2018年2月25日日曜日

卒業論文の意義 (2)―市民リテラシーの育成のために


 前回の記事では、卒業研究や卒業論文は企業において評価されないと述べたが、実は『心理学って何だろうか?』の中で私が強く主張したことは、市民リテラシーとの関連である。市民リテラシーとは、あまり聞きなれない用語かもしれないが、よき市民として、政治や経済のことを知り、少子高齢化や地球温暖化など社会で問題となっていることについて、適切な判断を下すと同時に何らかの行動をとることができるような一連のリテラシーとみなすことができる。市民リテラシーの重要性が認められるようになった背景として、裁判員として良識がある判断を求められたり、また情報化社会になって個人が自由に意見を発信できるようになったりしたことなどがあげられるだろう。

 卒業研究・卒業論文は、リサーチスキルの獲得を通して、この市民リテラシーの育成に貢献できる。そうすると、心理学に直結するような領域としては、たとえば、メディア、とくにインターネット等における心理テストなどのコンテンツへの評価などで発揮される。これらの中にはあまりにも安直なものが多いが、心理学を学んだ健全な市民リテラシーは、批判的な目を向けることを可能にしてくれるだろう。先日も、インターネット記事でサウナでの座る位置でその人の性格を「当てる」心理テストが紹介されていたが、バカバカしくて論評以前の内容であった。いくら面白いからといって、ここまで来ると人間理解という点で有害であろう。心理学を通して得られた市民リテラシーによって、こうした有害コンテンツに、はっきりと「ノー」ということができるようになる。

 大学にはさまざまな専門があり、それぞれの専門において研究して論文を書くという経験を積めば、それぞれの領域において、いい加減なメディアコンテンツや、評論家と称する人たちの根拠のない主張に対して、批判的な目を向けることができるようになる。さらに、たとえ領域が心理学であっても、卒業論文や修士論文を書いた経験からは、たとえば地球温暖化についての主張に対して、少なくとも、その主張となる根拠がどのようなものなのか、あるいはどのような論文で主張されていることなのかということを調べるためのスキルはすでに習得できている。したがって、主張の根拠が強固なのか脆弱なのかという判断は、素人ながらある程度可能になる。そうすれば、地球温暖化に対してどのような政策を支持すべきなのかという判断がより健全になるわけである。

 現在の日本においては、メディアやジャーナリズム、政治など、影響力がある人たちのリサーチスキルはまだまだ不十分であろう。商業主義的な制約があるので仕方がないのかもしれないが、メディアにおいて、専門化の意見や論文をもう少しわかりやすく伝えるサイエンスコミュニケーターが必要かもしれない。小保方晴子氏の研究不正疑惑のときも、市民リテラシーの役割は重要だったと思う。しかし、そのときの呆れた政治家として印象に残っているのは当時の文部科学大臣である。検証の時に、「小保方氏にできるだけ協力してもらって、ベストの状態で検証してもらうことが重要」と述べたが、不正疑惑がある研究者を検証実験に参加させるというとんでもない発想は、研究を行った経験があればまず出てこないはずである。こういう人が文部科学大臣になるようでは、卒業論文を重視する大学教育が世間でも理解されないのはしょうがないかもしれない。

2018年2月22日木曜日

卒業論文の意義 (1)―企業において役立つことは理解されにくい


 日本心理学会の教育研究委員を何年間かさせていただいたが、その成果の一端ともいえる『心理学って何だろうか?―四千人の調査から見える期待と現実』が、楠見孝先生の編集で出版された。この本は、委員会による何年間かの調査に基づいたものだが、私は主として、大学の心理学教育においてどのような授業が重要と考えられているかという視点で調査を担当した。そして、本書の中の一つの章の中で、調査結果と私の私見を披露している。

 本書の私の章で主張したことは、卒業論文の意義である。これは、私が前任校に在職していたときから引き継いでいる、指導者側としての問題なのである。私の中では、卒業論文はものすごく重要で、これまで自分を最も成長させてくれた体験だと思っている。ただし、その結果、私は研究者の道を進み、現在、それで給料を得ている身なので、「だから卒業論文は重要ですよ」と主張しても説得力はない。おそらく、多くの方々には、研究者育成という点で卒業研究は重要なのはわかるが、研究者にならない人にはどんな意義があるのだろうかという疑問が残るだろう。 

 一般的に、企業からは、卒業研究の教育的意義は理解されていない。1997年の就職協定廃止後、就職活動によって大学4年生時の教育に大きく差し障りが生じるようになり、それによって卒論研究に大きな支障が生ずるという事態に陥った。しかし、これに危機感を感じて声をあげたのは、企業側ではなく、大学側であった。2008年に、国立大学協会は、公立大学協会、日本私立大学団体連合とともに、日本経済団体連合会に、この改善を求めて要望書を提出している。

 企業側からは、卒業論文作成によって、発表のためのプレゼンテーションスキルや議論のためのコミュニケーションスキルが養われることは理解されている。しかし、それ以上本気に卒論に取り組んでもらっても、使いにくい専門バカになるだけという考えの持ち主は多い。とくに学会発表や学術雑誌に投稿できる本格的な研究としての卒業研究では、本人以外の日本人が誰も読まないような論文を読んで参考にすることもあり、そんな論文を読むような研究をして何の役に立つのかと思われるのも無理はないかもしれない。

 しかし、卒業論文は、もし真剣に研究として取り組まれていれば、決して特殊な狭い領域の知識だけが増えるというものではない。科学論文としての実証的心理学研究についていえば、先行研究を読んでその中から問題を発見する洞察力、その問題をどのように解決するのかという発想力、地道な調査や実験をこなす企画力、結果をどのように解釈するかという分析力が問われるのである。そしてそれを論文にまとめ上げるときは、構成力や文章力が鍛えられる。おそらく長い目で見れば、論文作成によって涵養された能力やスキルは、すぐには役には立たなくても、その企業の将来の発展に十二分に貢献するのではないかと思う。ただし、残念ながらこれを実証するのは難しい。

2018年2月18日日曜日

銀と銅―銀はくやしい、そして銅はほっとする


 日本がサッカーのワールドカップに出場するようになってから、私の中でオリンピックの地位が相対的に低下し、さらには全体的に盛り上がりに欠けるという印象だったピョンチャンオリンピックであったが、羽生結弦の金の連覇は大きなニュースになった。しかし、今回のオリンピックの中で、私が興味を抱いたのは、二人のメダリストの発言である。一つは、今回銀メダルを取った渡部暁斗の「2という順位は見飽きた」という発言、もう一つは、清水宏保の「銀メダルは悔しいんですよ。金メダルはうれしい、銀はくやしい、そして銅はほっとする」というコメントである。

 銀メダルは銅メダルよりも客観的には良い成績のはずだが、実は満足度は銅メダルよりも低いという傾向は、ヴィクトリア・メドヴェックたちの研究ですでに知られている。彼女らの研究は、1992年のバルセロナオリンピック等での銀メダリストと銅メダリストの感情反応の分析に基づくものだが、銅メダリストのほうが銀メダリストよりは幸福そうに見えるという結果を報告している。

 この一見逆説的な現象を説明するのに、彼女たちは、反実的思考の上方性・下方性という概念を導入している。この場合の反実仮想思考は、銀や銅、各々のメダルではなかったかもしれない可能性の推論だが、銀メダリストは金という上方的な仮想を、銅メダリストはメダルを取れなかったという下方的な仮想をするわけである。そして、前者は、金メダルの可能性と比較して「もうちょっとだった」と悔しくなり、後者はメダルを取れなかった可能性と比較して「もう少しでメダルを取れなくなるところだった」とほっとするという説明がなされている。

 清水のコメントはこの逆説の説明と一致していて、みごとだなと思うと同時に、メドヴェックの研究は改めて評価できるものだなという感想をもった。ただ、彼女たちの研究は、メダル獲得直後の感情反応データに基づくものである。時間が経過すると、やはり銅よりは銀が嬉しくなってくる可能性が高い。また、オリンピックは4年に1回で、多くの選手にとってチャンスはせいぜい1回か2回である。これが、もっとチャンスが多ければ、やはり3位よりは準優勝のほうが嬉しいはずである。この逆説は、オリンピック直後という特殊な状況での現象なのかもしれない。



Medvec, V. H., Madey, S. F., & Gilovich, T. (1995). When less is more: Counterfactual thinking and satisfaction among Olympic medalists. Journal of Personality and Social Psychology, 69, 603-610.

2018年2月13日火曜日

スマホ中毒とチンパンジーのグルーミング


 スマートフォンを肌身離さずにもち、常にチェックしていじっていないと落ち着かない人が増えているようだ。世にいうスマホ中毒である。幸い、私の周囲には、会話中に常にいじっているというような人はいないが、通勤での駅での乗り換え時の歩きスマホにはかなり迷惑を被っている。あれほど、歩きスマホは危険であるという啓発があるにもかかわらず、混雑した駅で何度もぶつかりそうになる。

 私はスマートフォンを持っていないので実感はないのだが、常にチェックの最大の理由は、ライン等のSNSだそうである。返信が遅いと人間関係に支障をきたすのだろうか。これを聞いて連想するのは、チンパンジーのグルーミング(毛づくろい)である。彼らは一日のかなり多くの時間を互いのグルーミングに費やしているが、これはお互いの関係を強くするというメリットがある。関係が強くなれば、その集団が生き残るのに有利であり、かつ、その個人が集団の中で地位が高くなるという有利さがあるのだ。

 本ブログの「ダンバー数を超えて」の記事ですでに紹介したロビン・ダンバーによれば、このグルーミングが言語の起源の一つである。しかし、やたら時間コストを要するグルーミングよりも、ヒトは、コミュニケーションツールとして言語を選択したわけである。言語ならば、多人数相手に同時にメッセージを送ることもできるし、相手を信頼していることや愛していることを効率的に説明できるからである。言語が主要コミュニケーションツールである現代のホモ・サピエンスでは、グルーミングはおそらくセクハラになってしまうだろう。

 スマートフォンなどで可能になったSNSは、さらにその言語を超えて効率的な人間関係の構築を可能にしてくれるはずである。人間関係の構築に時間を取られなければ、その分、知識を広めたり、何かを学んだりすることに時間を割くことができるようになるはずなのだが、授業中や会話中にスマートフォンをチェックしなければいけないとなると、本末転倒以外何物でもない。ヒトとチンパンジーの共通祖先に先祖返りしたようなものである。

 さらに、このスマートフォンチェックが快適なものなら良いのだが、常にやってないと不安であったり、切迫感に追われていたりということになると、先祖返りどころか、先祖よりも不幸になっているかもしれない。なぜならば、チンパンジーは互いに毛づくろいをしながら、かなり幸福感を抱いているようだからである。残念ながら私は経験がないのだが、親密になったチンパンジーに毛づくろいをしてもらうと、とても気持ちの良いものらしい。

 コミュニケーション手段を進化させ、また、コミュニケーションのためのさまざまな道具が作られてきたが、結局は、チンパンジーと進化的分岐をした600万年前と同じ状態なのではないだろうか。せっかく効率的な言語やSNSを発展させたにもかかわらず、600万年前のまま不幸だけが蓄積されたということになると、精神構造が変化しないままに高価なオモチャが与えられただけという気がする。

2018年2月11日日曜日

カズオ・イシグロの『わたしを離さないで』と英国人のペシミズム


 後期の授業と試験の採点が終わり、ちょっと気持ちにも余裕が出て、先日、カズオ・イシグロの作品の映画化されたものの一つである『わたしを離さないで』(Never let me go)を見た。小説も読まずに映画だけで論評するのはおこがましいかもしれないが、イシグロ作品についてよく言われる「記憶」がテーマというよりは、壮大な思考実験と英国人のペシミズムが反映された映画という印象だった。

 まずとてつもない設定に度肝を抜かれる。英国のボーディングスクールで学んでいると思われた子どもたちは、実はみなクローンで、そのスクールのような施設を出たあとは、臓器提供者となる運命にある。ヒロインのキャシーもその一人で、その施設には、トミーという好きな男の子がいたが、同級生のルースに彼を奪われてしまう。その状態で施設を出て、今度は大人として臓器提供の待機施設に移っていった。提供者になると、何回かドナーとしての摘出手術を受け、徐々に体力が落ちて、4回目にはほぼ亡くなってしまう。映画では、それが、completionという用語で表現され、彼らの会話でもこの言葉が使われていた。物語は、ルース、トミーがcompleteし、ついにキャシーにも1回目の提供の命令が来たというところで終わっている。

 ノーベル文学賞受賞理由の評価として、「世界と繋がっているという我々の幻想に隠された深淵を偉大な感情力で明るみにした」ことがあげられているが、私もまさにその通りだと思う。映画を見終わった後、自分の人生は彼らのものとは違うということが幻想ではないかという思いを、消し去ることができない。

 サイエンス・フィクションとしてもおそろしく優れていて、このような架空の状況設定でクローンがどのような精神状態を保ち、どのような行動をとるのかということをシミュレートさせる壮大な思考実験であろう。彼らのベースには深い悲しみが横たわるが、その現状に対して、行動としての反乱を起こすとかということはしない。反乱はあくまでも心の中だけで、表面上は運命を受け入れている。この思考実験結果は、たとえばエミリー・ブロンテの『嵐が丘』に表現されるようなペシミズムを彷彿させる。どうしようもない悲惨な境遇も、それを受け入れ、またその受け入れに、人間としてのリアリティがあるのである。安直な言い回しを用いれば、「英国人はつねに不満をいう、しかし何も変えようとしない。一方、アメリカ人はいつも満足しているが、つねに何かを変えようとしている」に表現されるような、アメリカ人と対比される英国人のメンタリティなのかもしれない。

2018年2月1日木曜日

大河ドラマ「西郷どん」と「翔ぶが如く」


 2018年の大河ドラマ「西郷どん」がスタートを切った。なかなかおもしろくて、日曜日を楽しみにしているのだが、現時点での私の個人的な感想は、「何かが足りない、でも何かが余っている」である。この評価が妥当かどうかという自信はないが、どうしても比較してしまうのが、1990年の「翔ぶが如く」である。

 「翔ぶが如く」はドラマも原作もともにすばらしかった。司馬遼太郎の歴史小説は、歴史家から見ると誤りもあるのかもしれないが、どれも登場人物が設定された時代背景の中でとても生きいきと描かれており、後続の小説家がこれを超えたものを書こうとすると、どうしても二番煎じか、何かを付け足さなければいけない。残念な事件に、池宮彰一郎の「島津奔る」が、司馬遼太郎の「関ケ原」との類似の問題で絶版になったことがある。「島津奔る」はなかなかおもしろかったが、関ケ原からの撤退の場面が「関ケ原」と酷似していたのだ。私も読んだときにそう感じた。司馬遼太郎を超えようとすると難しいのであろう。「西郷どん」の原作の林真理子も、よくこの困難に挑んだものだ。

 「翔ぶが如く」は、俳優たちもすばらしかった。西田敏行の西郷、鹿賀丈史の大久保は言うまでもないが、実力派俳優が綺羅星のごとく魅力的に役割を演じ、みごとな群像劇にもなっていた。非常に印象に残っているのは、村田新八を演じた益岡徹である。益岡さんは、ちょっと気弱な中年男を演じさせたら絶品だが、「翔ぶが如く」では、颯爽として、人情に厚く、飄々とした薩摩隼人を見せてくれた。幕末の薩摩にこういう志をもったこんな雰囲気の下級武士がおそらく存在したのだろうという、歴史的リアリティを感じさせる演技だった。また、西南戦争の薩摩軍幹部の中の唯一の文官として、軍服ではなく、フロックコートにシルクハットで出陣したが、あのカッコよさにしびれてしまった記憶がある。西南戦争最後の城山では、洋行中にマスターしたアコーディオンを弾き、西郷の死において「ああ天なり」とつぶやき、そして自刃した時は、あれだけ時代を読めていた人物がなぜここで命を落とさなければならなかったのかと、かなり目頭が熱くなったのを覚えている。

 2018年大河ドラマ「西郷どん」に、「翔ぶが如く」に出演した俳優が出演している。ナレーションの西田敏行と島津斉興の鹿賀丈史をはじめ、前回は画家役だった雷竜太が調所広郷、大村益次郎役だった平田満が大久保利世と、当時を思い出しながら見るのも楽しい。平田満は、有村俊斎の一味に暗殺されたおそろしく偏屈でとりつくしまもない大村を演じていたが、今回の大久保利世では、全く違う顔を見せている。

 何かが足りない、でも何かが余っている。この直観をもっとうまく言葉で表現できたらいいのだが、現時点での評価は、1990年の「翔ぶが如く」と比較した上でのものである。「翔ぶが如く」を超えるのかどうかは、今後の展開次第だろう。