長かった安倍政権が終わり、新しく菅義偉が首相になった。この交代についてのコメント記事をいたるところで見かけるが、安倍政権の評価や菅政権への期待や問題点などさまざまである。弁証法論者の私は、肯定的な評価を見てもそうだなと思うし、否定的な評価(特に、公文書の廃棄や森友問題)を読んでも納得してしまう。しかし、9月17日の某新聞の記事には恐ろしく違和感を覚えた。ある大学の教員へのインタビュー記事だが、教員サイドの問題なのか、記者が自分の主張に改ざんしたのか、それはわからない。
新聞記事は科学論文の基準が要求されるわけではないので、多少のことには目をつぶるべきかもしれない。しかし、まずその記事には、いわゆる「ビッグワード」が煽情的に踊っていた。たとえば、「生きる権利を守ることなく経済最優先で、暮らしが限界にまでボロボロ」という表現である。「暮らしが限界にまでボロボロ」とはどんな状態なのだろうか。たしかに貧困層は、一億総中流の時代と比べれば増ええているとは思うが、この表現はいかがなものだろう。また、「生きる権利」というと、個人的には、社会的ダーウィニズムや優生保護法的発想が連想されるが、どうやらここでは異なる意味に用いられているようだ。仮に貧困に対して無策だったとしても、「生きる権利」は大仰だ。
それよりも違和感を覚えたのは、安倍政権の時代とナチス政権当時の類似性の指摘である。安倍政権の支持率の高さを、人々が「傍観者的に安倍政権を見ている」ことによるとして、ナチス政権当時に多くの人が消極的にヒトラーを支持したことと照合させて「空気が似ている」と判断しているわけだ。有権者が消極的にあるいは傍観者的に政権を眺めるという状況は、確かにナチス的独裁を生む必要条件かもしれないが、どの国どの時代にでも起きていていることで、これで「似ている」と主張されると、私がドナルド・トランプと「似ている」といわれるような違和感を覚える(目と耳が二つの男性だ)。
もう一つの違和感は、特定秘密保護法への批判である。この法律は、現在ナチスに最も似ている政権からの情報保護が重要な目的であることは周知の通りだ。この政権は、独裁的、全体主義的、特定の民族へのジェノサイド疑惑、領土拡張主義、そしてそれらが周辺国に及んでいるという点で、現時点で最もナチスに似た政権だと思う。ナチス時代に見立てての現代日本の批判から、この記事の書き手はよほどナチスが嫌いなのではないかと思うが、それで以って、ナチスに最も似た政権に対抗するための特定秘密保護法を批判するというのは、際立って奇妙な論法であろう。
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