2019年9月19日木曜日

中国における非人道的臓器移植―日本のメディアはなぜ報道しない?


 先日、知人から中国における臓器移植が問題になっていると伺った。私も薄々聞いてはいたが、ネットで調べてみると日本のメディアであまり報道されていないことがらが数多くヒットした。最も重大な記事は、中国についての国際法廷 (China Tribunal) から、2018年の12月に下された暫定判決である (原文は英語)。

 この国際法廷は、中国における、囚人からの強制臓器採取の多さから開かれたもののようである。さまざまな資料や証拠から、「臓器が移植可能になるまでの待ち時間が非常に短いと、中国の医師や病院が約束していること」、「法輪功とウイグル人の拷問があったこと」、「蓄積された数値的証拠から、それに見合った数の自発的なドナーが存在することは不可能」という結論を下している。つまり、明確な証拠があったわけではないが、自発的ドナー以外から強制的にドナーがかき集められて移植が行われ、その被害者が、中国当局が禁じた法輪功の信者やウイグル人である可能性が極めて高いというわけである。そして、この件について、国際法廷または国連でのさらなる調査が開始されるべきであり、ジェノサイドとされるかどうかを検証していく義務があることを主張している。

 この判決は、海外メディアではさまざまに報じられている。英国の革新系の新聞であるガーディアンも、”China is harvesting organs fromdetainees, tribunal concludes”という記事で報じている。一方で、日本のメディアでは、なぜが大きく報じられていない。日本で記事があるのは、産経新聞や週刊ポストくらいで、その扱いも極めて小さい。週刊ポストの記者は、ウイグルの中心であるウルムチ空港で、「特殊旅客、人体器官運輸通道」という案内があることを見つけ、臓器移植をして欲しい人のための特別なルートがあることを報道している。必要なVIPが来れば、すぐに強制収容所のウイグル人が殺されるという仕組みになっているのだろう。嫌韓報道ということでケチがついた週刊ポストだが、産経とならんで保守系とされている。このような人権どころか人道に反するような記事を、なぜ人権重視のはずの革新系メディアは大きく報じないのだろうか。人権派のはずの文在寅が、アジアで最も人権が守られていない北朝鮮にすり寄る奇妙さと同じものを感ずる。少しはガーディアンを見習ってもらえないだろうか。中国を批判するのは右翼であって、加害の歴史を反省していない人間だという偏見は、そろそろおかしいということを理解して欲しいものである。

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2019年9月10日火曜日

抗がん剤治療の辛さはなぜ思い出しにくいか―ミエリン化の有無


 私は、認知心理学者を名乗りながら、脳や神経系には全く詳しくない。それでも時々はその種の本に目を通すのだが、それによって思いがけず、18年前に抱いた疑問が解けた。この18年前の疑問とは、抗がん剤治療の副作用についてのものである。副作用はおそろしく辛かった。抗がん剤は細胞分裂が活発な箇所を攻撃するので、副作用には、髪が抜けたり、爪がフニャフニャになったりといろいろあるのだが、やはり最も辛かったのは、どうにもならない気分の悪さと疲労感である。ただし、医学的に怖いのは、骨髄抑制による白血球の減少が引き起こす免疫力の低下と、消化器官神経系の不全による腸閉塞のようだ。私の場合、白血球は少なくなったが、幸い、腸閉塞は起こさなかった。

 点滴で抗がん剤を入れた後は、3日ほどグロッキー状態が続き、形容するなら「吐いても楽にならないひどい二日酔い状態」が最もフィットしている。また、最も辛い状態が終わっても、治療期間中は、胸に常に三角定規が引っかかっているような感覚があり、指先の痺れは慢性的に続いていた。

 ところが、このグロッキー状態をうまく思い出せないのである。気分が極めて悪かったのは確かなのだが、では、「はて、どんな感じ?」と思い出そうとしても、苦しさが茫漠としていて鮮明性に欠けるのである。私は、家の中を裸足で歩くとき、よく足の小指をドアなどにぶつけるのだが、あの痛みは実によく覚えている。向う脛を打ったときの痛さも、思い出そうとすると鮮明によみがえる。この違いは何なのだ?

 こんなことを、今まで知らなかったのかと呆れかえられるかもしれないが、この違いは、求心性の神経の違いにあるようだ。つまり、足の小指などの外的な傷害による組織の損傷と、内臓疾患などによる損傷とでは、伝えられる神経が異なるというわけである。前者の損傷は、進化的に新しいミエリン (髄鞘) 化された神経線維を経由し、鮮明な痛みを感じさせてくれる。一方、後者の損傷は、ミエリン化されていないC繊維などによって中枢に伝えられ、どこがどんなふうに痛いのかは曖昧なままなのである。ミエリンとは、神経科学において脊椎動物の多くのニューロンの軸索の周りに存在する絶縁性のリン脂質の層を指し、 ミエリン鞘ともいう。コレステロールの豊富な絶縁性の髄鞘で軸索が覆われることにより神経パルスの電導を高速にする機能があるわけである。一方、ミエリン化されていない神経線維だと、幅広く異常を拾い上げるということは得意なのだが、その異常を的確に痛みとして中枢に届けることができない。

 ミエリン化されていない神経線維は、進化的に古い。しかし、これを全部ミエリン化するにはコストがかかり、結局はミエリン化されないままに現在に至っているようだ。外科の医療等が進んだ現在なら、ミエリン化されて的確に痛みを生じさせることができれば生存に有利かもしれない。しかし、医学らしきものがほとんどないような野生環境では、足や皮膚の傷はそれを治すことができるので、はっきりとした痛みは適応的である。しかし、内臓から鋭い痛みの信号を受け取っても、それに対処することができなければ、ミエリン化のコストがかかるだけなのだ。

 かくして18年来の謎が解けたのだが、同じような理由で、二日酔いの辛さも鮮明に思い出されにくいのだろう。あれだけ辛くても、懲りずに繰り返す人が多いという事実は、それを雄弁に語っている。

2019年9月2日月曜日

ソウル滞在記―ICCS2019と安重根義士記念館


 8月の22日から24日に、ソウル大学でInternational Conference on Cognitive Scienceがあり、大学院生のS君といっしょに参加してきた。認知科学は、認知心理学、人工知能、神経科学、言語学、認識哲学の研究者が集まる学際的な領域だが、今回のこの学会は、人工知能が中心であり、また、同日程で韓国心理学会があったので、韓国の心理学者の参加者は極めて少なかった。

 この微妙な時期に韓国に行くというのは、S君もちょっと心配だったようだが、反日は一部の運動家であって、普通の市民や学会は全く大丈夫ということが改めて認識された滞在だった。ホテルでも屋台でもレストラン (というよりは、入ったのはほとんど「食堂」と呼んだ方がよいような店ばかりだったが) でも、極めて私たちに好意的だった。ホテルからは、地下鉄とバスでソウル大学に通ったが、迷ったときには親切に教えてもらえた。

 空き時間を利用して、ナムサン (南山) の麓にある、安重根義士記念館に行ってきた。地下鉄二号線のホイヨン (会賢) からちょっと登ったところにある。ここは2005年に訪れ、そのときは韓国の国花であるムグンファ (ムクゲ) がたくさん咲いていたという記憶があるが、その後、新しく建て替えられているようである。豊富な資料と、安重根の生い立ちから抗日運動、ハルビンでの伊藤博文暗殺までの経緯が展示されていたが、英語や日本語の説明が少なかったのが残念である。手っ取り早く知りたいなら、ウィキベディアで安重根を調べるのが近道かもしれない。

 日本政府の公式見解としては、安重根はテロリストのようだが、人物像や当時の日本の朝鮮半島を保護下におこうとする動きの中で、テロリストと言い切るには無理があり、やはりレジスタンス活動家としての名誉は与えられて然るべきであろう。ただ、私も歴史の専門家ではないので判断はできないが、伊藤博文は日韓併合にそんなに賛成というわけではないらしく、その意味で暗殺は決して賢明な戦略ではなかったのではないかという議論があるようだ。おそらくその点は、記念館の展示の中では触れられていなかったと思う (読めない韓国語の説明が多かったのでわからない)

 伊藤博文は、幕末の長州からの英国への留学生である長州ファイブの一人であり、どうすれば列強から日本の独立を守ることができるかに心胆を砕いていた。その想念は、安重根と同じものではないだろうかとも思うのだが、こういう悲劇に至ったのは残念極まりない。2人に語らせたら、いったいどんな話をしただろうかと想像にふけりたくなる。

 それにしても文在寅のあの反日はいったい何なのだろうか。どうやら積弊清算や南北の統一が大きな目標のようで、反日はその手段のようにも思えるが、もう理解を超えている。ナショナリズムを掲げながら習近平や金正恩に接近するさまは、ファシズム独裁者そのものではないかとも思える。最近、朝鮮日報日本語版が、日本における嫌韓をあおるということで停止されたが、メディアに対するここまでの干渉は、人権を標榜する人間がすることかと呆れを通り越している。幸い韓国は民主主義政体の国なので、辞任または任期が切れるまでの辛抱かもしれない。

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2019年8月15日木曜日

落語はやめたほうがいいー大河ドラマ「いだてん」雑感


 大河ドラマ「いだてん」の視聴率の凋落が止まらない。主人公が金栗四三から田畑政治に代わり、ロスアンゼルスオリンピックからベルリンオリンピック、戦争と激動の時代を名優たちが生き生きと演じているこのドラマが低視聴率というのはたいへんもったいない気がする。

 比較的このドラマに評価が高い私自身でも、あの落語は何とかならないものだろうかと思う。少しは本筋とつながるのかもしれないが、はっきり言ってどうでも良いストーリーが展開されている。落語の天才なのかもしれないが、自堕落で妻に甘えっぱなしの若き日の志ん生には、なかなか共感できるものがない。本筋のスポーツでもちょっとそういう傾向があるが、伯楽が天才を見出すストーリーは、好きな人もいるのかもしれないが、私はそういう直感主義には「はぁ、これが天才?」と訝るだけである。それに、せっかく本筋で盛り上がっていて、その続きにワクワクしているときに落語が入る。民放のドラマや取材モノなどで、盛り上がったところでコマーシャルを入れる安っぽい演出を真似ているのかと腹立たしくなる。

 本筋はみごとだと思う。たった2人が参加しただけのストックホルム大会から、日本のスポーツにおける国際社会に参加していくという高揚感と、その背後に戦争への足音を忍ばせて不安感を醸し出す演出は、息を詰めて見ざるをえない。とくに、五・一五事件で暗殺された犬養毅が塩見三省によってみごとに演じられており、ドラマ全体に緊張感を高めたと思う。おそらく今後は、オリンピックに出たアスリートの戦死等も報じられて、上質な反戦ドラマになっていくのではないだろうか。始まったころは、ちょっと国威掲揚的で嫌だなと思っていたが、それも徐々に薄まっている。

 また、女性の社会的地位が低い時代から、徐々に女性アスリートが育っていく過程も見ていて興味深い。寺島しのぶが猛女のような二階堂トクヨを演じ、ブルドーザーのごとく女性アスリートの道を開拓したあと、自分もやってみようというシマを杉咲花が個性的に演じた(実は、関東大震災で亡くなったあとは、しばらく「シマロス」が続いた)。その次の世代は、女性についての固定観念と戦いながら村田富江や人見絹枝が女性アスリートのあり方を模索した。さらにその次の世代が「前畑ガンバレ」で有名な前畑秀子である。前畑になると、もう「普通の女の子」の延長だ。これらの世代間対比の描き方は見事で、この流れがどのように東京オリンピックの「東洋の魔女」に至るのかたのしみである。

 しかし、大河ドラマが東京オリンピックの国策ドラマに堕しているという印象が、結局は低視聴率に結びついているのかもしれない。


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大河ドラマ「いだてん」-視聴率が低いなんてもったいない

2019年8月13日火曜日

跳び箱パンー大阪市立大学オープンキャンパス


 810日と11日に、大阪市立大学の杉本キャンパスでのオープンキャンパスが行われた。私たちが高校生の頃はこのようなイベントはなかったし、前任校で積極的にオープンキャンパスをやり始めたころは、私自身かなり批判的だった。学園祭のようなノリも好きになれなかったし、わざわざ夏休みに受験生にそんな活動に時間を割かせるのに罪悪感を抱いていた。それよりも、高等学校の3年生くらいで、「自分のやりたいこと」といって、自分の方向性を狭めてしまうのもどうかなと懐疑的だったのである。

 しかし、昨今はオープンキャンパスも花盛りとなり、受験生集めに必死な私立大学のみならず、多くの大学において高大連携の一環としても、奨励されているようだ。大阪市立大学の心理学教室でも心理学実験を体験するコースが人気のようで、悪い気はしない。

 さて、このオープンキャンパスの人気商品の一つが、「跳び箱パン」である。大阪市大を卒業された方が経営されているパン工房で作られているようで、跳び箱の形をしたなかなかユニークなものである。大阪市大のオープンキャンパスでは、苦難を、跳び箱を越えていくように乗り越えようという趣旨で、何名かの教員が、座右の銘であるとか、受験生へのメッセージが書かれた跳び箱パン販売という企画があった。

 私もこれに参加し、「最悪を想像し、それが思っているほど悪くないということが分かれば、世の中に怖いものはない」というメッセージを寄せた。これは、私がこれまで何回か苦難を経験した時に試みたものである。受験生のときに、第一志望の大学の入学試験直後にまず行ったことは、予備校の願書やパンプレットの取り寄せだった。某予備校のパンフレットを眺めながら、「予備校生活も楽しいかも」と落ちた後の心のケアを未然に行っていた記憶がある。幸い、現役で合格したので、予備校生活は未経験となった。

 最大の苦難は、今から18年前の悪性リンパ腫の闘病である。幸い、比較的抗がん剤が効くタイプといわれていたので、そのときの考えられうる「最悪」は、治療でいったんは腫瘍は叩けても再発を繰り返すというものだった。そのときに抱いたのは、最悪でもなんとか45歳くらいまでは生きらるのではないかという望みである。そして、それならば、そのときにやり残したと思っていたことができるだろうと、ほっとした気持ちになったことを覚えている。

 幸い、今年還暦を迎えることができたが、やり残していることはまだまだ多い。

2019年8月10日土曜日

カマキリの謎


 子どものころ、猛烈にカマキリを捕えたかった時期があった。私は小さいころから昆虫が好きで、捕えた虫を小学館の昆虫図鑑で調べるのが面白かったのである。その中で、強烈な憧れがあったのがカマキリである。なぜカマキリなのかと質問されても、明確な回答を返すことができないが、あの前足で被捕食昆虫をしっかりと捕えて食べる様子に、何か悪童の好奇心を刺激する残虐さがあったのかもしれない。

 しかし、このカマキリはなかなか見つけることができなかった。近所の竹やぶに、バッタやコオロギがたくさん生息していて、よくそこに虫取りに出かけた。ショウリョウバッタ、トノサマバッタ、オンブバッタ、エンマコオロギ、イナゴ、キリギリス、ウマオイなどはたくさん捕まえたが、カマキリはどうしても捕まえることができなかった。当時の昆虫図鑑には、オオカマキリ、コカマキリ、ハラビロカマキリが本州に生息する代表的な種類とされていて、実際に見たこともあったのだが、自分ではなかなか見つけることができなかったのである。なお、やや珍しいものとして、チョウセンカマキリやヒメカマキリがいるのだが、私自身は実際に見たことはない。ところが、小学校の低学年の頃だったと思うのだが、保育園の玄関の前でヒメカマキリを見つけた夢を見たのである。現物を見たことがないにもかかわらず、夢の中では、その大きさ(23cmと極めて小さい)から、ヒメカマキリに違いないと確信し、何とか捕まえたいと焦っているうちに目が覚めた。今でも覚えている夢なので、よほど印象に残っているのだろう。

 ある程度昆虫等についての知識、とくに食物連鎖についての知識を得るようになると、カマキリは昆虫の中では食物連鎖の頂点に立つので、ある程度十分な被捕食昆虫がいないと生息しないということが理解できた。そうすると、その竹やぶにはたくさんの被捕食昆虫がいたとしても、それでも少ないのだろうと納得していた。

 ところがである。決して広いとはいえないわが家の庭に、けっこうカマキリが出没するのである。被捕食昆虫としては、チョウやバッタが時々紛れ込むくらいで、けっして豊富とはいえない。また、子どものころに通った竹やぶに比べればはるかに狭い。それにもかかわらず、帰宅したときに家のドアにカマキリがとまっていたり、窓から家の中に入り込んできたり、子どものころの私だったら狂喜するようなことが何度かあった。つまり、私が子どものころにカマキリを発見できなかった理由を説明できるはずだった「被捕食昆虫不足説」はみごとに棄却されるに至っているのである。

 最近カマキリが増えているのだろうか? 温暖化の影響の一つだとすれば心配である。

2019年8月3日土曜日

推論研究のゆくえ (3)―London Reasoning Workshop参加記


 718日と19日にロンドンのBirkbeck Collegeで行われた12th London Reasoning Workshopに参加してきた。昨年は行けなかったので、2年ぶりの参加である。このワークショップは、世界のトップクラスの推論研究者が集まり、いくつかのシンポジウムに分けて一人30分ずつの発表が2日間で行われて、非常に中身が濃い。私は、水難事故の予測に後知恵バイアスが影響しているという研究成果を19日に報告した。

 今世紀に入ってから、推論における記述理論と規範理論が、命題論理学から、効用と確率の計算にシフトしている。この理由は2つあり、そもそも人間は命題論理学にそれほど忠実ではないということと、“If p then qの命題論理学に基づく真偽の取り決め自体に問題があるということである。その結果、効用と確率の計算に、推論の規範的合理性を探求する取り組みが行われてきた。もう1つの流れは、スローだが柔軟な情報処理が行われる高容量システムと固定的だがファストな情報処理が行われる低容量システムを仮定する二重過程理論の理論的発展である。

 その結果、ワークショップに参加してみて、現在の研究動向に4つの方向性があるという印象を受けた。まず、効用は、実用的な効用と認識的な効用に分類することができるが、前者は、推論ルールに従ったあるいは違反した場合の損得と直結している。1989年に提唱された、社会的交換において騙し屋に敏感なアルゴリズムが作動するという研究を受け継いでいる。この方向で現在行われ始めているのが、モラル推論・モラル判断の研究である。モラルそのものが規範かどうか、モラルに従ったり違反したりすると、どのような効用が得られるのかという問題に加えて、本ブログ記事でもたびたび扱った、意識的なモラルと無意識的なモラルに二重過程理論を適用した研究が行われている。

 認識的効用は、20年以上前に、ウェイソン選択課題における「カードをめくることによってどの程度の情報が期待できるか」という基準として提唱された。現在では、命題の不確かさや自分の推論の不確かさなどについてのメタ推論研究として発展している。そのために、一部にかなりの数式好きがいるのだが、残念ながら、私はなかなかこの数式好きにはついていけない。

 メンタルモデル理論も発展を続けている。しばらく前にJohnson-Lairdがかなり重い病気と聞いていたが、しっかりと健在であり、自身で発表を行っていた(London Reasoning Workshopでは、どんな「大物」も発表時間は30分である)。現在は、モデルの数と認知負荷の関係よりも、シミュレーションとしてのモデル操作に力点が行われている。そして、前世紀の課題であった、どのようなモデルが優先的に生成されやすいのかという点について、二重過程理論のファスト処理メカニズムが援用されている。

 二重過程理論における現在の最も中心的な課題は、スロー処理がどのようにして喚起されるのかという点である。前世紀では、ファストな処理によってバイアスが生ずるが、スローな処理によって修正可能ということが想定されていたが、では、誰がどのような判断でスローな処理を起動させるのかという問題は残されたままだった。あるいは逆に、ファストな処理によるバイアスが修正されないままだとすると、どのようしてそのバイアスの影響を受けた出力が、直観的に「合理的である」と判断されるのかという問題も生ずる。現在、これらはメタ推論の問題として議論されているが、ファストな処理の出力の中に、論理的直観に従ったものがかなり含まれているという視点が導入されている。これは、進化心理学者がファストな処理は進化の中で淘汰されてきたので当然合理的であるとする主張と矛盾しない。


過去の記事
推論研究のゆくえ (1)―メンタルモデル雑考
推論研究のゆくえ (2)―メンタルモデル vs 新パラダイム