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2020年4月16日木曜日

グローバル化と新型コロナウイルス禍―ユヴァル・ノア・ハラリの提言

 私自身は、グローバル化には基本的に賛成である。グローバル化の対極が自給自足だが、人類は、交通手段や通信手段を通してグローバル化を目指し、それが高度な分業と専門化を促して現在の繁栄をもたらしている。さらに、国家間のグローバル化は、経済・産業的相互依存をもたらし、この相互依存が戦争の大きな抑止力になっている。反資本主義的イデオロギーからは、各国の弱い産業を衰退させて「貧富の格差が増大する」という批判もあるが、世界全体から見れば、グローバル化の恩恵によってかなりの国において貧困が著しく改善されている。このことは、拙著『「生きにくさ」はどこからくるのかー進化が生んだ二種類の精神システムとグローバル化』の中でも、Adapting human thinking and moral reasoningにおいても主張してきたことである。

 そんな私でも、この世界的なコロナウイルス禍については、グローバル化の大きなマイナス面であり、少しは見直す必要もあるのかと思った。しかし、『サピエンス全史』の筆者であるユヴァル・ノア・ハラリによる、「この厄災もグローバル化によって解決」というメッセージには説得力がある。当然のことかもしれないが、産業だけではなく、グローバル化による科学・学術の発展は計り知れないものがある。情報科学の発展は誰の目にも明らかだが、そのテクノロジーによって、他の領域もその恩恵をかなり受けている。1990年代前半には、画像一つ見るにも数十秒要していたインターネットも、おそろしく高速になり、国境を越えて研究者間の情報共有が可能になった。情報伝達が大量かつ迅速になると、ある研究者のアイデアが別の研究者によって具体化され、それがさまざまな研究者に伝わるというように、発信・受信の相互ネットワークが緊密になり、それがイノベーションや研究の発展を加速してくれるのである。新型コロナウイルス禍によって、人的な移動などの物理的なグローバル化は一時的に停滞するが、情報のグローバル化は、現状況の解決をもたらしてくれると確実に期待できる。

 私の大学もそうなのだが、前期の科目を遠隔授業にする大学が多い。それで、私もスカイプ以外にあまり利用してこなかったZoomなどのウェブ会議のシステムを利用し始めたのだが、これが便利である。授業の開始は5月からではあるが、すでに卒論演習と大学院演習で使用してみたのだが、悪くはない。いわゆる文科系で、このようなウェブ会議システムに無関心だった教員も、必死に使用法を学んでいる。今年は、海外においても国内においても学会が次々とキャンセルになっているが、これを使えば、かなりグローバルに意見・情報交換ができそうだ。ヨーロッパでペストが流行して、ニュートンのような自宅に逼塞している研究者たちから革新的なアイデアが生まれたというエピソードがあるが、新型コロナウイルス禍は、遠隔ウェブ会議革命をもたらし、遠隔地同士の研究のグローバル化を促進させたという事例として、50年後あるいは100年後に語り継がれるということになるかもしれない。

2020年1月9日木曜日

本当に「寛容性」が失われているのか? (2)―グローバル化の副産物


 前回の記事で、ここ50年ほどで、「寛容性」が失われたどころか、人々の人権意識は高くなっていると述べた。ただし、トランプ現象に見られる、排外主義の復活は懸念材料である。排外主義を唱えるポピュリストが政治権力を容易に握ることができる欧米での潮流は、日本におけるヘイトスピーチと結びつけて考えれば、現代の大きな脅威といえるかもしれない。

 しかし、排外主義は今に始まったことではない。元をたどれば、霊長類の集団間の争い、狩猟採集民にも見られる他部族への敵意など、ヒトの認知機構における進化的に古いシステム(「スロー」と対比される「ファスト」)からの出力である。他部族の異装やタトゥーは、嫌悪と恐怖を引き起こすものと決まっていた。したがって、見知らぬ人に対して警戒せず信頼できるという現代のこの状況が奇跡だということを、私たちはまず認識すべきだろう。

 拙著『「生きにくさ」はどこからくるのか』でも述べたことだが、文化的発展は、私たちの理性(スロー)がこの野生(ファスト)を飼いならしてきた歴史であるともいえる。しかし、スローからの出力は、強い感情を伴っていて、ファストで修正することは困難である。これは、たとえばヨーロッパ系米国人が、差別をしてはいけないというのは「頭では」分かっているのだが、実際に貧しいアフリカ系の人々に接すると恐怖を感じたりするという例に代表される。この50年で、いくら人権意識が高まり、差別が減少したとしても、「スロー」は依然として休火山状態なのだ。

 スローからは、したがってちょっとしたきっかけで差別感情や排外感情が出力される。この50年間の地球上のグローバル化の速度は、私たちの脳あるいは認知機構が受容できるものをはるかに超えている。そうすると、外国人の増加が私たちの予想を上回り、いつのまにか、たとえば日本の観光地ではどこを向いても外国人という状況になり、当然文化摩擦も増える。「頭では」差別してはいけないと思っていても、食事の作法一つとっても、それが異なっていると嫌悪感が生じてしまうということになる。さらに、これまでマイノリティとして庇護すべき存在と考えていた人々が、自分たちの権利を主張し始めると、「頭では」それが正しいと判断しても、ファストは反感を生じさせてしまうわけである。

 ヨーロッパの場合は、それがもっとひどいことになっている。ヨーロッパの人々は、中東やアフリカの人々に対する負い目から、難民は受け入れなければならないという規範をもっている。しかし、難民とはいえない不法移民が次々にやってきて、さまざまな問題を引き起こしてしまうと、彼らの忍耐にも限度がある。特に、非ヨーロッパからの移民たちが、彼らの人権意識の低さをそのままヨーロッパに持ち込むと、ヨーロッパ人の中に反感が生じてしまう。

 私たちの世代はグローバル化に慣れていない。しかし、新しい世代、つまり周囲に外国人や文化背景を異にする人々があたりまえのように存在する環境で育った人々はそうではない。このような人々が多くなる2030年後は、このアンチグローバリズムとしての排外感情は小さくなるのではないだろうか。私は、現代問題視されている排外感情はグローバル化の副残物として、一時的なものではないかと思っている。

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2019年7月11日木曜日

朝鮮日報(日本語版)の2つの記事―日韓両国民に知って欲しい


 日本の韓国に対する半導体輸出規制が発表された。2004年から日本は韓国をホワイト国としていたが、戦略的物資の管理が不透明ということでホワイト国から除外ということのようだ。これが、徴用工訴訟での差し押さえに対する報復なのか、戦略的物資が北朝鮮やイラン等に密輸される可能性があるということからなのかはわからない。あるいは、昨年のレーダー照射など、あたかも日本を仮想敵国としているかのような行動をとる国をホワイト国指定はとんでもないという意見に後押しされたのかもしれない。

 今回の措置が妥当なのかどうかについて、私は文在寅の奇妙な北朝鮮へのすり寄りから60パーセントくらいは賛成だが、確実な判断というわけではない。ただ、国際的な分業による人類全体の繁栄のためにはグローバル化が必要という視点から見れば、諸手を挙げて賛成というわけではない。

 これまで、韓国では、日本を擁護するような意見を述べると、「親日」として非難を浴びるということが多い。擁護どころか、日本批判派の歴史的な誤りを正そうとして吊るしあげられた学者もいる。しかし、文在寅が大統領になってからの、不毛とも思える積弊清算という名のもとの「親日」狩りについては、さすがに韓国内でもこれを批判する声が出始めている。

 私は、韓国語はわずかに読める程度なので、ネットの日本語版で読んだものなのだが、文に最も批判的な朝鮮日報の2つの記事を紹介したい。1つは、ホ・ウソン慶煕大学名誉教授によるもので、韓国が、日本帝国主義下の植民地支配についてもうすこし寛大になれないかというものである。彼は、「1950年の中国によるチベット侵略以降これまで続いている占領と弾圧は、大日本帝国による朝鮮統治よりも残忍に見える」と述べ、さらにダライ・ラマ14世の言葉を引用する。ダライ・ラマは、ノーベル平和賞受諾演説において、彼は中国の圧政は批判しつつ、「私は抑圧者と友人を含むわれわれ全てのために、人間的な理解と愛を通してもう少し良き世界を建設することに、われわれが共に成功できるよう祈ります」と述べたようだ。つまり、ダライ・ラマのこの言葉から、反日的な姿勢や、親日狩りをいましめているのである。

 もう1つの記事は、イム・ミンヒョク朝鮮日報の論説委員によるものである。この記事では、韓日国交正常化交渉におけるキム・ジョンピル(金鍾泌)元首相の、1965年に韓日基本条約を締結したときの、「民主主義の恩恵を受けるにはまず経済建設」という信念が紹介されている。そして、この韓日基本条約で結ばれた四つの協定の一つが請求権に関するものだったということを明記している。さらに、韓国政府はこれによって日本から「無償3億ドル(現在のレートで約320億円)、長期低利2億ドル(220億円)相当の物資を受け取り、韓国の輸出総額が年間2億ドルにも満たなかった時代に、この資金によって浦項製鉄ができ、京釜高速道路などが建設されたと述べている。

 韓国の反日の歴史において、これまではこのような事実がほとんど国民に報道されてこなかった。そして、植民地時代にひどいことをして謝罪しないという言説が独り歩きしているという状態だった。そうしたことから、この朝鮮日報の2つの記事を書くのは、勇気が必要だったのではないかと思う。もちろんこれらの記事は韓国国民向けなのかもしれないが、嫌韓に染まった日本人も、今回のホワイト国除外に100パーセント賛成という人も、こういう記事を書く人もいるのだということを知って欲しい。もちろん、韓国の反日一色の人たちにも、このような事実を知って欲しい。そして、両国が相互理解に向かうことができればと願っている。

2019年7月4日木曜日

『「生きにくさ」はどこからくるのか―進化が生んだ二種類の精神システムとグローバル化』出版


 531日の記事で、『「生きにくさ」はどこからくるのか―進化が生んだ二種類の精神システムとグローバル化』が出版予定であることを書き、前書き部分を一部修正して紹介した。これが無事に出版された。2015年に『日本人は論理的に考えることが本当に苦手なのか』というタイトルの書籍を出版していただいたが、この本は「日本人は情緒的だから論理的ではない」という俗説を否定するためのものだった。そして今回は、「「人類は豊かになったが、精神が貧困になり、モラルを失った」、これが「生きにくさ」の原因である」という通説・俗説を否定するためのものである。

 第二次世界大戦後、豊かになるにしたがってモラルが低下したわけではないという記事は、このブログでも何度か書いた。モラルに沿った行動が増えたかどうかという調査は難しいが、犯罪などの統計から、現代は明らかに殺人や暴力が減少しているのである。また、大戦後の世界的潮流として、人権意識が人々の間に浸透している。人種差別や性差別はまだまだ根絶してはいないが、それでも1960年前後と比較すると、この50年で大きく変化している。本書は、この変化を、認知的容量を備えた進化的に新しい認知システムによって、差別意識などの進化的に古いシステムからの望ましくない出力が修正されてきた歴史として記述している。

 タイトルから、「生きにくさ」に焦点が当てられている印象を持たれるかもしれないが、私としては、ビッグ・ヒストリー系の「現代論」として書きあげたつもりである。現代論というと、現代の芸術であるとか、現代の情報社会であるとか、ポストモダンとしての現代など、それぞれの領域において数多く議論されている。本書は、社会的哺乳類として進化した人類が、「マインドリーディングマシン」と「社会的契約・交換マシン」を進化させ、それらのマシンを、認知的容量をもった進化的に新しい認知システムが制御してくという視点で文化・文明の発展を記述し、それらの現時点での到達点として、現代を論じている。

 マインドリーディングマシンは、他者の行動を、背後に心の働きがあるとして理解することを可能にしてくれる。これは、社会的乳類としてのホモ・サピエンスの大規模な協同を促進してくれる。また、社会的契約・交換マシンは、原初的な物々交換から、大きな経済システムにおける貨幣の使用などを可能にしてくれ、現代の分業を促進してくれている。分業がすすむと、それぞれが自分の得意な分野に専心できるので専門化が可能になり、産業の発展、つまりは豊かさに結びつくのである。

 この延長がグローバル化である。グローバル化は、分業・専門化の促進という点で、ストップすべきではない。しかし、本書の中で、このグローバル化の中に「生きにくさ」の本質があると私は主張している。つまり、分業化は伝統的な共同体を破壊し、私たちに、都市に代表される匿名的なコミュニティへの適応を求めてくる。つまり私たちの脳が進化したのは、コミュニケーションはお互いに知悉したもの同士という環境なので、この新しい現代の文化に適応するのは容易ではないだろう。この中に「生きにくさ」が潜んでいるわけである。決して精神が貧困になって「生きにくさ」が生まれたわけではない。

2019年5月31日金曜日

「生きにくさ」はどこからくるのか―進化が生んだ二種類の精神システムとグローバル化


 あと1か月ほどで、新曜社から上記のタイトルの拙著が出版される (アマゾンでは、すでに予約受付が始まっている)。これまで、この内容を小出しにここで書いているが、出版後は、議論をしながら改めて紹介していきたいと思う。以下が前書きである (謝辞は削除している)。

はじめに

 世間一般に流布している信念が、研究者間での常識と食い違っているということは数多くあるが、現代では人々がモラルを失い、殺人や争い等も増えたという言説もその代表的なものだろう。さすがに最近はそういう報道は少なくなったが、世間を揺るがす殺人があるたびに、現代社会の病理であるとか、豊かになった現代人は精神が貧しくなったなどと論評されることが非常に多かった。今でもインターネットで検索すると、現代は豊かさの中でモラルが失われた時代だという主張が恐ろしい数でヒットする。

 しかし現実には、現代は殺人が激減しているということは、歴史統計学者や人類学者の間では当然のこととされている。一九九九年に日本語訳が出版された、マーティン・デイリーとマーゴ・ウィルソンの共著である『人が人を殺すとき―進化でその謎を解く』においても雄弁に語られている。それにもかかわらず、そのような専門書は人々やメディアの目に触れることは少なく、あいかわらず、太古の昔には人類は平和に暮らしていたが、貨幣や武器の発明とともに凶暴になり、さらに現代ではハイテクで人間性が失われてしまったと信じている人は多い。そして、そのような言説と、本書のタイトルにある「生きにくさ」が結びつき、「現代人は精神が貧困になり、私たちは生きにくさを感じるようになった」という神話が生まれているのだと思う。

 タイトルにあるように、私は「生きにくさ」自体は否定していないが、過去の人類史からみれば、それでも現代はすばらしい文明の時代だと思っている。実際、人類の三大難敵である、飢餓、疫病、戦争は20世紀後半以降かなり姿を消した。戦争だけではなく、暴力も随分と減少した。精神が貧困になっているどころか、差別等は明らか小さくなっている。それにもかかわらず、私たちは、この現代に何か「生きづらさ」を感じている。これは単に主観的な印象だけではない。豊かになった一方で、自殺者は決して減少してないが、これは「生きにくさ」の客観的な指標になりうる。

 この問題に対して、本書は、人間の精神における、「進化的に古いシステム」と「進化的に新しいシステム」を想定する立場からアプローチしている。進化的に古いシステムにおける処理は、速いのだが固定的で柔軟性を欠き、怒り・恐怖や喜びなど強い感情と結びついている。一方、進化的に新しいシステムは認知の容量が大きくなって可能になり、柔軟な思考を可能にしてくれる。したがって、文明化の人類史は、この進化的に新しいシステムによる古いシステムの制御の歴史ともいいかえることができるわけである。

 この視点から論じようとすれば、どうしても進化心理学的あるいは文明史的な議論が必要になってくる。その意味で、本書は、ビッグ・ヒストリー志向の書籍である。とくに本書の中で私は、現在の豊かさの源泉は、進化的に古いシステムにおける、人類を協同と分業へと向かわせるメカニズムにあるという視点を明確にしている。そして、進化的に新しいシステムは、この協同と分業が柔軟に行われるようにしてきたといえるのである。分業は、専門化によって生産等を効率的にしてくれるので、現代の豊かさをもたらしてくれている。

 この分業の大規模化がグローバル化であるといえるわけである。そして、本書では、ひきこもりなどをうむ現代の「生きにくさ」は、このグローバル化の中にあると主張されている。ただし、本書の趣旨は、このグローバル化をストップさせるのではなく、このグローバル化環境において適した文化を創生していこうというものである。グローバル化は、現実にはいろいろと局所的な問題をもたらしてはいるが、戦争の抑止という点でも、分業の効率化という点でも、この方向性の否定をするべきではない。

2019年4月13日土曜日

『西洋の自死―移民・アイデンティティ・イスラム (The strange death of Europe: Immigration, identity, Islam)』―かなりショッキングな内容の著作である


 前回の記事で、ブルネイを取り上げた理由は、「文化相対主義」と「欧米の知識人に共有される罪悪感」が、実はヨーロッパにおいて大きな移民問題を引き起こしているということを雄弁に語ったダグラス・マレーによる問題の書『西洋の自死―移民・アイデンティティ・イスラム』にショックを受けたためである。

 ヨーロッパは、アジアやアフリカからさまざまな搾取を行い、非人道的な扱いをしたという罪悪感から、今まで多くの移民を受け入れてきた。そして移民への反対や差別的な対応は、ヨーロッパ人が価値があると考えてきた人権観やリベラリズムに反するものとして、忌避されてきたようだ。また、文化には優劣がないとする文化相対主義もそれを援護してきた。

 ところが、難民とはいえない不法移民が次々にやってきて、移民の数が度を超えてくると、ドイツをはじめとするヨーロッパの国々においてさまざまな問題を引き起こしているようだ。昨年の3月にフランスのツールに滞在したときも、街のいたるところに移民と思われる物乞いがいて、もうすでに知識人の間でも彼らにはかなりネガティヴであった。もう15年も前だが、2004年のヨーロッパでのある国際学会に参加したときも、参加者の中にトルコがEUに加盟したがっているということに不快感を示す人が多かったのに驚いた経験がある、「EUは異文化に寛容なのではないのか」と。彼らの反対の理由は、やはりトルコにおいてヨーロッパ人が想定している人権がほとんど守られていないということだった。

 イスラム教あるいはイスラムの人々が怖いというわけではないのだろうが、問題視されているのは、イスラムからの移民たちが、彼らの価値観をそのままヨーロッパに持ち込んでいるという点にあるようだ。残念ながら、ブルネイでの事例と同じように、女性やLGBTの人権を守ろうという意識は低いようだ。また、原理主義者による、ヨーロッパのイスラム教研究者への身の危険は絶えず起きているようである。

 マレーは罪悪感自体に対してはネガティヴなわけではない。しかし、これが、道徳的陶酔に陥ると、すでに大きな問題になっている文化摩擦等について目をつむることになり、不法移民を含む大量の移民に対してあくまで寛容さを保とうとする姿勢となって、リベラルを重んじる政治家が問題を先送りしている点を批判している。つまり、西洋のリベラルは、女性の権利やLGBTの権利を主張し続けながら、そのような権利を認めようとしない人々を何百万人も移入することに賛同し続けたというわけである。

2019年1月30日水曜日

米国によるイラン制裁の影響が自分にまで及ぶとは


 米政府は、2018114日に、これまでの中で最も強力なイラン制裁を発動したようだ。イラン国営企業からの原油、石油製品購入、イランの中央銀行や指定銀行と外国金融機関による代金決済取引など、イラン貿易にとって重要な活動が禁止されるようである。イラン制裁については、アラブ諸国との紛争以外に、国内での人権抑圧などさまざまな問題に加えて、核開発が大きな根拠になっているようだ。しかし、私自身を含めて多くの日本人にとって、それで原油の価格が上がらないかどうか程度の関心しかないだろう。

 まさかそれが自分にまで及ぶとは考えもしていなかった。 現在、米国の某出版社から出版される専門書の編集を行っているのだが、先日、その担当の方からお知らせメールをいただいた。この米政府の決定に従い、編者や執筆者の中にイラン人がいると、その書籍は出版できないということのようだ。幸い、現時点でイラン人の執筆者はいないので、おそらく特に問題は生じないとは思う。しかし、こういう状況での反実仮想の常として、もしイラン人が執筆者に含まれていたらどうしただろうかと考え込んでしまった。出版の自由の侵害として、出版社に抗議するだろうか。イラン人執筆者に理由を述べて降りてもらうだろうか。まあ、とりあえずは、イラン人執筆者がいたらなぜまずいのかをもっと詳しく聞いた上での判断ということになるだろう。

 この制裁に対しては、EU加盟の、英国、ドイツ、フランスはいずれも反対している。イランと「合法的なビジネス」を行う欧州企業を支援するために、問題視されているSWIFTに代わる決済手段があれば、米国の制裁を回避しながら取引ができるようになると考えているようだ。

 それにしても、この114日の決定について、日本では、産経新聞やビジネス系の新聞以外で、あまりこのことが取り上げられていない。この制裁について、反対するにしろ、賛成するにしろ、根拠を述べながら論述するような記事が少なくて、日本人の関心を集めていないことが残念である。

2018年4月9日月曜日

大学文科系学部の価値―異文化共生


 3月の末にフランスから帰国したが、いまだに時差ぼけが治まっておらず、午後から夕方くらいに強烈な眠気に襲われることがまだある。しかし新学期は始まっており、なんとか新年度に適応しなければならない。

 ここ10年くらい、日本の大学、とくに国公立大学において、人文科学や社会科学、いわゆる文科系学部が何の役に立つのかという議論が行われるようになった。そして日本では、文理融合的学部への編成が奨励されている。この文科系不要論はフランスの大学人にも脅威なようで、各大学においていろいろと議論がされているようだった。芸術等に価値をおくフランスではそういうことはないと思っていたので、かなり意外だった。

 実は、3月に訪問したトゥール大学とわが大阪市立大学大学院文学研究科は、教育研究協定を結ぶのだが (3月の私の渡仏の目的の一つである)、トゥール大学側は、私が考えていた以上に協定後の交流に積極的であった。その大きな理由の一つが、異文化理解が研究としても教育としても奨励されていることである。さらに、トゥール大学として、この異文化理解を文科系学部の価値の一つとして推し進めようとしているようだった。

 確かに異文化理解は、フランスの緊急のニーズの一つである。アルジェリアやチュニジア、マリ、コートジボワールなどの旧アフリカ植民地諸国からの人々、中東の人々、難民などを受け入れ、どのようにして文化摩擦を緩和して異文化共生を達成できるのかという問題が大きくのしかかっているのだ。これを一歩誤ると、移民排斥が起きたり、極右が台頭したり、あるいは旧植民地諸国との関係が悪化したりしてしまう。こういう状況で、それぞれの文化における価値とは何なのか、またその価値を土台としてどのようなモラルや習慣が形成されるのかという問いかけができるのは、やはり文科系学部だというわけである。

 日本における異文化理解問題にはフランスほど切羽詰まったものはないかもしれないが、重要であるにもかかわらずマイノリティの問題として軽視されているようにも思える。以前にこのブログで、文科系、さらにいえば私が所属している文学部の価値として、市民リテラシーとしての卒業論文の意義を主張した。しかしそれ以上に、この現代のさまざまな変動の中で、人間の価値とは何か、あるいは人間の幸福とは何かといった問題に真剣に問いかけができるのはやはり文学部ではないだろうか。もちろん文学部以外の学部で、そういうことが考えられていないというわけではないが、さまざまなアプローチを統合して、学際的に人間とは何かという問題を考えられるという強みが文学部にはあると思う。そして、そのような土台が、日本における異文化共生の問題への扉になるのではないだろうかと期待できるのである。

2017年11月5日日曜日

ボツワナ―「制度」によって豊かな国に

 最近、二つのきっかけでアフリカ南部の国、ボツワナに興味をもった。一つは、アセモグルとロビンソンの共著による『国家はなぜ衰退するのか―権力・繁栄・貧困の起源』の中で豊かになりつつある国として取り上げられていること、もう一つは、ボツワナ共和国の初代大統領だったセレツェ・カーマの実話を基にした映画である『A United Kingdom』を飛行機の中で見て感動を覚えたことが理由である。

 ボツワナは、世界の最貧国が集まるサハラ以南に位置し、南アフリカ、ナミビア、ジンバブエに囲まれたサバンナと砂漠の内陸国で、海洋や大河を利用した港もなく、1980年代からのエイズ被害も大きく、経済的に豊かになるには著しく不利な国である。第二次世界大戦後に英国から独立し、現在では、一人当たりのGDPがおよそ15千ドルと、周辺で最も国力がある南アフリカや、大きな経済成長を遂げている中国やタイよりも裕福なのである。

 アセモグルとロビンソンは、国が豊かになるか貧しくなるかを決定する要因として、最も大きなものが「制度」であると主張している。すなわち、人々の中に社会を繁栄させる基本的インセンティヴを生み出す経済制度が浸透しているかどうかが重要なのだ。この浸透のためには、貧しく経済的知識に乏しい国においては、最初は権力を持ったリーダーが現れ、インフラを整えて産業を興すことが必要である。ちょうど明治期の日本がその典型であろう。しかし、ある程度豊かになると、それらの富が個々人に配分され、民主的なレジームの中で社会を繁栄させるインセンティヴが健全に作用することが、次の段階の豊かさにつながる。

 映画『A United Kingdom』では、英国留学中に英国人女性と結婚したセレツェ・カーマがどのように人種差別あるいは人種間の偏見を乗り越えるかがテーマで、産業等についてはあまり触れられていなかった。しかし現実の歴史を紐解けば、カーマは産業の振興やインフラの整備について、かなり大きなリーダーシップを発揮している。その途上で世界最大級のダイアモンド鉱山が発見されたという幸運もあったかもしれないが、その利益でさらに産業を発展させ、かつ自分は独裁者にならずに民主的な制度を導入して、次の段階への豊かさを目指していた。「サハラ以南」という世界の貧困の代名詞のような地域において、部族間対立、差別と偏見、エイズ禍などさまざまな苦難があったにもかかわらずここまでの経済成長を遂げたことは、アフリカの奇跡とも呼べるものだろう。とくに、アパルトヘイトを堅持していた南アフリカからは、英国を通して相当な嫌がらせや圧力があったようだ。現代のボツワナの発展は、カーマと彼の周囲の人々、彼の後継者たちの想像を絶するような努力の賜物なのだろうと思う。最近は、野生動物の保護にも力を入れていると聞く。行ってみたい国の一つだ。

2017年10月26日木曜日

改憲論議の前に


 先日の衆議院選挙では、安倍晋三率いる自由民主党が多くの議席を獲得した。各党のさまざまな論点・争点がある中で、私が気になるものの一つに日本国憲法の改正、特に、第9条の修正がある。私はこれについては全くの素人ではあるが、心理学の立場からのグローバリズムへの適応等に関連して、どうしても関心が向いてしまう。

 改憲論議が盛り上がるのは悪くはないが、私の中では、その前にもっと議論して欲しいと思っていることがある。それは、パクス・アメリカーナと呼ばれる、第二次世界大戦以降あるいはソヴィエト連邦崩壊以降の、アメリカ主導の世界平和の評価である。もちろんこの議論は、努力して調べれば見つかるだろうが、少なくとも日本において、核の傘とか抑止力等以外にメディアで議論されることがほとんどないように思える。東西の冷戦時は、第三次世界大戦がいつ起こるかと危惧されていたが、幸い起こることはなかった。いくつかの代理戦争、小国同士の戦争、ジェノサイトなど不幸なことは起きたものの、今世紀に入ってからは、戦争やジェノサイトと呼ばれるものは消滅している(ただし南スーダンで進行中の可能性はある)。これは、世界の警察あるいは世界のリヴァイアサンたるアメリカ主体の国連軍事活動によるものなのだろうかという評価にもっと切り込んで欲しいのである。

 おそらく改憲派は、パクス・アメリカーナを高評価したうえで、それに追随した国際貢献できるための改憲ということになっているのだろう。しかしどういう意味で高評価しているのかという理由はあまり聞こえてこない。また一方で、護憲派(主として第9条を守れ派と呼んだほうがいいかもしれないが)については、この評価についての意見がほとんど聞こえてこない。否定的なのだろうか。

 なお、私自身は高評価派である。ただし、アメリカ主導のグローバル化の波は、それぞれの文化に価値があるとする文化相対主義的な視点からすれば、やはりいろいろと問題があり、戦争の消滅は、アメリカン・リヴァイアサンだけではないはずだ。もし低評価という人がいたら、そういう人たちの主張も聞きたいのである。

 こういうと私は改憲派と分類されるかもしれないが、パクス・アメリカーナ・レジームで、日本の現憲法のまま世界の秩序維持に貢献できる可能性を否定しているわけではない。核の傘のフリーライダーとしてではなく、あるいは単にアメリカン・リヴァイアサンを経済的支援するだけではなく、何か平和のシンボルとしての役割があるのではないかと模索したい。ただ、アメリカが、リヴァイアサンから手を引いたらお終いなのだが。

 なお、私のグローバリズムについての章は、以下のタイトルである。
A Perspective of Cross-Cultural Psychological Studies for Global Business
ResearchGateからなら無料でDLできる。