2025年6月2日月曜日

日本認知心理学会優秀発表賞を受賞しましたーCultural differences in religious belief, religious dialectical thinking, and the relation between thinking style and religious belief.

  前回の記事から随分と期間が空いてしまったが、ブログをやめようと思っているわけではない。ある書籍を紹介しようと思って読んでいるのだが、消化不良で時間がかかっているだけである。その代わりといってはなんだが、531日、61日と、京都大学で日本認知心理学会があり、発表賞国際部門を受賞したので、その報告をしたい。

 私の受賞対象は、昨年度の、Maxime BoulierVeronique Salvano-PardieuKen Manktelowとの共著の Cultural differences in religious belief, religious dialectical thinking, and the relation between thinking style and religious belief.というタイトルでの発表である。この研究は、昨年のミラノにおける思考の国際学会でも発表しているので、すでに過去の記事でも紹介しているが、宗教的ビリーフについての弁証法的態度と、思考スタイルによる宗教的ビリーフの促進・抑制の文化差を検討したものである。

 私たちは、日・仏・英3か国からそれぞれ100名づつの参加者にウェブ調査を行ったが、3つの大きな発見があった。第1は、日本人は、フランス人や英国人と比較して、弁証法的なビリーフをもっていたということである。東洋人が弁証法的であることは、比較文化研究領域でよく知られていることだが、宗教的ビリーフにおいても確認できた。たとえば、「地獄は迷信」と思っていても「地獄は怖い」のである。

 第2の発見は、これが研究の主目的だったのだが、英国人とフランス人では、内省的な思考スタイルが宗教的ビリーフを抑制していたが、日本人ではそういう抑制は生じず、直感的な思考スタイルが宗教的ビリーフを促進していた。概して、超常的なビリーフは内省的思考によって抑制され、宗教的ビリーフはその1つである。しかし、日本人は宗教に対して弁証法的な姿勢を示しており、それによって内省で抑制する必要がないのかもしれない。

 第3の発見は、偶然的なものである。宗教的ビリーフには、いくつかの側面があるが、そのうち、悪いことをすれば報いがあるなどの「応報的観念」は、日本人において強かった。そこで、試みに、宗教を信じているかどうかも加えて分析をしてみたところ、日本人では宗教(主に仏教)を信じているかどうかでほとんど差がなかった。英国人とフランス人では、宗教(主に、カソリックまたはプロテスタント)を信じている人たちの応報的観念の強さは、日本人とほとんど差がなかったが、信じていない人たちのスコアが低かったのである。信じていない人は、日本でも英仏でも6070%だったが、英仏では彼らが全体のスコアを押し下げているということがわかった。おそらく西洋人の無宗教者はほとんどが無神論者であり、かれらは、強烈に神を否定しているのだろう。日本人は、無宗教であったとしてもパワースポットを訪れたり初詣に行ったりと、宗教的な生活を否定しているわけではなく、ここに両者の大きな違いがあるのではないかと思える。

 これらの3つの結果は、私自身もおもしろいと思っている。宗教の違いや文化の違いを交叉的に捉えることができ、さらにそれを内省がどの程度抑制しているのかということもわかった。これらを評価していただいて、たいへんうれしく思っている。


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日本認知心理学会優秀発表賞を受賞しましたー”Cultural differences in preference for enthymemes: A cross-cultural study of the Japanese, Koreans, Taiwanese, French, and British

 

2025年4月5日土曜日

“Human and Artificial Rationalities. Advances in Cognition, Computation, and Consciousness”が出版されました

  2022年からパリで行われているHuman and Artificial Rationalityのカンファレンスだが、23年分から出版を開始し、20249月に行われた分が3月末に出版された。昨年は、私はパリでのカンファレンスに参加していないので、私が筆頭著者である章は含まれていないが、とりあえず編集に加わり、編者に名を連ねさせていただいている。本書は、Artificial Reasoning and ModelsArtificial Intelligence and CognitionRationality and Dual ProcessMoral ReasoningEducationReasoning and Special NeedsExperimental Procedures in Cognitionの部門に分類され、合理性を論ずるもの、人工知能およびそれとのかかわり、および教育への応用などが論じされている。

 私が筆頭著者となっている論文は本書に含まれていないが、Maxime Bourlierが筆頭となっている論文の著者の中に入れていただいている。この研究は、モラル判断のテーマとして有名になった、トロッコ問題と歩道橋問題を材料として用いている。トロッコ問題とは、進行中のトロッコが5人の作業員に向かって進んでおり、このままでは5名が死ぬが、レバーによって進行方向を切り替えれば死者は1人だけになるという設定で、レバーを引くか否かという問題である。5人を助けるために1人を犠牲にするか、何もしないで5人を犠牲にするかという倫理的ジレンマ状況を提供しているわけである。この状況だと、レバーを引いて5名の犠牲よりも犠牲を1名だけにする功利論的な選択肢が好まれる。ところが、歩道橋問題では、歩道橋の上の太った人を線路に突き落としてトロッコを止めるという方法で5名を助けるかどうかという判断になる。この場合は、突き落とすという行為に抵抗感があり、この功利論的選択が激減する。つまり、「突き落としてはいけない、これは殺人だ」という義務論的選択が増加するわけである。

 なぜ歩道橋問題になると、功利論的選択が減少して義務論的選択が増加するのかという内容効果には、いくつかの説明が提唱されているが、最も重要な要因は、歩道橋問題ではいくら5名を救うためであっても殺人自体が目標になっているという点だろう。Bourlierが注目したのは、その行為で責任を取らされるか否かである。そこで、責任を取らされないように「1名を犠牲にする許可を得る」か否かを独立変数として操作した。その結果、歩道橋条件では、「許可を得る」ことによって、太った人を突き落とすという功利論的選択が増加したのである。なお、トロッコ条件では、最初から功利論的選択が多く、許可の効果が現れなかったが、これは天井効果であろう。許可を得るということは罰せられないということで、このことが、内容効果の根本的要因なのかどうかはわからない。しかし少なくともこの効果の生起に寄与しているということがわかった。

 このカンファレンスおよび論文集の出版は、2025年分も継続される。2025年も9月にパリでカンファレンスが開催される予定だが、今年は私も発表および論文投稿の予定である。

2025年3月29日土曜日

司馬遼太郎『ロシアについてー北方の原形』再読

  ウクライナ侵攻によるロシア側の死者はすでに95千人を超え、日露戦争時の8万人を上回っている。それでもプーチンが侵攻を止めないのはなぜなのか。さらには、これだけ経済的にボロボロになったロシアは、客観的にはこれ以上ヨーロッパに侵攻する体力が当分はないだろうと思える中で、東欧、北欧、バルト三国等がこれだけロシアを怖れるのはなぜなのか。このような問題を考えるヒントとして、司馬遼太郎の『ロシアについてー北方の原形』を再読した。この文庫本が出版されたのが1989年で、ベルリンの壁が崩壊した年であり、2年後にソビエト連邦が崩壊している。この後平和な世界が訪れることを予測した識者が多かった中で、本書には、現在のロシアを予感させるまさしく「原形」が描かれているように思える。

 ロシアは遅く成立した国である。「タタールの軛」と呼ばれるキプチャク汗国の支配を受け、ロシア人の国ができたのは、16世紀に入ってからである。そのためなのか、中国やヨーロッパの大陸国に見られるような、遊牧民族から住民を守る長城や城壁に囲まれた城塞都市があまり発展していない。軛の前には、ビザンチンの影響を受けたキエフがあったが、成熟した農業国家ではなく、大規模な城塞や長城を建設するには国力が弱かったのである。このことは、外敵の恐怖とその不安を取り除く方法が外への膨張であるという信念の共有に繋がっているかもしれない。

 ロシア帝国成立の上で、キプチャク汗国は敵だったかもしれないが、汗国からは多くの制度を継承している。それは少数の支配者が多数の被支配者を統治せざるをえない状況でのシステムで、1つは住民の隷属化、もう1つは隷属化を維持するための強力な軍事力である。汗国によるロシアの人々からの収奪は、遊牧騎馬民族による典型的な農耕民族支配で凄まじいものであったようだ。また、少しでも抵抗があれば、ジャムチを通してそれが中央に伝わり、天幕からの騎馬軍が急行して鎮圧された。

 ロマノフ朝は、これと似た制度を継承して、権力を確立・維持した。多くの農奴を抱えたが、農奴は貴族等に「所有」されており、所有者に生殺与奪の権利があった。日本や西欧の封建時代でも、領主がもっているのは徴税権であり、農民にまで所有権が及ぶわけではない。ここに大きな違いがある。ロマノフ家も、もとは貴族の中の一族に過ぎなかったが、ウラル山脈の東側のシビル汗国を滅ぼしてから勢力が大きくなった。シベリアへの膨張は、ヨーロッパで高く売れる黒貂の毛皮求めてということもあるが、ライバルとなる貴族に対して優越を保つための政治的東征であるともいえる。また、17世紀のシベリアの原住民は、ロシアにとっては毛皮獣を捕らせるための存在でしかなく、人間としての権利はほとんどなかったようである。

 このような背景に、ロシアのウクライナ侵攻という事実を重ね合わせると、残念ながらいくつかの特徴が浮き彫りになる。人命・人権を軽視して軍事力を重視し、独裁を維持して不安を軽減するために無謀であっても膨張をめざす。これがロシアの原形によるものだとすれば、世界はどのようにしてこの国と付き合うべきなのか、あるいは対処すべきなのかを真剣に考えていく必要がありそうだ。東欧、北欧、バルト三国の反応は、それを見越したものであろう。

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「海洋時代」から「新大陸時代」へ?202258日毎日新聞の記事から

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2025年3月1日土曜日

トランプのプーチンへのすり寄り―2016年米国大統領選挙介入への返礼?

  2025年にドナルド・トランプが大統領に就任したが、ロシアのウクライナ侵攻 (そもそもトランプは「侵攻」という用語を使用していない) の停戦交渉において、おそろしくロシア寄りの提案を繰り返している。個人的には、戦争の継続には心が痛むが、軍事独裁政権による侵攻や軍事的圧迫は容認すべきではないし、世界全体において民主主義と正義は守らなければならないと考えているので、このトランプの姿勢には、非常に大きな憤りと不安を覚えている。

 トランプのこの姿勢はなぜなのか。日本のメディアでは、取引で物事を決めるトランプにとってウクライナの地下資源が最も重要であるとか、トランプの真の敵はロシアではなく中国であるとか、さまざまな議論が飛び交っている。ところが不思議なことに、2016年にドナルド・トランプが、民主党のヒラリー・クリントンを僅差で破って大統領に選ばれたときの、ロシアの選挙への介入との関係が日本ではほとんど報じられていない。

 この介入は、ラリー・ダイアモンドによる『浸食される民主主義(Ill Winds)』に詳細に記述されている。これは、トンデモ本などではなく、著者のダイアモンドは政治学者であり、この介入について信憑性がある文献を論拠としている。これらの介入は、大々的なものとして、ヒラリー・クリントンの選挙運動と民主党へのフィッシングによる攻撃である。彼らの膨大な受信ボックスから何百万通ものメッセージが盗まれ、これによってロシアは民主党のファイルに侵入し、議員や選挙運動スタッフなどが標的にされた。この漏洩は、民主党内の分裂を引き起こし、クリントンの信用が失墜した。この介入は、ロシア政府機関や諜報活動の部署が担当していたが、このほか報酬を受け取って活動するソーシャルメディアユーザーであるトロールによっても行われた。彼らは、トランプ支持に結びつきそうな社会問題や人種問題についてのフェイクを捻出したりSNS等で発信したりした。たとえば、2016521日、ヒューストンのイスラム教系施設で、「テキサスのイスラム化を阻止する」オンラインコミュニティと「イスラム知識の保存」オンラインコミュニティが互いに抗議活動を行った。これは、反イスラムの人々をトランプ支持に向かわせる効果があったと考えられるが、どちらのコミュニティもロシアで運営されていたもので、アメリカ社会の分断を大きくすることを目的として行われたと推察されている。

 プーチンによるこのようなトランプ支持のための選挙介入の理由は、2014年のプーチンによるクリミヤ併合を、オバマ政権下でヒトラーになぞらえて批判したクリントンを恨んでいるからであると推定されている。また、結果的にトランプが自国ファースト主義を採用すると旧ソビエト連邦共和国や東ヨーロッパにロシアが干渉しやすくなる。そして、ロシアの友好国だったリビア独裁政権の崩壊や、2004年のウクライナにおけるオレンジ革命のようなことをストップさせることもできるわけである。

 トランプのプーチンへのすり寄りは、このような選挙介入への返礼なのではないのだろうか。なぜかこの議論は、私は日本でほとんど目にすることがない。実は、『浸食される民主主義』を読むきっかけは、1991年のソビエト連邦崩壊を『歴史の終わり』とするフランシス・フクヤマの想定や、21世紀における紛争やジェノサイドの終結・人権意識の高揚という楽観主義を見直したかったことにある。トランプのプーチンやゼレンスキーに対する態度を見ると、米国までもが民主主義の国ではなくなるかもしれないという危惧になってしまう。独裁国による世界支配が、決して『歴史の終わり』になってはいけない。

2025年2月15日土曜日

「べらぼう」で描かれる出版文化とパクス・トクガワーナ

  2025年のNHK大河ドラマの「べらぼう」は、当初は横浜流星が一本調子でイマイチかなと思っていたが、だんだんと面白くなってきたと思う。ドラマの中で、私自身が個人的にちょっと興味をもったのが、当時の人々がどのくらい物語を読むという習慣があったのかという点である。

 この興味の理由は、スティーヴン・ピンカーが、『暴力の人類史(The Better Angels of Our Nature)』の中で、17世紀の啓蒙の時代における変化、すなわち、魔女狩りの終焉に見られるような、戦争、暴力、残虐性の減少に影響を与えた要因の一つとして、小説の普及を推定しているからである。つまり、小説を読むことによって、他者の心情をシミュレートするためのマインドリーディングが活性化され、それによってたとえば恐怖の対象だった魔女が、火刑になったりすると憐憫の対象になるということが起こりうる。実際、この時期は、聖書の印刷が主要用途だった活版印刷が、小説の印刷に適用されるようになり、フランスではジャン・ド・ラ・フォンティーヌ、英国ではダニエル・デフォーやジョナサン・スィフト、ドイツではゲーテが小説を発表した。

 ピンカーは触れていないが、日本における17世紀からのパクス・トクガワーナにおいても、小説が影響を与えているのではないかと思う。17世紀初めの江戸開府以来、あれだけ激しかった戦国時代のような内戦はほとんど起きず、また江戸は世界的にも殺人・暴力が少ない都市であると推定されていて、この江戸時代の平和がパクス・トクガワーナと呼ばれている。もちろんこの要因として、人々が戦国時代の内戦に辟易してきたこと、徳川幕府が強大なリヴァイアサンになったことなどを挙げることができるだろう。それに加えて、17世紀末の上方文化、19世紀の化政文化における、多くの出版や、歌舞伎、文楽、能・狂言などを挙げることができる。これらは人々のマインドリーディングを活性化して、他者に対して残虐であることを避けるような風潮を生み出したことは、十分に推定できることである。また、上方文化の開始とほぼ同じ時期の1687年に触れとして出されたのが「生類憐みの令」である。一般には、動物の殺生がほとんどできなくした悪法という印象もあるが、中核は、捨て子や病人、高齢者、動物の保護を目的とした人道的な法である。パクス・トクガワーナの背景には、このような価値観がかなり人々の間で共有されていただろう。

 「べらぼう」の中で、横浜流星が演ずる蔦重が、吉原の遊女たちから「青本」はつまらないという情報を得ている。青本は、絵とお話しが描かれた17世紀後半からの赤本の形態を継いだものだが、このドラマのエピソードから、18世紀の後半にはかなり江戸の市中で人々に読まれていることを推察させてくれる。大河ドラマは必ずしも史実とは限らないが、小説が普及している「雰囲気」をうまく描き出してくれているのではないかと思う。

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Adapting human thinking and moral reasoning in contemporary society”刊行 (2)―モラルについての自然実験

2025年2月2日日曜日

石破首相の「楽しい国日本」雑感―ウィーンでの思い出

  石破茂首相が施政方針演説において、一人一人が主導する「楽しい日本」を目指すと述べた。この「楽しい国」というフレーズを聞いたときに、真っ先に思い出したのがオーストリアである。私は、1992年の国際学会のあと、しばらくオーストリアを旅行したのだが、ウィーンとザルツブルグは最高に「楽しい街」だと感じた。とくにウィーンでは、フロイト博物館の近くに宿泊して、シェーンブルンの野外オペラ (モーツアルトの「ドン・ジョバンニ」だった) を観て、市立公園でウィンナワルツを聴き、シュテファン大聖堂近辺でストリートミュージシャンの演奏を聴き、世紀末の諸建築物を見て、美術史美術館で北方ルネッサンスやクリムト等の絵画を堪能した。

 また、レストランで夕食を済ませ、1時間ほどで出ようとしたら、店員に「この店で気に入らなかったことがあったら教えて欲しい」と言われた。その時はキョトンとしてしまったのだが、周りを見渡すと、1時間くらいで席を立つような客はほとんどいない。ゆっくりと食事をし、食事を終えた後でも楽しそうに延々とおしゃべりをしている。ウィーンの人たちは、本当に生活あるいは人生を楽しんでいるという印象だった。当時、経済大国と言われていても、バブルの狂奔を体験した日本人には羨ましい限りであった。私は、日本も経済大国にならなくて良いからこのような「楽しい国」にならないだろうかと願った (ただし、1992年時点ですでにオーストリアは日本よりも一人当たりGDPはやや高く、現在は日本のはるか上である)。しかし、オーストリアがもっているこれだけの文化コンテンツには日本にはなく、歌舞伎や能はあっても一般にはなかなか普及せず、博物館や美術館も貧相な日本にはこれは難しいと感じた次第である。

 日本のその後の経済発展については足踏み状態が続いているが、文化コンテンツについては確実に上質になったと思う。オペラコンサートは増え、ミュージカルや歌舞伎が手軽になり、博物館・美術館は随分と充実したものになった。海外からの観光客でオーバーツーリズム気味だが、この方向性は間違っていないと思う。もし「楽しい国」が実現するとすれば、これらのコンテンツへのアクセスが誰もが容易になったときだろうと思う。

 しかし、この30年で時代は変わった。東洋と西洋において軍事力で周辺を侵略・圧迫する独裁国が国力をもち、周辺諸国も「強い国」にならざるをえないという状況が生まれた。さらに、西洋には「人権」意識が希薄な移民が押し寄せ、リベラルな国においても国のアイデンティティを求めるナショナリストが増えた。その結果、オーストリアでは、昨年旧ナチス幹部が創始した極右政党が第1党となった。世界はどうなっていくのだろうか。私も、日本は「強い国」よりも「楽しい国」になって欲しいと思っているが、テクノロジーだけは独裁国よりも凌駕し続け、「安心な国」をベースにして人生を楽しめたらと願っている。

 

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『西洋の自死―移民・アイデンティティ・イスラム (The strange death of Europe: Immigration, identity, Islam)』―かなりショッキングな内容の著作である

2025年1月23日木曜日

トランプ新大統領のパリ協定からの離脱―典型的な「動機づけられた推論」とそれによる分断

  現在、地球温暖化の問題は人類の大きな課題だろうと思う。単に暖かくなるだけではなく、台風が巨大になり、風や雨・乾燥がより極端になるという気候的変化は、世界のいたるところで災害を引き起こしている。農業や漁業へも大きな影響を与え、地球全体の食糧問題も起き始めている。

 このような状況で、トランプ新大統領は、気候変動対策の枠組みであるパリ協定からの離脱を大統領令によって命じた。米国独自で二酸化炭素排出の抑制などの温暖化対策を行っていくならまだしも、どうやら温暖化対策とは無縁の政策を実施しそうな勢いである。Drill, drill, drill (化石燃料を掘って掘って掘りまくれ) というメッセージには戦慄を覚える。米国においても、ハリケーンの強大化やカリフォルニアの乾燥による山火事など、温暖化の影響と考えられる災害が起きているが、それに対して不安はないのだろうか。概して、見えない環境破壊については対処が遅れがちになりやすいが、温暖化については明確に顕現しているはすだ。

 トランプ自身は商売人である。温暖化による少々の被害よりは、化石燃料を掘って売る方が儲かると考えているのかもしれない。しかし、問題はトランプの支持者たちである。彼らは、どうやら地球温暖化は存在しない、あるいはあったとしてもそれは二酸化炭素の高濃度化の影響ではないと本気で信じているようなのだ。概して、IQが高い人ほど、あるいは分析的・論理的思考を行う人ほど認知的バイアスを抑制でき、科学的な思考を行う。バイアスを生み出す直感を、知能や分析的・論理的思考が制御できるからである。実際、ペニークック他 (Pennycook, Bago, & McPhetres, 2023 JEPGeneral) の研究は、認知的複雑性 (IQや分析的・論理的思考に相当) とさまざまな科学的思考の関係をみたもので、たとえばワクチンについては、認知的複雑性が高いほど科学的判断が行われている。つまり、ワクチンに関するバイアスを受けにくくなっているわけだ。

 ところが、彼らの研究の結果で特異的なのは、地球温暖化に対する態度である。米国の民主党支持者は、認知的複雑性が高いほど地球温暖化は科学的に納得できると判断したが、共和党支持者 (トランプ支持者) は、認知的複雑性が高いほど地球温暖化は非科学的と判断したわけである。すなわち、民主党支持者は地球温暖化が生じているということを確信するために自分の知能を使用し、一方共和党支持者は地球温暖化がフェイクであることを示すために自分の知能を使用したというわけである。推論が地球温暖化の否定や肯定などの自分の特定の目標のために用いられるということで、このような現象は動機づけられた推論と呼ばれている。温暖化についてどちらが正しいのかは、厳密にはわからない。しかし、他の多くの国々においては、分析的・論理的に思考する人ほど温暖化と二酸化炭素について敏感になっており、米国の共和党支持者における傾向は特異的なのである。

 知能が高くなり、分析的・論理的に思考ができるようになれば、相手の立場をより理解できるようになるのでこのような分断は小さくなっていくはずだった。そして実際、第二次世界大戦以降に見られる人権意識の高揚はこのような知的向上によって起きてきたと推定できる。ところがここに来て、せっかく高くなった知能や思考が、マイサイドの目標のために使用されている。この政治的分断はますます進むのだろうか。トランプは二酸化炭素削減に取り組むつもりは全くないのだろうか。全世界で温暖化に伴う災害が激しくなる未来は、決して見たくない。

 

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