2026年10月8日木曜日

第4回Human and Artificial Rationalities (1)―3件のキーノートから

  アルルの滞在のあと、パリに移動して、9月15日から4日間にわたって行われた第4回Human and Artificial Rationalitiesの国際カンファレンスに参加した。とくにここ数年の生成AIの進歩にともなって、工学系からの発表も増えたが、3件のキーノートは、いずれも心理学者からのもので、うち2件は、認知の直感的システムと熟慮的システムを想定する二重過程理論についてだった。

 二重過程理論においては、直感的システムはほとんど常に作動しているが、熟慮的システムは何らかの要因によって起動すると想定されている。ランカシャー大学のLinden Ballのキーノートは、この熟慮的システムの中の大きな役割を果たしていると考えられるメタ推論 (meta-reasoning) についてのものである。メタ推論とは、自らの思考をモニターし、必要に応じてその過程を制御する働きである。彼のキーノートは、結論が自分の信念に一致するかどうかが推論の妥当性判断に影響を与える信念バイアスをメタ推論の働きを明らかにする重要な事例として取り上げ、メタ推論と中核的な推論過程との相互作用を検討するというものだった。まず、二重過程理論におけるデフォルト (直感的システム)・介入 (熟慮的システム) モデルから近年のモデルへの展開を概観し、直感的な論理判断や確信度の役割について論じる。さらに、内省的傾向、ワーキングメモリ容量、関連知識、メタ認知的経験の適切な利用など、推論における個人差の重要性が考察されていた。メタ推論は主に熟慮的システムに深く関わるが、直感的システムの出力のモニタリングと制御を担うため、両者の協働プロセスに位置づけらる。なお、論理的直感は、直感的システムの領域から生じる。

 パリ・シテ大学のWim de Neysのキーノートは、この直感と熟慮の相対的な人間の好みに関わるものである。直感は「称賛される思考」、熟考は「推奨される思考」として捉えられているが、では人々は実際にどちらを好むのだろうか。シナリオト課題を用いた研究では、直感によって高い正答率を示す人物と、熟考しても低い正答率の人物を比較すると、正答率が低いにもかかわらず明確に熟考が好まれた。また、自己の判断では直感を、他者の判断では熟慮を好む傾向が示され、客観的な正確さと主観的な選好の違いが明らかになった。私は、日本では仏教等の伝統等から、直感が好まれるのではないかと思ったが、彼のデータにはフランス等の欧州以外にインドも含まれ、熟慮への選好は文化普遍的であると考えられるようだった。

 ミラノ・ビコッカ大学のLaura Macchiによる、心理レトリック(psycho-rhetoric)アプローチでは、思考をあらかじめ定められたプログラムとして捉えるのではなく、その背後にある認知過程に注目する。文脈・内容・前提条件を考慮し、人間の認知の複雑性や限定合理性を捉えるとともに、ワーキングメモリなどの量的側面からレトリックの質的側面へと視点が広げられている。特に、思考に含まれる暗黙的・解釈的な合理性に着目し、直感的システム・熟慮的システムの二分法では説明できない特殊な過程として捉えている。そして、無意識的でありながら努力を要する分析的思考の可能性を論じている。彼女のキーノートでは、語用論という用語が用いられていなかったが、個人的に質問したところ、語用論には心理的プロセスが想定されていないので使わなかったということだった。

 大学を退職して、さて何をしようかと思案していたが、興味深い研究はまだまだ刺激的なようだ。

2026年9月13日日曜日

アルルの牛鬼?―海や川で生計をたてる人々の恐怖の象徴

  来週のパリでの学会 (Human and Artificial Rationalities) に出席する前にアルルに滞在している。こじんまりしたローマ史跡とアートの街で、非常に心地よく滞在することができる。ゴッホもこの街を愛したようで、彼が「ここを描いた」という表示が至る所にある。

 先日アルラタン博物館で、奇妙なものを見つけた。見た瞬間に、私は直感的に宇和島の牛鬼を連想したのだが、フランスでタラスク (Tarasque) と呼ばれている怪物である。私の直感が正しいのかどうかは自信はないが、調べてみると、タラスクと牛鬼には随分と共通点がある。どちらも、水と生きる人々が抱いた恐怖の象徴で、タラスクは、氾濫する大河 (ローヌ川) と水運の脅威、牛鬼は、沿岸部の海難・津波への恐れが表現されている。タラスクが「船を覆し、水夫を食らう」とされる伝承は、水運で生計を立てる人々にとっての「制御不能な濁流や水難事故への恐怖」が妖怪化・竜神化したものと捉えられ、牛鬼は「海から出現する」「浜辺で人を襲う」といった海神・海難の妖怪としての側面を強く持ち、荒れ狂う海、巨大な波や津波、あるいは未知の海洋生物に対する「海で生きる漁師たちの畏怖の念」が牛鬼の形をとったと考えられる。

 さらに興味深い共通点は、どちらも、妖獣から、地域の守護に変遷して、祭礼において練り歩きをされていることである。タラスクは、聖マルタによって鎮圧されて、その後地域の悪霊を払ってくれる聖獣となり、牛鬼も、特に鎮圧の伝説はないが、やはり聖獣となって宇和島牛鬼祭りで練り歩きされている。

 これだけの類似性があるにもかかわらず、特に、一方から他方への文化的伝播があったという歴史はない。異なる地域で自然発生的に生まれた象徴と考えられている。水と共に生きる人々が、予測や制御することができない自然災害や事故という絶え間ない恐怖を克服し、共同体の平穏を願う中で生み出した知恵の形が、この二つの妖獣といえるのかもしれない。文化人類学的な人類の普遍的象徴が、遠く離れた、同じような生活条件において生まれたものといえるだろう。


2026年8月19日水曜日

自らが創作したナラティヴに縛られる―専制国家によくみられる現象?

  ロシアがウクライナ侵攻を始めて4年半が経つが、膠着状態に陥ってから、北欧・東欧の国々がロシアの侵攻に備えるようになった。私自身、当初は経済的に弱体化したロシアにそんな余裕があるはずもないので、なぜそこまでナーバスになるのかちょっと不思議だったが、この戦争の本質を考えると、その可能性はないとは言い切れなくなってきた。

 今世紀に入って戦争やジェノサイドがほぼ消滅したとき、2011年に出版された書籍の中でS. ピンカーは、ユートピア・イデオロギーが共有されにくくなったことを消滅の要因として挙げている。つまり、「大東亜共栄圏を築けば東洋は平和になる」や「ユダヤ人がいなくなればヨーロッパは清らかになる」のようなユートピア・イデオロギーを人々が信じにくくなって戦争が起きにくくなったわけだ。

 ところが、専制国家の独裁者は、このイデオロギーをナラティヴによって復活させた。自らのカリスマ性を高めるのに都合がよいのだろう。中国では、習近平が「中華民族の偉大な復興」というユートピア・イデオロギーを掲げている。偉大なはずの中華民族は西洋人や日本人によって屈辱を受けてきたが、強くなった今がそれを晴らすときであり、これは歴史の上でも正義であるというわけだ。ロシアでも、プーチンは「偉大なロシアの復興」というユートピア・イデオロギーを人々に植えつけている。つまり、ロシアは第二次世界大戦でナチス・ドイツを破った正義の国であり、また、ロシア人とウクライナ人は歴史的・精神的にも一つの民族であるにもかかわらず、ウクライナにはネオナチが入り込んで反ロシア的な動きがある、というのがウクライナ侵攻の理由になっている。ウクライナとの統一を果たしてネオナチを追い出せば、偉大なロシアのユートピアが生まれるというわけだ。

 ところが、ウクライナにおいて戦況が膠着したり危うくなったりすると、このナラティヴ通りの展開通りにならなくなる。このナラティヴに縛られてしまうと、独裁者プーチンは自らの地位だけではなく、命までも危うくなってしまう。今のままでのウクライナとの停戦などとんでもないわけだ。そうすると、このナラティヴを維持するために、ネオナチやそれを支援するNATO諸国という悪の敵対者に対して、何らかの反撃を試みることが必要になってくる。ロシアと隣接する北欧・東欧諸国はそれを恐れているわけである。とくに、旧ソビエト連邦から真っ先に独立したバルト三国は、偉大なロシアの裏切り者として目の敵にされやすい。彼らがロシア侵攻を恐れるのも十分に納得できる。侵攻ではなかったが、プーチンによるエトロフ島の訪問も、彼のナラティヴを維持するための戦略の一つだろう。

 現状ではロシアはウクライナ以外の国に進行する余裕がないはずというのは、あくまで客観的な見方で、ナラティヴに縛られるとその客観視ができなくなる。太平洋戦争を引き起こした日本がその例だ。中国との戦争が泥沼化した中で他国を侵略する余裕などなかったはずが、大東亜共栄圏のナラティヴによって、米国を攻撃すると同時に、マレーシア、フィリピン、インドネシアに侵攻した。このナラティヴを放棄するために、日本は周辺国に大きな被害を与えると同時に、多大な犠牲を伴ってしまった。ロシア、あるいはプーチンは、この壊滅の道を辿るのだろうか。「自国の行動こそが正義であり歴史的必然である」という強力なナラティヴを国内外に定着させることで、国内の結束維持と国際的な影響力拡大を図っている国に対しては、彼らのナラティヴを理解して様々な可能性に備えることは重要だろう。

 

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ウクライナ侵攻を予見するかのような著作―”The Story Paradox”

2026年7月24日金曜日

特集号の論文を募集しますーAnalogical Reasoning and Relational Thinking: Cognitive Foundations of Intelligence and Rationalities

  このたび、Journal of Intelligenceというオンラインジャーナルの特集号のゲストエディタに招待された。特集号のテーマは、“Analogical Reasoning and Relational Thinking: Cognitive Foundations of Intelligence and Rationalities”である。類推 (analogical reasoning) は、私はこれまで扱ったことはないが、関係的思考 (relational thinking) は私のもう35年前の博士論文のテーマである。私の近年の興味は、内省と直感を想定する二重過程理論をベースとした内省による直感の制御で、上記の研究からは長い間離れているので、私自身にゲストエディタが務まるのか不安ではあるが、これらが認知的基盤として知能や合理性を支えているという視点には、非常に興味がある。

 類推と関係的思考が知能の認知的基盤であるという理由は、これらは、人間がパターンや規則を見出し、具体的な経験を一般化し、知識を新しい状況に適用し、抽象化を行うことを可能にするからである。また、これらの認知プロセスは、創造的思考、言語の関係構造の習得、そして信頼、互恵、同盟関係の構築といった社会的知能にとっても不可欠である。実際、知能テストにおいてしばしば使用されている「レーヴン漸進的マトリックス」のような類推的推論課題は、一般的知能 (もし存在すとすれば) を測定するのに最も適していると主張されることもある。

 規則やパターンの検出は、膨大な情報を並列的に処理する必要があり、これらの認知的活動は、内省的というよりは、直感的システムではないと不可能である。そして、そのミクロレベルでの処理は、pゆえにqといった演繹的な推論ではなく、似たようなものを結びつける連想によって行われているはずである。さらにその場合、何をもって「似ている」のかという判断は、生得的傾向と経験的蓄積によって瞬時に直感によって行われる。

 そうすると、確かに知能の基盤としての、連想あるいはそれを可能にする直感的システムという位置づけができるとは思うが、それでは、一方で、知能の本質は巨大な認知的容量に支えられた内省的システムであるとする立場と矛盾しないのだろうか。連想によって生ずる推論にはあまり適切ではないものもあるが、それを抑制する働きを内省的システム (実行機能) が担当しており、その部分に知能の本質を求めれば、「矛盾しない」という暫定的な結論を得ることができる。たとえば、コウモリはネズミよりも鳥と似ているという連想が生じても、科学的知識に基づく内省があれば、それを抑制することができるわけだ。

 しかし、あまりにも抑制が強いと突飛な発想、いいかえれば創造性までも抑制してしまうことになる。創造性は、連想の多様性に支えられ、この多様性の中から適切なものが選択されて社会的に評価されるものになる。このように考えると、内省的システムをベースとする「知能」は、創造性を妨害することもあるかもしれないし、不適切な連想だけを抑制あるいは上書きして、よりよい創造性をもたらすことになるのかもしれない。

 いずれにしろ、私自身は個人的にここ何年間かは内省的システムベースで知能や合理性を考えてきたので、連想ベースの類推や関係的思考についてのこの特集号の企画には、興奮を覚えている。刊行されるのはまだまだ先のことだが、興味深い論文を集めることができることを祈っている。



2026年7月19日日曜日

スペインvsアルゼンチンーポゼッションサッカーの復活はなるのか

 2010年のワールドカップ南アフリカ大会で、フェルナンド・トーレスやイニエスタを擁するスペインが、ボールを保持してショートパスを繰り出して相手を崩すスタイルで優勝した時に、私はこれがサッカーの完成形なのかという印象を抱いた。ところが、その後、ハイプレスから縦に速いサッカーが全盛を迎え、ボールを保持しているプレーヤーがプレスを受けてボールを失うと、大ピンチに陥るという問題を抱えて、スペインのスタイル (ティキタカとも呼ばれる) は、絶滅危惧種になるのではないだろうかと思っていた。

 ところが、2024年のユーロ大会で優勝し、さらにこの大会でも自らのスタイルを守り抜いて、ポルトガル、ベルギー、フランスといった強豪をねじ伏せてアルゼンチンとの決勝を迎えることになった。ヤマルという神童が右サイドにいるにしても、今大会のスペインチームを眺めてみて、スター選手は他の強豪にちょっと見劣りする。センターフォワードのオヤルサバルも、得点はあるものの、ゼロトップあるいは偽9番と評されている。それでも、ボール保持で守備は堅く、すばらしいパスワークで相手守備陣を崩す。そして、その中心にペドリがいる。

 不思議なのが、このチームを作り上げたルイス・デ・ラ・フエンテが決してこれまで監督としての評価が高かったわけではないことである。ブラジルのアンチェロッティにしろ、イングランドのトーマス・トゥヘルにしろ、ヨーロッパのビックチームで輝かしい戦績をあげて、その後に代表監督になっている。ところがフエンテは、ビルバオなどの弱小チーム (こういっては失礼だが) をへてスペインの世代別やオリンピックの監督になり、代表監督になって2024年のユーロで優勝監督になった。概して組織力を強化するには、優秀な監督ではないと無理と思われるが、フエンテはすばらしい監督なのだろうか。それとも、スペインの選手は、バルセロナをはじめ、当たり前のようにポゼッション+パスサッカーをやっているので、代表で高度な組織力が生まれるのだろうか。このチームは、敵のハイプレスに対しては速いパスでかわし、ときにはハイプレスから相手ボールを奪って縦に速い攻撃も見せている。スペインサッカーが一段とレベルアップして生き残っている。

 明日の決勝では、アルゼンチンと対するが、おそらくアルゼンチンは、このパスサッカーへの対応を行ってくる。アルゼンチンが守備を固めてカウンターサッカーをするとは思えないが、どのような対応をしてくるのだろう。また、スペインは、メッシに対する万全の備えを行ってくるはずだ。右サイドのメッシに対して、スペインの左サイドはククレジャだが、ククレジャは左サイドを駆け上がるというよりは、しょっちゅう中盤に顔を出してピンチの芽を潰している。どんなマッチアップがあるのか、見ものである。アルゼンチンでは、右サイドのヤマルを止めるキープレーヤーはタグリアフィコだが、おそらくマクアリスターが下がってきてケアをすると思う。マクアリスターを下げさせることができれば、スペインはだいぶ有利になる。こういう個のプレーも見逃すことができない。

2026年7月11日土曜日

『異性愛者はなぜゲイとレズビアンに否定的なのか』を読むー雑感

  私が主査 (ただし、大学院の指導教員だったわけではない) となった鈴木文子氏の博士論文が、『異性愛者はなぜゲイとレズビアンに否定的なのか』というタイトルでナカニシヤから出版された。本書は、博士論文の出版ということで、もっと硬い内容になるかなと心配したが、わかりやすく現代的な問題にうまく言及したものになったと思う。

 LGBTへの偏見・差別の根源としてジェンダーアイデンティティという概念が今まで提案されてきた。ただし、概して、男性異性愛者によるゲイへの嫌悪は、女性異性愛者によるレズビアンへの嫌悪よりも強い。実際、たとえば英国などでは男性間の性行為に対する刑罰が比較的近年まで存続していたが、女性間の性行為にたいする刑罰の歴史はない。この性差をどのように説明するのかが、学術的に最も重要な問題として本書で扱われている。本書では、さまざまな文化において男性の性役割のほうが女性のものよりも厳格で、男性のほうが「男性らしさ」からの逸脱への許容度が低いためとする「厳格性仮説」と、性役割の特性が男女で異なり、他者へ共感性が女性により求められるため、女性のほうがレズビアンへの嫌悪が低いとする「特性仮説」の検証が行われている。鈴木氏のいくつかの社会心理学的な実験の結果、後者のほうが支持された。

 当初このテーマを紹介されたとき、第二次世界大戦以降の人権意識の高揚として、人種差別、性差別、障がい者差別と並んでLGBTへの差別はずいぶんと弱くなっている中で、私自身、どのような結果が得られるのか興味があった。日本ではゲイへの刑罰はなかったかもしれないが、ホモとかオカマと呼ばれ、嘲笑の対象だった。それが今世紀に入って状況が大きく変化している。しかし、同性婚にはまだまだ抵抗があるようだ。調査結果からは、このような変化を経ても、LGBTへの嫌悪が強いことが示された。個人的には、1980年代あるいは戦前に同じ調査ができたら比較ができて興味深いと思うが、これはタイムマシンがないと不可能である。

 概して、差別は、差別される側への共感によって減少していると考えられる。また、差別や嫌悪が単に弱まるだけではなく、共感の対象も広がりを見せている。そうすると、このような潮流は、LGBT以外への差別にも拡大しないだろうか? いわゆる「変態」と呼ばれる性的に異常とされる行為を嗜好する人たちの中で、やっとLGBTに光が当てられつつあるが、ほかにもこの可能性があるものはないだろうか。小児性愛や露出症など、相手からの合意がないものは、許容というよりはむしろより嫌悪されるようになった。このような中で、誰にも迷惑をかけていない合意がある近親婚が共感を得る可能性はないだろうか。近親婚は、障がいをもった子どもが生まれる可能性が極めて高いということで禁止され、嫌悪を感ずるような文化が維持されてきた。しかし、これは障がい者差別はいけないとする視点と矛盾し、ダブルスタンダードである。ましてや、子どもを作らなければ、父娘、母息子、兄妹、姉弟が両者合意のもとに結婚しても何の問題もないはずだ (この文章で、もしかなり嫌悪感を抱いているとすれば、あなたは、このような文化にどっぷり浸かっているのだ)。しかし、これだけ人権が叫ばれる世の中になっても、彼らは世の中で認められず、嫌悪感を抱かれながら生きている。彼らに光が当てられる兆候はまだ見えないが、誰かが共感を呼ぶようなナラティヴを創れば、大きく変化するかもしれない。

2026年7月9日木曜日

強者がルールを捻じ曲げるーワールドカップにおけるドナルド・トランプのわかりやすい愚行

  米大統領のドナルド・トランプについては、さまざまな批判がある。以前から彼の排外的な発言が問題視されていたが、今期には、一方的な関税の通告、イランへの攻撃、さらにイランへの攻撃や合意などによる株価の乱高下を利用した株価売買など、これだけ世界を振り回した米大統領も珍しい。もちろん、イランについては、宗教独裁とテロ支援で、もしこの国が核兵器を手にしたら国際的テロ組織に拡散されるのではないかなどのリスクがあったかもしれない。政府に批判的な人々を次々に処刑するこの恐怖独裁国家をなんとかしなければならないという信念もあったかもしれない。しかし、ほとんど何の説明もない米国による攻撃は、ベネズエラへの攻撃での成功体験の結果ではないかとも思えてしまう。ちょうどプーチンのウクライナ侵攻が、クリミヤ併合の成功体験の結果のようなものだ。

 以上の行動については、おそらく専門的な判断が必要で、ドナルド・トランプが愚かな金儲け主義者かどうかの断言まではできないかもしれない。しかし、今回のワールドカップにおける米国チームのレッドカードによる次戦出場停止処分を、大統領の圧力でひっくり返したという愚行は、おそろしくわかりやすい。サッカーでは、レッドカードによる退場者には次戦の出場停止という処分が下され、危険行為のレベルによって出場停止の試合が多くなる場合もある。このルールは、世界中のリーグにおいて守られ、当然ながらワールドカップ予選においても遵守されてきた。それが、ワールドカップ本戦の、ノックアウトステージ (決勝トーナメント) において破られてしまった。ベスト16を賭けたボスニアヘルツェゴビナ戦で米国のフォラリン・バログンは危険なタックルでレッドカードを受け、その試合で退場し、次戦のベルギー戦も出場の資格はなかったはずである。モナコに所属するバログンは、ACミラン所属のクリスチャン・プリシッチとともに米国のエースで、彼を欠くのは米国チームには痛かったかもしれない。トランプは、この決定をひっくり返すようにFIFA会長に圧力をかけ、結局その通りになった。そして、ベスト8を賭けたベルギー戦では、バログンは出場したが、米国は敗れた。

 法律をはじめ何においてもそうなのだろうが、スポーツにおいてもルールを捻じ曲げる行為はやってはいけない。おそらくベルギー対米国戦では、世界のほとんどサッカーファンはベルギーを応援しただろう。わたしもそうだった。ここで米国が勝ってしまったりすると、おそろしく後味が悪い大会になってしまう。ドーピングに引っかかった自国選手を強引に出場させたりなどの愚行は、共産圏の独裁者がすることだと思っていたが、なんと世界の民主主義の牽引国だったはずの米国の大統領が行ってしまった。

 この行為は、サッカー選手にあこがれる青少年に決して良い影響は与えない。いくら指導者たちがこれを反面教師として教育をしても、子どもたちは、「権力をもったものが正義」という裏ルールを敏感に感じ取るかもしれない。また、この件の最大の被害者は、出場を余儀なくされたバログンではないだろうか。私が彼の立場なら、おそらく出場しないと思うが、おそらく規則を守って出場しないことができなかったのではないだろうか。いずれにせよ、トランプの任期が早く終了することを待ち望んでいる。