2021年8月21日土曜日

理性が情念の下僕になるとき―丸川珠代五輪担当相の迷言

 丸川珠代五輪担当相が、「五輪は感染拡大の原因ではない」という自身の断言の根拠を問われ、「オリンピックの開会式は56・4%、閉会式が46・7%と、期間中も高い視聴率を記録」という珍回答が多くの人の嘲笑を浴びている。ひょっとして本人は、視聴率の高さは人々が外出しなかったということの証だと言いたかったかもしれないが、これを根拠と考えている彼女の頭の中を調べたいと思った人は多いだろう。

 丸川氏といえば、東京大学を卒業してアナウンサーをしていたことが知られている。この出身が東京大学ということで、不思議がる人から「東大でも頭の悪い人がいる」という人まで、さまざまな意見がSNS上で述べられている。私自身は、これは、熟慮的システムと直感的システムを想定する二重過程理論が扱う好事例だと思うのだが、その枠組みで説明してみたい。東京大学を卒業しても、優秀な人もいればそうではない人もいるかもしれない。しかし、最低限の学力は保証されるし、熟慮的システムが担当する批判的思考や分析的思考能力はかなり高い部類にはいることは推測できる。問題は、その能力が何に使用されるかである。

 二重過程理論の重要な研究テーマの1つに、熟慮的システムが直感的システムからの出力をどの程度あるいはどのように制御しているのかという問題がある。概して、直感的システムの出力が強烈な感情と結びついているときは、制御されにくく、場合によっては、熟慮的システムが直感的システムの出力の合理化・正当化に使用される。一般的には、熟慮的システムが適切に機能すれば、言い換えればクリティカルシンキングや分析的思考の傾向が強ければ、非科学的な思考は抑制されやすい。たとえば、多くの国において、このような思考傾向が強い人ほど、化石燃料の使用による二酸化炭素放出が地球温暖化の大きな要因だと判断している (大きな要因ではない可能性もゼロではないが)。ところが、アメリカのトランプ支持者においては、逆に、分析的思考傾向が強い人ほど、放出された二酸化炭素が温暖化の要因だとする判断をしなくなるという結果が、カナダのGordon Pennycookらの一連の研究で得られている。つまり、トランプの支持によって彼の主張への直感的な賛意となり、そうなると熟慮的システムは、それを正当化するためだけに使用されるようになる。太陽の活動など、二酸化炭素以外の要因に注意が向けられるわけである。

 丸川氏の場合もまさしくこれにあたる。調査したわけではないが、おそらく分析的に考える習慣が強い人は、東京オリンピックが感染拡大の大きな原因の一つと考える傾向が強くなるだろう。しかし、丸川氏のように、それを絶対に認めたくないという人は、たとえ東京大学に入学できるほどの分析的思考能力をもっていても、その能力が、原因論の否定の正当化に使用され、あげくのはてに、「視聴率が高いということは、人々が外出していない証拠」のような、全く考慮に値しない根拠が述べられたのだろう。このような「常識を覆す」発想は、ひょっとしたらアナウンサー時代には役に立ったのかもしれない。しかし、権力にぶら下がると、権力による主張の正当化に奉仕するようになった。デビッド・ヒュームがいうように、まさしく「理性は情念の下僕」なのである。

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2021年8月14日土曜日

新型コロナウイルス感染拡大の要因―規範遵守意識を崩壊させたオリンピックの影響は大きい

  新型コロナウイルスの感染拡大が止まらない。この状況でよくオリンピックを実施したと思うが、その責任者である、菅総理、加藤官房長官、丸川オリンピック担当大臣の3名とも、東京オリンピックが感染拡大の原因ではないと主張した。私は、オリンピック強行によって感染拡大を引き起こしたことのお詫びがあって然るべきと思っていただけに、この強弁にはさすがに呆れた。ここで謝罪したら、パラリンピックが中止に追い込まれることになるからだろう。

 確かに、感染拡大へのオリンピック開催の直接の影響についての科学的根拠は薄いかもしれない。しかし、これまで日本においてなぜロックダウンのような強硬措置を取らずに比較的少ない感染者・死者で抑えられてきたのかという理由を考えれば、オリンピックが感染拡大の原因ではないとは決して主張できないはずである。日本あるいは、東アジア諸国においてこれまで感染が比較的拡大しなかった最も大きな理由の一つに、相互監視社会という要因を指摘できる。特に、若年層には、感染によって自分が重症化したり死亡したりするリスクへの不安よりも、感染したらどんな悪評が立つかわからないという恐怖があったようである。たとえばクラスターが起きて、自分がその原因であるとされたら、そのコミュニティで生きていけなくなるわけだ。

 その恐怖が、東京オリンピックによって払拭されたといえる。密を避けろ、仲間との飲み食いを自粛しろと言われる中で、そのような社会規範に違反して感染すると社会的生命が絶たれる可能性があったのが、一方で、オリンピック関係者による規範破りが続出したり、オリンピック応援の絶叫がテレビで流されたりすれば、若年層・中年層において、「もうこの規範には従わなくても大丈夫」という暗黙のメッセージになる。違反して感染しても社会的に排斥されないという安心感を彼らに与えたのではないだろうか。また、感染者が少ない状況では、感染者が自己責任として排斥されやすい (昨年、第1号感染者が最も遅かった岩手県では、第1号になると地域で生きていけなくなるという話を地元の方から伺った) が、感染者が多くなればそういう不安も低減する。本当は医療崩壊を起こしてより恐ろしいことになるはずなのだが、「みんなで感染すれば怖くない」状態が作られてしまったのだ。

 この推定は後知恵なのかもしれず、オリンピックの前には予想できていなかったことなのかもしれない。しかし、結果的に、オリンピックは感染拡大の大きな要因になったと思う。規範を破ることによる社会的排斥の恐怖が、「規則を守れ」という側が平気で破っているのを目にすれば薄まるということは、心理学として妥当な説明だと思う。責任者の3名には、せめて「東京オリンピックによって、感染拡大を引き起こし、申し訳ありませんでした」という反省と詫びの言葉を聞きたかったと思う。

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なぜ中止することができないのか (2)―オリンピックと甲子園とインパール

2021年8月10日火曜日

後知恵バイアスの文化差についてー少なくとも日本人の非論理性や低知能の証拠ではない

  Applied Cognitive Psychologyに掲載された法廷での後知恵バイアスについての論文を産経新聞で紹介していただいて以降、後知恵バイアスについて検索すると、後知恵バイアスが日本人を含む東洋人に多いというインターネット記事やブログが散見された。後知恵バイアスが東洋人で多いという知見の紹介はよいのだが、しかしそれらの中には、それを日本人の思考の非論理性の証拠として紹介するものから、日本人あるいは東洋人の知能の低さの現れとまで主張する粗悪なものまであった。これは訂正する必要がある。

 私自身も、日韓英仏で後知恵バイアスの比較を行って論文を書いたが、そういう主張は全く行っていない(Yama et al., 2010)。知能の低さという点は明確に否定しておかなければならない。確かに知能が高ければ認知バイアスを抑制できるという知見は、Keith Stanovichによる一連の研究で主張されている。しかし、後知恵バイアスは、そのような認知バイアスとは異なり、逆の方向に進めば、基本的帰属誤謬(fundamental attribution error)にたどり着くバイアスなのである。後知恵バイアスが東洋人に多いのに対し、基本的帰属誤謬は西洋人に多い。

 基本的帰属誤謬の代表的な研究に、アメリカ人大学生にキューバのカストロに関する賛成派と反対派の文章を読ませて書き手のカストロへの態度を評価させたものがある。カストロに好意的な文章があれば、当然この書き手はカストロに好意的だという評価になるが、「この書き手はカストロに好意的な文章を書くように依頼された」という情報が与えられても、その評価はあまり変化しなかったのである。つまり、実験に参加したアメリカ人大学生は、書き手の状況的制約を考慮することなしに、その文章内容を書き手の思想に過大に帰属させたのである。

 東洋人に後知恵バイアスが多く、西洋人に基本的帰属誤謬が多いという事実は、何かの判断において状況的要因を、前者は考慮しやすく、後者は無視しがちであるという性向として記述できる。後知恵バイアスは「結果」という状況要因を考慮することによって生じ、基本的帰属誤謬は「依頼」という状況要因を無視することによって生じているわけである。以上から、日本人に後知恵バイアスが多いからといって、それを非論理性や知能の低さと結びつけるのは、明らかに誤りだということがわかるだろう。状況要因の無視は基本的帰属誤謬となり、どちらへ転んでもバイアスになるわけである。この状況要因の考慮・無視の程度の文化差は、西洋人の分析的認知・東洋人の全体的認知という枠組みで記述され、前者を西洋の個人主義文化、後者を東洋の集団主義文化と結びつけて説明されることが多い。ただし私自身は、この東洋人の思考傾向は、複数の要因を考慮する弁証法的思考傾向の結果と考えており、また必ずしも集団主義が反映されたものではないと推定している (Yama & Zakaria, 2019)。

Yama, H. et al. (2010). A cross-cultural study of hindsight bias and conditional probabilistic reasoning. Thinking and Reasoning, 16, 346-371.

Yama. H., & Zakaria, N. (2019). Explanations for cultural differences in thinking: Easterners’ dialectical thinking and Westerners’ linear thinking. Journal of Cognitive Psychology, 31, 487-506.

 

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2021年8月6日金曜日

なぜ中止することができないのか (2)―オリンピックと甲子園とインパール

  日本におけるちょっとした変化を捉えて、独裁化や軍国化と叫んだりする一部のジャーナリストや学者にはうんざりしてきた。日本の独裁レベルは、北朝鮮や中国共産党、ベラルーシの状況と比較すれば、物の数ではない。しかし、あれだけ感染増を懸念されながら、オリンピックだけはどうしてもやるという姿勢には、私も正直第二次世界大戦を連想してしまった。

 最近の二週間の新型コロナウイルス感染者の増加は想像を超えている。高齢者のワクチン接種が進んで重症者が少なくなると思ったが、それ以上に感染者が増えてその中から重症者が増え、医療崩壊を起こし始めている。高齢者の重症者が少なくなったとはいえ、感染者の母数が爆発的に増えているために、必然的に中等症や重症者が増えているのだ。爆発的に感染増大があると、変異株が生ずるリスクも上昇する。せっかくのワクチンの効き目が小さくなる可能性だってあるわけだ。オリンピックによって東京株が生まれて、オリンピック関係者が帰国することによって世界中にこの変異株が蔓延するというという悪夢のシナリオも描ける。

 確かにこの感染増がオリンピックによるものだという直接的なエビデンスはまだないのかもしれない。しかし、いくら人流を止めようとしても、オリンピックという大きなイベントがあれば、人々の気持ちは浮つき、行動に現れる。最善の方法は、オリンピックを即座に注視して、都市についてはロックダウン相当のことをすることだっただろう。もちろん、不要不急の夏の甲子園など、もってのほかである。

 権力者が「やりたい」と思ったら絶対に止めないこの悪弊は、どうしても第二次世界大戦を連想させる。悪名高いインパール作戦や、また勝つ可能性あるいは有利な講和の可能性がほとんどない状態で、あれだけ人命が失われ続けていたにもかかわらず戦争を継続させた当時の日本とよく似ていると思わざるを得ない。もちろん死者数は雲泥の差かもしれないが、入院できずに在宅中に亡くなっている感染者が増え始めている状況で、オリンピックを中止できないというのは、やはり第二次世界大戦と「似ている」といわざるを得ない。

 それでは、このゴリ押しは「独裁」によるものなのだろうか。山本七平氏は、第二次世界大戦を引き起こしたのは、ヒトラーやムッソリーニのような強力なカリスマ的独裁ではなく、「空気」であると表現したが、今回のオリンピック開催も、そういう雰囲気で決定されたように思える。菅総理の独裁というよりも、IOCとの関係や、他の閣僚や利権を握った人々の間で醸成された「空気」に誰も抗えなかったという印象が強い。とりあえず、甲子園とパラリンピックは中止して欲しい。オリンピックを実施してパラリンピックを実施しないのは障がい者への差別だという批判は、政治家には堪えるかもしれないが、実施が、国民の命の犠牲と教育・研究活動の抑制と引き換えだということを忘れないで欲しい。

 

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2021年7月30日金曜日

後知恵なのかもしれないがー東京オリンピックと感染者数の増大

  この新型コロナウイルス蔓延状態の中で東京オリンピックを実施するのか。2021年の春先からの国民的課題だったが、現時点で、感染者数の増大という多くの国民が危惧していたことが起こりつつある。私自身は、オリンピックを実施した場合のさまざまな経済効果や感染者数増大による死者・医療崩壊など、そういったことを複数の視点からパラメータを当てはめてシミュレーションをした結果を国民に示したうえで、実施するかどうかを決めてほしかった。しかし、実施ありきが政府がもっていた当初からの結論のようであった。目的が、経済的な問題なのか、IOCへの忖度なのか、あるいは政治家の実績つくりなのか、結局わからないままである。

 東京オリンピックを実施するのなら、感染対策をもっと厳しく行うべきである。入国の水際対策といいながらザルのような検疫を放置し、バブル方式と呼びながら、バブルははじけるは、バブル内で感染が広がるはで、なし崩し的にきまりが守られなくなっている。バブルに閉じ込められた選手から不満が出れば、それに対してきちんと説明をして説得をしなければならない。「不満があるから」と緩めていけば、ウイルスが広がるのは当然だ。せっかくワクチン接種が進む中、変異株が次々と国内に入ってくれば、元の木阿弥どころかもっとひどくなる可能性もある。

 選手や彼らを取り巻く人々にも苦言を述べたい。プレー中の選手への、観客席からの選手団による声援は禁止されているはずではないのか。ある柔道選手への「○○」コールは見ていて見苦しかった。またパブリックビューイングをしないと言っておきながら、特定の選手のご当地の小学校や中学校での集まっての応援が普通に行われている。某水泳選手への絶叫しながらの応援は、いくらマスクをしていてもとても感染を防ぐことはできないだろうし、おそらくこういう光景が日本のいたるところで見られるのだろう。これらは、感染拡大を防ぐためにはしてはいけなかったことなのではなかったのだろうか。

 この感染爆発で、多くの人々が苦境にあえぐことになる。私自身は経済的な影響は少ないが、親しい人が入院してもお見舞いに行けなかったし、大学での教育活動、研究活動、学会の開催に大きな支障が生じている。とくに、私がよく参加している学会は2年連続オンラインとなっており、おそらくその不利益を最も被るのは学会デビューした大学院生たちだろう。ウェブの学会では、他大学の研究者との交友関係を築くのは不可能に近い。このような交流は、5年後、10年後に実を結ぶものである。

 この時点で判断できることは、後知恵かもしれないが、オリンピックは実施すべきではなかったということだ。これだけの感染者増とそれに伴うさまざまな不利益を考えれば、即刻中止が望ましい。正直、とても浮かれる気分にはならないし、たとえば、日本と対戦したサッカーのフランスチームのように、調整不足なのかミスだらけの試合を見せられても少しもおもしろくないし、勝っても喜ぶことはできない。感染の爆発的拡大、ベストとは程遠いパフォーマンス、テレビは不愉快な喧騒の嵐、商業オリンピックは真剣に見直す時期にきているのではないだろうか。とりあえず東京オリンピックは今からでも遅くはないので中止にしてほしい。

2021年7月9日金曜日

International Conference on Thinking 2020参加記―モラル推論・陰謀論・社会的分断

  International Conference on Thinkingは、4年に1度の思考心理学の学会である。本来なら昨年にパリで行われるはずだったが、今年に延期となり、結局はオンラインでの学会となった。この学会は、毎年行われていたLondon Reasoning Workshopとともに私を研究者として育ててくれた学会で、知己の研究者が多いのだが、実際に会うことができずに本当に残念だった。また、パリ時間を中心として世界中から参加できるオンライン形式なので、日本は毎日夜の10時スタートとなった。そのため、たとえば、Steven Slomanなど、聞きたかったいくつかの基調講演に参加できなかったのが残念である。

 近年の思考心理学の大きなテーマに、モラル推論や陰謀論がある。また政治的分断の説明に適用されている発表もあった。いずれも、人間の認知機構に直感的システムと熟慮的システムを仮定する二重過程理論の適用であると同時に、これらの材料によって、この理論そのものの発展が促されている。モラル推論研究は、非常に有名な「トロリー問題」に端を発したものが多く、功利論的推論が行われるのか義務論的推論が行われるのかが問われていた。概して、1人を救うよりも5名を救う方がよいとする功利論的推論は熟慮的システムによって、「人を殺しちゃダメ」という義務論的推論は直感的システムによって行われると想定されるが、例外も多く、それらをどのように扱うかなどが議論されていた。

 妄想的思考(delusional thinking)研究の一環としての、陰謀論研究も散見された。代表的な妄想的思考に結論飛躍バイアスがある。一般に、結論を導くときにはいくつかの前提が精査されるものだが、これは、一つの、たとえば、ある女性がちらりとこちらを見たという前提から、彼女は自分を愛していると結論づけるような妄想的思考である。陰謀論もこの一種で、自分が固執する結論があり、その結論が導くことができるような陰謀をストーリーあるいはナラティヴとして構成されていくとその非合理性が説明される。

 政治的分断もそのような固執が問題になっている。一般に、批判的・分析的思考ができれば、思考スタイルは科学的になる。そして、実際、批判的・分析的思考ができる人ほど、地球温暖化の主要因は二酸化炭素の排出によるものだと考えている (おそらく、これは科学的にかなりの確率で正しい)。ところが、基調講演のGordon Pennycookによれば、トランプの強固な支持者たちにおいてのみ、批判的・分析的思考ができる人ほどそれを信じなくなるようだ。つまり、二重過程理論の熟慮的システムは、非科学性を修正するというよりは、自分の強固な信念を合理化するために使われたというわけである。これは、ちょうどJonathan Haidtの『社会はなぜ左と右にわかれるのか』の中で示されている、熟慮的システムが、ありえない確率のリスクを自分の直感的嫌悪を合理化するために指摘する例と似ている。D. ヒュームが言うように、まさに「理性は情念の奴隷」なわけである。このような思考傾向が政治的分断を招いている。

 私自身も発表を行ったが、この内容は論文になったときにでも紹介したい。次回は、2024年にミラノで行われる。ぜひ行きたいものだと思っている。

2021年7月2日金曜日

科学基礎論学会奮戦記―「思考の文化差—地勢的・生態的要因から文化多様性を考える」

  そもそも会員でもない私がなぜ科学基礎論学会に出席したのかというと、大会委員長の佐金先生に講演を依頼されたからである。この学会は、学際的で他領域に開かれていることを実感したのだが、毎年主催校の他領域の研究者が講演を行うというルールがあるようだ。私が現時点で発表できるテーマは、「文化多様性をどのように説明するのか」と「理性が野生をどのように飼いならすか」だったが、学会の主要メンバーの先生から前者が良いとのことで、「思考の文化差―地勢的・生態的要因から文化多様性を考える」というタイトルでお話しさせていただいた。

 講演のベースは2019年に発表した論文(Yama & Zakaria, 2019)である。この論文では、東洋人の矛盾を受け入れやすいという弁証法的思考傾向・素朴弁証法的な世界観が、西洋人と比較して東洋人のほうがコミュニケーション時に暗黙の了解や常識(コンテクスト)により依存するとするエドワード・ホールの主張 (西洋人の低コンテクスト文化・東洋人の高コンテクスト文化) を根拠にして、少々の矛盾はコンテクストによって解決できるという規範が東洋人に共有されているとして説明されている。

 ただし、本講演のハイライトは、この説明を地勢的・生態的要因に結びつけていくという点である。この試みは、Yama & Zakaria (2019)の論文でも展開されているが、この講演ではそれをもう少し体系化した。比較文化研究においても、生態的要因によって文化差を説明しようとするものがあるが、主として稲作などの生業レベルの「生態」が用いられている。私は、低コンテクスト文化が形成されやすい要因として異文化交流があるとし (異文化交流では、話し手と聞き手でコンテクストを共有しにくいからである)、そして異文化交流の生態的源泉は、異文化交易の利得が大きな状況、すなわちたとえば黒曜石のようなリソースの偏在と、そのような交易を可能にする河川やウマ・ラクダなどの手段の存在という地勢的・生態的要因にあるとした。

 この発想の原点は、ジャレド・ダイアモンドによる『銃・病原菌・鉄』の中で貫かれている「民族の優劣といった概念に頼らずに、地勢的・生態的要因によって世界の文明的発展の不均衡を説明する」という姿勢である。私も、文化多様性が生まれる中で、遺伝子頻度による説明は不要とまでは言わないが、この姿勢は見習いたいと思っている。さらに、この説明は、私たちの祖先が6~7万年前にアフリカを出て世界中に散りながらそこで独自の文化を築き上げたというビッグ・ヒストリーにも貢献できると考えている。私に『銃・病原菌・鉄』のような書籍が書けるのはいつになるかわからない。しかし、細々とでも良いので一歩一歩目標に近づきたいと願っている。

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