2021年8月10日火曜日

後知恵バイアスの文化差についてー少なくとも日本人の非論理性や低知能の証拠ではない

  Applied Cognitive Psychologyに掲載された法廷での後知恵バイアスについての論文を産経新聞で紹介していただいて以降、後知恵バイアスについて検索すると、後知恵バイアスが日本人を含む東洋人に多いというインターネット記事やブログが散見された。後知恵バイアスが東洋人で多いという知見の紹介はよいのだが、しかしそれらの中には、それを日本人の思考の非論理性の証拠として紹介するものから、日本人あるいは東洋人の知能の低さの現れとまで主張する粗悪なものまであった。これは訂正する必要がある。

 私自身も、日韓英仏で後知恵バイアスの比較を行って論文を書いたが、そういう主張は全く行っていない(Yama et al., 2010)。知能の低さという点は明確に否定しておかなければならない。確かに知能が高ければ認知バイアスを抑制できるという知見は、Keith Stanovichによる一連の研究で主張されている。しかし、後知恵バイアスは、そのような認知バイアスとは異なり、逆の方向に進めば、基本的帰属誤謬(fundamental attribution error)にたどり着くバイアスなのである。後知恵バイアスが東洋人に多いのに対し、基本的帰属誤謬は西洋人に多い。

 基本的帰属誤謬の代表的な研究に、アメリカ人大学生にキューバのカストロに関する賛成派と反対派の文章を読ませて書き手のカストロへの態度を評価させたものがある。カストロに好意的な文章があれば、当然この書き手はカストロに好意的だという評価になるが、「この書き手はカストロに好意的な文章を書くように依頼された」という情報が与えられても、その評価はあまり変化しなかったのである。つまり、実験に参加したアメリカ人大学生は、書き手の状況的制約を考慮することなしに、その文章内容を書き手の思想に過大に帰属させたのである。

 東洋人に後知恵バイアスが多く、西洋人に基本的帰属誤謬が多いという事実は、何かの判断において状況的要因を、前者は考慮しやすく、後者は無視しがちであるという性向として記述できる。後知恵バイアスは「結果」という状況要因を考慮することによって生じ、基本的帰属誤謬は「依頼」という状況要因を無視することによって生じているわけである。以上から、日本人に後知恵バイアスが多いからといって、それを非論理性や知能の低さと結びつけるのは、明らかに誤りだということがわかるだろう。状況要因の無視は基本的帰属誤謬となり、どちらへ転んでもバイアスになるわけである。この状況要因の考慮・無視の程度の文化差は、西洋人の分析的認知・東洋人の全体的認知という枠組みで記述され、前者を西洋の個人主義文化、後者を東洋の集団主義文化と結びつけて説明されることが多い。ただし私自身は、この東洋人の思考傾向は、複数の要因を考慮する弁証法的思考傾向の結果と考えており、また必ずしも集団主義が反映されたものではないと推定している (Yama & Zakaria, 2019)

Yama, H. et al. (2010). A cross-cultural study of hindsight bias and conditional probabilistic reasoning. Thinking and Reasoning, 16, 346-371.

Yama. H., & Zakaria, N. (2019). Explanations for cultural differences in thinking: Easterners dialectical thinking and Westerners linear thinking. Journal of Cognitive Psychology, 31, 487-506.

 

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2021年8月6日金曜日

なぜ中止することができないのか (2)―オリンピックと甲子園とインパール

  日本におけるちょっとした変化を捉えて、独裁化や軍国化と叫んだりする一部のジャーナリストや学者にはうんざりしてきた。日本の独裁レベルは、北朝鮮や中国共産党、ベラルーシの状況と比較すれば、物の数ではない。しかし、あれだけ感染増を懸念されながら、オリンピックだけはどうしてもやるという姿勢には、私も正直第二次世界大戦を連想してしまった。

 最近の二週間の新型コロナウイルス感染者の増加は想像を超えている。高齢者のワクチン接種が進んで重症者が少なくなると思ったが、それ以上に感染者が増えてその中から重症者が増え、医療崩壊を起こし始めている。高齢者の重症者が少なくなったとはいえ、感染者の母数が爆発的に増えているために、必然的に中等症や重症者が増えているのだ。爆発的に感染増大があると、変異株が生ずるリスクも上昇する。せっかくのワクチンの効き目が小さくなる可能性だってあるわけだ。オリンピックによって東京株が生まれて、オリンピック関係者が帰国することによって世界中にこの変異株が蔓延するというという悪夢のシナリオも描ける。

 確かにこの感染増がオリンピックによるものだという直接的なエビデンスはまだないのかもしれない。しかし、いくら人流を止めようとしても、オリンピックという大きなイベントがあれば、人々の気持ちは浮つき、行動に現れる。最善の方法は、オリンピックを即座に注視して、都市についてはロックダウン相当のことをすることだっただろう。もちろん、不要不急の夏の甲子園など、もってのほかである。

 権力者が「やりたい」と思ったら絶対に止めないこの悪弊は、どうしても第二次世界大戦を連想させる。悪名高いインパール作戦や、また勝つ可能性あるいは有利な講和の可能性がほとんどない状態で、あれだけ人命が失われ続けていたにもかかわらず戦争を継続させた当時の日本とよく似ていると思わざるを得ない。もちろん死者数は雲泥の差かもしれないが、入院できずに在宅中に亡くなっている感染者が増え始めている状況で、オリンピックを中止できないというのは、やはり第二次世界大戦と「似ている」といわざるを得ない。

 それでは、このゴリ押しは「独裁」によるものなのだろうか。山本七平氏は、第二次世界大戦を引き起こしたのは、ヒトラーやムッソリーニのような強力なカリスマ的独裁ではなく、「空気」であると表現したが、今回のオリンピック開催も、そういう雰囲気で決定されたように思える。菅総理の独裁というよりも、IOCとの関係や、他の閣僚や利権を握った人々の間で醸成された「空気」に誰も抗えなかったという印象が強い。とりあえず、甲子園とパラリンピックは中止して欲しい。オリンピックを実施してパラリンピックを実施しないのは障がい者への差別だという批判は、政治家には堪えるかもしれないが、実施が、国民の命の犠牲と教育・研究活動の抑制と引き換えだということを忘れないで欲しい。

 

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2021年7月30日金曜日

後知恵なのかもしれないがー東京オリンピックと感染者数の増大

  この新型コロナウイルス蔓延状態の中で東京オリンピックを実施するのか。2021年の春先からの国民的課題だったが、現時点で、感染者数の増大という多くの国民が危惧していたことが起こりつつある。私自身は、オリンピックを実施した場合のさまざまな経済効果や感染者数増大による死者・医療崩壊など、そういったことを複数の視点からパラメータを当てはめてシミュレーションをした結果を国民に示したうえで、実施するかどうかを決めてほしかった。しかし、実施ありきが政府がもっていた当初からの結論のようであった。目的が、経済的な問題なのか、IOCへの忖度なのか、あるいは政治家の実績つくりなのか、結局わからないままである。

 東京オリンピックを実施するのなら、感染対策をもっと厳しく行うべきである。入国の水際対策といいながらザルのような検疫を放置し、バブル方式と呼びながら、バブルははじけるは、バブル内で感染が広がるはで、なし崩し的にきまりが守られなくなっている。バブルに閉じ込められた選手から不満が出れば、それに対してきちんと説明をして説得をしなければならない。「不満があるから」と緩めていけば、ウイルスが広がるのは当然だ。せっかくワクチン接種が進む中、変異株が次々と国内に入ってくれば、元の木阿弥どころかもっとひどくなる可能性もある。

 選手や彼らを取り巻く人々にも苦言を述べたい。プレー中の選手への、観客席からの選手団による声援は禁止されているはずではないのか。ある柔道選手への「○○」コールは見ていて見苦しかった。またパブリックビューイングをしないと言っておきながら、特定の選手のご当地の小学校や中学校での集まっての応援が普通に行われている。某水泳選手への絶叫しながらの応援は、いくらマスクをしていてもとても感染を防ぐことはできないだろうし、おそらくこういう光景が日本のいたるところで見られるのだろう。これらは、感染拡大を防ぐためにはしてはいけなかったことなのではなかったのだろうか。

 この感染爆発で、多くの人々が苦境にあえぐことになる。私自身は経済的な影響は少ないが、親しい人が入院してもお見舞いに行けなかったし、大学での教育活動、研究活動、学会の開催に大きな支障が生じている。とくに、私がよく参加している学会は2年連続オンラインとなっており、おそらくその不利益を最も被るのは学会デビューした大学院生たちだろう。ウェブの学会では、他大学の研究者との交友関係を築くのは不可能に近い。このような交流は、5年後、10年後に実を結ぶものである。

 この時点で判断できることは、後知恵かもしれないが、オリンピックは実施すべきではなかったということだ。これだけの感染者増とそれに伴うさまざまな不利益を考えれば、即刻中止が望ましい。正直、とても浮かれる気分にはならないし、たとえば、日本と対戦したサッカーのフランスチームのように、調整不足なのかミスだらけの試合を見せられても少しもおもしろくないし、勝っても喜ぶことはできない。感染の爆発的拡大、ベストとは程遠いパフォーマンス、テレビは不愉快な喧騒の嵐、商業オリンピックは真剣に見直す時期にきているのではないだろうか。とりあえず東京オリンピックは今からでも遅くはないので中止にしてほしい。

2021年7月9日金曜日

International Conference on Thinking 2020参加記―モラル推論・陰謀論・社会的分断

  International Conference on Thinkingは、4年に1度の思考心理学の学会である。本来なら昨年にパリで行われるはずだったが、今年に延期となり、結局はオンラインでの学会となった。この学会は、毎年行われていたLondon Reasoning Workshopとともに私を研究者として育ててくれた学会で、知己の研究者が多いのだが、実際に会うことができずに本当に残念だった。また、パリ時間を中心として世界中から参加できるオンライン形式なので、日本は毎日夜の10時スタートとなった。そのため、たとえば、Steven Slomanなど、聞きたかったいくつかの基調講演に参加できなかったのが残念である。

 近年の思考心理学の大きなテーマに、モラル推論や陰謀論がある。また政治的分断の説明に適用されている発表もあった。いずれも、人間の認知機構に直感的システムと熟慮的システムを仮定する二重過程理論の適用であると同時に、これらの材料によって、この理論そのものの発展が促されている。モラル推論研究は、非常に有名な「トロリー問題」に端を発したものが多く、功利論的推論が行われるのか義務論的推論が行われるのかが問われていた。概して、1人を救うよりも5名を救う方がよいとする功利論的推論は熟慮的システムによって、「人を殺しちゃダメ」という義務論的推論は直感的システムによって行われると想定されるが、例外も多く、それらをどのように扱うかなどが議論されていた。

 妄想的思考(delusional thinking)研究の一環としての、陰謀論研究も散見された。代表的な妄想的思考に結論飛躍バイアスがある。一般に、結論を導くときにはいくつかの前提が精査されるものだが、これは、一つの、たとえば、ある女性がちらりとこちらを見たという前提から、彼女は自分を愛していると結論づけるような妄想的思考である。陰謀論もこの一種で、自分が固執する結論があり、その結論が導くことができるような陰謀をストーリーあるいはナラティヴとして構成されていくとその非合理性が説明される。

 政治的分断もそのような固執が問題になっている。一般に、批判的・分析的思考ができれば、思考スタイルは科学的になる。そして、実際、批判的・分析的思考ができる人ほど、地球温暖化の主要因は二酸化炭素の排出によるものだと考えている (おそらく、これは科学的にかなりの確率で正しい)。ところが、基調講演のGordon Pennycookによれば、トランプの強固な支持者たちにおいてのみ、批判的・分析的思考ができる人ほどそれを信じなくなるようだ。つまり、二重過程理論の熟慮的システムは、非科学性を修正するというよりは、自分の強固な信念を合理化するために使われたというわけである。これは、ちょうどJonathan Haidtの『社会はなぜ左と右にわかれるのか』の中で示されている、熟慮的システムが、ありえない確率のリスクを自分の直感的嫌悪を合理化するために指摘する例と似ている。D. ヒュームが言うように、まさに「理性は情念の奴隷」なわけである。このような思考傾向が政治的分断を招いている。

 私自身も発表を行ったが、この内容は論文になったときにでも紹介したい。次回は、2024年にミラノで行われる。ぜひ行きたいものだと思っている。

2021年7月2日金曜日

科学基礎論学会奮戦記―「思考の文化差—地勢的・生態的要因から文化多様性を考える」

  そもそも会員でもない私がなぜ科学基礎論学会に出席したのかというと、大会委員長の佐金先生に講演を依頼されたからである。この学会は、学際的で他領域に開かれていることを実感したのだが、毎年主催校の他領域の研究者が講演を行うというルールがあるようだ。私が現時点で発表できるテーマは、「文化多様性をどのように説明するのか」と「理性が野生をどのように飼いならすか」だったが、学会の主要メンバーの先生から前者が良いとのことで、「思考の文化差―地勢的・生態的要因から文化多様性を考える」というタイトルでお話しさせていただいた。

 講演のベースは2019年に発表した論文(Yama & Zakaria, 2019)である。この論文では、東洋人の矛盾を受け入れやすいという弁証法的思考傾向・素朴弁証法的な世界観が、西洋人と比較して東洋人のほうがコミュニケーション時に暗黙の了解や常識(コンテクスト)により依存するとするエドワード・ホールの主張 (西洋人の低コンテクスト文化・東洋人の高コンテクスト文化) を根拠にして、少々の矛盾はコンテクストによって解決できるという規範が東洋人に共有されているとして説明されている。

 ただし、本講演のハイライトは、この説明を地勢的・生態的要因に結びつけていくという点である。この試みは、Yama & Zakaria (2019)の論文でも展開されているが、この講演ではそれをもう少し体系化した。比較文化研究においても、生態的要因によって文化差を説明しようとするものがあるが、主として稲作などの生業レベルの「生態」が用いられている。私は、低コンテクスト文化が形成されやすい要因として異文化交流があるとし (異文化交流では、話し手と聞き手でコンテクストを共有しにくいからである)、そして異文化交流の生態的源泉は、異文化交易の利得が大きな状況、すなわちたとえば黒曜石のようなリソースの偏在と、そのような交易を可能にする河川やウマ・ラクダなどの手段の存在という地勢的・生態的要因にあるとした。

 この発想の原点は、ジャレド・ダイアモンドによる『銃・病原菌・鉄』の中で貫かれている「民族の優劣といった概念に頼らずに、地勢的・生態的要因によって世界の文明的発展の不均衡を説明する」という姿勢である。私も、文化多様性が生まれる中で、遺伝子頻度による説明は不要とまでは言わないが、この姿勢は見習いたいと思っている。さらに、この説明は、私たちの祖先が67万年前にアフリカを出て世界中に散りながらそこで独自の文化を築き上げたというビッグ・ヒストリーにも貢献できると考えている。私に『銃・病原菌・鉄』のような書籍が書けるのはいつになるかわからない。しかし、細々とでも良いので一歩一歩目標に近づきたいと願っている。

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2021年6月27日日曜日

科学基礎論学会観戦記 (2)―ハイテク社会における「説明」のあり方

  科学基礎論学会で、もう1つ興味深かったのは、「形式システムの公平性、公正性、透明性―科学技術に支配されつつある現代社会のための挑戦」(Fairness, Integrity and Transparency of Formal Systems: Challenges for a Society Increasingly Dominated by Technology) というシンポジウムで議論されたテーマである。

 この領域については素人なので、ちゃんと理解できたかというと心もとないが、科学における基本的な哲学的問題である「説明」について、AIなどの形式システムがどのようにかかわれるのかということが、私が勝手に興味をもった問題点である。私自身も、実際の研究においていったいどのような説明が適切なのかあるいは規範なのかについては、ケースバイケースで直感的に選択しているように思う。還元主義的になる場合もあれば、因果モデルを適用したりする場合もあり、近接的な説明もあれば究極因的な説明もある。たとえば、「リンゴはなぜ美味しいのか」を説明するのに、近接的な説明ならリンゴの成分と舌の味覚神経細胞の関係を還元的に調べたりするかもしれない。一方、究極因的説明の代表は進化論的な説明で、「ヒトはなぜリンゴを美味しいと感ずるように進化したのか」という問いに言い換えてそれに答えることになる。

 この伝統的な「説明」にインパクトを与えたのが、AIなどの形式システムのようだ。元来、幾何に代表される数学的な証明は、自動性があり、誰の目にも明らかな透明性をもち、「説明」として完全である。しかし、AIによる説明は、この延長線上になく、極めて複雑なものになり、ある部分はブラックボックスとなって透明性にも欠ける。AIは、数学の証明を適用できない複雑な現象をより完全な形で説明ができるようにしてくれるかもしれないが、説明の王道である単純性を欠いてくるわけである。現代のテクノロジー社会は、「説明」という点で、単純性と完全性のトレードオフに悩まされるということになる。

 素人の私は、残念ながらそれぞれの話題提供者の提案をきちんと理解できなかったが、公平性(fairness)という概念が導入された理由がわかりにくかった。もちろん公平性という概念が重要なことはわかるのだが、あいまいな概念によって却って「説明」の理解が後退したような気がしたからである。もし、もう一度このような議論を聞く機会があれば、もう少し勉強してからと思うのだが、他領域を本格的に取り組もうとすると骨が折れる。

2021年6月24日木曜日

科学基礎論学会観戦記 (1)―ヒト脳オルガノイド雑感

  科学基礎論学会の第66回年次大会が佐金先生を大会委員長として先日大阪市立大学で開催された。「大阪市立大学で開催」といっても残念ながらウェブ開催で、私は自宅から参加した。私は会員ではないが、非会員として講演に招いていただき、たいへん楽しい時間を過ごすことができた。科学基礎論学会は、科学哲学の学会で、私が専門とする認知心理学とは領域的に比較的近く、何名かの会員の先生方とはこれまで研究会やワークショップなどでご一緒している。とはいえ、アウエー感満載であった。

 発表やシンポジウムのテーマには刺激的なものが多かった。今世紀に入って、科学の進歩による倫理の問題が数多く提起されているが、太田先生によるヒト脳オルガノイドについてのものもその1つである。オルガノイドとは、試験管などの生体外で培養される組織の細胞、ES細胞またはiPS細胞から、自己組織化により形成されるもので、病気のメカニズムを知ったり、再生医療に適用されたりする。しかし、ヒト脳オルガノイドが他の動物の脳に移植されると大きな倫理的問題を引き起こす。この理由は移植された動物の脳あるいは精神メカニズムがヒトに似てくるからである。この話題で私が真っ先に思い出したのは、クローン人間の臓器移植を扱ったカズオ・イシグロの『わたしを離さないで』である。ヒト脳オルガノイドについては、そこまでの道徳的嫌悪感はない。それでも移植された動物がヒトに近い意識を持つかもしれないので、その動物を実験に用いることに倫理的問題はないのかという問題が提起される。この問題へのアプローチには、意識がどのような意味で価値があるのかという議論が必要になってくるが、大別して、肯定的視点と中立的視点があるようだ。前者は、意識自体に価値があるとするもので、ヒト脳オルガノイドによって移植された動物がヒトと似たような意識を持てば、その意識を抹殺させてはいけないとする。後者は、意識自体に内在的価値を求めるのではなく、何らかの特性が追加されて、たとえば意識をもって生きることの快などによって、その価値を問うというものである。結論として、どちらもそのままの形ではこの問題を議論するには不十分だが、肯定的視点は、意識をもった個体の存在論的な本質を追求することによって、ヒト脳オルガノイドの道徳的な位置について示唆を与えるのではないかということである。

 私自身はこの問題には素人だが、素朴に2つの疑問が生じた。1つは安楽死の問題である。私は個人的に、医療の驚異的な発達とともに、私たちは安楽死を議論しなければならない時期に来ていると思っているが、これは意識の肯定的視点だけでは議論はストップする。「絶対に認められない」の一言で終わる。一方、意識を持つことの快・不快、さらには苦痛という価値を付加した中立的視点からならば、苦痛に満ちた意識を消去する権利が議論の土俵に上る。テーマはヒト脳オルガノイドなので、安楽死とは関係がないのかもしれないが、ちょっとだけ気になった。2つ目は意識の一次元性についての問題である。現時点ではヒト脳オルガノイドを移植された動物の意識についてそれほど問題視されないだろうが、このシンポジウムでの議論は近い将来にこの動物たちがヒトに近い意識を持つのではないかということを想定したうえでのものである。しかし、ここに意識の一次元性を仮定してもよいのだろうか。つまり、ヒト脳オルガノイド移植動物の脳がかなりヒトに近いものであったとしても、そこで経験される「意識」と私たちが経験する「意識」の違いは程度問題なのか、あるいは質的な違いはないのかという疑問である。たとえば、AIやロボットの知能が高くなってヒトを追い越したときに、ヒトに対して謀反を起こさないかという問題に、現在では多くの科学者がノーと答えるが、その理由は、知能の一次元性仮定に無理があるからである。つまり、知能が高いAIといっても、やはりヒトとは質的に異なるので、謀反のようなことはありえない。意識の一次元性については、質問すべきだったかもしれない。

 

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