2026年5月28日木曜日

最終講義「人間は合理的なのか?」(3)―理性はバイアスを制御できるのか

  本記事までかなり間延びしてしまったが、私の最終講義の最終パートは、「理性はバイアスを制御できるのか」、言い換えれば、「内省的システムは直感的システムを監視して、もし非合理的直感があれば、それを修正したり上書きしたりできるのか」という問題を扱っている。

 この問題は、拙著『「生きにくさ」はどこからくるのか進化が生んだ二種類の精神システムとグローバル化』をはじめとするいくつかの著作の中で取り上げてきた。内省的システムは、進化によって増大した認知的容量によって支えられているが、概していえることは、この性能が高ければ直感的システムの産物であるバイアスなどを抑制することができる (この性能の指標として知能指数がよく用いられる。知能指数は、狭い範囲の能力という神話が流布しているが、現時点で認知的容量の汎用性を示すもっとも適切な指標である)

 私は、現在、この問題、すなわち内省的システムによる直感的システムの制御についての検証を、「歴史的自然実験」という方法で行うことを提唱している。歴史的自然実験とは、それぞれ異なる条件で発展してきた異なる地域・社会の比較で、地理、気候、資源へのアクセスなどが独立変数となり、社会的発展、政治的組織化、経済システムなどが従属変数となる。心理学に適用するということは、社会の大きな変化に対してどのような精神の変容があったのかを推定することを意味している。

 内省的システムによる制御として、私は、17世紀後半からのヨーロッパの啓蒙の時代と第二次世界大戦以降の、攻撃性 (暴力) の減少とヒューマニティあるいは人権意識の高揚という現象をターゲットにした。この変化を、内省的システムによる直感的システムの抑制という切り口で説明すると、確かに第二次世界大戦後の人権意識の高揚や暴力・犯罪の減少に、フリン効果と呼ばれる知能の向上が関係しているかもしれない。しかしそれ以上に影響力があったのは、小説の普及とそれによる人々の共感の増大であろう。小説は、人々の心の中にナラティヴを形成して、実は内省的システムではなく直感的システムの感情に働きかけ、大きな行動力を生み出す。ストウ夫人の『アンクル・トムの小屋』が奴隷解放を促進したことはその一例である。共感が弱者に振り向けられて、それが内省的システムによって制御されると、人権意識の高まりという現象に結びつくわけである。実際、第二次世界大戦後は、人種差別、障がい者差別、性差別、LGBTに対する差別などが、完全に消失はしないが、小さくなっている。この攻撃性や差別の減少は、偏見などのバイアスの内省的システムによる抑制の結果である。

 そうすると、最後の問題は、現代の人権意識の高揚と政治的二極化というパラドクスをどのように説明するのかである。そもそも政治的二極化は、昔から存在したものが、SNSの普及によって顕在化しただけではないかとも考えられるが、仮にそうだとしてもなぜ人権意識の高まりによって小さくなっていないのかが謎である。この解答として、2つの要因を挙げることができる。第一は、共感の狭さである。確かに弱者への共感は人権意識を高めやすく、また、内省的システムによる制御を受ければ差別の軽減に向かわせてくれるかもしれない。しかし、ナラティヴの源は直感でありまた感情を伴いやすい。これが、望ましくない方向に向かうと、政治的対立をより大きくする。ロシアのウクライナ侵攻が始まった時、戦死者に対する強い共感が、容易に降伏しないゼレンスキーへの憎悪に結びついたような事例があてはまる。第二は、マイサイドバイアスと呼べるもので、これはマイサイドに有利になるような思考のバイアスである。総じて知能指数が高いほど認知的バイアスを抑制でき、論理的思考力や蓄積された知識がバイアスの抑制に使用される。実際、差別の減少は、多くの正しくない知識が修正され続けてきた結果である。ところが、マイサイドバイアスだけは抑制されない。つまり、知識や思考がマイサイドに有利になるように使用されるわけである。トランプ支持者が、温暖化は二酸化炭素の排出が原因ではないということの証明のために氷河期の周期などについての知見に自分の思考力を注ぎ込んだりする傾向は、知能が高くても抑制されないわけである。かくして、このパラドクスは解決できるが、では、どうすれば二極化を防ぐことができるのか。それは今後の宿題である。

 

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2026年5月10日日曜日

縄文ミステリーサミット雑感―縄文人は、かなり特殊な狩猟採集民?

  昨日(58)NHKBSで「縄文ミステリーサミット」の再放送があったので視聴した。縄文時代について、近年の研究成果が、私たちのような素人にもわかりやすく議論されていて非常に見応えがあった。特に、動物土偶について、イノシシ、クマなど、集団間では多様だが、一集団で発見されているのは一種類の動物で、トーテムのような存在であるという知見は、初耳だったので興味深かった。一般に、トーテムとなった動物は食用にせず、食物タブーと結びつきやすいともいわれているが、縄文人の場合はどうだったのだろうかと気になったが、それは番組では取り扱われてなかった。

 心理学の立場から気になったのは、集団内の階層性と集団間・集団内闘争である。概して、階層性が生じたのは農業革命以降と考えられている (それでも、階層が登場するのは季節性のものと考えられていたり、逆に農耕以前のスンギール遺跡での発見のように、特定の個人にかなりの多くの人々の労力が貢納されたりという推察もある)。狩猟採集民とされる縄文人の間では、状況によってリーダーが登場したかもしれないが、世襲もなく階層性は現れていないという結論だった。ただ、三内丸山遺跡でのクリの栽培などを考慮すると、縄文人は本当に農業革命以前の社会といえるのかどうかが気になった (稲作だけが農耕ではない)。また、クリは比較的貯蔵が可能だが、それによって貧富の格差が生じていなかったのかなどをもう少し議論してほしかったなと思う (ヨーロッパでは、農耕以降、貧富の差や階層社会は、保存しやすい小麦栽培地域では生じやすく、保存しにくいジャガイモ栽培地域では生じにくいという話を聞いたことがある)

 もう一つの問題は、縄文社会における戦争や殺人である。日本では、大規模な集団間の戦闘・戦争が起きたのは、稲作の弥生時代以降で、縄文時代にはほとんどなかったようだ。この事実について、狩猟採集民なので「移動容易性 (番組では、「フッ軽」という表現が用いられていたが)」が高かったという説明が与えられていたが、この説明は納得しにくかった。まず、農業革命以前は、確かに戦争は大規模ではないが、戦闘や暴力で命を落とす人々の割合は、決して低かったわけではない。狩猟採集民の部族間、親族間の闘争等による死亡率は10%から15%と推定されている。ところが、縄文人骨の考古学的研究からは、この割合は1%に満たない (それでも現代人と比較すると高いので、決して治安が良いとは言えないだろう) と推定される。つまり、縄文人は、狩猟採集民族としてかなり特殊だということがいえるわけである。ということは、縄文人の争いの少なさの理由を説明するのに、狩猟採集民全体の特徴である「移動容易性」で説明することにかなり無理がある。縄文人の場合は、人口密度が低かったので、世界の他地域の狩猟採集民よりも移動がより容易だったのかもしれないが、それならば、縄文人特有の戦闘・戦争の少なさは、低人口密度を要因とすべきだろう。そうすると、次に生じてくるのは、なぜ日本列島において人口密度が低かったのだろうかという疑問である。縄文人は食が豊かだったとする言説もあるが、それならば人口が増えてもおかしくはない。まさか、嬰児・胎児殺しの伝統があったのだろうか (そう思ったら、あの目が大きな土偶は、ひょっとしたら嬰児・胎児への鎮魂じゃないかという妄想も湧いてきた)

 番組としては非常に興味深いが、時間の不足からか、世界の狩猟採集民との比較という視点が少なかったのが非常に残念だった。縄文人は、かなり特殊な狩猟採集民だと思うが、それが、日本列島という地勢的・生態的な要因によるものなのか、あるいは偶然に形成された文化の影響なのか、興味は尽きない。

2026年4月18日土曜日

最終講義「人間は合理的なのか?」(2)―文化的合理性について

  私の最終講義は、3つのトピックに分かれているが、第1のバイアスの次が、文化的合理性についてである。ヒトは、社会的哺乳類として進化したが、そこで重要な課題は、どのように集団を維持するかである。文化は、その維持のための装置である (なお、文化というと、音楽や絵画などの芸術を指す場合もあるが、ここでは、集団の維持という視点を重視し、制度や法律、経済システム、教育システムなども含む)。したがって、文化についての合理性を議論するときは、文化自体が合理的か否かと、所与の文化の中で人々が合理的か否かが検討される。

 私の比較文化研究のスタートは、実証研究ではなく理論的検討である。この領域に極めて影響力がある2000年に発表されたNisbettたちの論文では、西洋人が分析的認知を行いがちであるのに対し、東洋人は全体的認知を行う傾向にあるとされている。これは、多くの比較文化の実証データから導かれたものだが、実は、分析的認知は二重過程理論における内省的システムの、全体的認知は直感的システムの処理の特徴である。直感的システムは進化的に古いとされているので、そうすると日本人を含めた東洋人の認知システムは進化的に古いという結論が導かれてしまう。

 そこで私たち (Yama et al., 2007) が提案したのは、それぞれのシステムに、文化普遍的なハードウエア (遺伝子の目標) と文化固有なソフトウエア (ミームの目標) を想定したモデルである。ハードウエア自体に文化差や民族差はないが、それを文化的適応のためにどのように使用するのかというソフトウエアにおいて文化差が生ずる。東洋は、伝統的な社会が西洋と比較して長く続いたが、内省的システムにおいて獲得された分析的思考も、伝統の中で習慣化されれば、直感的システムがもつ自動性や潜在性を利用することになり、かくして全体的思考という特徴を持つにいたる。

 もう1つの理論的研究は、西洋人の線形的思考・東洋人の弁証法的思考という文化差についてのものである。東洋人は西洋人と比較して、陳述に矛盾があっても受け入れやすいということはさまざまな比較文化研究でいわれていることだが、これまでは、西洋の個人主義文化・東洋の集団主義文化という枠組みで説明されてきた。つまり、集団主義文化の東洋では、矛盾した意見があったときに、一方が正しく他方は正しくないという判断をすると、集団の調和を壊すというわけである。ところが、南米の人々は集団主義文化であるにもかかわらず弁証法的思考はあまりしないという事実から、この説明に疑義が投げかけられ、また弁証法的なのは東洋人だけだということから、弁証法の伝統をつくりあげた陰陽思想や仏教などの影響であるという説明も提唱された。

 これらの説明に対して私たち (Yama & Zakaria, 2019) は、西洋人の低コンテクスト文化・東洋人の高コンテクスト文化という対比で説明を試みた。コンテクストとは、会話の際に暗黙裡に共有される情報で、会話ではわざわざ言及される必要がない。このコンテクストの依存度が高いのが高コンテクスト文化、低いのが低コンテクスト文化である。日本における「阿吽の呼吸」は、典型的な高コンテクスト文化のコミュニケーションである。つまり、東洋人は高コンテクスト文化を形成しているので、コンテクストによって暗黙裡に矛盾を解決するという規範が形成されていて、弁証法的に振る舞うという説明が与えられる。

 さらにこの高コンテクスト文化・低コンテクスト文化という区分自体が、地勢的・生態学的に説明が可能である。低コンテクスト文化は、話し手同士がお互いにコンテクストを共有しにくい状況で形成されやすく、典型的な状況が異文化コミュニケーションである。私たちも、外国人と会話をするときには、日本人には常識であることを丁寧に説明するという、低コンテクスト文化のコミュニケーションを行う。歴史的に、異文化交流が活発か否かは、リソースの偏在や水路などの交流手段などがあり、さらには一つの強大な文化に統一されにくい (統一されると、単一の文化になって異文化交流とはならなくなるので) という条件が必要だが、これらはすべて地勢的・生態学的要因と結びつく。つまり、高コンテクスト文化や低コンテクスト文化は、所与の地勢的・生態学的条件で、それぞれ合理的に形成されたといえるわけである。

 地勢的・生態学的条件の中で合理的な文化を形成し、このようにして所与となった文化において適応できるような合理性を私たちは有し、集団としての社会に不都合が生じればさらに合理的に文化を形成する。このサイクルで私たちの文化・社会および精神が形成されているといえる。3つ目のトピックについては、次の記事で述べたい。

 

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最終講義「人間は合理的なのか?(1)―バイアスについて

2026年3月31日火曜日

最終講義「人間は合理的なのか?」(1)―バイアスについて

  この3月でいよいよ大阪公立大学を退職で、321日に最終講義を行った。題目は、「人間は合理的なのか?ー理性はバイアスを制御できるのかー」である。この題目だけをみると、私は当初から人間の合理性という途方もなく大きな問題の解決を目指していたようにみえるが、必ずしもそうではない。振り返ってみて「そうだった」というのが実情である。なお、最終講義について、後日録画をしてストリーミングしたもののURLを下に記している。

 スタートは二重過程理論とバイアスである。二重過程理論は、認知における顕在的 (意識的) 処理と潜在的 (無意識的) 処理の違いを、内省的システムと直感的システムで説明するものだが、これは、1970年、80年代のバイアス研究から発展してきた。その頃はバイアス研究が花盛りで、人間が容易にバイアスに陥りやすいということが、これでもかこれでもかと実証され、それまで人間が完全に合理的であることを想定して理論構成を試みていた行動経済学に大きなショックを与えた。これらのバイアスが、直感的システムの所産である。

 最終講義では、私の研究である、マッチングバイアスへの疑義と後知恵バイアスについてお話しした。マッチングバイアスとは、「もしpならば、qである」という条件文の真偽を確かめる課題であるウェイソン選択課題で典型的に見られるものとされてきた (なお、いまだにウェイソン選択課題の誤りは「確証バイアス」であるというネット記事を時々見かけるが、それは、下記の関連記事にあるように、誤りである)。たとえば、表にアルファベット、裏に数字が印刷されているカードが何枚かあり、「もし表がEならば、裏は2である」というルールの真偽を検証するためには、「2」ではないカードをチェックする必要がある。表が「E」だったら違反になるからである。しかし、多くの人は「2」を選択し、この理由が、「2」のカードが条件文で述べられた2とマッチするからと考えられてきた。しかし私は、人間が「マッチする」というシンプルなルールで高度な推論を行うのかという疑義を抱き、「2」は、真偽を確率的に推定するための情報量の獲得が期待されるという仮説を検証した (詳しくは、ビデオ参照)。この研究は、1990年代からの、直感的システムも生存等のために適応的であってその産物であるバイアスも何らかの形で合理的であるとする進化心理学の流れの中にある。

 しかし、概してバイアスは非合理的であり、次に私が紹介したのは「後知恵バイアス」である。後知恵バイアスとは、結果を知ったときに、実際には結果を予想できていなかったにもかかわらず、あたかも予想できていたかのように勘違いすることであり、「だから言ったじゃない」程度の会話なら笑い話で済む。しかし、後知恵バイアスは司法判断に影響を与える可能性がある。その理由は、予見可能性が過大視されるからである。悲劇的事故に対する責任は、被告がその事故を予測可能だった場合に大きい。問題なのは、目撃証言者、検察、裁判官もすべて事故が起きたことを知っていることで、もし彼らが後知恵バイアスの影響を受けると、「事故はやはり起きた、被告は予測可能だったはずだ」という判断につながる。裁判は、幼稚園教諭が園児を川遊びに連れて行き、そこで射流洪水(鉄砲水)が起きて、園児3名が流され、うち1名死亡という事故についてで、教諭3名が業務上過失致死傷で起訴されていた。検察や目撃証言は、川の水が濁り始めているということで、ここから射流洪水を予測すべきだったという主張だったが、実験の結果、射流洪水が起きたという結果を知っていると濁っていると判断されやすいことが裏付けられた。判決では、濁りの判断について責任は問われなかった。また、このような後知恵バイアスは、日本人を含めた東洋人において生起しやすいことも示された。

 次の記事では、文化的合理性について触れたい。

大阪公立大学山祐嗣最終講義ビデオ2026

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ウェイソン選択課題における誤答は確証バイアスの証拠ではない

プレスリリースー法廷での後知恵バイアスを大学生 114 名の実験により実証!~法廷における判断に貢献~

2026年2月11日水曜日

自由民主党の地滑り的勝利―安全保障から考えてみる

  28日に行われた衆議院選挙において、自由民主党がなんと衆議院議席の3分の2を確保するという地滑り的勝利を収めた。事前の世論調査においてある程度は予測できていたかもしれないし、小選挙区のマジックもあるとは思うが、改めて驚いている。これは高市氏の政策の訴えが功を奏したのだろうか、それとも野党の自滅だったのだろうか。

 当初、私は、国粋主義的な思想が見え隠れする高市氏にはあまり期待していなかった。他国に歴史修正主義者とみなされると、日本にとって著しく不利になるからである。それが、少なくとも韓国や米国、東南アジア諸国やオーストラリアなどととくに大きな軋轢を生むこともなく、快調に滑り出した。

 しかし、「台湾有事は日本の有事」発言によって、中国との関係は著しく悪くなった。もちろんこれによって高市氏を非難する人もいたが、多くの国民にとって、中国共産党が支配する中国はまともな国ではないという印象が強くなった。もちろんこれまでも、ウイグルでの人権侵害、香港での民主化運動の弾圧、南シナ海での覇権的軍事活動、経済力と軍事力による戦狼外交など、そういう情報は入っては来ていた。しかし、日本に対して、経済的相互依存を武器に使用したり、中国からの日本への渡航を自粛させたりと、直接日本人が体験するとそのヤバさが実感できるのだろう。さらに、渡航を自粛させるのに、「日本において中国人を狙った犯罪の多発」という国家ぐるみのフェイクニュースが流されているのを見ると、多くの日本人は、この国はまともな国ではないと確信するに至ったわけである。

 そうすると、嫌だなと思いながら、安全保障については防衛費の増強は仕方がないという判断になる。今までは米国の安全保障でなんとか抑止が可能だったが、トランプ政権があまりあてにならないとなると、自ら守る姿勢を見せざるをえない。一方で、共産党や社民党は防衛費を増やすのではなく、外交で他国との戦争を起こさせないと主張している。しかしその「外交」の中身は、ASEAN型包摂的枠組みの構築や東アジアサミットの強化、および中国に対して、軍事的対抗ではなく、過去に両国政府が合意した「共通のルール」に立ち返るよう求めることだという。このようなお寒い外交で、本当に彼らは、中国の軍事的威圧を止めることができると思っているのだろうか。対外的威圧によって支持者の快哉を受けて独裁を保っている政府が、この方法で軍事的威圧を止めるとは考えにくいし、それが戦争になる可能性は、ロシアのウクライナ侵攻を見れば明らかであろう (日本にとってもロシアは非常に近い国なのだが、ウクライナで行き詰った時に極東に第二戦線をつくる可能性は、完全には否定できない)

 共産党や社民党、あるいはリベラルを自称する識者は、防衛力の強化に対して、「軍靴の足音が聞こえる」とか「いつか来た道」などの、ポエムのような反対をしばしば行う。しかし、防衛力を強化しないという戦略と、防衛力を放棄するという戦略では、軍事的威圧の独裁国に接している状況で、確率的にどちらが戦争が起きやすいかは一目瞭然なのではないだろうか。私も、防衛力の強化に予算が割かれるのも、ヨーロッパ諸国で模索されている徴兵制復活も嫌だ。しかし、戦争ももっと嫌だし、無抵抗で独裁国に主権を奪われるのはもっと嫌だ。

 自由民主党の地滑り的勝利の要因はこれだけではないが、安全保障の問題は十分に影響しただろう。しかし、それにしても、積極財政で国の債務が1342兆円になるらしい。これで、なんとか強い産業が育ってくれればよいのだが、経済をいじるだけでは問題を先送りするだけになる。

 

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2026年1月11日日曜日

ウクライナ侵攻を予見するかのような著作―”The Story Paradox”

  2011年にS. ピンカーによるThe Better Angels of Our Nature (邦訳『暴力の人類史』) が出版され、その中で彼が21世紀を「新しい平和」と呼び、世界において戦争とジェノサイドは消滅し、人権意識の高揚とともに殺人などの暴力が減少していることを示しているのを読んだとき、私はもう戦争は起きないと思ったのだが、その予想は大きく覆されることになった。ピンカーは、ユートピア・イデオロギーの共同幻想が崩壊したことを「新しい平和」の要因の1つにあげているが、私は、202341日の記事でロシアにおいてそれが復活していると指摘した。

 このようなイデオロギーを支えているのはナラティヴである。拙著『生きにくさはどこからくるのか』でも述べたが、ナラティヴは小説などによって形成され、これまでずいぶんと人々の人権意識の高揚に貢献してきた。たとえば、ストウ夫人の『アンクル・トムの小屋』によって当時の人々の共有されたナラティヴは、奴隷制度や黒人差別反対のうねりを作り出した。ナラティヴは共感や感情と結びつきやすく、論理的な科学的推論などよりもはるかに人々を動かす力があるのだが、それは諸刃の剣であって、人々を狂気に走らせる力ももっている。

 とくに共感は、黒人奴隷をはじめとする差別される側に向けられると人権意識の高揚につながる。しかし、共感を向けられた対象と敵対する人々には、大きな憎悪と攻撃性が向けられる。対象が差別される側ならば差別する側への憎悪が生まれて、社会のモラルは向上するかもしれない。しかし、たとえば警察から目をつけられた反社会的集団に共感が向けられると、警察への憎悪に結びついたりする。反社会的集団視点でのナラティヴは、警察を抹殺すれば世界に平等と平和が訪れるというユートピア・イデオロギーを作り出すわけだ。

 それを明確に指摘しているのが、J. ゴットシャルである。彼の著作、The Story Paradox (邦訳『ストーリーが世界を滅ぼす』) では、ストウ夫人の例のように、ナラティヴのポジティヴな面も述べられているが、それと同時に、危険な側面も指摘されている。ナラティヴは、共感などの感情に訴えて人々の心を操作する。それによって、人々を分断させたり、攻撃的にさせたりするわけである。この著作の中で、彼は、国粋主義的なナラティヴが独裁者によって語られるとその国は戦争に向かうと述べているが、なんと出版されたのが202111月下旬で、ロシアによるウクライナ侵攻 (2022224) の直前なのだ。あたかも、ウクライナ侵攻を予測していたかのような著作といえる。

 

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2025年12月19日金曜日

京都サンガ2025年シーズンの総括

  J1リーグ2025年シーズンを、京都サンガは、3位というこれまでの最高順位で終えることができた。一時は降格を覚悟した昨シーズンも、後半の成績は3位だったので、その勢いを持ち越したともいえるが、今シーズンは、いくつかの点でレベルアップが見られたと思う。昨年後半の快進撃を支えたラファエル・エリアスやマルコ・トゥーリオが怪我で出場できないことが何試合かあったが、それでも順位を落とすことはあまりなかった。

 2025年シーズン開幕前のキャンプでは、ボールを失ったときに素早く帰陣する練習が行われていたと聞いている。その結果、非常に攻守の切り替えの速いチームになり、また、それによって攻撃時に多くの選手の攻撃参加が可能になった。チャンスの時に、アタッキングサードに京都の選手が湧き出るように侵入し、この分厚い攻撃によって、相手は、マンツーマンで守っていてもマークできない選手が現れ、ゾーンで守っていてもその隙間を破られるという事態に陥ってしまう。この攻撃に、決定力があるラファエル・エリアスが加わると、鬼に金棒であった。

 この全員攻撃を可能にしているのが守備陣の踏ん張りである。京都は、フォーバック布陣といいながら、両サイドバックを積極的に攻撃参加させるので実質ツーバックになることが多かったが、センターバックの鈴木義宜と宮本優太が豊富な運動量と対人の強さで非常によい守備をしていた。さらに、これまでJ2でさえもあまりレギュラーになっていなかったゴールキーパーの太田岳志が的確なディフェンダーへの指示と卓越したセービングをみせて、鈴木、宮本、太田の逆三角形が、守備を非常に安定させていた。京都の選手はよく走る。統計的に、走行距離もスプリント回数も他のチームを凌駕しているが、鈴木と宮本も、ディフェンダーとしてはるかに平均を上回っている。これが、安定した守備と湧き出るような攻撃を可能にしているのだろう。

 また昨シーズンまでは、京都は、ボール保持率とパス成功率が常に相手チームよりも低かった。その代わり走行距離とスプリント数で上回って、なんとか降格を免れてきた。ところが、今シーズンはパス成功率が高くなった。前々からトライしてきたファイブレーン練習の効果なのか、新たに何か行ったのか、あるいは新たにコーチ陣に加わった梅崎司の指導法の効果なのかはわからない。とにかく、ボールを奪った後は、ゴールまで手数をかけず、切れ味がよいカウンター攻撃を見せてくれる。また、これまで時々見られた、攻撃の選手が重なることがほとんどなくなった。さらに、守備を固めた相手に対しても、ワンタッチで相手守備陣を崩し、ペナルティエリア内に侵入していく様は、昨年までとは別チームのようである。

 ボール保持率は上がっているわけではない。しかし、今シーズンは、ハイプレスによっていつでもボールを奪える自信があるのか、ボール保持にあまりこだわっていない。さらに、相手にボールを持たせるという戦術も採ることができるようになった。それによって、これまでは、ゲーゲンプレス状態でへとへとになった選手から交替ということが多かったが、プレスにも強弱をつけることができるようになった。やはり90分間のプレスというのはいくら体力がある選手でも困難で、この強弱によって体力を温存できる時間帯を作ることができるようになったわけである。このようにしてゲーム後半の得点が増え、見ていても非常にスリリングで面白いサッカーが楽しめるようになった。

 曺貴裁監督のハイプレスサッカーは、今シーズンは、新しいステージに達した。このままより高みに上っていくのだろうか、それともどこかで頭打ちになるのだろうか。素人の私には予想できないが、前者であることを祈るばかりである。

 

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