2023年2月16日木曜日

人権意識の高揚と差別の減少―「私たち」はどこまで拡がる?

  第二次世界大戦後の人権意識の高揚と差別の減少は、多くの国で見られる現象である。この現象は、高等教育の普及による人権への啓蒙活動、書籍やドラマ・映画等による弱者への共感の増大、これらの精神活動を支える知能の増大(フリン効果)などによって説明可能だと思う。

 人権意識の高揚は、暴力や殺人を含む犯罪の減少、人種差別や性差別への禁止と嫌悪、捨て子や子どもの重労働の禁止から、動物への虐待の嫌悪なども含まれている。これらの中で、最近日本において注目を浴びているのがLGBT差別への批判である。私自身は、これは大変望ましい傾向だと思うし、最近の世論調査では、同性婚を認めるべきという回答が64%で、認めない方がよいという25%を大きく上回っていた。若年層ではこの傾向がさらに顕著だった。

 あいかわらず「昔はよかった。現代人はモラルが低下している」と思っている人も、このLGBT差別については「昭和の価値観」として、現代のモラルの上昇を実感しているだろう(ひょっとしてLGBTを許容するようになった昨今をモラル低下と見なすとてつもない人もいるかもしれないが)。この短期間の変化は、おそらくLGBTについての医学的知識の普及と、ストーリーとして語られることによる共感の増大だろう。異なるものへの差別の減少は、多様性の受け入れ、言い換えれば「私たち」の範囲の拡大として捉えることができる。かつては異端だったLGBTの人々が「私たち」の中に含まれるようになった結果と解釈できるわけである。

 アブノーマルなセクシャリティは、対象異常(小児や死体など)と目標(方法)異常(サディズムや露出など)に大別できるが、20世紀の前半までは、LGBTは、対象異常とされていた。異性の成人のみが正常な対象というわけである。しかし、多様性を包摂という理念から、これを「異常」であるとは考えないようになり、LGBTは「私たち」の範疇にはいるようになった。それでは、この「私たち」の拡大は今後も続くのだろうか。おそらく、現時点では異常とされ、嫌悪感を催す対象あるいは目標であっても、とくに無害であるものは、徐々に受容されていく可能性を否定できない。何をもって無害とするかはいろいろと議論もあるかもしれないが、たとえば屍姦について考えてみたい。屍姦自体は犯罪なのかどうかのグレーゾーンのようだが、これが女性の遺体に対するものなら、おそらく遺族には耐えられないだろうし、相当な嫌悪を引き起こすことは誰にでも容易に想像できる。では、最愛の女性を失った男性が、火葬にする前日にどうしても彼女の遺体と一夜を共にしたいという欲求についてはどうだろうか。「対象異常」の一言で済ませられるだろうか。あるいは他の例として、妊娠を伴わない近親愛はどうだろうか。これも比較的無害なのではないかと思うが、嫌悪を感ずる人は決して少なくはないはずだ。

 このような嫌悪的なものをLGBTと同一にするなと思われるかもしれない。しかし、たかだか100年前のヨーロッパではゲイは犯罪だったし、多くの人々が嫌悪を感じていた。それが現在ではかなり許容できるようになっている。死体愛や近親愛も、現時点では大きな嫌悪を催す。しかし、50年後、100年後はもっと受け入れられるようになる可能性はないだろうか。なぜなら、彼らだって「私たち」の仲間なのだから。

 

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