2023年6月19日月曜日

評価は分かれるかもしれないが、十分に楽しめる『どうする家康』

  私の一週間のうちの最も楽しい時間がNHKの大河ドラマと京都サンガの応援というと、「他にもっと楽しいことがないのか」という反応と、「幸福な人生だ」という反応が返ってくるが、私自身としては後者でありたいと願っている。『どうする家康』も、どうでもよいような逸話に時間が割かれすぎる傾向がある (正直、浅井の裏切りを金ヶ崎まで走って告げに行った架空の人物である阿月を登場させるくらいなら、浅井長政の苦悩を見たかった。また、秀康を生んだお万の方による家康に対する誘惑は、この心理的背景を想像できず、理解不能だった) が、ほぼ鳥居強右衛門の心情記述と行動に使われた長篠の回は、すばらしかったと思う。

 まず、松本潤演ずる家康の、幼児期からの成長を含めた変容が興味深い。当初のファンタジー少年からどのように変化をしていくのか観察したが、「突如人が変わる」のではなく、一つの人格の中での変化として描かれて、非常に自然な人間としての実在性が感じられる。今後、秀吉とどのように付き合うのか、秀吉の妹の旭をどのように迎えるのか、関ケ原、大坂の陣ではどのような家康を見せてくれるのか、期待は大きい。

 また、演出や脚本によるものだろうが、細かいところでの笑いも多い。私が思わず噴き出したのが、山田クン演ずる本田忠勝の、三方ヶ原の前哨戦である一言坂の戦いから帰った後のセリフである。忠勝には、生涯を通じて57回の合戦に出陣して、かすり傷一つすら負わなかったという逸話があるが、戦いの報告をしている忠勝は血だらけだった。私は、この逸話は無視なのかなと思ったとたん、「傷一つ負わなんだ。返り血じゃ」というセリフが飛び出した。これだけ笑った強弁も珍しい。

 もう一つは、大森さん演ずる酒井忠次の「エビすくい」である。歴史的な資料にもあり、あながち脚本家の創作ではないようだが、これまでたびたび登場して、私自身、ちょっとしつこいのではと思っていた。ところがである。忠次が武田方の鳶ヶ巣山砦に奇襲をかけることになったとき、同僚武将から次々に「死ぬな」と言われ、もっと景気がよいものはということで、この「エビすくい」が飛び出した。忠次が音頭をとり、諸将が踊る中、それを呆れた表情で眺めている板垣クン演ずる新参の井伊万千代(直政)の存在感は抜群だった。わたしは、このシーンための「エビすくい」だったのかと納得した。

 また、これまでは、旧今川としての怨念や悲しみはどうなったのかわからず、何を考えているのかわかりにくかった有村さん演ずる瀬名だが、ここにきて存在感を増している。武田方で、瀬名と交流があったと言われている唐人医の減敬が、実は田辺さんが演ずる穴山信君だったという設定も興味深い。穴山信君は、このあと徳川方に寝返って武田滅亡の主因となるが、瀬名と信君がどのような会話を交わすのか非常に楽しみである。

 

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後知恵がなければ確かに「どうする?」になる―『どうする家康』雑感

2023年5月18日木曜日

少子化についての素人的私見(2)―母子の絆が強いという日韓の共通点

  少子化について、前稿の(1)では産業国の普遍的傾向を述べた。しかし、そのような国々の中で、日本と韓国は出生率が際立って低い。さらに、産業国の中で、自殺率が高いという特徴も共有している。自殺率と呼応するように、両国とも主観的幸福感は高くない。低出生率、高自殺率、低幸福感というこの3特徴を並べると、両国とも決して住みよい国とは言えないが、このような共通点から、少子化の特異的要因を考察する価値がある。

 日本と韓国は、最も互いに類似している二国ペアの1つである。東アジアの儒教文化圏というだけではなく、いろいろと議論はあるかもしれないが、個人よりも集団を重視するという集団主義文化、規則等への遵守が厳しいタイトな文化、コミュニケーション時に共有コンテクスト依存度が高い高コンテクスト文化という文化的特徴を共有する。また、集団主義文化の特徴とされる、家族的紐帯の強さ、メンツの重要さも挙げることができる。さらに、エマニュエル・トッドによれば、どちらも「父系直系家族」という特徴を有している (父系直系家族については、必ずしも東アジアの特徴ではなく、トッドによれば、たとえばドイツなども含まれている)。そして、何よりも両国とも、非常に短期間の間に、西洋式のシステムを取り入れて産業国になったという点が似ている。

 これらの共有特徴から、どのように両国における少子化が他の産業国よりも速く進んでいったのかという問いに対する回答を推定できる。まず注目すべきは、父系直系性だろう。これに儒教的男女役割分担が加わると、女性はせっかく就業などの社会進出があっても、家事的負担が小さくなるわけではなく、必然的に子育てをする余裕がなくなり、子どもを持たないという選択になる。さらに、二世代あるいは三世代同居が当然の時代から、産業化等によって急激に核家族が増えた。かつては大家族あるいは共同体で子育てをしていたのが、それらが失われて両親あるいは母親のみに子育ての負担が大きくのしかかってくるようになった。家族形態の変化がゆっくりならば、育児にまつわる慣習も徐々に変化する。しかし、変化が急激すぎて、子育てを誰がどのようにすればよいのか戸惑ってしまっているというのが現状だろう。家族形態の変化に子育てシステムが追いついていないわけである。

 家族的紐帯の強さとメンツの文化も、子どもを持たないという選択肢を促進する。日本も韓国も家族的紐帯がつよく、特に母子関係については母子一体化といわれるくらい強い。すると、とくに母親にとって自分の子どもは自身の一部となり、子どもの優秀さが自身のメンツに強く結びつく。たとえば、ママ友の間では、子どもの優秀さがカーストの決定因になるということはよく聞く(都市伝説なのかもしれないが)。そうすると、子どもに十分な教育を施せないかもしれないという不安から、子どもは持たないという選択肢に至る。自分のカーストを下げる可能性があるからである。このように推察すると、両国における子どもに対する異常と感じられる教育熱の高さも理解できるだろう。日本人は、韓国人の教育熱を異常なのではと感ずることがあるが、西洋人からみると、日本の塾などの教育産業が異常と映っているようだ。

 自殺率の高さも、家族形態などの急激な変化と、メンツ文化の産物なのではないだろうか。ところで、これは韓国のある教授から伺った話だが、釜山の海岸沿いに絶壁になっているところがあり、そこでの自殺者が非常に多かったようだ。そこで、市の当局が、その場所に母親が子どもを慈しんでいる母子像をつくり、「母が悲しむ」というメッセージを入れたら、そこでの自殺者が激減したということである。母子の絆は子どもを産み育てるエネルギーになるはずなのだが、それが少子化を加速しているとすれば、非常に逆説的である。

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少子化についての素人的私見(1)―産業国での普遍的傾向

2023年4月30日日曜日

少子化についての素人的私見(1)―産業国での普遍的傾向

  岸田政権が、少子化問題への対処として、異次元の子育て支援を打ち出している。この少子化は、産業国において共通の問題になっている。かつての、豊かな家族ほど子どもを育てる余裕があって、その結果子どもの数が多くなるという大原則とは逆に、産業革命以降は、豊かな国あるいは豊かな家族において少子化現象が普遍的に見られるようになっている。

 このメカニズムは、次のように説明できる。まず、産業化によってその中で豊かになるためには教育が重要になってくるが、実際、産業革命以降は豊かな家族が増えて、子どもに教育を受けさせる経済的余力が生じてくる。しかし、子どもに教育を受けさせると労働力としての収益が失われるので、経済的余力がそれを上回らなければ教育は難しい。それが可能になる家族が増えるのは産業革命以降であり、教育投資への動機は、教育を受けるか否かでその後の収入に大きく差が生じてくると、ますます強くなる。

 さらに、豊かになると平均寿命が長くなり、かつ子どもの死亡率が低下する。そういう状況で、自分の老後に子どもが一人もいなくなる(したがって、養ってもらえなくなる)というリスクが低下し、かつ一人当たりの教育にコストがかかるようになると、自然と少子化に向かうようになる。豊かになっても、多くの子どもがいると均等に高等な教育を受けさせると、コストが大きくなってくるからである。さらに、産業化によって女性が担当不能な肉体的労働の比率が低下し、女性の平均的賃金の上昇とともに女性の仕事場が家庭から社会にシフトし、それが出生率の低下を促進した。実際、19世紀の初めころは男女で大きな識字率の差があったが、それが20世紀になると随分と小さくなってきている。識字率は社会進出の指標たりうる。女性の賃金が上がれば家族の収入増となり、子どもの数を増やすことができるはずなのだが、晩婚化や出生率の抑制の影響の方が強く現れてしまっているのが現実だ。さらに、子どもをもつことが女性のキャリアに負の影響を与えるようになると、子どもを持たないという選択肢が増えて、ますます少子化が促進されるようになる。

 人々が豊かになっていく途上において、ゆるやかな少子化は、決してマイナスではなかったはずである。多産多死の社会よりも、少産少死の社会のほうが、一人一人の幸福という点でははるかにましである。それを考慮して、少子化に対して、どの国も当初は問題視してこなかった。日本も、この国土で1億3千万人に迫ろうとしていた人口は少し多すぎるのではないかという懸念があり、当初はむしろ少子化は歓迎気味だったのではないかと思う。減ってもまた増えるという楽観主義があったことも否定できない。そうした中で、労働力の減少や高齢者割合の増大など、近未来に生ずる大きな問題として取り上げられるようになった。少子化問題は、温暖化問題とともに、現代の人類の大きな問題となりつつある。しかし、産業化による女性の社会進出に歯止めをかけるという方向にだけは向いてほしくはない。

2023年4月14日金曜日

プレスリリースー日本人・中国人のコミュニケーションスタイルを解明

  私の研究室の大学院生の呉長憶さんを筆頭著者とする論文が、Wileyから出版されている国際誌のGlobal Networks3月末にオンライン掲載され、大阪公立大学からプレスリリースしていただいた。以下がその内容で、本ブログでも紹介したい。

 

 人々がコミュニケーションを行う場合は、話し手と聞き手が共有する情報であるコンテクストを利用します。このコンテクストの依存度には文化差があると考えられ、西洋人は依存度が低い『低コンテクスト文化』、東洋人は依存度が高い『高コンテクスト文化』とされてきました。

 大阪公立大学大学院 文学研究科 呉 長憶大学院生と山 祐嗣教授の研究グループは、高コンテクスト文化とされている日本人および中国人は、相手国の人とコミュニケーションを取る際、高コンテクスト文化から低コンテクスト文化にコードスイッチングしていることを明らかにしました。さらに、日本人は、日本で生活している中国人留学生に対しては、コードスイッチングをあまり行わないことも明らかとなりました。本研究により、人々が異文化間コミュニケーションを行う際は、低コンテクスト文化である可能性が高いことが示唆されたと同時に、低コンテクスト文化は異文化交流が多い環境で形成されやすいことも示唆されました。

<研究の背景>

 人々がコミュニケーションを行う場合は、話し手と聞き手が共有する情報、すなわちコンテクストを利用します。たとえば、友人を花見に誘う場合、日本人相手なら、「花見に行かない?」というだけで意図を理解してもらえます。その理由は、花見とは何かからその雰囲気まで、コンテクストとして共有されているからです。コミュニケーションにおけるこのコンテクストの依存度には文化差があると考えられ、西洋人は依存度が低い『低コンテクスト文化』、東洋人は依存度が高い『高コンテクスト文化』とされてきました(e.g., Hall, 1976; Meyer, 2014; Yama & Zakaria, 2019)。いわゆる、阿吽の呼吸は典型的な高コンテクスト文化のコミュニケーションスタイルです。

 従って、日本人も中国人も同じ東洋人として高コンテクスト文化圏のはずですが、先行研究において『日本人は、中国人のコミュニケーションスタイルが、西洋人と同じように低コンテクスト文化であると信じている』という主張があります(山科, 2018)。私たちはこの理由を、日本人は比較的他国の人々より中国人と接点があると同時に、中国人は日本人とコミュニケーションを行う際にコンテクストが共有されないことを考慮しているためではないかと推論しました。この解釈の背景には、低コンテクスト文化は、異文化コミュニケーション時に生じやすいとする主張(Gudykunst, 1991; Ting-Toomey, 1999)と、人々が異なるコミュニケーションスタイルに対応する際の適応行動として、高コンテクスト文化と低コンテクスト文化をコードスイッチングするという主張(Zakaria, 2017)があります。日本人ではなく中国人を誘う場合は、花見とは何かの説明をくわえるわけです。そこで本研究は、この解釈について検証することを目的に実施しました。

<研究の内容>

 本研究では、コンテクスト依存度を測定する17項目の質問紙(Richardson & Smith, 2007)を用いて、日本人大学生(65名)と中国人大学生(80名)、日本で生活している中国人留学生(50名)を対象にアンケート調査を行いました。各グループは、各質問(「伝えたいことを全部言葉にしなくても、聞く人は話す側の意図がわかるはずである」など)に対して『自分自身はどの程度当てはまるか』『自国民はどの程度当てはまるか』『他国民(日本人なら中国人、中国人および中国人留学生なら日本人)はどの程度当てはまるか』を回答しました。

 その結果、日本人学生と中国人学生では、相手国の人々を低コンテクスト文化であると判断していることが明らかとなりました。つまり、相手に対して自分の国の常識を知らなくても大丈夫なように、コミュニケーションスタイルのコードスイッチングを行い、互いに相手を低コンテクスト文化と判断したわけです。しかし、これらの違いは中国人留学生には見られませんでした。つまり、すでに日本とコンテクストを共有している留学生には、日本人は低コンテクストスタイルにコードスイッチングをする必要がなくなった結果と解釈できます。

 これらの結果は、人々が異文化間コミュニケーションを行う際は、低コンテクスト文化的状況である可能性が確認されたと同時に、低コンテクスト文化は異文化交流が多いような環境で形成されやすいことを示唆します。さらに、異文化コミュニケーション時にコードスイッチングを行うことも示唆されました。

<期待される効果・今後の展開>

 この研究には、理論面と実用面の2つの意義があります。理論面としては、高低コンテクストという文化の違いがどのように生まれるのかについて、生態的・地勢的な説明理論に発展させることが可能です。本研究によって、異文化交流時に低コンテクスト文化的コミュニケーションスタイルが用いられやすいことが示されましたが、古代ギリシャのように異文化間の交流が盛んで、1つの文化に統一されにくい地勢的環境で低コンテクスト文化が生まれやすいとする理論に発展させることができます。これが、西洋の低コンテクスト文化の源流となっていると推定できます。

 また、実用面としては、効率的なコミュニケーションの促進に示唆を与えてくれます。高コンテクスト文化の人は、低コンテクスト文化の人とのコミュニケーション、あるいは異なる高コンテクスト文化の人とのコミュニケーションにおいて、誤解や葛藤がよく起こります。これは対人関係に悪影響を及ぼします。したがって、相手の話し方に合わせて自身のコミュニケーションスタイルを変えることは、コミュニケーションの質を改善するために非常に重要です。今後は、人々の生活適応能力、コンテクスト依存度、コードスイッチング能力の三者間の関連性について、検討を加えていきます。

2023年4月1日土曜日

ウクライナ侵攻―ユートピア・イデオロギーの復活と経済的相互依存の脅しへの利用

  スティーヴン・ピンカーは、『暴力の人類史(The Better Angels of Our Nature: Why Violence Has Declined)』の中で、2011年時点で21世紀になってから世界において戦争が終結した理由の中に、「ユートピア・イデオロギーの弱体化」と「経済的相互依存の増大」があることを指摘している。しかし残念なことに、ロシアがウクライナ侵攻を始めてすでに1年以上が過ぎ、「戦争がない世界」とはとてもいえない状態になってしまった。現在の侵攻は1年余かもしれないが、2014年のクリミヤ侵攻からの継続ならば、すでに10年近く経っているといっても過言ではない。これまでのさまざまな報道から、ロシアにおいて、ユートピア・イデオロギーがこの10年で強くなっていること、経済的相互依存を他国への脅しとして使用していることが明白になっている。

 ユートピア・イデオロギーとは、「世界は~のようなユートピアになる」という共同幻想である。これはプラスに働く場合もあるが、第二次世界大戦時の日本の「大東亜共栄圏」や、ドイツの「ゲルマン民族の純潔が守られた国」というイデオロギーは、とんでもない結果をもたらしている。プーチン政権の場合は、ソビエト連邦というよりは、偉大なるロシア帝国の復活のようだ。ソビエト連邦の崩壊の後、ロシアは経済的に大混乱に陥った。それを独裁的な手法で立て直したのがプーチンであり、またロシア国民もそう信じている。そうすると、プーチンにとってこの独裁を維持する上でも、「偉大なるロシア帝国」ユートピア・イデオロギーは非常に都合がよく、また、国民がそれを信じやすい状況が生まれているといえる。ちょうど、明治維新の後の日本が独裁によって富国強兵という目標に邁進し、ある程度の軍事強国になって「大東亜共栄圏」というユートピア・イデオロギーが生まれた状況と似ているかもしれない。プーチンには、西側によってソビエト連邦が崩壊されたというル・サンチマンがあるようだが、明治維新後の日本も、西洋列強によってアジアが虐げられたという負の歴史への復讐が標榜されており、非常によく似ている。

 経済的相互依存は、本来なら戦争のストッパーになるはずである。経済的相互依存が強くなれば、隣国との戦争は、たとえ勝ったとしても経済的には失うものの方が大きいからである。ところが、ロシアは石油や天然ガスなどの豊かな資源を武器に、相互依存状態の国々に対して、脅しに利用している。これはウクライナに対してというよりは、ウクライナを支援しそうなヨーロッパの国々に対して用いられている。プーチンは、とくに、ノルドストリームの恩恵を受けているドイツはロシアに対して強硬な態度をとらないと予想していたようだ。

 ユートピア・イデオロギーの弱体化と経済的相互依存は、戦争の抑止として重要であることは変わりはない。しかし、独裁者の前では脆いということが実証されてしまった。とくに後者は、独裁者によって脅しとしての武器になることが示されたことは、経済のグローバル化にとって非常に残念である。

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『ルーズな文化とタイトな文化』を読む(2)―ロシアの独裁への適用

2023年2月22日水曜日

文学部が目指すもの―ホモ・クルトラエとしてのヒト・人間の探求

  文学部は何を目標とすべきか。そして心理学はどういう点でその目標に貢献できるのか。これは、私が現在の大学の文学部・文学研究科に赴任して以来、ずっと考え続けている重要課題である。残念ながら文学部は、経済学部や法学部と比較して社会の役に立つとあまり思われてはいない。しかし、人間あるいはヒトとは何なのかという問題を追及する人文学あるいは人間学を追求できる組織としての諸領域を包括しており、またそれを求められているのではないかと思う。いや、仮に社会において現実にそのような要請がなかったとしても、人間・ヒトとは何かという見解を示し続けることは必要だろう。

 人間・ヒトとは何なのかという問いには、それぞれの学問領域によってさまざまな回答がある。たとえば、経済学ならば、ホモ・エコノミカスと捉えての追求がなされるかもしれない。一方、文学部というところはさまざまな領域が含まれているが、それぞれの領域は、社会的哺乳類としてのヒトが集団あるいは社会を構成し、その環境でヒトらしくあるいは人間らしくなってきた戦略の研究と位置付けることが可能である。たとえば、集団内の利害調整のために何が正しいのかを模索しながら道徳を考案するという戦略は、現在は倫理学によって研究が行われている。また、集団内の人々を結びつけるために、あるいは他のメンバーを説得するために、言語、さらには物語が考案されたが、これらは現在では言語学や文学の研究領域となる。人々を結びつける戦略としては宗教も考えられるが、創造された「我らの神」は、副産物として「救済」と呼ばれる死の恐怖の緩和をもたらしている。この戦略を研究対象とするのはもちろん宗教学である。有史以降あるいは近代になってからの戦略には、集団メンバーの識字率上昇や知識の共有のための教育システム、社会が人々の幸福のために機能するためのデバイスなど、教育学や社会学の対象となるものが含まれる。この視点から見れば、心理学はこの戦略時に頭の中で行われていることあるいは戦略実施を可能にする能力を明らかにすることが期待される。また、歴史学は、これらの戦略の発展の記録である。

 これらの戦略を総称したものが「文化」である。文化というと、芸術などが思い浮かぶかもしれないが、広義には、社会集団を発展的に維持するための戦略あるいはソフトウエアと解釈することができる。すると、法システムや経済システムの構築も当然ながら文化に含まれるが、これらを対象とする研究が行われるのは法学部や経済学部であって通常は文学部ではない。しかし、いずれも戦略としての文化の研究であるといえる。

 ヒト・人間とは何かという問いへの文学部が可能な回答は、このような文化という戦略を創始・発展させてきた種であるということになる。つまり、ホモ・クルトラエ(culturae)なのである。実際、文部科学省のウェブサイトの人文学の機能というページには、人文学は、個別の研究領域に背後にあって知識を生み出している「人間」についての学であると記されているが、ここで記した私の見解は、この文言の「知識」を「社会的集団としての戦略」に置き換えたものと一致する。社会とは何なのか、文学とは何なのかなどは、この目標の下位に位置づけられ、また、法律とは何なのかや政治とは何なのかという問題も包括する。

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2023年2月16日木曜日

人権意識の高揚と差別の減少―「私たち」はどこまで拡がる?

  第二次世界大戦後の人権意識の高揚と差別の減少は、多くの国で見られる現象である。この現象は、高等教育の普及による人権への啓蒙活動、書籍やドラマ・映画等による弱者への共感の増大、これらの精神活動を支える知能の増大(フリン効果)などによって説明可能だと思う。

 人権意識の高揚は、暴力や殺人を含む犯罪の減少、人種差別や性差別への禁止と嫌悪、捨て子や子どもの重労働の禁止から、動物への虐待の嫌悪なども含まれている。これらの中で、最近日本において注目を浴びているのがLGBT差別への批判である。私自身は、これは大変望ましい傾向だと思うし、最近の世論調査では、同性婚を認めるべきという回答が64%で、認めない方がよいという25%を大きく上回っていた。若年層ではこの傾向がさらに顕著だった。

 あいかわらず「昔はよかった。現代人はモラルが低下している」と思っている人も、このLGBT差別については「昭和の価値観」として、現代のモラルの上昇を実感しているだろう(ひょっとしてLGBTを許容するようになった昨今をモラル低下と見なすとてつもない人もいるかもしれないが)。この短期間の変化は、おそらくLGBTについての医学的知識の普及と、ストーリーとして語られることによる共感の増大だろう。異なるものへの差別の減少は、多様性の受け入れ、言い換えれば「私たち」の範囲の拡大として捉えることができる。かつては異端だったLGBTの人々が「私たち」の中に含まれるようになった結果と解釈できるわけである。

 アブノーマルなセクシャリティは、対象異常(小児や死体など)と目標(方法)異常(サディズムや露出など)に大別できるが、20世紀の前半までは、LGBTは、対象異常とされていた。異性の成人のみが正常な対象というわけである。しかし、多様性を包摂という理念から、これを「異常」であるとは考えないようになり、LGBTは「私たち」の範疇にはいるようになった。それでは、この「私たち」の拡大は今後も続くのだろうか。おそらく、現時点では異常とされ、嫌悪感を催す対象あるいは目標であっても、とくに無害であるものは、徐々に受容されていく可能性を否定できない。何をもって無害とするかはいろいろと議論もあるかもしれないが、たとえば屍姦について考えてみたい。屍姦自体は犯罪なのかどうかのグレーゾーンのようだが、これが女性の遺体に対するものなら、おそらく遺族には耐えられないだろうし、相当な嫌悪を引き起こすことは誰にでも容易に想像できる。では、最愛の女性を失った男性が、火葬にする前日にどうしても彼女の遺体と一夜を共にしたいという欲求についてはどうだろうか。「対象異常」の一言で済ませられるだろうか。あるいは他の例として、妊娠を伴わない近親愛はどうだろうか。これも比較的無害なのではないかと思うが、嫌悪を感ずる人は決して少なくはないはずだ。

 このような嫌悪的なものをLGBTと同一にするなと思われるかもしれない。しかし、たかだか100年前のヨーロッパではゲイは犯罪だったし、多くの人々が嫌悪を感じていた。それが現在ではかなり許容できるようになっている。死体愛や近親愛も、現時点では大きな嫌悪を催す。しかし、50年後、100年後はもっと受け入れられるようになる可能性はないだろうか。なぜなら、彼らだって「私たち」の仲間なのだから。

 

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