2023年11月25日土曜日

一神教と多神教―(1) 牧畜民の一神教

  比較宗教学にまで乗り込む気概は私にはないが、宗教心や信仰の文化差に関わると、どうしても気になるのが一神教と多神教の違いである。宗教起源的には、ヒトが宗教的な萌芽を示し始めて以降の、つまりアニミズム信仰、シャーマニズム、祖先崇拝、死後世界信仰、地母神や産土神などの地域神信仰の時代は、概ね多神教の世界が築かれていた。

 それらを背景に、枢軸時代と呼ばれる紀元前10世紀から5世紀くらいの間に、その後に影響を及ぼす世界的宗教が次々に誕生した。仏教は古代インドの多神教社会を受け継いだが、ユダヤ教やキリスト教は、周囲の多神教社会を次々に一神教に変容させていった。誕生は遅いが、イスラム教も一神教である。なお、世界的な影響力は小さいが、エジプトのアテン信仰も一神教である。

 一神教の登場が新しいからといって、一神教が多神教よりも発展的あるいは進歩的な宗教というわけではない。一神教が生まれるためには、経済的、生態的な条件が必要である。枢軸時代の重要な変化は生産性の向上による人口増加で、それによる集団間の紛争の激化が、宗教の形態に大きな変化を与えた。つまり、宗教にもさまざまな側面があるが、そのうちの集団の結束と協力を強める機能が重要になってきたわけである。それは、一神教的側面をもつ「我らの神」あるいは「高みからの神」の誕生である。この神は、集団の結束を高める上で大きな力を発揮し、さらに高みから、集団のそれぞれの成員が非道徳的な行為をしないかどうか監視する。つまり、集団に不利な利敵などの行為や、集団内での結束を乱す騙しや盗み、暴力・殺人に対して、罰が下されるというわけである。このような神は、集団が小さい状態でももちろん存在する。それらの集団がそのまま雑居的に維持されれば、多神教のままかもしれない。しかし、国のように大きくなった集団をまとめ上げるには、一神教はずいぶんと役立つことになる。

 このような一神教の神は、牧畜民から生まれやすいようだ。アテン信仰にしろ、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教にしろ、すべて牧畜民から生まれており、実際、旧約聖書には羊飼いや牛飼いが頻繁に登場する。牧畜民は、牧草地をめぐって常に近隣集団を緊張状態になりやすく、大きな集団をまとめ上げることができれば生き残りに有利である。この傾向は定住型農耕民よりも強い。余談になるが、集団主義文化と対比される個人主義文化も牧畜民から生まれやすい。牧畜民は、気候変動や隣接集団が敵になるのか味方になるのかなどによって、個人で迅速に意思決定を行わなければならない機会が多いためという説明がなされる。しかし、「我らの神」あるいは「高みからの神」との契約という発想が個人主義を促進している可能性も低くはないだろう。

2023年10月23日月曜日

パリでのカンファレンス(3)ーDaniel Lassiterのキーノートから

  20239月のHuman and Artificial Rationalitiesのカンファレンスでは、3件のキーノートがあった。そのうち、印象に残ったのは、言語学者のDaniel LassiterThe crucial role of linguistics in reasoning studiesというタイトルでのトークである。私が言語学者の研究発表に触れるのは、これまでは主として日本認知科学会である。しかし、ここ15年ほどはこの学会に足が遠のいているので、このような話を聞くことができたのは久しぶりで、消化不良でもあるが、面白かった。

 条件文推論において、人間が非規範的な誤りを犯すことはよく知られている。しかし一方で、規範通りの推論のはずが、日常言語として受け入れることができなくなるというのが、Lassiterの問題提起である。たとえば、「If A, then B」かつ「A」から「B」を導くのは、Modus Ponensと呼ばれ、論理学では鉄板の論理式である。このABには何を代入しても、成り立つはずである。「もし雨ならば、マイクは傘をさす」かつ「雨」からは、「マイクは傘をさす」を導くことができるのは、誰が見ても明白だろう。ところが、「もし雨ならば、マイクは常に傘をさす」かつ「雨」ならどうだろうか。Modus Ponensにしたがえば、結論は「マイクは常に傘をさす」となる。しかし、この結論には違和感を抱かないだろうか。その理由は、「常に」の意味が異なってしまっているからである。If節の中で使用されると、雨が降るというあらゆる機会において「常に」という意味になっているが、結論では、マイクが常に傘をさすという習慣が真であるという意味に変容しているからである。If節がなければ、「常に」は習慣を表現するのがデフォルトなのである。

 この問題は、形式のみからの議論では解決は期待できない。コンテクストと意味論からのアプローチが必要になってくる。一般に、「常に」のような量化副詞は、If節の中で使用されると、If節は、これによって「常に」の量化領域が制限されるというように解釈される。この例の場合には、「雨降りというあらゆる機会において」というように量化されているわけである。そこで、習慣的日常言語において、このような量化の変容が生ずるということを受け入れた上で、論理式の再定式化が必要になってくる。Modus Ponensの鉄板化のためには、If節の中の「常に」の意味が、「雨の間はずっと」という意味に変換できるような注釈をつけるというアイデアなどが考えられるかもしれない。しかしこれでは依然として日常言語においてなぜこのようなことが生じてしまうのかという問題への回答にはならない。

 こうしてみると、推論の心理学は、まだまだ言語学や論理学から学ぶべきことが多いように思える。心理学では、これまではなぜ人間の推論は、論理学などの規範から逸脱しやすいのかということが主として論じられてきた。しかし、論理学自体あるいは、それと日常使用言語との相互作用に注目することによって、より新たな発展が期待されるかもしれない。

 

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パリでのカンファレンス(2)2nd International Conference on Human and Artificial Rationalities

2023年10月14日土曜日

ハマスの暴虐に抗議する

 日本においては、リベラルはパレスチナ支持で、イスラエルを応援すると極右のレッテルを貼られることがある。そうすると大学などに勤務している人間はイスラエルを支持しにくいのかもしれないが、この2023年の10月に起きたハマスの、イスラエルに侵入しての暴虐行為は断じて許されるものではない。それにもかかわらず、ハーバード大学の一部学生団体がイスラエルの反撃を非難する声明を出したりしているが、こうなるとリベラルも自分の思考をリベレートしていないのではないかと思える。この暴虐行為は、ただのテロではなく、ホロコーストあるはジェノサイドである。なぜ原理主義者たちはこうなりやすいのか、なぜガザにおいて原理主義者が育ちやすいのかという問題は置いておいて、ここではイスラエルの大学の学長連合が表明した共同宣言を紹介したい。以下は、その全文の拙訳である。

 

わが朋友、全世界の大学学長へ

 困難な時を迎えた。私たちは、あなたたちの多くからいただいた支持や懸念について感謝している。

 周知のとおり、先週土曜日の早朝、ハマスはイスラエル国内で主に民間人に対して異常に残忍かつ暴力的な攻撃を行った。一部の学術機関の指導者らが公的な非難を発表している一方、他の機関では、これが、イスラエル人とパレスチナ人の間の多視点から理解可能な現在進行中の紛争における「また一つ加わった事件」にすぎないとみなされていることが分かっている。

 これは真実とは程遠いということを強調したい。これは特異的に野蛮な暴力行為であり、徹底的に絶たねばならない。なぜそうなのかを示すためには、バイデン大統領の演説で言及され、現在国際報道で明らかになっている、いくつかの真実の懸念詳細を共有する必要がある。私たちは、これらのことが私たちを揺るがしたのと同じくらい、あなたたちを不安に陥れるということを知っている。

 安息日と仮庵祭の休日、そして運命のヨム・キプール戦争 (第四次中東戦争) からほぼ50年が経った日に、ハマスはガザからイスラエルにロケット弾による奇襲攻撃を行い、その攻撃は北のテルアビブとエルサレム地域にまで及んだ。彼らは国境を突破し、国境を越えたイスラエル国内のコミュニティに住む女性、高齢者、子ども、若い家族などを残忍に虐殺した。 何百人もの、音楽祭に参加する子どもたち、平和活動家、80代のお年寄り、幼児をである。 多くはその場で虐殺され、あるいは発見されて殺されるまで何時間も家の中で身をかがめていたり、死の脅威に絶えずさらされて自宅やコミュニティで人質に取られたり、捕虜になってガザに連れてこられた人もいた。ガザのハマスが投稿した恐ろしいビデオには、負傷した人質が大歓声の街頭を練り歩かされる様子や、子どもたちへの残虐行為、高齢者への嘲笑、強姦や拷問などが映されている。

 これはすべて、ユダヤ人の町とベドウィンやアラブ人の村の両方を襲った無差別ロケット弾発射により、数百人のイスラエル人が負傷または死亡したことによるものである。つい2日前、アブ・ゴーシュ村のモスクがロケット弾の攻撃を受けた。

 はっきりさせておこう。これは「いつもの戦争」でも、イスラエル・パレスチナ紛争の単なる新たな一章でもない。「双方の側に良い人間」はいない。

 ハマスとイスラム聖戦は、タリバンやイスラム国を彷彿とさせる残忍で野蛮な組織であることが証明されている。私たちは、イスラエル以外の国々の一部のキャンパスで、ハマスやイスラム聖戦の行動を支援するために教員や学生が主導的に行っていることを聞いている、そのような支援の兆候に対して学術指導者から常に明確な反応があったわけではないことを理解している。アルカイダやイスラム国への支援がないのと同様、西側の民主主義社会ではそのようなテロ組織への支援はありえないということに、あなたたちも同意していただければ幸いである。民間人の意図的な虐殺や民間人を人質にとる行為を支持することはできない。

 高等教育と学術界の守護者として、人類の利益のため積極的に知識を追求し、明日のリーダーシップのロールモデルおよび教師として、私たちはすべて、コミュニティを教育する責任を共有してる。

 私たちはどのような価値観を伝えているのだろうか。それは、無条件に言論の自由と学問の自由である。しかし、民間人に対して行われる野蛮な暴力に対する抵抗というスタンスは加わるだろうか。私たちは、あなたたちもそのような暴力行為の放棄に協力してくださっていることを知っている。

2023年10月7日土曜日

パリでのカンファレンス(2)ー2nd International Conference on Human and Artificial Rationalities

  国際共同研究加速基金(B)によって、昨年もパリでHuman and Artificial Rationalitiesのカンファレンスに参加したが、このカンファレンスは、2回目と銘打って今年も行われた (2nd International Conference on Human and Artificial Rationalities)。なお、2024年には3回目も開催で、917-20日の日程で行われる予定である。本科研の海外拠点はツール大学で、そちらでは共同研究も進行中だが、今回の渡仏では、このカンファレンスのほうがプロジェクトに組み入られる形となって、主目的となった。2回目は4日間という日程で、参加者も随分と増えた。

 このカンファレンスは、テーマ題目にもあるように、合理性を人間側だけではなく人工側 (主としてコンピュータやロボット) からのアプローチにも注目している。とくに、ここ近年の深層学習を取り入れたチャットGPTに見られるAI側の発展には目を見張るものがあり、1980年代の認知心理学とAIの蜜月、すなわちAI側は認知心理学の知見を利用してより人間の柔軟さを取り入れたプログラムの開発を試み、認知心理学側はAIプログラムの成功・失敗から人間の認知において用いられる原理を模索するという両者の関係を再び夢見ているのかなと思ったが、このカンファレンスでは、AI側のそのような発表は少なかった。その代わり、現代における切実な問題として、AIとどのように付き合うのか、言い換えれば、どのようにAIやロボットを使用するのかあるいはそのお世話になるのかという発表や、使いやすいAIやロボットはどのようなものかという発表が多かった。

 私の発表は、Are humans moral creatures? A dual-process approach for natural experiments of history.というタイトルである。これは、これまで書籍『生きにくさはどこから来るのか』やAdapting Human Thinking and Moral Reasoning in Contemporary Societyにおいて書いてきたことを、二重過程理論における内省的システムが直感的システムをどのように制御するのかという問題を軸とし、歴史における自然実験を材料にして、「人間は道徳的な生き物なのか」という問いかけを行うものであった。「歴史における自然実験」では、一般に独立変数が設定されている場合が多い。たとえば、ある国において、特定の制度を取り入れた地域と取り入れなかった地域で、その後の発展 (これが従属変数になる) がどのように異なったのかを検討するような研究が代表的だろう。しかし私が用いたのは、大きな社会的変化 (従属変数) があった場合、どのような要因が独立変数となっているのかを、内省的システムの制御という視点から検討するという手法である。つまり、モラルが向上されたとする18世紀ヨーロッパの啓蒙の時代と人権の大きな高揚が見られる第二次世界大戦後を材料として、それを内省的システムの制御として内省的システムを機能させた独立変数を探り、小説の普及とそれを理解するマインドリーディングを内省的システムが制御させた結果であるとする結論が導かれた。“Are humans moral creatures? という問いかけに対する回答は、yesである。

 

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パリでのカンファレンスーInternational Conference: Human and Artificial Rationalities

2023年8月20日日曜日

日本の農業についての素人的かつ経験的私論

  ロシアによるウクライナ侵攻は、世界的な穀物の価格上昇と世界規模での食料不足の不安をもたらした。この状況に、岸田首相は「農政の転換を進めていく」と宣言している。そして、政府は来年の通常国会に「食料・農業・農村基本法」の改正案の提出を予定しており、食料安全保障の体制強化をしようと試みているようだ。私自身は、国際的相互依存は戦争の抑止力になるので、食糧自給はあまり気にする必要はないと思っていたが、独裁国家はこの相互依存を脅迫の道具に使用することが現実にあり得るとのことで、この体制強化は歓迎すべきだろう。

 しかし日本の農業自体は、後継者不足による「農業従事者の先細り」という大きな問題を抱えている。それはそうだろう。日本は兼業農家が大きな割合を占めるが、都会に出て職を見つけた人は、狭い農地での農業を継ぎたいとはなかなか思わないし、また、専業農家にしても、諸外国と比して農地は決して広大とはいえず、どうしても集約的で生産性が低い農業になってしまう。そうした状況で、成功した農業として紹介されるのは、ブランド化などの高級路線である。たとえば、15000円のメロンとか、11000円のイチゴとか、まあ、成功に越したことはないかもしれない。しかし、この路線で食糧自給という難問が解決できるだろうか。まず無理である。「小麦を食べられなければメロンを食べたらいい」で済む問題ではない。

 日本の農業の決定的な問題は、どの農家も小規模であるという点である。この遠因は、第二次世界大戦後の農地改革にある。改革以前は、少数の地主と大多数の小作というのが実情で、それが農村の貧困の原因だった。それで、GHQの指揮の下、日本政府によって行われた農地の所有制度の改革が行われ、大地主が解体されられて、小作農は自作農になることができたというわけである。当時はそれで農村が豊かになったのかもしれないが、結果的に、小規模農家ばかりが多くなり、現代の農村の衰退を招いているというわけだ。現代は、農業以外の産業による雇用機会が多くなり、いくら自作農でも、生産性が低い小規模農家を継ぎたいという人は少なくなってしまった。

 この問題を解決できる唯一の方法は、農業の大規模化だろう。これを実感したのは、フランスで生まれて初めて玉ねぎ収穫機を見たときである (この玉ねぎ収穫機は、日本でも北海道や淡路島で使用されているらしいが)。フランスが農業大国であることは良く知られているが、ずっと遠くの向こうの丘までの玉ねぎ畑を玉ねぎ収穫機で収穫しているのを実際に自分の目で見ると、日本の農業がいかに小規模かというのを実感できる。日本の大都市近郊農家が、畑で10畝くらいの玉ねぎを育てているのでは、とても太刀打ちできない。

 大規模化のために、現在、兼業農家、専業農家で後継者がいない、あるいは相続したくないという農地を、大資本が買い取ってもっと大規模に農業を行うというのはどうだろうか。大規模化と機械化による生産性の高まりで、被雇用者は、かつての貧しい農民とはほど遠いイメージになる。また、国の助成金に頼ることなく、安価な農作物を大量に生産することができる。現実的に、この資本になるうるのは「農業協同組合」ではないかと思うが、新しい起業家であってもかまわない。ただし、実際にはさまざまな困難が予想されるだろう。相続したくないといいながら、先祖代々の農地は売りたくないとか、そういう農家は決して少なくないはずだ。

 私が、小学校高学年、中学生のころ、夏休みの終わりころに稲刈りが始まり、それを手伝わされた。稲はかぶれやすく、長袖長ズボンでの暑さの中の作業は辛かった。社会の授業などで米国などの機械化された大規模農業などの話を聞いて、羨ましいなと思った経験に基づく私論である。

2023年8月8日火曜日

自民党女性局のフランス研修―これを「外交」と呼んだら、真摯に「外交」に取り組んでいる人たちに失礼

  自民党女性局のメンバーが、少子化対策や子育て支援などの視察や意見交換のためにフランスを訪問し、エッフェル塔などでの「観光旅行風」写真が物議を醸しだした。当初は、私は、こういう写真をSNSなどで掲載したら観光旅行と思われて批判の対象になるということを予想できなかった想像力の欠如を感じたが、国際的な人的交流が必要な中、渡仏自体は問題がないと思っていた。

 この批判に対して、松川るい氏は反省の弁を述べていたが、今井絵理子氏は、「政治における女性参画について意見交換。国会議員の仕事で重要なものの一つが『外交』です。以前、こんな言葉を聞きました」と記し、「『内政の失敗は内閣を滅ぼすが、外交の失敗は一国を滅ぼす』。外交も人間関係の構築から始まります。だから私は度々、他国の人々と交流のためにその地を訪れます」と強弁していた。確かにその通りなのだが、私を含めて多くの国民が唖然としたのは、研修や交流の時間が6時間という短さだったことである。

 百歩譲って、この6時間のために、フランスの少子化対策や子育て支援について事前に学習し、かつ意見交換をフランスの政治家や彼らのブレーンたる研究者と行っていたならばそんなに問題はないかもしれない。しかし、事前学習の報道がないことから推察すれば、まずこれはほとんどなかったのだろう。

 フランスでの施策的成功が日本にそのまま取り入れられるのかどうかについては、さまざまな視点から考慮する必要がある。概して産業国では少子化が進んでいるが、日仏両国は、本当に共通の要因による少子化なのだろうか。また、日仏両国の文化および文化的価値観の違い、制度の違い、家族形態の違いなど、さまざまな差異を認識したうえで、フランスで行われている施策の取捨選択が必要になってくる。とくに家族形態について、エマニュエル・トッドによれば、日本は「父系直系家族」に分類されるが、フランスは、パリ盆地付近では「平等主義的核家族」だが南部では「直系家族」他とされている。家族形態の違いは、誰に最も子育ての負担がかかるのかという差異を生じさせるので、非常に重要な要因である。さらにそれ補完するように「制度」が決められるので、要因分析はますます複雑になってくる。

 このような作業が今井絵理子氏にできるのだろうか。当初、彼女が国会議員に立候補することが決まったとき、その資質についていろいろと疑問視されてきたという経緯がある。私には、まず無理だろうと思える。その今井氏が上述のセリフを吐いたとなると、彼女の辞書の中で「外交」という項目にはどんな意味が記載されているのだろうか。実際、貿易や平和・軍事のための外交は恐ろしくたいへんな作業なのではないかと思うが、今井氏は、自分が行ったこともこのようなレベルと同等と考えているのだろうか。今井氏が、自分の辞書の「政治」や「外交」の意味から、「だから私も政治家になって外交ができる」と考えていたのだとすれば、申し訳ないが、誰かがその辞書を書き換えて差し上げる必要があるだろう。

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2023年7月27日木曜日

What makes us think? ―あるいは何が思考を止めるのか?

  725日と26日に、第14回のLondon Reasoning Workshopが行われた。今回から、BirkbeckカレッジからGreenwich大学に変更になった。ぜひ行きたかったのだが、まだ前期の授業期間ということで参加を見送り、8時間の時差はあるものの、遠隔で参加した。昨年も遠隔だったが、やはりこういうワークショップは実際に参加するほうが実りがある。ワークショップでの質疑応答だけではなく、合間やディナーなどでの雑談などが有意義なのだ。

 気になっていた発表が、V. ThompsonによるFOR (feeling of rightness 「正解感」が適訳だろうか) についてものである。この概念は、直感的システムと内省的あるいは熟慮的システムを想定する二重過程理論において、デフォルトとしての直感的システムによる判断から、どのような場合に内省的システムが起動させられるのかという問題 (すなわち、What makes us think?) への解として提唱されている。つまり、直感的システムによる判断のFORが高いと、そこで思考が止まってしまって、内省的システムが起動しないというわけである。それでは、直感的システムのデフォルト解が間違っているにもかかわらず、どのような状況でFORが強くなるのだろうか。モデルとしては、推論を監視するメタ推論が想定できる。メタ推論による監視が不十分なら、不正解にもかかわらずFORが高くなってしまう。

 多くの認知的バイアスによる誤答は、どれもFORが高い。したがって内省システムによる修正が機能しにくくなる。認知的バイアスは直感的システムの産物であり、直感的システムは進化的に古く、かつヒトの脳が進化した野生環境では何らかの意味で適応的だったと思われるので、FORが高いという説明が可能かもしれない。これらが誤答とされるのは、現代文明の基準にすぎないというわけだ。

 もう少しミクロプロセスを追及してみよう。Thompsonの発表で言及されたわけではないが、FOKが高い典型的な例が、以下のようなレベスク課題に見られる。

太郎は花子を見ており、花子は次郎を見ている。

太郎は既婚だが、次郎は独身である。

この2つの陳述から、「既婚者は独身者を見ている」と言えるだろうか?

  1. 言える   2. 言えない   3. どちらとももいえない

多くの人は、3の「どちらともいえない」と答えるが、正解は、1の「言える」である。つまり、花子が独身ならば、既婚の太郎が花子を見ているので「言える」し、花子が既婚であっても、既婚の花子が独身の次郎を見ているので、やはり「言える」わけである。ところが、多くの人は、花子が既婚か独身かわからないので、「太郎は花子を見ている」という陳述のみにおいても、「花子は次郎を見ている」という陳述のみにおいても、それぞれ「どちらともいえない」ので、全体の解も「どちらともいえない」であると考えてしまう。陳述それぞれにおいて「どちらでもない」ので、この「どちらでもない」のFOKは非常に高くなる。そうなると、場合分けという内省的プロセスに進むことなく思考はストップし、かくして誤答が増大する。では、正解ではないのに、それぞれの陳述についての局所的な解でなぜFOKが高くなってしまうのだろうか。現時点では、ヒトの限られた認知容量を節約する合理的な戦略の結果であろうという暫定的な結論になるが、このような分析をいろいろなバイアスにおいて行うことが今後必要なのかなと思う。

 

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