まずとてつもない設定に度肝を抜かれる。英国のボーディングスクールで学んでいると思われた子どもたちは、実はみなクローンで、そのスクールのような施設を出たあとは、臓器提供者となる運命にある。ヒロインのキャシーもその一人で、その施設には、トミーという好きな男の子がいたが、同級生のルースに彼を奪われてしまう。その状態で施設を出て、今度は大人として臓器提供の待機施設に移っていった。提供者になると、何回かドナーとしての摘出手術を受け、徐々に体力が落ちて、4回目にはほぼ亡くなってしまう。映画では、それが、’completion’という用語で表現され、彼らの会話でもこの言葉が使われていた。物語は、ルース、トミーがcompleteし、ついにキャシーにも1回目の提供の命令が来たというところで終わっている。
ノーベル文学賞受賞理由の評価として、「世界と繋がっているという我々の幻想に隠された深淵を偉大な感情力で明るみにした」ことがあげられているが、私もまさにその通りだと思う。映画を見終わった後、自分の人生は彼らのものとは違うということが幻想ではないかという思いを、消し去ることができない。
サイエンス・フィクションとしてもおそろしく優れていて、このような架空の状況設定でクローンがどのような精神状態を保ち、どのような行動をとるのかということをシミュレートさせる壮大な思考実験であろう。彼らのベースには深い悲しみが横たわるが、その現状に対して、行動としての反乱を起こすとかということはしない。反乱はあくまでも心の中だけで、表面上は運命を受け入れている。この思考実験結果は、たとえばエミリー・ブロンテの『嵐が丘』に表現されるようなペシミズムを彷彿させる。どうしようもない悲惨な境遇も、それを受け入れ、またその受け入れに、人間としてのリアリティがあるのである。安直な言い回しを用いれば、「英国人はつねに不満をいう、しかし何も変えようとしない。一方、アメリカ人はいつも満足しているが、つねに何かを変えようとしている」に表現されるような、アメリカ人と対比される英国人のメンタリティなのかもしれない。
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