先日、心理学の国際誌であるJournal of Cognitive
Psychologyに理論論文が採択され、オンラインではすでに掲載されている。 自然科学系の学術誌と比較するとインパクトファクターが見劣りするが、社会科学系の理論論文で、ひきこもりや無縁社会の問題にも関係するとして、大学からプレスリリースしていただいた。以下がその内容で、本ブログでも紹介したい(一部略)。
<概 要>
大阪市立大学大学院文学研究科の山祐嗣教授は、アラブ首長国連邦のウロンゴン大学ドバイ校のNorhayati Zakaria博士と共同で、「東洋人と西洋人の思考スタイルの違いという文化差」を説明する新しい理論を発表しました。東洋人は、西洋人と比較して、矛盾があってもそれを受容しやすいという弁証法的傾向が強いとされていますが、これまでは、この違いは、東洋の集団主義文化・西洋の個人主義文化という枠組みで説明されていました。つまり、東洋人は集団主義文化の中で調和を重んじ、対立あるいは矛盾する主張があっても集団の調和を崩さないように弁証法的になるという説明です。しかし、上記の通説では説明のつかない事例が存在することから、山教授とZakaria博士は東洋の高コンテクスト※1文化・西洋の低コンテクスト文化という枠組みで説明を試みました。コンテクストとはコミュニケーション時に話し手と聞き手が共有する暗黙の了解で、その依存度が高いと高コンテクスト文化になります。日本は「阿吽の呼吸」がよしとされる典型的な高コンテクスト文化です。つまり日本を含めた東洋では、コミュニケーションがコンテクストに依存する度合いが高いため、少々の矛盾が含まれていても暗黙裡にそれを解消できるとする規範が形成されているとする説明です。この説明は、地勢的・生態的要因から文化多様性をとらえるビッグ・ヒストリー※2とも結びつけられ、また、日本と中国の差異の説明にも適用されています。
本内容は、英国の心理学専門誌『Journal of
Cognitive Psychology』の出版に先立ち、2019年6月4日(火)にオンライン版に掲載されました。
※1 コンテクストとはコミュニケーション時に話し手と聞き手が共有する暗黙の了解
。その依存度が高いと高コンテクスト文化となる。
※2 ビッグバンから現在までの歴史を、自然科学と人文科学の数々の学問分野を結合した学際的アプローチを用いて研究する新しい学問分野。
雑誌名:Journal of Cognitive
Psychology (IF:1.241)
論文名:Explanations for cultural
differences in thinking: Easterners’ dialectical thinking and Westerners’ linear thinking.
著 者:Hiroshi Yama, Norhayati
Zakaria
<研究者からの一言>
東洋と西洋の文化の違いについては、極めていいかげんな言説から、科学的あるいは理論的検証に基づいたものまで、数多く議論されています。この理論論文は、思考スタイルの差異についての科学的な多くの研究をレビュー・吟味した上で、新しい説明理論(東洋の高コンテクスト文化・西洋の低コンテクスト文化)を提唱したものです。この理論は、ビッグ・ヒストリーの枠組みにフィットし、現代のグローバル化にも示唆を与えてくれると期待できます。
<本研究の概略>
「過度の卑下は半分自慢」という諺は矛盾を含んでいます。この矛盾から、この諺は不可解と判断されるでしょうか、それとも「なんとなくは理解できる」と判断されるでしょうか。このような矛盾が含まれた諺を中国人はアメリカ人よりも好むという研究に端を発して、思考スタイルについての多くの比較文化研究が行われました。これらをまとめると、西洋人はルールを重視する線形的思考スタイルを好み、東洋人は矛盾があってもそれを受け入れるという弁証法的思考スタイルを好むということになります。
このような思考スタイルの文化差は、これまで主として東洋の集団主義文化・西洋の個人主義文化という区分の枠組みで説明されています。個人主義とは、自分自身を家族や仲間といった集団から独立したものとみなし、他者の目標よりも自分の目標を優先するという社会的パターンとして定義され、一方、集団主義とは、自分自身を集団の一部と見なし、自分自身の目標よりも集団の目標を優先し、集団内での調和を重視するという社会的パターンとして定義されます。一般に、西洋(欧米)は個人主義文化で、アジア、アフリカ、中南米は集団主義文化であると考えられています。
この区分によって、東洋の集団主義文化では集団の調和が重んじられ、矛盾や対立があってもそれをそのままで受容するという態度や規範が形成され、弁証法的思考スタイルが好まれるという説明がなされてきました。しかしこの理論的説明には、チリやメキシコなど、南米の人々は集団主義文化だが弁証法的思考スタイルを好むわけではないという反例に突き当たります。そこで提唱されているのが、哲学的伝統による説明です。つまり、西洋にはギリシャにおける論理学を思考の規範とする伝統、東洋には陰と陽は表裏一体という陰陽思想という伝統があります。東洋では、「世界は流動的で常に変化している、そしてそれぞれの事象・事物が互いに結びついている、したがって矛盾は至るところで起きている」という世界観が形成されるというわけです。この理論は説得力がありますが、ではなぜこのような哲学的伝統が生まれたのかという説明に欠けます。
そこで本研究で提唱された理論的説明は、エドワード・ホールが提唱した「東洋の高コンテクスト文化・西洋の低コンテクスト文化」という区分によるものです。コンテクストとは、コミュニケーション時に話し手と聞き手が共有する暗黙の了解です。このコンテクストに依存する度合いが高いと高コンテクスト文化になります。たとえば、日本における「阿吽の呼吸」や「察する文化」が典型的な高コンテクスト文化における現象です。これによって、東洋では、コンテクストを利用するという規範が形成されており、少々の矛盾があってもそれを暗黙裡に解消することができると人々が信じていて、弁証法的な思考スタイルが好まれると説明されるのです。
高コンテクスト文化・低コンテクスト文化の理論は、地勢的・生態的に文化多様性を説明するというビッグ・ヒストリーという枠組みに位置づけることも可能です。一般に、異文化交流時にはお互いが暗黙理にもつ文化的背景に頼ることができず、低コンテクスト状況になります。つまり異文化交流が活発なところで低コンテクスト文化が形成されやすく、異文化交流が保たれるかどうかは、「資源や産物が遍在し、交流の手段がある」、「交流した結果、単一の文化が形成されにくい」という地勢的・生態的要因と結びつけることができるのです。ギリシャをはじめとする西洋は比較的この条件が満たされますが、中国は広闊な平野において漢民族を中心に文化的統一がすすみ、2番目の条件が満たされないということになります。
本理論のもう1つの強みは、中国と日本の文化差を説明できるという点です。本研究では、日本と中国が含まれたいくつかの比較文化研究のメタ分析(既発表のデータについて、中国と日本とだけを取り出して比較)が行われ、日本人が中国人よりも弁証的思考スタイルを好むということが示されました。これは、集団主義・個人主義という枠組みでは説明できません。なぜならば、概して、中国人のほうが日本人よりも集団主義的であると考えられるからです。一方、コンテクストについては、日本人のほうが中国人よりも高いとされます。その第1の理由は、言語の特徴で、日本語は中国語よりも圧倒的に主語が省略されます。主語は、コンテクストによって復元することができれば省略が許容されやすくなりますが、日本人のほうがコンテクストに頼るという文化規範が形成されているわけです。第2の理由は、中国は主流となる漢民族に統一されたとはいえ、島国の日本と比較してはるかに異文化交流の歴史をもっています。すでに述べたように、異文化交流は文化を低コンテクスト化させるのです。
<今後の展望:理論的発展と産業化やグローバル化への示唆>
本研究には、理論面と実践面での展望があります。実は、高コンテクスト文化・低コンテクスト文化という区分については、心理学においてまだまだ研究が行われておらず、国々を高コンテクストから低コンテクストに1次元上で並べることができるのか、複数の次元によるものなのかもあまり判明していません。この点はもう少し明らかにする必要があるでしょう。
また、日本をはじめとする各国において、産業化という分業によって、多くの人々が伝統的な村落共同体から都市に住むようになりました。概して、都市では低コンテクスト文化が形成されやすいと考えられますが、このような研究はまだ行われていません。しかし、産業化の変化が速すぎると、高コンテクスト文化が維持されたままコンテクストを利用できないという状況に陥ります。育った文化背景をよく知らない人たちとのコミュニケーションや交流が必要な状況で、適切な低コンテクスト文化が形成されないと、私たちは不安になります。それが見知らぬ相手に対する恐怖や敵意に変わると、無縁社会や「ひきこもり」などの社会的孤立を生み出す原因となるのかもしれません。実際、「ひきこもり」が多いのは、日本や韓国、台湾ですが、いずれも産業化がすすんだ高コンテクスト文化の国です。高コンテクスト文化の国ほど、このような産業化に対して、社会的な問題が生ずると考えられます。
現代は、国際的なグローバル化の時代でもあります。わたしたちは、多くの異文化交流を経験するだけではなく、多文化共生社会を創り上げていく必要があります。このような状況では、文化背景を異にする人々には、高コンテクスト文化的な交流が通じない場合があります。相手が望みもしない「おもてなし」をすると困惑されるでしょうし、せっかくの「おもてなし」をしているのに感謝されないという不満も生ずるかもしれません。「自分がして欲しいことは相手もして欲しいはずだ」という道徳の黄金律は、文化が異なると必ずしも通用しないのです。
これらの社会的な問題は、山祐嗣教授の近刊の著作に記されています。
『「生きにくさ」はどこからくるのか―進化が生んだ二種類の精神システムとグローバル化』 新曜社
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