2023年8月20日日曜日

日本の農業についての素人的かつ経験的私論

  ロシアによるウクライナ侵攻は、世界的な穀物の価格上昇と世界規模での食料不足の不安をもたらした。この状況に、岸田首相は「農政の転換を進めていく」と宣言している。そして、政府は来年の通常国会に「食料・農業・農村基本法」の改正案の提出を予定しており、食料安全保障の体制強化をしようと試みているようだ。私自身は、国際的相互依存は戦争の抑止力になるので、食糧自給はあまり気にする必要はないと思っていたが、独裁国家はこの相互依存を脅迫の道具に使用することが現実にあり得るとのことで、この体制強化は歓迎すべきだろう。

 しかし日本の農業自体は、後継者不足による「農業従事者の先細り」という大きな問題を抱えている。それはそうだろう。日本は兼業農家が大きな割合を占めるが、都会に出て職を見つけた人は、狭い農地での農業を継ぎたいとはなかなか思わないし、また、専業農家にしても、諸外国と比して農地は決して広大とはいえず、どうしても集約的で生産性が低い農業になってしまう。そうした状況で、成功した農業として紹介されるのは、ブランド化などの高級路線である。たとえば、15000円のメロンとか、11000円のイチゴとか、まあ、成功に越したことはないかもしれない。しかし、この路線で食糧自給という難問が解決できるだろうか。まず無理である。「小麦を食べられなければメロンを食べたらいい」で済む問題ではない。

 日本の農業の決定的な問題は、どの農家も小規模であるという点である。この遠因は、第二次世界大戦後の農地改革にある。改革以前は、少数の地主と大多数の小作というのが実情で、それが農村の貧困の原因だった。それで、GHQの指揮の下、日本政府によって行われた農地の所有制度の改革が行われ、大地主が解体されられて、小作農は自作農になることができたというわけである。当時はそれで農村が豊かになったのかもしれないが、結果的に、小規模農家ばかりが多くなり、現代の農村の衰退を招いているというわけだ。現代は、農業以外の産業による雇用機会が多くなり、いくら自作農でも、生産性が低い小規模農家を継ぎたいという人は少なくなってしまった。

 この問題を解決できる唯一の方法は、農業の大規模化だろう。これを実感したのは、フランスで生まれて初めて玉ねぎ収穫機を見たときである (この玉ねぎ収穫機は、日本でも北海道や淡路島で使用されているらしいが)。フランスが農業大国であることは良く知られているが、ずっと遠くの向こうの丘までの玉ねぎ畑を玉ねぎ収穫機で収穫しているのを実際に自分の目で見ると、日本の農業がいかに小規模かというのを実感できる。日本の大都市近郊農家が、畑で10畝くらいの玉ねぎを育てているのでは、とても太刀打ちできない。

 大規模化のために、現在、兼業農家、専業農家で後継者がいない、あるいは相続したくないという農地を、大資本が買い取ってもっと大規模に農業を行うというのはどうだろうか。大規模化と機械化による生産性の高まりで、被雇用者は、かつての貧しい農民とはほど遠いイメージになる。また、国の助成金に頼ることなく、安価な農作物を大量に生産することができる。現実的に、この資本になるうるのは「農業協同組合」ではないかと思うが、新しい起業家であってもかまわない。ただし、実際にはさまざまな困難が予想されるだろう。相続したくないといいながら、先祖代々の農地は売りたくないとか、そういう農家は決して少なくないはずだ。

 私が、小学校高学年、中学生のころ、夏休みの終わりころに稲刈りが始まり、それを手伝わされた。稲はかぶれやすく、長袖長ズボンでの暑さの中の作業は辛かった。社会の授業などで米国などの機械化された大規模農業などの話を聞いて、羨ましいなと思った経験に基づく私論である。

2023年8月8日火曜日

自民党女性局のフランス研修―これを「外交」と呼んだら、真摯に「外交」に取り組んでいる人たちに失礼

  自民党女性局のメンバーが、少子化対策や子育て支援などの視察や意見交換のためにフランスを訪問し、エッフェル塔などでの「観光旅行風」写真が物議を醸しだした。当初は、私は、こういう写真をSNSなどで掲載したら観光旅行と思われて批判の対象になるということを予想できなかった想像力の欠如を感じたが、国際的な人的交流が必要な中、渡仏自体は問題がないと思っていた。

 この批判に対して、松川るい氏は反省の弁を述べていたが、今井絵理子氏は、「政治における女性参画について意見交換。国会議員の仕事で重要なものの一つが『外交』です。以前、こんな言葉を聞きました」と記し、「『内政の失敗は内閣を滅ぼすが、外交の失敗は一国を滅ぼす』。外交も人間関係の構築から始まります。だから私は度々、他国の人々と交流のためにその地を訪れます」と強弁していた。確かにその通りなのだが、私を含めて多くの国民が唖然としたのは、研修や交流の時間が6時間という短さだったことである。

 百歩譲って、この6時間のために、フランスの少子化対策や子育て支援について事前に学習し、かつ意見交換をフランスの政治家や彼らのブレーンたる研究者と行っていたならばそんなに問題はないかもしれない。しかし、事前学習の報道がないことから推察すれば、まずこれはほとんどなかったのだろう。

 フランスでの施策的成功が日本にそのまま取り入れられるのかどうかについては、さまざまな視点から考慮する必要がある。概して産業国では少子化が進んでいるが、日仏両国は、本当に共通の要因による少子化なのだろうか。また、日仏両国の文化および文化的価値観の違い、制度の違い、家族形態の違いなど、さまざまな差異を認識したうえで、フランスで行われている施策の取捨選択が必要になってくる。とくに家族形態について、エマニュエル・トッドによれば、日本は「父系直系家族」に分類されるが、フランスは、パリ盆地付近では「平等主義的核家族」だが南部では「直系家族」他とされている。家族形態の違いは、誰に最も子育ての負担がかかるのかという差異を生じさせるので、非常に重要な要因である。さらにそれ補完するように「制度」が決められるので、要因分析はますます複雑になってくる。

 このような作業が今井絵理子氏にできるのだろうか。当初、彼女が国会議員に立候補することが決まったとき、その資質についていろいろと疑問視されてきたという経緯がある。私には、まず無理だろうと思える。その今井氏が上述のセリフを吐いたとなると、彼女の辞書の中で「外交」という項目にはどんな意味が記載されているのだろうか。実際、貿易や平和・軍事のための外交は恐ろしくたいへんな作業なのではないかと思うが、今井氏は、自分が行ったこともこのようなレベルと同等と考えているのだろうか。今井氏が、自分の辞書の「政治」や「外交」の意味から、「だから私も政治家になって外交ができる」と考えていたのだとすれば、申し訳ないが、誰かがその辞書を書き換えて差し上げる必要があるだろう。

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少子化についての素人的私見(2)―母子の絆が強いという日韓の共通点

2023年7月27日木曜日

What makes us think? ―あるいは何が思考を止めるのか?

  725日と26日に、第14回のLondon Reasoning Workshopが行われた。今回から、BirkbeckカレッジからGreenwich大学に変更になった。ぜひ行きたかったのだが、まだ前期の授業期間ということで参加を見送り、8時間の時差はあるものの、遠隔で参加した。昨年も遠隔だったが、やはりこういうワークショップは実際に参加するほうが実りがある。ワークショップでの質疑応答だけではなく、合間やディナーなどでの雑談などが有意義なのだ。

 気になっていた発表が、V. ThompsonによるFOR (feeling of rightness 「正解感」が適訳だろうか) についてものである。この概念は、直感的システムと内省的あるいは熟慮的システムを想定する二重過程理論において、デフォルトとしての直感的システムによる判断から、どのような場合に内省的システムが起動させられるのかという問題 (すなわち、What makes us think?) への解として提唱されている。つまり、直感的システムによる判断のFORが高いと、そこで思考が止まってしまって、内省的システムが起動しないというわけである。それでは、直感的システムのデフォルト解が間違っているにもかかわらず、どのような状況でFORが強くなるのだろうか。モデルとしては、推論を監視するメタ推論が想定できる。メタ推論による監視が不十分なら、不正解にもかかわらずFORが高くなってしまう。

 多くの認知的バイアスによる誤答は、どれもFORが高い。したがって内省システムによる修正が機能しにくくなる。認知的バイアスは直感的システムの産物であり、直感的システムは進化的に古く、かつヒトの脳が進化した野生環境では何らかの意味で適応的だったと思われるので、FORが高いという説明が可能かもしれない。これらが誤答とされるのは、現代文明の基準にすぎないというわけだ。

 もう少しミクロプロセスを追及してみよう。Thompsonの発表で言及されたわけではないが、FOKが高い典型的な例が、以下のようなレベスク課題に見られる。

太郎は花子を見ており、花子は次郎を見ている。

太郎は既婚だが、次郎は独身である。

この2つの陳述から、「既婚者は独身者を見ている」と言えるだろうか?

  1. 言える   2. 言えない   3. どちらとももいえない

多くの人は、3の「どちらともいえない」と答えるが、正解は、1の「言える」である。つまり、花子が独身ならば、既婚の太郎が花子を見ているので「言える」し、花子が既婚であっても、既婚の花子が独身の次郎を見ているので、やはり「言える」わけである。ところが、多くの人は、花子が既婚か独身かわからないので、「太郎は花子を見ている」という陳述のみにおいても、「花子は次郎を見ている」という陳述のみにおいても、それぞれ「どちらともいえない」ので、全体の解も「どちらともいえない」であると考えてしまう。陳述それぞれにおいて「どちらでもない」ので、この「どちらでもない」のFOKは非常に高くなる。そうなると、場合分けという内省的プロセスに進むことなく思考はストップし、かくして誤答が増大する。では、正解ではないのに、それぞれの陳述についての局所的な解でなぜFOKが高くなってしまうのだろうか。現時点では、ヒトの限られた認知容量を節約する合理的な戦略の結果であろうという暫定的な結論になるが、このような分析をいろいろなバイアスにおいて行うことが今後必要なのかなと思う。

 

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2023年6月19日月曜日

評価は分かれるかもしれないが、十分に楽しめる『どうする家康』

  私の一週間のうちの最も楽しい時間がNHKの大河ドラマと京都サンガの応援というと、「他にもっと楽しいことがないのか」という反応と、「幸福な人生だ」という反応が返ってくるが、私自身としては後者でありたいと願っている。『どうする家康』も、どうでもよいような逸話に時間が割かれすぎる傾向がある (正直、浅井の裏切りを金ヶ崎まで走って告げに行った架空の人物である阿月を登場させるくらいなら、浅井長政の苦悩を見たかった。また、秀康を生んだお万の方による家康に対する誘惑は、この心理的背景を想像できず、理解不能だった) が、ほぼ鳥居強右衛門の心情記述と行動に使われた長篠の回は、すばらしかったと思う。

 まず、松本潤演ずる家康の、幼児期からの成長を含めた変容が興味深い。当初のファンタジー少年からどのように変化をしていくのか観察したが、「突如人が変わる」のではなく、一つの人格の中での変化として描かれて、非常に自然な人間としての実在性が感じられる。今後、秀吉とどのように付き合うのか、秀吉の妹の旭をどのように迎えるのか、関ケ原、大坂の陣ではどのような家康を見せてくれるのか、期待は大きい。

 また、演出や脚本によるものだろうが、細かいところでの笑いも多い。私が思わず噴き出したのが、山田クン演ずる本田忠勝の、三方ヶ原の前哨戦である一言坂の戦いから帰った後のセリフである。忠勝には、生涯を通じて57回の合戦に出陣して、かすり傷一つすら負わなかったという逸話があるが、戦いの報告をしている忠勝は血だらけだった。私は、この逸話は無視なのかなと思ったとたん、「傷一つ負わなんだ。返り血じゃ」というセリフが飛び出した。これだけ笑った強弁も珍しい。

 もう一つは、大森さん演ずる酒井忠次の「エビすくい」である。歴史的な資料にもあり、あながち脚本家の創作ではないようだが、これまでたびたび登場して、私自身、ちょっとしつこいのではと思っていた。ところがである。忠次が武田方の鳶ヶ巣山砦に奇襲をかけることになったとき、同僚武将から次々に「死ぬな」と言われ、もっと景気がよいものはということで、この「エビすくい」が飛び出した。忠次が音頭をとり、諸将が踊る中、それを呆れた表情で眺めている板垣クン演ずる新参の井伊万千代(直政)の存在感は抜群だった。わたしは、このシーンための「エビすくい」だったのかと納得した。

 また、これまでは、旧今川としての怨念や悲しみはどうなったのかわからず、何を考えているのかわかりにくかった有村さん演ずる瀬名だが、ここにきて存在感を増している。武田方で、瀬名と交流があったと言われている唐人医の減敬が、実は田辺さんが演ずる穴山信君だったという設定も興味深い。穴山信君は、このあと徳川方に寝返って武田滅亡の主因となるが、瀬名と信君がどのような会話を交わすのか非常に楽しみである。

 

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後知恵がなければ確かに「どうする?」になる―『どうする家康』雑感

2023年5月18日木曜日

少子化についての素人的私見(2)―母子の絆が強いという日韓の共通点

  少子化について、前稿の(1)では産業国の普遍的傾向を述べた。しかし、そのような国々の中で、日本と韓国は出生率が際立って低い。さらに、産業国の中で、自殺率が高いという特徴も共有している。自殺率と呼応するように、両国とも主観的幸福感は高くない。低出生率、高自殺率、低幸福感というこの3特徴を並べると、両国とも決して住みよい国とは言えないが、このような共通点から、少子化の特異的要因を考察する価値がある。

 日本と韓国は、最も互いに類似している二国ペアの1つである。東アジアの儒教文化圏というだけではなく、いろいろと議論はあるかもしれないが、個人よりも集団を重視するという集団主義文化、規則等への遵守が厳しいタイトな文化、コミュニケーション時に共有コンテクスト依存度が高い高コンテクスト文化という文化的特徴を共有する。また、集団主義文化の特徴とされる、家族的紐帯の強さ、メンツの重要さも挙げることができる。さらに、エマニュエル・トッドによれば、どちらも「父系直系家族」という特徴を有している (父系直系家族については、必ずしも東アジアの特徴ではなく、トッドによれば、たとえばドイツなども含まれている)。そして、何よりも両国とも、非常に短期間の間に、西洋式のシステムを取り入れて産業国になったという点が似ている。

 これらの共有特徴から、どのように両国における少子化が他の産業国よりも速く進んでいったのかという問いに対する回答を推定できる。まず注目すべきは、父系直系性だろう。これに儒教的男女役割分担が加わると、女性はせっかく就業などの社会進出があっても、家事的負担が小さくなるわけではなく、必然的に子育てをする余裕がなくなり、子どもを持たないという選択になる。さらに、二世代あるいは三世代同居が当然の時代から、産業化等によって急激に核家族が増えた。かつては大家族あるいは共同体で子育てをしていたのが、それらが失われて両親あるいは母親のみに子育ての負担が大きくのしかかってくるようになった。家族形態の変化がゆっくりならば、育児にまつわる慣習も徐々に変化する。しかし、変化が急激すぎて、子育てを誰がどのようにすればよいのか戸惑ってしまっているというのが現状だろう。家族形態の変化に子育てシステムが追いついていないわけである。

 家族的紐帯の強さとメンツの文化も、子どもを持たないという選択肢を促進する。日本も韓国も家族的紐帯がつよく、特に母子関係については母子一体化といわれるくらい強い。すると、とくに母親にとって自分の子どもは自身の一部となり、子どもの優秀さが自身のメンツに強く結びつく。たとえば、ママ友の間では、子どもの優秀さがカーストの決定因になるということはよく聞く(都市伝説なのかもしれないが)。そうすると、子どもに十分な教育を施せないかもしれないという不安から、子どもは持たないという選択肢に至る。自分のカーストを下げる可能性があるからである。このように推察すると、両国における子どもに対する異常と感じられる教育熱の高さも理解できるだろう。日本人は、韓国人の教育熱を異常なのではと感ずることがあるが、西洋人からみると、日本の塾などの教育産業が異常と映っているようだ。

 自殺率の高さも、家族形態などの急激な変化と、メンツ文化の産物なのではないだろうか。ところで、これは韓国のある教授から伺った話だが、釜山の海岸沿いに絶壁になっているところがあり、そこでの自殺者が非常に多かったようだ。そこで、市の当局が、その場所に母親が子どもを慈しんでいる母子像をつくり、「母が悲しむ」というメッセージを入れたら、そこでの自殺者が激減したということである。母子の絆は子どもを産み育てるエネルギーになるはずなのだが、それが少子化を加速しているとすれば、非常に逆説的である。

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少子化についての素人的私見(1)―産業国での普遍的傾向

2023年4月30日日曜日

少子化についての素人的私見(1)―産業国での普遍的傾向

  岸田政権が、少子化問題への対処として、異次元の子育て支援を打ち出している。この少子化は、産業国において共通の問題になっている。かつての、豊かな家族ほど子どもを育てる余裕があって、その結果子どもの数が多くなるという大原則とは逆に、産業革命以降は、豊かな国あるいは豊かな家族において少子化現象が普遍的に見られるようになっている。

 このメカニズムは、次のように説明できる。まず、産業化によってその中で豊かになるためには教育が重要になってくるが、実際、産業革命以降は豊かな家族が増えて、子どもに教育を受けさせる経済的余力が生じてくる。しかし、子どもに教育を受けさせると労働力としての収益が失われるので、経済的余力がそれを上回らなければ教育は難しい。それが可能になる家族が増えるのは産業革命以降であり、教育投資への動機は、教育を受けるか否かでその後の収入に大きく差が生じてくると、ますます強くなる。

 さらに、豊かになると平均寿命が長くなり、かつ子どもの死亡率が低下する。そういう状況で、自分の老後に子どもが一人もいなくなる(したがって、養ってもらえなくなる)というリスクが低下し、かつ一人当たりの教育にコストがかかるようになると、自然と少子化に向かうようになる。豊かになっても、多くの子どもがいると均等に高等な教育を受けさせると、コストが大きくなってくるからである。さらに、産業化によって女性が担当不能な肉体的労働の比率が低下し、女性の平均的賃金の上昇とともに女性の仕事場が家庭から社会にシフトし、それが出生率の低下を促進した。実際、19世紀の初めころは男女で大きな識字率の差があったが、それが20世紀になると随分と小さくなってきている。識字率は社会進出の指標たりうる。女性の賃金が上がれば家族の収入増となり、子どもの数を増やすことができるはずなのだが、晩婚化や出生率の抑制の影響の方が強く現れてしまっているのが現実だ。さらに、子どもをもつことが女性のキャリアに負の影響を与えるようになると、子どもを持たないという選択肢が増えて、ますます少子化が促進されるようになる。

 人々が豊かになっていく途上において、ゆるやかな少子化は、決してマイナスではなかったはずである。多産多死の社会よりも、少産少死の社会のほうが、一人一人の幸福という点でははるかにましである。それを考慮して、少子化に対して、どの国も当初は問題視してこなかった。日本も、この国土で1億3千万人に迫ろうとしていた人口は少し多すぎるのではないかという懸念があり、当初はむしろ少子化は歓迎気味だったのではないかと思う。減ってもまた増えるという楽観主義があったことも否定できない。そうした中で、労働力の減少や高齢者割合の増大など、近未来に生ずる大きな問題として取り上げられるようになった。少子化問題は、温暖化問題とともに、現代の人類の大きな問題となりつつある。しかし、産業化による女性の社会進出に歯止めをかけるという方向にだけは向いてほしくはない。

2023年4月14日金曜日

プレスリリースー日本人・中国人のコミュニケーションスタイルを解明

  私の研究室の大学院生の呉長憶さんを筆頭著者とする論文が、Wileyから出版されている国際誌のGlobal Networks3月末にオンライン掲載され、大阪公立大学からプレスリリースしていただいた。以下がその内容で、本ブログでも紹介したい。

 

 人々がコミュニケーションを行う場合は、話し手と聞き手が共有する情報であるコンテクストを利用します。このコンテクストの依存度には文化差があると考えられ、西洋人は依存度が低い『低コンテクスト文化』、東洋人は依存度が高い『高コンテクスト文化』とされてきました。

 大阪公立大学大学院 文学研究科 呉 長憶大学院生と山 祐嗣教授の研究グループは、高コンテクスト文化とされている日本人および中国人は、相手国の人とコミュニケーションを取る際、高コンテクスト文化から低コンテクスト文化にコードスイッチングしていることを明らかにしました。さらに、日本人は、日本で生活している中国人留学生に対しては、コードスイッチングをあまり行わないことも明らかとなりました。本研究により、人々が異文化間コミュニケーションを行う際は、低コンテクスト文化である可能性が高いことが示唆されたと同時に、低コンテクスト文化は異文化交流が多い環境で形成されやすいことも示唆されました。

<研究の背景>

 人々がコミュニケーションを行う場合は、話し手と聞き手が共有する情報、すなわちコンテクストを利用します。たとえば、友人を花見に誘う場合、日本人相手なら、「花見に行かない?」というだけで意図を理解してもらえます。その理由は、花見とは何かからその雰囲気まで、コンテクストとして共有されているからです。コミュニケーションにおけるこのコンテクストの依存度には文化差があると考えられ、西洋人は依存度が低い『低コンテクスト文化』、東洋人は依存度が高い『高コンテクスト文化』とされてきました(e.g., Hall, 1976; Meyer, 2014; Yama & Zakaria, 2019)。いわゆる、阿吽の呼吸は典型的な高コンテクスト文化のコミュニケーションスタイルです。

 従って、日本人も中国人も同じ東洋人として高コンテクスト文化圏のはずですが、先行研究において『日本人は、中国人のコミュニケーションスタイルが、西洋人と同じように低コンテクスト文化であると信じている』という主張があります(山科, 2018)。私たちはこの理由を、日本人は比較的他国の人々より中国人と接点があると同時に、中国人は日本人とコミュニケーションを行う際にコンテクストが共有されないことを考慮しているためではないかと推論しました。この解釈の背景には、低コンテクスト文化は、異文化コミュニケーション時に生じやすいとする主張(Gudykunst, 1991; Ting-Toomey, 1999)と、人々が異なるコミュニケーションスタイルに対応する際の適応行動として、高コンテクスト文化と低コンテクスト文化をコードスイッチングするという主張(Zakaria, 2017)があります。日本人ではなく中国人を誘う場合は、花見とは何かの説明をくわえるわけです。そこで本研究は、この解釈について検証することを目的に実施しました。

<研究の内容>

 本研究では、コンテクスト依存度を測定する17項目の質問紙(Richardson & Smith, 2007)を用いて、日本人大学生(65名)と中国人大学生(80名)、日本で生活している中国人留学生(50名)を対象にアンケート調査を行いました。各グループは、各質問(「伝えたいことを全部言葉にしなくても、聞く人は話す側の意図がわかるはずである」など)に対して『自分自身はどの程度当てはまるか』『自国民はどの程度当てはまるか』『他国民(日本人なら中国人、中国人および中国人留学生なら日本人)はどの程度当てはまるか』を回答しました。

 その結果、日本人学生と中国人学生では、相手国の人々を低コンテクスト文化であると判断していることが明らかとなりました。つまり、相手に対して自分の国の常識を知らなくても大丈夫なように、コミュニケーションスタイルのコードスイッチングを行い、互いに相手を低コンテクスト文化と判断したわけです。しかし、これらの違いは中国人留学生には見られませんでした。つまり、すでに日本とコンテクストを共有している留学生には、日本人は低コンテクストスタイルにコードスイッチングをする必要がなくなった結果と解釈できます。

 これらの結果は、人々が異文化間コミュニケーションを行う際は、低コンテクスト文化的状況である可能性が確認されたと同時に、低コンテクスト文化は異文化交流が多いような環境で形成されやすいことを示唆します。さらに、異文化コミュニケーション時にコードスイッチングを行うことも示唆されました。

<期待される効果・今後の展開>

 この研究には、理論面と実用面の2つの意義があります。理論面としては、高低コンテクストという文化の違いがどのように生まれるのかについて、生態的・地勢的な説明理論に発展させることが可能です。本研究によって、異文化交流時に低コンテクスト文化的コミュニケーションスタイルが用いられやすいことが示されましたが、古代ギリシャのように異文化間の交流が盛んで、1つの文化に統一されにくい地勢的環境で低コンテクスト文化が生まれやすいとする理論に発展させることができます。これが、西洋の低コンテクスト文化の源流となっていると推定できます。

 また、実用面としては、効率的なコミュニケーションの促進に示唆を与えてくれます。高コンテクスト文化の人は、低コンテクスト文化の人とのコミュニケーション、あるいは異なる高コンテクスト文化の人とのコミュニケーションにおいて、誤解や葛藤がよく起こります。これは対人関係に悪影響を及ぼします。したがって、相手の話し方に合わせて自身のコミュニケーションスタイルを変えることは、コミュニケーションの質を改善するために非常に重要です。今後は、人々の生活適応能力、コンテクスト依存度、コードスイッチング能力の三者間の関連性について、検討を加えていきます。