2026年2月11日水曜日

自由民主党の地滑り的勝利―安全保障から考えてみる

  28日に行われた衆議院選挙において、自由民主党がなんと衆議院議席の3分の2を確保するという地滑り的勝利を収めた。事前の世論調査においてある程度は予測できていたかもしれないし、小選挙区のマジックもあるとは思うが、改めて驚いている。これは高市氏の政策の訴えが功を奏したのだろうか、それとも野党の自滅だったのだろうか。

 当初、私は、国粋主義的な思想が見え隠れする高市氏にはあまり期待していなかった。他国に歴史修正主義者とみなされると、日本にとって著しく不利になるからである。それが、少なくとも韓国や米国、東南アジア諸国やオーストラリアなどととくに大きな軋轢を生むこともなく、快調に滑り出した。

 しかし、「台湾有事は日本の有事」発言によって、中国との関係は著しく悪くなった。もちろんこれによって高市氏を非難する人もいたが、多くの国民にとって、中国共産党が支配する中国はまともな国ではないという印象が強くなった。もちろんこれまでも、ウイグルでの人権侵害、香港での民主化運動の弾圧、南シナ海での覇権的軍事活動、経済力と軍事力による戦狼外交など、そういう情報は入っては来ていた。しかし、日本に対して、経済的相互依存を武器に使用したり、中国からの日本への渡航を自粛させたりと、直接日本人が体験するとそのヤバさが実感できるのだろう。さらに、渡航を自粛させるのに、「日本において中国人を狙った犯罪の多発」という国家ぐるみのフェイクニュースが流されているのを見ると、多くの日本人は、この国はまともな国ではないと確信するに至ったわけである。

 そうすると、嫌だなと思いながら、安全保障については防衛費の増強は仕方がないという判断になる。今までは米国の安全保障でなんとか抑止が可能だったが、トランプ政権があまりあてにならないとなると、自ら守る姿勢を見せざるをえない。一方で、共産党や社民党は防衛費を増やすのではなく、外交で他国との戦争を起こさせないと主張している。しかしその「外交」の中身は、ASEAN型包摂的枠組みの構築や東アジアサミットの強化、および中国に対して、軍事的対抗ではなく、過去に両国政府が合意した「共通のルール」に立ち返るよう求めることだという。このようなお寒い外交で、本当に彼らは、中国の軍事的威圧を止めることができると思っているのだろうか。対外的威圧によって支持者の快哉を受けて独裁を保っている政府が、この方法で軍事的威圧を止めるとは考えにくいし、それが戦争になる可能性は、ロシアのウクライナ侵攻を見れば明らかであろう (日本にとってもロシアは非常に近い国なのだが、ウクライナで行き詰った時に極東に第二戦線をつくる可能性は、完全には否定できない)

 共産党や社民党、あるいはリベラルを自称する識者は、防衛力の強化に対して、「軍靴の足音が聞こえる」とか「いつか来た道」などの、ポエムのような反対をしばしば行う。しかし、防衛力を強化しないという戦略と、防衛力を放棄するという戦略では、軍事的威圧の独裁国に接している状況で、確率的にどちらが戦争が起きやすいかは一目瞭然なのではないだろうか。私も、防衛力の強化に予算が割かれるのも、ヨーロッパ諸国で模索されている徴兵制復活も嫌だ。しかし、戦争ももっと嫌だし、無抵抗で独裁国に主権を奪われるのはもっと嫌だ。

 自由民主党の地滑り的勝利の要因はこれだけではないが、安全保障の問題は十分に影響しただろう。しかし、それにしても、積極財政で国の債務が1342兆円になるらしい。これで、なんとか強い産業が育ってくれればよいのだが、経済をいじるだけでは問題を先送りするだけになる。

 

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2026年1月11日日曜日

ウクライナ侵攻を予見するかのような著作―”The Story Paradox”

  2011年にS. ピンカーによるThe Better Angels of Our Nature (邦訳『暴力の人類史』) が出版され、その中で彼が21世紀を「新しい平和」と呼び、世界において戦争とジェノサイドは消滅し、人権意識の高揚とともに殺人などの暴力が減少していることを示しているのを読んだとき、私はもう戦争は起きないと思ったのだが、その予想は大きく覆されることになった。ピンカーは、ユートピア・イデオロギーの共同幻想が崩壊したことを「新しい平和」の要因の1つにあげているが、私は、202341日の記事でロシアにおいてそれが復活していると指摘した。

 このようなイデオロギーを支えているのはナラティヴである。拙著『生きにくさはどこからくるのか』でも述べたが、ナラティヴは小説などによって形成され、これまでずいぶんと人々の人権意識の高揚に貢献してきた。たとえば、ストウ夫人の『アンクル・トムの小屋』によって当時の人々の共有されたナラティヴは、奴隷制度や黒人差別反対のうねりを作り出した。ナラティヴは共感や感情と結びつきやすく、論理的な科学的推論などよりもはるかに人々を動かす力があるのだが、それは諸刃の剣であって、人々を狂気に走らせる力ももっている。

 とくに共感は、黒人奴隷をはじめとする差別される側に向けられると人権意識の高揚につながる。しかし、共感を向けられた対象と敵対する人々には、大きな憎悪と攻撃性が向けられる。対象が差別される側ならば差別する側への憎悪が生まれて、社会のモラルは向上するかもしれない。しかし、たとえば警察から目をつけられた反社会的集団に共感が向けられると、警察への憎悪に結びついたりする。反社会的集団視点でのナラティヴは、警察を抹殺すれば世界に平等と平和が訪れるというユートピア・イデオロギーを作り出すわけだ。

 それを明確に指摘しているのが、J. ゴットシャルである。彼の著作、The Story Paradox (邦訳『ストーリーが世界を滅ぼす』) では、ストウ夫人の例のように、ナラティヴのポジティヴな面も述べられているが、それと同時に、危険な側面も指摘されている。ナラティヴは、共感などの感情に訴えて人々の心を操作する。それによって、人々を分断させたり、攻撃的にさせたりするわけである。この著作の中で、彼は、国粋主義的なナラティヴが独裁者によって語られるとその国は戦争に向かうと述べているが、なんと出版されたのが202111月下旬で、ロシアによるウクライナ侵攻 (2022224) の直前なのだ。あたかも、ウクライナ侵攻を予測していたかのような著作といえる。

 

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2025年12月19日金曜日

京都サンガ2025年シーズンの総括

  J1リーグ2025年シーズンを、京都サンガは、3位というこれまでの最高順位で終えることができた。一時は降格を覚悟した昨シーズンも、後半の成績は3位だったので、その勢いを持ち越したともいえるが、今シーズンは、いくつかの点でレベルアップが見られたと思う。昨年後半の快進撃を支えたラファエル・エリアスやマルコ・トゥーリオが怪我で出場できないことが何試合かあったが、それでも順位を落とすことはあまりなかった。

 2025年シーズン開幕前のキャンプでは、ボールを失ったときに素早く帰陣する練習が行われていたと聞いている。その結果、非常に攻守の切り替えの速いチームになり、また、それによって攻撃時に多くの選手の攻撃参加が可能になった。チャンスの時に、アタッキングサードに京都の選手が湧き出るように侵入し、この分厚い攻撃によって、相手は、マンツーマンで守っていてもマークできない選手が現れ、ゾーンで守っていてもその隙間を破られるという事態に陥ってしまう。この攻撃に、決定力があるラファエル・エリアスが加わると、鬼に金棒であった。

 この全員攻撃を可能にしているのが守備陣の踏ん張りである。京都は、フォーバック布陣といいながら、両サイドバックを積極的に攻撃参加させるので実質ツーバックになることが多かったが、センターバックの鈴木義宜と宮本優太が豊富な運動量と対人の強さで非常によい守備をしていた。さらに、これまでJ2でさえもあまりレギュラーになっていなかったゴールキーパーの太田岳志が的確なディフェンダーへの指示と卓越したセービングをみせて、鈴木、宮本、太田の逆三角形が、守備を非常に安定させていた。京都の選手はよく走る。統計的に、走行距離もスプリント回数も他のチームを凌駕しているが、鈴木と宮本も、ディフェンダーとしてはるかに平均を上回っている。これが、安定した守備と湧き出るような攻撃を可能にしているのだろう。

 また昨シーズンまでは、京都は、ボール保持率とパス成功率が常に相手チームよりも低かった。その代わり走行距離とスプリント数で上回って、なんとか降格を免れてきた。ところが、今シーズンはパス成功率が高くなった。前々からトライしてきたファイブレーン練習の効果なのか、新たに何か行ったのか、あるいは新たにコーチ陣に加わった梅崎司の指導法の効果なのかはわからない。とにかく、ボールを奪った後は、ゴールまで手数をかけず、切れ味がよいカウンター攻撃を見せてくれる。また、これまで時々見られた、攻撃の選手が重なることがほとんどなくなった。さらに、守備を固めた相手に対しても、ワンタッチで相手守備陣を崩し、ペナルティエリア内に侵入していく様は、昨年までとは別チームのようである。

 ボール保持率は上がっているわけではない。しかし、今シーズンは、ハイプレスによっていつでもボールを奪える自信があるのか、ボール保持にあまりこだわっていない。さらに、相手にボールを持たせるという戦術も採ることができるようになった。それによって、これまでは、ゲーゲンプレス状態でへとへとになった選手から交替ということが多かったが、プレスにも強弱をつけることができるようになった。やはり90分間のプレスというのはいくら体力がある選手でも困難で、この強弱によって体力を温存できる時間帯を作ることができるようになったわけである。このようにしてゲーム後半の得点が増え、見ていても非常にスリリングで面白いサッカーが楽しめるようになった。

 曺貴裁監督のハイプレスサッカーは、今シーズンは、新しいステージに達した。このままより高みに上っていくのだろうか、それともどこかで頭打ちになるのだろうか。素人の私には予想できないが、前者であることを祈るばかりである。

 

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2025年12月5日金曜日

リベラルなはずの人たちが、なぜ中国共産党擁護?―リベラルアイデンティティの陥穽

  右派と左派、リベラルと保守という対立は、ここ10年ほどの間に世界の多くの国において激しくなってきた。それだけではなく、「既存の価値への革新的態度対伝統的態度」、「個人の自由平等を優先対秩序のための権威の尊重」といった、本来の対立軸を離れて、地球温暖化への態度や原子力発電への賛否などの、左派右派の軸と必然的に結びついていない問題と連動して、対立を深めている。

 その中で、日本において非常に不思議なのは、中国共産党に対するリベラル派の態度である。チベットや東トルキスタン (ウイグル) を武力併合するだけではなく彼らの人権を著しく軽視し、香港人の自由を奪い、それと同じことを台湾にも試みようとし、他にも南シナ海で周辺国を武力的に圧迫しているのが中国共産党である。また、そもそも中国国民にすら満足な自由を与えていない状態を続けている。原理的には、中国共産党に対してもし少しでも良いから賛意を示すとすれば、リベラルではなく、保守のはずである。人権や自由を党の権威と権力によって制限する現状は、確かに秩序を保つためには効率的で、考え方としては保守に近いはずだ。ところが、これまで中国共産党に対して肯定的な態度をとってきたのは、日本においては、保守というよりもリベラル (あるいは自称リベラル) に属するとされる人たちである。とくに、現首相の高市早苗氏が、「中国による台湾侵攻が起きた場合、日本の安全保障上の危機」と国会答弁したことに対して、中国共産党は、「中国の主権と領土の一体性に対する重大な侵害であり、力介入を容認する危険な示唆」だと非難して、発言の撤回を求め、自国民に対して、日本への渡航を控えるように言い渡したりしている。この強圧的な反発は、民主的な政体では絶対に見られないのではないだろうか。

 ところが、このことで中国共産党寄りの立場をとって高市氏の発言を批判しているのが、鳩山由紀夫氏や日本共産党、あるいは自称リベラルたちである。元首相の鳩山由紀夫氏は、高市氏の発言に関して「日本は中国の内政問題に干渉すべきではなく、中国の反応は当然」と述べて、強く批判している。また、日本共産党なども、高市氏の発言を「非常に危険で無責任」として、発言の撤回を求めた。日本の軍国主義の復活という中国共産党の強弁に賛同する人たちもいる。また、中国共産党の圧力による日本人アーティストのコンサートのキャンセルなどにおいても、中国共産党のこのような常軌を逸脱した反応を批判するのではなく、高市氏を批判するという自称リベラルの芸能人もいる。彼らは、台湾の人たちがいかに自由を失いたくないと願っているか、香港の人たちがいかに自由を取り戻したいと望んでいるかに対して、かくも鈍感なのだろうか。

 この現象をどう解釈するだろうか。確かに、日本のリベラルには、自由と平等のために資本主義を敵視して共産主義を理想化し、親旧ソビエト連邦、親中国の伝統があった。しかし目標が自由と平等ならば、さまざまな政策に対して、その目標を目指して取捨選択すればよいはずで、対中国という点においてなら、人権軽視が著しい中国共産党に批判的であるべきである。しかしそうならないのは、「リベラルはこうあるべき」という強烈なアイデンティティが原因となっているのだろう。アイデンティティという用語は、便利なのだが、多くの心理学者には少々使い古された概念で、ここ20年程は「アイデンティティが高いということはどのような適応的意義があるのだろうか」などと、アイデンティティを分解するような問いが重要になっている。しかし、ここでは、あえて「リベラルアイデンティティ」という概念を使用しよう。「リベラルは、共産主義であるべき、したがって中国共産党には当然賛同すべき」というアイデンティティが非常に強烈で、これに囚われてしまって合理的な思考ができなくなっているのだろう。彼らは、自由を失うことを強く懸念し、高市氏の発言に感謝している台湾の人たちの不安を感ずることができなくなっている。

2025年11月2日日曜日

文化形成・伝搬の偶然的要素と必然的要素

  現役 (本当は昨年度末にいったん退職してはいるので正確に現役と呼べるかどうかわからないが) 最後の年に、やり残したこととして、文化形成・および伝搬の偶然的要素と必然的要素の検討についての文学研究科内プロジェクを発足させた。心理学、哲学、歴史学、民俗学からのメンバーが集まって議論を重ねていくことになり、非常に楽しみである。

 「やり残した」というよりは、個人的には、私にとってはスタートかもしれない。私自身は文化形成・伝搬を、説明しようとするとき、何らかのモデルを提唱するが、このモデルは、決定論つまり必然性を目指したものである。それは当然のことで、そもそも科学全般において、「理論によって何らかの事象を説明する」ことの目標は、常に決定論で、必然的に説明あるいは予測ができなければ、理論に欠陥があることになる。

 しかし、文化形成・伝搬のような複雑な事象に対しては、最初から決定論的な理論を構成できるわけではない。それはちょうど生物学的進化が、偶然の遺伝子変異と、ある程度は決定論的な自然選択によって生ずることと似ている。生物進化のメタファーとして、ミームという造語がリチャード・ドーキンスによって導入されているが、ミームにも生物進化のメカニズムが適用されている。遺伝子変異に相当するのが文化的ドリフトで、これは、特定の文化的要素 (慣習、言語、信仰など)が、機能的・合理的な理由とは無関係に、偶然の要因で広まったり消えたりする現象である。選択圧がほとんどない状態での変化で、村ごとに異なる方言などのように、小集団で特に顕著である。自然選択に相当するのが文化的選択で、これは、ある文化的要素が、それを採用した個人や集団にとって有利だからこそ、拡散・維持される現象である。文化的要素が、適応的かどうかが鍵となり、当然かもしれないが目的合理性や機能性がある文化が残る。現代の私たちが持っているさまざまな便利な科学技術や、教育制度、書記体系などが選択を受けたといえる。

 さらに、この偶然性は、制度論 (institutional theory) とも親和性があり、制度の誕生や変化を合理性だけでなく、偶発的な要因によって説明することが重要である。制度論における偶然性には、初期の偶然的な選択が将来の制度構築に大きく影響して不可逆的な変化に結びつくパス・ディペンデンス (path dependence)、歴史のある時点で、戦争や災害などの外的要因によって制度的な分岐点が生じ、その後の安定的な制度に影響を与えるクリティカル・ジャンクチャー (critical juncture)、初期の偶然的な制度が、変更コストの高さや慣習の蓄積によって維持されるロックイン効果 (lock-in effect) がある。これらは文化的選択では説明しきれない非合理的な制度継続や地域差の理由に適用される。

 文化形成・伝搬のような複雑な事象について、単純化して必然的とされるモデルや理論を構成する方向性は必要である。しかし、それに満足していると重要な偶然的要素を見過ごしたり、無視したりする可能性がある。ただし一方で、これらの偶然性も、ミクロ的に突き詰めれば、何らかの必然的な要因によって生じている可能性もある。したがって、私たちは、単に必然性が観察不能なために偶然に見えているだけなのか、本当に偶然なのかを追求する必要がある。とてつもない大きな問題なので、偶然なのか必然なのかについての結論を導くのではなく、理論・モデル構成をしていくうえで、これらを議論したいということの提唱なのである。

2025年10月13日月曜日

神は迷信であると確信するが、罰せられたら怖いー第4回Human and Artificial Rationalities (3) での私の研究発表

  第4Human and Artificial Rationalitiesでは、私も発表を行った。タイトルは、 Easterners dialectical acceptance of religious contraction but not of general contradiction.で、新しい研究データというよりは、これまでの私自身の2つの研究結果の違いを、どのように説明するのかというものである。

 東洋人が弁証法的であると言われながら、相反する陳述に同時に賛成するか否かという比較文化研究はほとんどない。そこで、かつて大阪市立大学に研究生として在籍した張君は、たとえば「外国の文化を受け入れることは、グローバル化する世界に対応できる国になるために良いと思う」、「外国の文化を受け入れることは、古来の伝統文化や習慣・習俗が壊れるために良くないと思う」というような相反する陳述の両方にどの程度賛成するかという弁証法的思考を指標にして日本人、中国人、英国人を比較した。その結果、なんと日本人が最も弁証法的ではなかったのである。同時に行った「相反する2つの意見をきくと、大抵両方の意見に納得します」のような質問紙 (弁証法的自己尺度と呼ばれる) では、日本人や中国人の弁証法的傾向が、英国人のものよりも高かったにも関わらずである (弁証法的自己尺度のこのような結果は多くの比較文化研究で確認されており、東洋人が弁証法的であるという言説の根拠の1つである)

 しかし、私たちの宗教的弁証法の研究 (まだ学会発表を行っただけで論文として出版されたわけではない) では、「信仰は、人生の意味を与えてくれる」、「信仰が、人生の意味を与えてくれることはない」というようなやはり相反する陳述を用いて、この両方にどの程度賛成するのか日本人、英国人、フランス人を比較した。この研究の意図の一つは、現代における宗教と科学の両立に言及することである。その結果、日本人は、英国人やフランス人と比較して、宗教的材料ならば弁証法的であるということがわかったのである。神は迷信であると確信すると同時に、悪いことをして罰せられたら怖いという感覚が同居しやすいというわけである。

 さて、では、日本人の、この「一般的矛盾」では弁証法的ではないが「宗教的矛盾」において弁証法的になるという結果をどのように説明できるだろうか。現時点でこれを説明できる理論は、宗教的・哲学的伝統に依拠するもののみである。つまり、日本 (あるいは東洋) の思考的伝統には、道教の陰陽思想や仏教の無と縁起など、弁証法的発想が多く含まれ、その結果、東洋人が弁証法的になったという説明である。ところが、一般的陳述での矛盾においては日本人は弁証法的ではないという張君の発見を加味すると、この宗教的弁証法的思考は、一般的矛盾の受け入れという弁証法に転移することはないと推定できる。つまり、宗教的弁証法は、宗教的題材に特化した領域固有的な弁証法なのだ。現時点で、宗教的・哲学的伝統に依拠する理論は、東洋人の弁証法的傾向を説明できる有力な理論の1つである。しかし私自身の発表では、宗教的弁証法的思考が領域固有的だとすると、領域一般的な弁証法的自己を説明することに大きな疑問が生ずるという提案で締めくくった。この発表内容は、Springerの書籍の中の1つの章として出版の予定である。

 

Zhang, B., Galbraith, N., Yama, H., Wang, L., & Manktelow, K. I. (2015). Dialectical thinking: A cross-cultural study of Japanese, Chinese, and British students. Journal of Cognitive Psychology, 27(6), 771-779.

2025年10月2日木曜日

第4回Human and Artificial Rationalities (2)―Dan Sperberのキーノート

  第4回Human and Artificial Rationalitiesのキーノートに、『関連性理論』や『表象は感染する』など、その著作のうちのいくつかが日本語訳されているDan Sperberが招待されていた。講演題目は、Rationality and reasoning in an evolutionary perspectiveである。

 Sperberの主張は、この30年間一貫しており、進化理論に基づいた認知的アーキテクチャーの想定である。なお、二重過程理論では、進化的に形成されたモジュールの束である直感的システムと、それらモジュールを制御できる熟慮的・内省的システムの両方が想定されるが、Sperberは、この熟慮的・内省的システムを認めないわけである。実際、進化のメカニズムだけから考えると、汎用的な熟慮的・内省的システムが進化したことが認めがたいのは事実である。確かに私たちは大きな脳容量・認知容量によって支えられるこのシステムによって、未知の問題にも対処していくことができ、生存に極めて有利になっている。しかし、Sperberに代表される進化理論の立場では、そもそも野生環境でエネルギーを節約しないと生存し続けにくい生物に、未知の問題までも解決できる汎用性が高いシステムが進化したことはあり得ないというわけである。

 Sperberは、そもそも人間の推論の汎用性が高いという見立て自体が誤りで、推論は鳩ノ巣原理 (pigeonhole-principle) の直感的なものであると主張する。とくに、二重過程論者が、熟慮・内省的システムの起動にかかわっているとして重視しているメタ推論 (熟慮・内省的システムの機能とする立場もあれば、このシステムから独立したさらに上位のシステムと想定する考え方もある) について、心の理論の心的表象のように、あくまで直感的であるとして、熟慮・内省的システムを想定する必要がないことを説いている。なお、他者の行動を、その背後に心の働きがあると想定して解釈する推論は「心の理論」と呼ばれているが、一見複雑な推論のようで、実は直感的でモジュール的であるとされている。このような推論モジュールが、表象を形成し、推理 (推論よりもう少し複雑で、実用的なものを推理と呼ぶ。なお、シャーロックホームズが行うのは推理であって推論ではない) が可能になるが、推論表象が直感的である限りこれは領域固有的であり、汎用的ではなくメカニズムも固有的ということになる。

 私の個人的な印象として、二重過程理論にもSperberのモジュール表象理論についても、問題は残されていると思う。二重過程理論における大きな問題は、メタ推論の潜在性である。ヒトの思考の高次性は、顕在性と直結しているので、熟慮・内省システムの機能であるとしても、その上位のシステムであるとしても、この問題は残されたままである。一方、Sperberのモジュール表象理論における問題は、認知容量とのかかわりである。進化理論であっても、認知容量が何らかの淘汰圧によって大きくなったことは認めている。二重過程理論では、思考に使用される認知容量が大きいほど、柔軟で汎用的な思考ができると考えているが、Sperberは、この点についての言及はほとんどしていない。