろうか。それとも、スペインの選手は、バルセロナをはじめ、当たり前のようにポゼッション+パスサッカーをやっているので、代表で高度な組織力が生まれるのだろうか。このチームは、敵のハイプレスに対しては速いパスでかわし、ときにはハイプレスから相手ボールを奪って縦に速い攻撃も見せている。スペインサッカーが一段とレベルアップして生き残っている。

 明日の決勝では、アルゼンチンと対するが、おそらくアルゼンチンは、このパスサッカーへの対応を行ってくる。アルゼンチンが守備を固めてカウンターサッカーをするとは思えないが、どのような対応をしてくるのだろう。また、スペインは、メッシに対する万全の備えを行ってくるはずだ。右サイドのメッシに対して、スペインの左サイドはククレジャだが、ククレジャは左サイドを駆け上がるというよりは、しょっちゅう中盤に顔を出してピンチの芽を潰している。どんなマッチアップがあるのか、見ものである。アルゼンチンでは、右サイドのヤマルを止めるキープレーヤーはタグリアフィコだが、おそらくマクアリスターが下がってきてケアをすると思う。マクアリスターを下げさせることができれば、スペインはだいぶ有利になる。こういう個のプレーも見逃すことができない。

2026年7月11日土曜日

『異性愛者はなぜゲイとレズビアンに否定的なのか』を読むー雑感

  私が主査 (ただし、大学院の指導教員だったわけではない) となった鈴木文子氏の博士論文が、『異性愛者はなぜゲイとレズビアンに否定的なのか』というタイトルでナカニシヤから出版された。本書は、博士論文の出版ということで、もっと硬い内容になるかなと心配したが、わかりやすく現代的な問題にうまく言及したものになったと思う。

 LGBTへの偏見・差別の根源としてジェンダーアイデンティティという概念が今まで提案されてきた。ただし、概して、男性異性愛者によるゲイへの嫌悪は、女性異性愛者によるレズビアンへの嫌悪よりも強い。実際、たとえば英国などでは男性間の性行為に対する刑罰が比較的近年まで存続していたが、女性間の性行為にたいする刑罰の歴史はない。この性差をどのように説明するのかが、学術的に最も重要な問題として本書で扱われている。本書では、さまざまな文化において男性の性役割のほうが女性のものよりも厳格で、男性のほうが「男性らしさ」からの逸脱への許容度が低いためとする「厳格性仮説」と、性役割の特性が男女で異なり、他者へ共感性が女性により求められるため、女性のほうがレズビアンへの嫌悪が低いとする「特性仮説」の検証が行われている。鈴木氏のいくつかの社会心理学的な実験の結果、後者のほうが支持された。

 当初このテーマを紹介されたとき、第二次世界大戦以降の人権意識の高揚として、人種差別、性差別、障がい者差別と並んでLGBTへの差別はずいぶんと弱くなっている中で、私自身、どのような結果が得られるのか興味があった。日本ではゲイへの刑罰はなかったかもしれないが、ホモとかオカマと呼ばれ、嘲笑の対象だった。それが今世紀に入って状況が大きく変化している。しかし、同性婚にはまだまだ抵抗があるようだ。調査結果からは、このような変化を経ても、LGBTへの嫌悪が強いことが示された。個人的には、1980年代あるいは戦前に同じ調査ができたら比較ができて興味深いと思うが、これはタイムマシンがないと不可能である。

 概して、差別は、差別される側への共感によって減少していると考えられる。また、差別や嫌悪が単に弱まるだけではなく、共感の対象も広がりを見せている。そうすると、このような潮流は、LGBT以外への差別にも拡大しないだろうか? いわゆる「変態」と呼ばれる性的に異常とされる行為を嗜好する人たちの中で、やっとLGBTに光が当てられつつあるが、ほかにもこの可能性があるものはないだろうか。小児性愛や露出症など、相手からの合意がないものは、許容というよりはむしろより嫌悪されるようになった。このような中で、誰にも迷惑をかけていない合意がある近親婚が共感を得る可能性はないだろうか。近親婚は、障がいをもった子どもが生まれる可能性が極めて高いということで禁止され、嫌悪を感ずるような文化が維持されてきた。しかし、これは障がい者差別はいけないとする視点と矛盾し、ダブルスタンダードである。ましてや、子どもを作らなければ、父娘、母息子、兄妹、姉弟が両者合意のもとに結婚しても何の問題もないはずだ (この文章で、もしかなり嫌悪感を抱いているとすれば、あなたは、このような文化にどっぷり浸かっているのだ)。しかし、これだけ人権が叫ばれる世の中になっても、彼らは世の中で認められず、嫌悪感を抱かれながら生きている。彼らに光が当てられる兆候はまだ見えないが、誰かが共感を呼ぶようなナラティヴを創れば、大きく変化するかもしれない。

2026年7月9日木曜日

強者がルールを捻じ曲げるーワールドカップにおけるドナルド・トランプのわかりやすい愚行

  米大統領のドナルド・トランプについては、さまざまな批判がある。以前から彼の排外的な発言が問題視されていたが、今期には、一方的な関税の通告、イランへの攻撃、さらにイランへの攻撃や合意などによる株価の乱高下を利用した株価売買など、これだけ世界を振り回した米大統領も珍しい。もちろん、イランについては、宗教独裁とテロ支援で、もしこの国が核兵器を手にしたら国際的テロ組織に拡散されるのではないかなどのリスクがあったかもしれない。政府に批判的な人々を次々に処刑するこの恐怖独裁国家をなんとかしなければならないという信念もあったかもしれない。しかし、ほとんど何の説明もない米国による攻撃は、ベネズエラへの攻撃での成功体験の結果ではないかとも思えてしまう。ちょうどプーチンのウクライナ侵攻が、クリミヤ併合の成功体験の結果のようなものだ。

 以上の行動については、おそらく専門的な判断が必要で、ドナルド・トランプが愚かな金儲け主義者かどうかの断言まではできないかもしれない。しかし、今回のワールドカップにおける米国チームのレッドカードによる次戦出場停止処分を、大統領の圧力でひっくり返したという愚行は、おそろしくわかりやすい。サッカーでは、レッドカードによる退場者には次戦の出場停止という処分が下され、危険行為のレベルによって出場停止の試合が多くなる場合もある。このルールは、世界中のリーグにおいて守られ、当然ながらワールドカップ予選においても遵守されてきた。それが、ワールドカップ本戦の、ノックアウトステージ (決勝トーナメント) において破られてしまった。ベスト16を賭けたボスニアヘルツェゴビナ戦で米国のフォラリン・バログンは危険なタックルでレッドカードを受け、その試合で退場し、次戦のベルギー戦も出場の資格はなかったはずである。モナコに所属するバログンは、ACミラン所属のクリスチャン・プリシッチとともに米国のエースで、彼を欠くのは米国チームには痛かったかもしれない。トランプは、この決定をひっくり返すようにFIFA会長に圧力をかけ、結局その通りになった。そして、ベスト8を賭けたベルギー戦では、バログンは出場したが、米国は敗れた。

 法律をはじめ何においてもそうなのだろうが、スポーツにおいてもルールを捻じ曲げる行為はやってはいけない。おそらくベルギー対米国戦では、世界のほとんどサッカーファンはベルギーを応援しただろう。わたしもそうだった。ここで米国が勝ってしまったりすると、おそろしく後味が悪い大会になってしまう。ドーピングに引っかかった自国選手を強引に出場させたりなどの愚行は、共産圏の独裁者がすることだと思っていたが、なんと世界の民主主義の牽引国だったはずの米国の大統領が行ってしまった。

 この行為は、サッカー選手にあこがれる青少年に決して良い影響は与えない。いくら指導者たちがこれを反面教師として教育をしても、子どもたちは、「権力をもったものが正義」という裏ルールを敏感に感じ取るかもしれない。また、この件の最大の被害者は、出場を余儀なくされたバログンではないだろうか。私が彼の立場なら、おそらく出場しないと思うが、おそらく規則を守って出場しないことができなかったのではないだろうか。いずれにせよ、トランプの任期が早く終了することを待ち望んでいる。

2026年5月28日木曜日

最終講義「人間は合理的なのか?」(3)―理性はバイアスを制御できるのか

  本記事までかなり間延びしてしまったが、私の最終講義の最終パートは、「理性はバイアスを制御できるのか」、言い換えれば、「内省的システムは直感的システムを監視して、もし非合理的直感があれば、それを修正したり上書きしたりできるのか」という問題を扱っている。

 この問題は、拙著『「生きにくさ」はどこからくるのか進化が生んだ二種類の精神システムとグローバル化』をはじめとするいくつかの著作の中で取り上げてきた。内省的システムは、進化によって増大した認知的容量によって支えられているが、概していえることは、この性能が高ければ直感的システムの産物であるバイアスなどを抑制することができる (この性能の指標として知能指数がよく用いられる。知能指数は、狭い範囲の能力という神話が流布しているが、現時点で認知的容量の汎用性を示すもっとも適切な指標である)

 私は、現在、この問題、すなわち内省的システムによる直感的システムの制御についての検証を、「歴史的自然実験」という方法で行うことを提唱している。歴史的自然実験とは、それぞれ異なる条件で発展してきた異なる地域・社会の比較で、地理、気候、資源へのアクセスなどが独立変数となり、社会的発展、政治的組織化、経済システムなどが従属変数となる。心理学に適用するということは、社会の大きな変化に対してどのような精神の変容があったのかを推定することを意味している。

 内省的システムによる制御として、私は、17世紀後半からのヨーロッパの啓蒙の時代と第二次世界大戦以降の、攻撃性 (暴力) の減少とヒューマニティあるいは人権意識の高揚という現象をターゲットにした。この変化を、内省的システムによる直感的システムの抑制という切り口で説明すると、確かに第二次世界大戦後の人権意識の高揚や暴力・犯罪の減少に、フリン効果と呼ばれる知能の向上が関係しているかもしれない。しかしそれ以上に影響力があったのは、小説の普及とそれによる人々の共感の増大であろう。小説は、人々の心の中にナラティヴを形成して、実は内省的システムではなく直感的システムの感情に働きかけ、大きな行動力を生み出す。ストウ夫人の『アンクル・トムの小屋』が奴隷解放を促進したことはその一例である。共感が弱者に振り向けられて、それが内省的システムによって制御されると、人権意識の高まりという現象に結びつくわけである。実際、第二次世界大戦後は、人種差別、障がい者差別、性差別、LGBTに対する差別などが、完全に消失はしないが、小さくなっている。この攻撃性や差別の減少は、偏見などのバイアスの内省的システムによる抑制の結果である。

 そうすると、最後の問題は、現代の人権意識の高揚と政治的二極化というパラドクスをどのように説明するのかである。そもそも政治的二極化は、昔から存在したものが、SNSの普及によって顕在化しただけではないかとも考えられるが、仮にそうだとしてもなぜ人権意識の高まりによって小さくなっていないのかが謎である。この解答として、2つの要因を挙げることができる。第一は、共感の狭さである。確かに弱者への共感は人権意識を高めやすく、また、内省的システムによる制御を受ければ差別の軽減に向かわせてくれるかもしれない。しかし、ナラティヴの源は直感でありまた感情を伴いやすい。これが、望ましくない方向に向かうと、政治的対立をより大きくする。ロシアのウクライナ侵攻が始まった時、戦死者に対する強い共感が、容易に降伏しないゼレンスキーへの憎悪に結びついたような事例があてはまる。第二は、マイサイドバイアスと呼べるもので、これはマイサイドに有利になるような思考のバイアスである。総じて知能指数が高いほど認知的バイアスを抑制でき、論理的思考力や蓄積された知識がバイアスの抑制に使用される。実際、差別の減少は、多くの正しくない知識が修正され続けてきた結果である。ところが、マイサイドバイアスだけは抑制されない。つまり、知識や思考がマイサイドに有利になるように使用されるわけである。トランプ支持者が、温暖化は二酸化炭素の排出が原因ではないということの証明のために氷河期の周期などについての知見に自分の思考力を注ぎ込んだりする傾向は、知能が高くても抑制されないわけである。かくして、このパラドクスは解決できるが、では、どうすれば二極化を防ぐことができるのか。それは今後の宿題である。

 

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ウクライナ侵攻を予見するかのような著作―”The Story Paradox

2026年5月10日日曜日

縄文ミステリーサミット雑感―縄文人は、かなり特殊な狩猟採集民?

  昨日(58)NHKBSで「縄文ミステリーサミット」の再放送があったので視聴した。縄文時代について、近年の研究成果が、私たちのような素人にもわかりやすく議論されていて非常に見応えがあった。特に、動物土偶について、イノシシ、クマなど、集団間では多様だが、一集団で発見されているのは一種類の動物で、トーテムのような存在であるという知見は、初耳だったので興味深かった。一般に、トーテムとなった動物は食用にせず、食物タブーと結びつきやすいともいわれているが、縄文人の場合はどうだったのだろうかと気になったが、それは番組では取り扱われてなかった。

 心理学の立場から気になったのは、集団内の階層性と集団間・集団内闘争である。概して、階層性が生じたのは農業革命以降と考えられている (それでも、階層が登場するのは季節性のものと考えられていたり、逆に農耕以前のスンギール遺跡での発見のように、特定の個人にかなりの多くの人々の労力が貢納されたりという推察もある)。狩猟採集民とされる縄文人の間では、状況によってリーダーが登場したかもしれないが、世襲もなく階層性は現れていないという結論だった。ただ、三内丸山遺跡でのクリの栽培などを考慮すると、縄文人は本当に農業革命以前の社会といえるのかどうかが気になった (稲作だけが農耕ではない)。また、クリは比較的貯蔵が可能だが、それによって貧富の格差が生じていなかったのかなどをもう少し議論してほしかったなと思う (ヨーロッパでは、農耕以降、貧富の差や階層社会は、保存しやすい小麦栽培地域では生じやすく、保存しにくいジャガイモ栽培地域では生じにくいという話を聞いたことがある)

 もう一つの問題は、縄文社会における戦争や殺人である。日本では、大規模な集団間の戦闘・戦争が起きたのは、稲作の弥生時代以降で、縄文時代にはほとんどなかったようだ。この事実について、狩猟採集民なので「移動容易性 (番組では、「フッ軽」という表現が用いられていたが)」が高かったという説明が与えられていたが、この説明は納得しにくかった。まず、農業革命以前は、確かに戦争は大規模ではないが、戦闘や暴力で命を落とす人々の割合は、決して低かったわけではない。狩猟採集民の部族間、親族間の闘争等による死亡率は10%から15%と推定されている。ところが、縄文人骨の考古学的研究からは、この割合は1%に満たない (それでも現代人と比較すると高いので、決して治安が良いとは言えないだろう) と推定される。つまり、縄文人は、狩猟採集民族としてかなり特殊だということがいえるわけである。ということは、縄文人の争いの少なさの理由を説明するのに、狩猟採集民全体の特徴である「移動容易性」で説明することにかなり無理がある。縄文人の場合は、人口密度が低かったので、世界の他地域の狩猟採集民よりも移動がより容易だったのかもしれないが、それならば、縄文人特有の戦闘・戦争の少なさは、低人口密度を要因とすべきだろう。そうすると、次に生じてくるのは、なぜ日本列島において人口密度が低かったのだろうかという疑問である。縄文人は食が豊かだったとする言説もあるが、それならば人口が増えてもおかしくはない。まさか、嬰児・胎児殺しの伝統があったのだろうか (そう思ったら、あの目が大きな土偶は、ひょっとしたら嬰児・胎児への鎮魂じゃないかという妄想も湧いてきた)

 番組としては非常に興味深いが、時間の不足からか、世界の狩猟採集民との比較という視点が少なかったのが非常に残念だった。縄文人は、かなり特殊な狩猟採集民だと思うが、それが、日本列島という地勢的・生態的な要因によるものなのか、あるいは偶然に形成された文化の影響なのか、興味は尽きない。

2026年4月18日土曜日

最終講義「人間は合理的なのか?」(2)―文化的合理性について

  私の最終講義は、3つのトピックに分かれているが、第1のバイアスの次が、文化的合理性についてである。ヒトは、社会的哺乳類として進化したが、そこで重要な課題は、どのように集団を維持するかである。文化は、その維持のための装置である (なお、文化というと、音楽や絵画などの芸術を指す場合もあるが、ここでは、集団の維持という視点を重視し、制度や法律、経済システム、教育システムなども含む)。したがって、文化についての合理性を議論するときは、文化自体が合理的か否かと、所与の文化の中で人々が合理的か否かが検討される。

 私の比較文化研究のスタートは、実証研究ではなく理論的検討である。この領域に極めて影響力がある2000年に発表されたNisbettたちの論文では、西洋人が分析的認知を行いがちであるのに対し、東洋人は全体的認知を行う傾向にあるとされている。これは、多くの比較文化の実証データから導かれたものだが、実は、分析的認知は二重過程理論における内省的システムの、全体的認知は直感的システムの処理の特徴である。直感的システムは進化的に古いとされているので、そうすると日本人を含めた東洋人の認知システムは進化的に古いという結論が導かれてしまう。

 そこで私たち (Yama et al., 2007) が提案したのは、それぞれのシステムに、文化普遍的なハードウエア (遺伝子の目標) と文化固有なソフトウエア (ミームの目標) を想定したモデルである。ハードウエア自体に文化差や民族差はないが、それを文化的適応のためにどのように使用するのかというソフトウエアにおいて文化差が生ずる。東洋は、伝統的な社会が西洋と比較して長く続いたが、内省的システムにおいて獲得された分析的思考も、伝統の中で習慣化されれば、直感的システムがもつ自動性や潜在性を利用することになり、かくして全体的思考という特徴を持つにいたる。

 もう1つの理論的研究は、西洋人の線形的思考・東洋人の弁証法的思考という文化差についてのものである。東洋人は西洋人と比較して、陳述に矛盾があっても受け入れやすいということはさまざまな比較文化研究でいわれていることだが、これまでは、西洋の個人主義文化・東洋の集団主義文化という枠組みで説明されてきた。つまり、集団主義文化の東洋では、矛盾した意見があったときに、一方が正しく他方は正しくないという判断をすると、集団の調和を壊すというわけである。ところが、南米の人々は集団主義文化であるにもかかわらず弁証法的思考はあまりしないという事実から、この説明に疑義が投げかけられ、また弁証法的なのは東洋人だけだということから、弁証法の伝統をつくりあげた陰陽思想や仏教などの影響であるという説明も提唱された。

 これらの説明に対して私たち (Yama & Zakaria, 2019) は、西洋人の低コンテクスト文化・東洋人の高コンテクスト文化という対比で説明を試みた。コンテクストとは、会話の際に暗黙裡に共有される情報で、会話ではわざわざ言及される必要がない。このコンテクストの依存度が高いのが高コンテクスト文化、低いのが低コンテクスト文化である。日本における「阿吽の呼吸」は、典型的な高コンテクスト文化のコミュニケーションである。つまり、東洋人は高コンテクスト文化を形成しているので、コンテクストによって暗黙裡に矛盾を解決するという規範が形成されていて、弁証法的に振る舞うという説明が与えられる。

 さらにこの高コンテクスト文化・低コンテクスト文化という区分自体が、地勢的・生態学的に説明が可能である。低コンテクスト文化は、話し手同士がお互いにコンテクストを共有しにくい状況で形成されやすく、典型的な状況が異文化コミュニケーションである。私たちも、外国人と会話をするときには、日本人には常識であることを丁寧に説明するという、低コンテクスト文化のコミュニケーションを行う。歴史的に、異文化交流が活発か否かは、リソースの偏在や水路などの交流手段などがあり、さらには一つの強大な文化に統一されにくい (統一されると、単一の文化になって異文化交流とはならなくなるので) という条件が必要だが、これらはすべて地勢的・生態学的要因と結びつく。つまり、高コンテクスト文化や低コンテクスト文化は、所与の地勢的・生態学的条件で、それぞれ合理的に形成されたといえるわけである。

 地勢的・生態学的条件の中で合理的な文化を形成し、このようにして所与となった文化において適応できるような合理性を私たちは有し、集団としての社会に不都合が生じればさらに合理的に文化を形成する。このサイクルで私たちの文化・社会および精神が形成されているといえる。3つ目のトピックについては、次の記事で述べたい。

 

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