2020年5月30日土曜日

占術家出井房龍壱氏とのコラボ『心理学と占い』シリーズ(2)―第2回『迷信は実は進化的には新しい』

 ひょんなことから、占術家の出井房龍壱さんのユーチューブ『出井房チャンネル』で、心理学と占いについてのお話をすることになり、『心理学と占い』シリーズの2回目である、『迷信は実は進化的には新しい』がリリースされた。

 占いと迷信とを同じようなものとして扱うのは随分と乱暴な話かもしれないが、2回目は、これらがどのような背景から登場したのかというお話をした。どちらも、文化のビッグ・バンに起源があるという推測を基にしている。文化のビッグ・バンとは、ホモ・サピエンスに35万年前に起きた革新的な変化で、それまでとは比較もできないようなハイテクの石器や、釣り針や縫い針などの骨角器が作られるようになり、ラスコーやアルタミラの洞窟壁画などの芸術、部族ごとのファッション、宗教などが生まれた。そしてこれらを可能にしたのが、スティーヴン・ミズンが『心の先史時代』において推定している精神の変化で、、彼はこれを流動的精神の獲得と呼んでいる。流動的精神は、直感的で「ファスト」な処理システムと熟慮的な「スロー」な処理システムを区分する二重過程理論では、後者のシステムに相当する。流動的精神と呼ばれる理由は、直感同士はお互いに人間の精神の中で孤立しているのだが、その直感同士がこれによって流動的に結びつけられることが可能になったと推定されているからである。なお、この変化を、ユヴァル・ノア・ハラリは『サピエンス全史』の中で、「認知革命」と呼んでいる。

 このときに人類がもつ、何らかの現象に説明を求める性向、いいかえれば「なぜ」という問いを発する習慣が生まれたのではないかと推定できる。これはサイエンスマインドの誕生である。そして、それと同時に、その説明のための架空の装置として、全能の「神」や私たちを守ってくれる「祖霊」が信じられるようになったと考えられる。とくに、夢で亡くなった人に会うという経験は、祖霊の存在を確信させてくれる。しかし、全能である神や自分を守ってくれる祖霊を信ずるというのは、やはり現代では迷信に分類せざるを得ないのではないだろうか。

 文化のビッグ・バンがどのように起きたのかは、下の図で因果的に説明ができる。とくに、神や祖霊の声に耳を傾けたいという人間の欲求は、流動的精神による「死の理解」と、人口増による「内集団バイアス」との相乗効果によるものだろう。われらのことはわれらの神に伺おうというわけだ。そして、そのお伺いの方法として、シャーマンの宣託に頼ったり、亀甲占いが使用されたりしたのだろう。それと同時に、「災害は神の怒り」などの迷信が生まれたというわけである。さすがに、コロナウイルスは神の怒りと考える人は少ないが、それでも、神社などにおいて疫病退散などのお祓いがあるのは、一概に迷信とは呼べない何らかの意味があるのだろう。



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2020年5月28日木曜日

芸能人の政治的発言に期待することー“Save Hong Kong’s democracy”

 黒川検事の件で、コメディアンあるいは芸能人による政治的な発言の影響がクローズアップされた。彼らの政治的発言は是か非かという議論が巻き起こっているが、私は、この件については、結果よしで良かったのではないかと思う。また、彼らも一個人として、政治的意見を表明する自由は保証されるべきである。「勉強もしてないくせに」という批判もあるが、こういう批判は言論抑圧になる。(逆に、「専門家」と見なされると意見を抑制すべき場合もある。私は、心理学の大学教員という職業柄、他人の性格について軽々しく述べることは控えている)


 懸念が残るとすれば、やはり有名人としての彼らの影響力の大きさである。下らない発言をたしなめられて、「影響力がない」と自虐したつまらないコメディアンもいるが、彼らの発言は、ときには専門家よりも影響力がある。拙著『「生きにくさ」はどこから来るのか』でも述べたが、有名人の発言の影響は、人気歌手のカイリー・ミノーグの名前をとってカイリー効果として知られている。彼女は2005年に乳がんと診断されて手術を受けて回復したが、その後、がん撲滅の啓蒙活動を行った。その結果、彼女の影響で多くの若い女性が乳がん検査を受けた。つまり、乳がんのどんな専門家よりも影響力があったといえるわけである。広告コミュニケーションにおいて有名人が使われるのも、同様の効果を狙ってのものである。自動車の専門家が「この車はいい」というよりも、有名俳優が颯爽とその車でドライブするシーンのほうがはるかに効果的だ。

 この効果は、直感的な「ファスト」と、熟慮的な「スロー」を区分する二重過程理論に当てはめれば、前者になる。つまり直感的であると同時に、行動への推進力が強いのである。ただし、二重過程理論を当てはめれば、直感は規範的な合理性に欠ける点があるので、コメディアンや芸能人の政治的発言は、理性のコントロールから外れると怖いことになる。いったん勢いがつくと、ちょうど第二次世界大戦前の日本のように、「雰囲気」に押し流されてしまう。また、芸能人の場合は、どうやら上下関係がいろいろと煩わしそうで、単に芸能界に長くいただけという理由で「大御所」や「大物」と呼ばれる人たちから依頼されたりすると「断れない」という雰囲気があるようだ。これは怖い (この点を、指摘した女性タレントもいた。私があまり好きなタレントではなかったが、この見識には瞠目した)

 このような懸念もあるが、コメディアン・芸能人の政治的発言の小さくない影響力はうまく活用してほしい。とくに、国際的な影響を及ぼす独裁に対して、さまざまな国の有名人とともにおおきなうねりを作って反対してほしいと思う。本日2020528日、中国の全国人民代表大会は、香港に国家安全法制を導入する「決定」を採択した。私は、アグネス・チャンに香港問題に対すると発言をずっと期待していたが、当事者となるといろいろと難しいのだろう。また、日本において、香港問題などで習近平を批判すると、戦争責任を反省しない嫌中のネトウヨと思われるリスクもあるかもしれない。しかし、戦争責任の反省と独裁反対は別だ。今こそ、日本の有名人が世界の人々ともに、"Save Hong Kong's democracy"を発信してもらいたいものである。私はツイッターをしてないのでわからないが、おそらく#を文頭につけて。

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2020年5月17日日曜日

かなりはまる『ダウントン・アビー』 (2)―第一次世界大戦とアイルランド独立

 423日の記事で、英国の歴史ドラマ『ダウントン・アビー』の紹介をした。1912年から始まった物語が、シーズン4が終わった時点で (自宅のアマゾンプライムで見ているので、現在のこの段階を共有できる人はほとんどいないだろうが)1922年に至っている。このドラマの非常に大きな魅力は、当時の歴史的背景あるいは社会的状況の中で、貴族からその使用人、あるいは中産階級の人々や農民に至るまで、彼らがどのように生き抜いたのかということを、登場人物に密着して描いている点であろう。また、それぞれの登場人物が、長所・短所をあわせもち、人間としてのリアリティがあって魅力的なのである。ただ、従者のベイツの裁判や、クローリー家の娘たちの恋愛など、さまざまな出来事があまりにも並列で起きているので、こういうスタイルが嫌いな人には勧められないかもしれない。

 この間の非常に大きな時代背景は、1914年に始まり、1918年に終わった第一次世界大戦である。第一次世界大戦はおそらく日本人には世界史で教えられる以上のなじみはなく、意外に思われるかもしれないが、実は英国人の戦没者数は、第二次世界大戦 (45万人) よりも第一次世界大戦 (100万人) のほうがはるかに多いのである。英国人には、第一次世界大戦といえば、北フランスの塹壕戦が真っ先に思い出され、ここで多くの若者が命を落としている。クローリー家でも、後に長女の夫となるマシューが将校として、使用人のトーマスとウィリアムが兵士として北フランスに出征し、3人とも大きな傷を負って帰国し、ウィリアムはその傷がもとで亡くなった。ドラマでは、凄惨な塹壕戦の様子と、銃後となるダウントンでの生活が非常に巧く描かれている。

 第一次世界大戦は社会に大きな変化をもたらしたようだが、階級意識も徐々に小さくなりはじめている。クローリー家の三女のシビルが、使用人のドライバーであるトム・ブランソンと恋に落ち、伯爵の父親から大反対されながら、駆け落ち同然でアイルランドに行って結婚した。トムは、アイルランド出身の労働者階級の農民で、社会主義者でありアイルランド独立運動に参加していた。この物語は、第一次世界大戦後にオーストリア社会民主党の指導者と結婚した、ハプスブルグ家最後の皇女であるエリーザベト・マリー・ペツネックを彷彿させる。

 アイルランド独立戦争は、第一次世界大戦が終わった後の1919年から始まり、192112月にアイルランドが独立を勝ち取るまで続く。なお、独立戦争は、英・アイルランド合作映画の『麦の穂をゆらす風』(The Wind That Shakes the Barley)に、おそろしくアンチ・イングランドとして描かれている。トムは、独立戦争の引き金の一つである1916年のダブリンでのイースター蜂起で大切な人を失っており、英国に強い恨みを持っていたが、そういう中での駆け落ち結婚だったわけである。独立戦争は、ドラマではほとんど描かれていなかったが、独立戦争のさなかにアイルランドでは命が危ないということでトムとシビルはダウントンに戻ってきた。それを、紆余曲折を経ながら、このカップルを受け入れていったクローリー家の変化に、時代の変化が大きく反映されているようだ。

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2020年5月7日木曜日

占術家出井房龍壱氏とのコラボ『心理学と占い』シリーズ(1)―第1回『科学としての心理学』

 ひょんなことから、占術家の出井房龍壱さんのユーチューブ『出井房チャンネル』で、心理学と占いについてのお話をすることになった。大学の前期の授業がウェブでということになり、私もにわかユーチューバとなって授業動画を作成し始めているが、これは授業とは関係がない。このシリーズは5回の編成で、第1回『科学としての心理学』、第2回『迷信は実は進化的には新しい』、第3回『迷信は理性に敗れた? 』、第4回『占いを求める理性』、第5回『信頼できる心理テストとできない心理テストの違い』となっている。このウェブページの右側の欄に、ユーチューブ動画へのリンクを設けている。

 このブログでは、これまで私は疑似科学に対してかなり批判的な論評を行っているので、占いは、私が最も嫌っているものの一つではないかと思われている方もいらっしゃるかもしれない。しかし、一方で、私は進化や適応論的なモノの見方が好きで、人間の営みには何らかの合理性があるとするパングロスのような楽天的な視点ももっている。つまり、人間の営みの一つで、かつ人類に文化普遍的に見られる「占い」が、なぜ人々に好まれているのかという一面を見ることも大切なのである。

 第1回は、あまり占いとは関係がない。心理学と占いを話すうえでの前置きとして、科学的な心理学とはどうあるべきかについて、おおよその実験心理学の主張に、個人的な私見を加えてお話しさせていただいた動画である。科学の基本は、「なんらかの現象や法則を事実として認定し、それを説明する」という点に尽きる。では、心理学では何が説明すべき現象や法則になるのかというと、それは、その本質が主観である「精神」ではなく、客観的に観察可能な「行動」ということになる。私たちは、この「行動」を説明するために「精神」を仮定しているのだが、そうすると、「精神」は、「行動」を説明するための構成概念に過ぎないということになる。物理学は、物(モノ)の動きなどを説明するのだが、心理学は、心(ココロ)の働きを説明するのではなく、行動を説明するために、行動を引き起こしていると考えられているココロを仮定しているわけである。

 このアプローチでは捉えることができないのが、現代科学の最大の難問といわれる、主観的な「意識」なのである。意識の本質は主観にあり、これを可能にしているのが複雑な神経系であると推定できる。意識は柔軟な思考を可能にし、そのために複雑な神経系が支える大きな処理容量が必要である。しかし、では神経系が複雑になると、なぜ、私たちがもっているような意識が生ずるのかという問題には誰も答えていない。もちろんこれまで、「志向性」や「クオリア」などの概念が提唱されてはいるが、この回答に満足している心理学者はいないだろう。科学の最大の難問なのである。