2021年6月24日木曜日

科学基礎論学会観戦記 (1)―ヒト脳オルガノイド雑感

  科学基礎論学会の第66回年次大会が佐金先生を大会委員長として先日大阪市立大学で開催された。「大阪市立大学で開催」といっても残念ながらウェブ開催で、私は自宅から参加した。私は会員ではないが、非会員として講演に招いていただき、たいへん楽しい時間を過ごすことができた。科学基礎論学会は、科学哲学の学会で、私が専門とする認知心理学とは領域的に比較的近く、何名かの会員の先生方とはこれまで研究会やワークショップなどでご一緒している。とはいえ、アウエー感満載であった。

 発表やシンポジウムのテーマには刺激的なものが多かった。今世紀に入って、科学の進歩による倫理の問題が数多く提起されているが、太田先生によるヒト脳オルガノイドについてのものもその1つである。オルガノイドとは、試験管などの生体外で培養される組織の細胞、ES細胞またはiPS細胞から、自己組織化により形成されるもので、病気のメカニズムを知ったり、再生医療に適用されたりする。しかし、ヒト脳オルガノイドが他の動物の脳に移植されると大きな倫理的問題を引き起こす。この理由は移植された動物の脳あるいは精神メカニズムがヒトに似てくるからである。この話題で私が真っ先に思い出したのは、クローン人間の臓器移植を扱ったカズオ・イシグロの『わたしを離さないで』である。ヒト脳オルガノイドについては、そこまでの道徳的嫌悪感はない。それでも移植された動物がヒトに近い意識を持つかもしれないので、その動物を実験に用いることに倫理的問題はないのかという問題が提起される。この問題へのアプローチには、意識がどのような意味で価値があるのかという議論が必要になってくるが、大別して、肯定的視点と中立的視点があるようだ。前者は、意識自体に価値があるとするもので、ヒト脳オルガノイドによって移植された動物がヒトと似たような意識を持てば、その意識を抹殺させてはいけないとする。後者は、意識自体に内在的価値を求めるのではなく、何らかの特性が追加されて、たとえば意識をもって生きることの快などによって、その価値を問うというものである。結論として、どちらもそのままの形ではこの問題を議論するには不十分だが、肯定的視点は、意識をもった個体の存在論的な本質を追求することによって、ヒト脳オルガノイドの道徳的な位置について示唆を与えるのではないかということである。

 私自身はこの問題には素人だが、素朴に2つの疑問が生じた。1つは安楽死の問題である。私は個人的に、医療の驚異的な発達とともに、私たちは安楽死を議論しなければならない時期に来ていると思っているが、これは意識の肯定的視点だけでは議論はストップする。「絶対に認められない」の一言で終わる。一方、意識を持つことの快・不快、さらには苦痛という価値を付加した中立的視点からならば、苦痛に満ちた意識を消去する権利が議論の土俵に上る。テーマはヒト脳オルガノイドなので、安楽死とは関係がないのかもしれないが、ちょっとだけ気になった。2つ目は意識の一次元性についての問題である。現時点ではヒト脳オルガノイドを移植された動物の意識についてそれほど問題視されないだろうが、このシンポジウムでの議論は近い将来にこの動物たちがヒトに近い意識を持つのではないかということを想定したうえでのものである。しかし、ここに意識の一次元性を仮定してもよいのだろうか。つまり、ヒト脳オルガノイド移植動物の脳がかなりヒトに近いものであったとしても、そこで経験される「意識」と私たちが経験する「意識」の違いは程度問題なのか、あるいは質的な違いはないのかという疑問である。たとえば、AIやロボットの知能が高くなってヒトを追い越したときに、ヒトに対して謀反を起こさないかという問題に、現在では多くの科学者がノーと答えるが、その理由は、知能の一次元性仮定に無理があるからである。つまり、知能が高いAIといっても、やはりヒトとは質的に異なるので、謀反のようなことはありえない。意識の一次元性については、質問すべきだったかもしれない。

 

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