2020年7月16日木曜日

この回答が「人権擁護委員」? ―道徳的自己資格 (moral self-licensing) の例?

 ある吹田市の方のツイッターでのつぶやきからである。7歳の息子さんが、「子どもの人権SOSミニレター」というものに「密な学校が怖いです。オンライン授業にしてください」と書いたところ、大阪府人権擁護委員連合会というところから下記の「文面」の返事が届いたという。見た目は、7歳の子どもに対する優しい呼びかけのようにも見えるのだが、ツイッター上では、内容に呆れたという多くの批判がなされている。

 私も、この回答が人権擁護委員を自称する人間によるものなのかと大きな違和感を覚えた。まず、この回答には、「密な学校が怖い」という子どもの不安に触れている部分が全くない。そして、あたかも不登校の子どもを諭すようにして、学校に来るように誘導しているのである。不出来なAIプログラムのような応答なのだ。それに加えて、これが人権にかかわっている人間かと思えるような文言が、「家で一人っきりでじゅぎょうもいいけど、ふけんこうになっちゃうよ」である。現在、不登校であったり、学校に行きづらかったり、さまざまな理由で自宅にいる子どもがいるが、こういう子どもたちを想定して述べているのだろうか。あるいは、そこまで考えず、漠然と子どもは学校で遊ぶのが「普通」であって、そうしないのは「不健康」と信じているのだろうか。前者だとすれば、学校が好きな子どもや苦手な子どももいるという多様性を考えたことがあるのかと問い正したいし、後者ならただのバカである。

 極めつけが、「今は、あきらめて学校でがんばってみてはどうかな」という一文である。そもそもこの息子さんは、学校で頑張れないとは一言も述べておらず、ただ学校での感染が怖いと述べているだけである。言い換えると、命の危険性を指摘しているのだ。それに対して「あききらめてがんばれ」とは言語道断であろう。「竹槍で本当に米軍と戦えるのですか?」と質問されて、「今は、あきらめて竹槍でがんばってみてはどうかな」と返すようなものだ。

 不出来なAIプログラムなら仕方がないが、これが人権擁護に関わっている人間が作成した文章だというのが多くの人々にとって信じられないのではないだろうか。ただし、周囲を見渡すと、人権などに関わる人の中になぜかこういう人間が散見される。人権という強力な正義に関わると、自分の言葉が絶対に正しいという信念が強固になり、「自分がまちがっているかもしれない」という心の内省システムが働かなくなるのかもしれない。

 現在、モラルについての心理学において、道徳的自己資格 (moral self-licensing) という現象が、政治的公正や向社会的行動などで観察されることが指摘されている。道徳的自己資格とは、(卒論研究中の4年生のI君によると) 過去に道徳的な行為をした個人ほど、自己概念の一部に「道徳的資格意識」が形成され、かえって反道徳的行動を示しやすくなるという現象である。最近の代表的な例が、セクハラの訴えで自殺したソウル市長の朴元淳 (パク・ウォンスン) だろう。人権弁護士として長い活動の歴史があるが、心のどこかに「自分はかくかくしかじかの善行を積んできたのでこれくらいは許される」という思いがあったのではないだろうか。また、長期政権となった安倍首相も、最近はかなりほころびが見られるが、「今まで日本あるは世界のために尽くしてきたから桜を見る会くらい許される」などと内心思っていたのだろう。「おごり」や「思い上がり」とは微妙に異なる心理メカニズムである。

文面
 ○○くんは、たくさんのお友だちといっしょにいるのが好きじゃないのかな? 家で一人っきりでじゅぎょうもいいけど、ふけんこうになっちゃうよ。学校はね、家やパソコン、タブレットなどオンラインでは学べないことがいっぱいあるんだよ。学校へ行かないとそんしちゃうかもね。
 今は、あきらめて、学校でがんばってみてはどうかな。何かいいことがみつかるかもしれないよ。いいことが見つかったら、またお手紙くださいね。
人権擁護委員○○
大阪府人権擁護委員連合会



2020年7月11日土曜日

オリエンタリズム的パターナリズムに燃料を与えた習近平-香港の国家安全法

 中国が香港に対して国家安全法 (正式には中華人民共和国香港特別行政区国家安全維持法) を成立させて、630日をもって施行された。1997年に香港が英国から中国に返還されたときの約束である一国二制度を潰し、言論・表現を中心とするさまざまな自由を制限する習近平のやりかたは、国際的にも大きな批判を招き、香港の人々の反発を買っている。返還から二十余年後にまさかこういう事態になると想像していた人は多くはないだろう。返還が決定されてから、多くの人々が中国共産党を嫌い、カナダをはじめとする海外に逃げたが、これからも逃げる人は後を絶たないのではないだろうか。

 このことが民主主義からの大きな後退であることはこれまでいくつかの記事で述べてきたが、もう一つ、私は、アジア人としてこの状態を非常に悔しく思っている。香港は、アヘン戦争のあと、1842年に英国と清との間で締結された南京条約によって、清から英国に割譲された。この経過について、陳舜臣の『阿片戦争』を読んでの私の感想なのだが、大英帝国の帝国主義の最も醜い部分を見せつけられたという印象だった。そういう経緯を踏まえれば、この返還は、香港の人々にとって大きな喜びになるはずなのだが、現実は反対である。中国共産党は、これはおそろしく屈辱的なことだと認識すべきだろう。

 拙著『日本人は論理的に考えることが本当に苦手なのか』では「19世紀の亡霊」と表現したが、西洋列強による植民地化がすすんだ19世紀には、人類の中で優れているのは西洋人であり、アジア人やアフリカ人は劣等民族であると考えた人々は多かった。ヨーロッパ人にとって、中東以東は、歴史的にキリスト教徒は異なった異質で不気味な人々が住んでいるところであり、それが「オリエンタリズム」という概念にまとめられている。オリエンタリズムは、19世紀の西洋列強による植民地化を正当化するために用いられ (本当にそう信じていたのか、自分たちの罪悪感を緩和するために用いられたのかわからないが)、「劣った彼らは西洋人による庇護と啓蒙が必要だ」というパターナリズムに結びつけられている。このアジア・アフリカ観は、ナポレオンのエジプト遠征や英国によるインドの植民地化の過程で顕著に現われていたようだ。映画『英国総督・最後の家(Viceroy's House)』でも、インド独立の際に、「彼ら(インド人)が自分たちで統治できるのか」という英国人の発言があったと記憶している。なお、日本が朝鮮半島を併合するときにも、同じようなパターナリズムを援用しているようだ。

 アジア人としての私たちは、このオリエンタリズム的パターナリズムを、歴史的行動によって否定していかなければならない。19世紀の亡霊は葬られなければならないのだ。独立あるいは返還後に「やはりアジア人やアフリカ人ではダメだな」と思わせてはいけないのである。しかるに、この香港のケースは、英国人の心の中のどこかでくすぶっていたオリエンタリズム的パターナリズムに燃料を与えただろう。もちろん公的には発言できないことだが。

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