岸田政権が、少子化問題への対処として、異次元の子育て支援を打ち出している。この少子化は、産業国において共通の問題になっている。かつての、豊かな家族ほど子どもを育てる余裕があって、その結果子どもの数が多くなるという大原則とは逆に、産業革命以降は、豊かな国あるいは豊かな家族において少子化現象が普遍的に見られるようになっている。
このメカニズムは、次のように説明できる。まず、産業化によってその中で豊かになるためには教育が重要になってくるが、実際、産業革命以降は豊かな家族が増えて、子どもに教育を受けさせる経済的余力が生じてくる。しかし、子どもに教育を受けさせると労働力としての収益が失われるので、経済的余力がそれを上回らなければ教育は難しい。それが可能になる家族が増えるのは産業革命以降であり、教育投資への動機は、教育を受けるか否かでその後の収入に大きく差が生じてくると、ますます強くなる。
さらに、豊かになると平均寿命が長くなり、かつ子どもの死亡率が低下する。そういう状況で、自分の老後に子どもが一人もいなくなる(したがって、養ってもらえなくなる)というリスクが低下し、かつ一人当たりの教育にコストがかかるようになると、自然と少子化に向かうようになる。豊かになっても、多くの子どもがいると均等に高等な教育を受けさせると、コストが大きくなってくるからである。さらに、産業化によって女性が担当不能な肉体的労働の比率が低下し、女性の平均的賃金の上昇とともに女性の仕事場が家庭から社会にシフトし、それが出生率の低下を促進した。実際、19世紀の初めころは男女で大きな識字率の差があったが、それが20世紀になると随分と小さくなってきている。識字率は社会進出の指標たりうる。女性の賃金が上がれば家族の収入増となり、子どもの数を増やすことができるはずなのだが、晩婚化や出生率の抑制の影響の方が強く現れてしまっているのが現実だ。さらに、子どもをもつことが女性のキャリアに負の影響を与えるようになると、子どもを持たないという選択肢が増えて、ますます少子化が促進されるようになる。
人々が豊かになっていく途上において、ゆるやかな少子化は、決してマイナスではなかったはずである。多産多死の社会よりも、少産少死の社会のほうが、一人一人の幸福という点でははるかにましである。それを考慮して、少子化に対して、どの国も当初は問題視してこなかった。日本も、この国土で1億3千万人に迫ろうとしていた人口は少し多すぎるのではないかという懸念があり、当初はむしろ少子化は歓迎気味だったのではないかと思う。減ってもまた増えるという楽観主義があったことも否定できない。そうした中で、労働力の減少や高齢者割合の増大など、近未来に生ずる大きな問題として取り上げられるようになった。少子化問題は、温暖化問題とともに、現代の人類の大きな問題となりつつある。しかし、産業化による女性の社会進出に歯止めをかけるという方向にだけは向いてほしくはない。
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