2020年6月2日火曜日

占術家出井房龍壱氏とのコラボ『心理学と占い』シリーズ(3)―第3回『迷信は理性に敗れた?』

 占術家の出井房龍壱さんとのコラボ『心理学と占い』シリーズも3回目になった。今回も、直感的処理システム(ファスト)と熟慮的処理システム(スロー)を想定する二重過程理論をベースにしている。そして、二重過程理論の最もホットな話題の1つである、スローはファストを制御できるのかという大きな問題を、理性が迷信を制御できるのかという領域に焦点を当てて、検討している。この大きな問題は、拙著『「生きにくさ」はどこからくるのか』で議論してる核心の問題でもある。

 迷信は、直感化してくると、理性によって修正されにくい。直感は強い感情と結びつきやすいが、恐怖や怒りと結びついていると、特に修正されにくようである。それでも、歴史的に見ると、言い換えれば歴史の自然実験としてみると、科学の発展とともに、徐々に迷信は否定されたり、廃れたりしていく。雨の原因は雷神様ではない、病気の原因は神の怒りではない、不幸は魔女が原因ではない、彗星は物体と大気圏の摩擦であって不幸の前兆ではないなど、多くの迷信が否定されてきている。内山節氏も、『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』において興味深い事実を指摘している。昔は、キツネにだまされた話が至る所にあったのだが、1965年を境に、それがほとんどなくなったということである。このときに日本人の心の中にどのようなことが起きたのかは定かではないが、1964年の東京オリンピックを終えて、テレビなどの電化製品の普及による科学への信頼、街灯などによる暗闇の減少、キツネが出そうな里山の開発などが影響しているのだろう。

 しかし、熟慮システムによって科学的思考が促進されても、恐怖などの強い感情と結びついた迷信は、なかなか消滅しない。「頭(熟慮システム)ではわかっていても、怖い」という、理性と迷信の弁証法的併存状態が続くわけである。たとえば、頭では仏滅は迷信に過ぎないと思っていても、この日に結婚式を挙げる人は少ない。それと同じように、たとえば「今日の占い」のようなものでも、迷信とわかっていながら、良い運勢だとされると何となく一日が嬉しい。

 では、どのような迷信が廃れやすいだろうか。一つは、それを守るためにおそろしくコストがかかるものである。毎日1万円を寄付しなければならない宗教行事は、現代では長続きしない。また、橋などを作るときに実際に生きた人を埋める「人柱」も廃れた。人の命というコストは高すぎるというわけだ。この場合、魔女狩りが無くなったのと同じ理由で、犠牲者がかわいそうという共感的な直感が働いたためであるともいえる。
 しかし、日本には死者が出ているにもかかわらず続いている宗教行事もある。泉州のだんじりや、諏訪大社の御柱祭である。この場合、「人柱」のように、人を直接死に至らしめることが目的になっているのではなく、あくまで死者は偶然の副産物という扱いだからだろう。あるいは死者は防ぐことができるという制御感によって、廃止されないのかもしれない。

 最後になるが、このビデオの中で、私は「仏滅」を、「ふつめつ」と発音している。「ぶつめつ」でも「ふつめつ」でもどちらでもいいのかなと思っていたが「ぶつめつ」が正しいようだ。あ~あ、恥ずかしい。

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