2024年11月20日水曜日

西洋人が人類普遍の基準なのか (2)―西洋人はどのようにしてWEIRDになったのか

  前回の記事では、ジョセフ・ヘンリックによる”The WEIRDest people in the world”という著作の前段階の10年以上前に発表された論文の主張を簡単に紹介したが、今回は、『WEIRD―「現代人」の奇妙な心理』という (日本語版) タイトルで出版された著作について言及したい。ヘンリックは、かつての著作で文化による遺伝子への影響を述べているが、この中で、西洋人がいかに「奇妙」になっていったのかを、文化や制度を指摘しながら詳細な論考を行っている。

 確かに西洋人は「奇妙」である。人類進化の長い歴史から見ても、地縁血縁的な社会を早々と解体し、「個人主義的」に振る舞い、「分析的」に思考し、属人性よりも非属人的な法を重視する傾向は、極めて奇妙な文化的発展の方向である。私自身は、文化的多様性を説明するのに、ジャレド・ダイアモンドが『銃・病原菌・鉄』の中で論を展開したように、地勢的・生態学的要因を用いるのが理論の最終完成形と思っていた。したがって、たとえば、西洋人の思考の何らかの特徴をキリスト教の影響として説明するというアプローチは、西洋人がなぜキリスト教を受け入れて発展させていったのかを明らかにしない限り魅力的な説明ではないと思っていた。しかし、地勢的・生態学的要因による説明は決定論的すぎるという批判がある。実際、2024年のノーベル経済学賞を受賞したアセモグルのような制度論的な説明を援用しないと、制度の、偶然性が高いちょっとした違いが後の大きな差異を生み出しているという事実を説明できない。

 それでは、西洋人の「奇妙」さはちょっとした違いから生み出されたのだろうか。ヘンリックの主張を解釈すれば、最初はキリスト教のある一派によるちょっとした動きがその後の西洋を形成したといえる。つまり、ブラジルの一羽の蝶の羽ばたきがテキサスで竜巻を引き起こすようなことが生じたわけである。「奇妙」を形成した要因として挙げられるのが、キリスト教西方教会による血縁的親族集団の解体である。この解体は、教会の婚姻・家族プログラムによるもので、近親婚の禁止や「非嫡出子」という概念を広めることによる一夫多妻婚の減少から始まっており、これによって氏族社会のまとまりが弱くなっていった。最初はちょっとしたきっかけから始まったのかもしれない (東方教会ではこういうことは起きなかった) が、この結果、嫡出子の相続嗣がいなくなって財産がそのまま教会に所属というケースが増え始めた。教会にとっては利益が大きいプログラムだったわけである。

 血縁的親族集団の結束が弱くなった結果、西ヨーロッパでは、個人や核家族が中心となり、居住地の流動性が増し、中世には都市共同体への移住が促進され、親族集団に代わってギルドや大学などの任意団体が発展し、個人主義文化を促進する「奇妙な」西洋人の原型が作られていった。1400年時点での西洋と東洋では、文明の発展に大きな違いはなかったが、この「奇妙」な人々が、それ以降、産業革命などを生み出して19世紀の西洋のヘゲモニーを形成していったわけである。

 このように歴史を眺めると、地勢的・生態学的要因による決定論では西洋人の「奇妙」さを説明するのが困難である。西方教会の婚姻・家族プログラムは、「奇妙さ」への、まさしく一羽の蝶の羽ばたきだったわけである。

 

関連記事

西洋人が人類普遍の基準なのか (1)―”The WEIRDest people in the world

『国家はなぜ衰退するのか』を読む―アセモグルとロビンソンのノーベル経済学賞受賞


2024年11月17日日曜日

西洋人が人類普遍の基準なのか (1)―”The WEIRDest people in the world”

  ジョセフ・ヘンリックによるThe WEIRDest people in the worldという著作が、昨年、『WEIRD―「現代人」の奇妙な心理』というタイトルで日本語訳が出版された。非常に興味深くインパクトがある著作である。今回は、その前段階の、2010年にBehavioral and Brain Sciences誌に発表されジョセフ・ヘンリックたちによるThe weirdest people in the world?というタイトルの論文について解説したい。この論文は心理学界に大きな反響を呼んだ。彼らの主張によれば、欧米主導で発展してきた心理学の様々な知見を支える主たる実験データは、ほとんどが西洋 (Western) 社会で教育 (Educated) を受け、産業 (Industrialized) 社会、豊かな (Rich) 社会、および民主的 (Democratic) 社会の人々からのものである。これらの頭文字をつなげるとWEIRDとなり、偶然ながらこの単語の意味は「奇妙な」である。実際、西洋人は、人類の歴史という点から極めて奇妙なのである。

 これまでは、西洋人が人類の標準であり、西洋人を実験参加者として心理学的現象が観察され、心理学の理論が構築されてきた。非西洋人のデータが西洋人のデータパターンと異なったとしても、それは、教育を受けていなかったり、西洋とは異なる文化社会の中で育ってきたりという、文化的特殊性によるものとして説明されてきた。人類の普遍性の基準はあくまで西洋人だったわけである。つまり、西洋人が特殊な文化・文明を築き上げたというよりは、世界の文化・文明を主導している西洋人が現時点での人類の完成形であり、西洋人以外の人々も、文化・文明が発展すれば予定調和的に西洋人のようになるという想定の下でさまざまな行動科学的研究が行われてきたわけだ。

 ヘンリックたちによる論文は、この想定に疑義を呈するものだった。推論などの認知スタイルやモラル的価値観、協調性、自己概念など、すでに西洋人と東洋人で文化差が指摘されている領域も多いが、この論文で驚きだった (私が無知なだけだったのだが) のは、ミューラー・リャー錯視などの視知覚においてさえも文化差が存在するという指摘である。視知覚などの人類の比較的文化普遍と考えられる領域においてさえも文化差が見られ、かつ西洋人が「奇妙」ということは、特定の行動現象が、西洋人などの単一の部分集団からのサンプリングに基づいて普遍的であると主張する明白な先験的根拠を失わせることになる。彼らの論文は、人間の本性についての問題を、「奇妙」な人々の一部から抽出されたデータに基づいて扱うことに、警鐘を発することで締められている。

2024年10月16日水曜日

『国家はなぜ衰退するのか』を読む―アセモグルとロビンソンのノーベル経済学賞受賞

  2024年のノーベル経済学賞は、ダロン・アセモグル、サイモン・ジョンソン、ジェームズ・ロビンソンだったが、このうちアセモグルとロビンソンによって執筆された『国家はなぜ衰退するのか』について、簡単に感想を述べてみたい。この著作に出会うまでは、私は、『銃・病原菌・鉄』の筆者であるジャレド・ダイアモンド教の信者のようになっていて、地勢的・生態学的要因で文化的多様性を説明するというアプローチに魅了されていた。民族の優劣という概念を用いることなく、文明の発展の不均衡を説明できるからである。

 しかし残念ながら、現代の国家の繁栄の不均衡には、ダイアモンドのアプローチも、文化や識字率などで説明するアプローチもあまり適してはいない。とくに、1500年以降の不均衡については、もともとは地勢的・生態学的要因の影響があったかもしれないが、それによって形成された制度 (institution) がかなり独り歩きをして影響を与えているからである。たとえば、北朝鮮と韓国を比較してみよう。韓国と北朝鮮は、地勢的・生態学的にも似ているし、どちらも東洋の儒教文化の影響を色濃く受けており、また識字率も100パーセント近い。しかし1人当たりのGDPは、韓国は北朝鮮の10倍以上という開きがある。この理由は、誰の目にも明らかだが、政治制度の違いである。

 それでは、民主的あるいは資本主義的な政治制度が、専制的政治制度と比較して国家的繁栄をもたらすのかといえば、そんな単純なわけではない。重要な点は、政治制度が収奪的か否かである。つまり、富が一部の政治権力によって独占され、人々の経済活動が制限されると国は豊かになれない。もちろん、概して民主的な政治制度は収奪的ではなく、専制的な政治制度は収奪的である。実際、北朝鮮は韓国と比較すると、専制的であるだけではなく圧倒的に収奪的なのである。ただし、専制的ではなくても、法が守られず財産権が不安定な場合は経済活動への基本的インセンティヴが生まれにくくなり、収奪的になる。収奪的な政治制度下では、多くの国が貧しい。また歴史的にみても、たとえば繁栄を極めたローマが没落した理由は帝政になって収奪的な政治制度が確立したためであると推定される。大航海時代の先陣を切ったスペインも、帝国の収奪的制度によって後発のオランダと比較して発展しなかった。

 ただし、収奪的政治制度での成長も不可能ではない。独裁者の利益と産業の発展が一致すれば、国はある程度豊かになる。スターリンによるソビエト連邦の経済成長や、朴正煕による韓国の工業化がその代表的な例だろう。このような発展は、独裁者と周囲のリーダーが優秀で、地位を脅かすライバルがいないところで可能である。地位を脅かすライバルが多いとシエラレオネのようなケースになる。シエラレオネは、比較的貧しいアフリカの国の中で特に貧しいが、かつて小さな王国の乱立時代に、他勢力を益するという理由でその地方のせっかく建設された鉄道が廃止されたりしたことがあった。これでは豊かになりえない。なお、韓国はその後の民主化によって、工業化をベースとして益々豊かな国になっていったが、民主的とは程遠かったソビエト連邦は崩壊してしまった。

 また、本書は、政治社会学の古典的理論であるリプセットの近代化理論に異を唱えている。リプセットによれば、すべての社会は成長とともに近代化、民主化へと向かうとされる。これにしたがえば、ある程度豊かになった中国は民主化向かうはずだったがそうならなかった。豊かさが民主主義を生むのではなく、収奪的政治制度を持たない民主主義が豊かさをもたらすのである。

2024年10月14日月曜日

国際シンポジウムを振り返ってー改めて合理性について考えてみる

  92-3日に行われたThe International Symposium on Rationality: Theories and Implicationsは、国際共同研究強化(B)に支援を受けた単発の国際シンポジウムである。2件のキーノートと27件の発表があった。近年、合理性についての議論がさまざまな視点から行われ、認知心理学や社会心理学、哲学、工学等にまたがる学際的な領域の研究になってきている。また、学際的な理論としての発展が著しく、同時に、政治的分断やフェイクニュース・陰謀論などの非合理的な思考が世界的に問題視される中で、合理性についての議論は非常に重要になってきていると思う。

 2件のキーノートについては前回の記事で述べた通りである。27件の発表は、Rationality and irrationalityDual-processMorality and rationalityCultural rationality“、およびCooperationというセッションに分かれて行われた。Rationality and irrationality”では、合理性・非合理性に直接言及があるテーマの発表が集められていた。たとえば、日本学術振興会で招へいされた、Iqbal Navedの発表は、インドにおけるフェイクニュースや陰謀論についてのものだった。これらは、トランプ支持者たちの専売特許のように語られてきたが、どこにでもある現代の現象としてとらえることができるだろう。Dual-processは、二重過程理論について、あるいはこれに基づくテーマの発表であった。内省的なシステムが直感的なシステムを制御していくという二重過程理論のモデルは、心理学において合理性を議論するときに最も使用される枠組みである。Morality and rationalityでは、モラル推論についての発表が行われた。トロッコ問題のモラルジレンマが研究されるようになって、モラルも合理性の重要なテーマとなったが、このセッションでは、意図と責任・モラルの関係が議論された。Cultural rationalityには2つの視点ががある。1つは、所与の文化の中で人間がどのように合理的に振舞うのかという視点で、もう1つは、作られる文化自体が合理的かという視点である。比較文化研究から、モデリングツールのデザインまで興味深い研究が目白押しだった。

 さて、近年合理性研究から注目されているのが、Cooperationである。というのは、ヒトの脳あるいは認知アーキテクチャーは、集団を構成する社会的哺乳類として進化したヒト特有のものであると考えられており、集団内での適応という点で際立った機能を発揮しているからである。生存のための競争が集団間や集団内で行われた結果、知能や共感が進化し、モラルや信頼、「協同(cooperation)」が生まれたと考えられる。皮肉かもしれないが、「人間の思いやり」は争いの結果生まれたといえる。

 このシンポジウムは、すべて英語で行われた。そして特に院生をはじめとする若手の日本人・中国人研究者に英語口頭発表デビューをしてもらった。日本でこういう試みを行うと、「英語がうまくないくせに」などの陰口があるかもしれず、若手は英語の口頭発表をためらいがちになる。しかし、せっかくの面白い研究内容が日本語でしか発表されないとすると、海外の研究者にその声が届かない。これは大きな損失である。また、海外の研究者は日本人が英語が上手いか否かのテストをしに来ているのではなく、研究内容を知ろうとして日本に来たわけである。少々下手であっても臆する必要はない。若手研究者には、これで度胸をつけて、次につなげて欲しいと切に願う次第である。

 

関連記事

国際シンポジウムの2件のキーノートからー規範についての議論とメタリーズニング

2024年9月22日日曜日

国際シンポジウムの2件のキーノートからー規範についての議論とメタリーズニング

  92-3日、合理性についての国際シンポジウムを大阪公立大学杉本キャンパスで行った。このシンポジウムでは、2件のキーノートと、「合理性と非合理性」、「二重過程」、「協同」、「道徳性と合理性」および「文化的合理性」のセッションでの29件の口頭発表がすべて英語で行われた。また、Zoomを用いて世界に発信されている。

 人間は合理的なのかという問題を議論すると、さまざまな疑問が思い浮かぶ。まず、「そもそも合理性の基準とされる規範理論は合理的なのか」という問題である。この問題に言及があったのは、Jean Baratginのキーノートである。従来、条件文推論の規範理論は命題論理学であったが、命題論理学では、条件文の前件 (p) が偽である場合に条件文を真とする奇妙な取り決めがある (たとえば、「もし日本の首都が京都ならば、明日の太陽は西から昇る」のような条件文が、真となるわけである)。そこでBaratginは、De Finettiの「pが偽の場合は条件文の真偽判定外」という主張を取り入れて、確率あるいは不確実性を包括した規範理論システムの構築を試みている。なお、論理的推論以外では、規範理論を何に求めるのかについて、よりやっかいな問題が残されている。とくに、一般に「正解がない」と思われている、たとえば「少子化にどう対応すべきか」などのような複雑な不良定義問題については、主観的な「効用」という概念が導入されているが、これについての議論は本シンポジウムでは行われていない。

 合理性は、直感的システムと内省的システムを想定する二重過程理論でも、「直感的システムの非合理的あるいは非規範的出力を抑制する内省的システム」という枠組みで捉えられる。Linden Ballのキーノートでは、この点が議論された。ヒトの認知が直感的システムから始まるのが基本的デフォルトだが、では、どのような条件でこの後 (あるいはこれと同時に) 内省的システムが起動するのか。この問題に対して、2つの概念が提唱されている。1つはメタリーズニングという概念で、これは、内省的システムが直感的システムの働きをモニターし、直感的システムだけではうまく対処できないと判断されると、内省的システムに認知的リソースを配分するという制御を行っていると想定される。もう1つは、内省的システムの起動を妨げる要因としての、FOR (feeling of rightness: 正解感と訳しても良いだろう) という概念である。つまり、直感的システムからの自動的な暫定解についての判断がまず行われて、仮にその暫定解が規範的ではなくても、このFORが高いならば内省的システムが起動しないわけである。暫定解に矛盾が含まれていたりすると概してFORが低くなるが、それでは、なぜ規範解ではないにもかかわらず、FORが高くなってしまう場合があるのだろうか。たとえば、現代社会では非規範的であっても、脳が進化した何十万年単位の野生環境では適応的な解答である場合には正解感が高まる。さらに、このFORを引き起こすミクロな過程では、流暢性が重要な要因であると推定されている。つまり、何らかの課題に対して流暢に生成された解は、「流暢に導いたからには、おそらく正解だろう」という内省的システムの制御外の推論が働いて、FORが高くなると推定できる。そうすると、規範解ではないにもかかわらず、正しいと信じられて、内省的システムは起動しない。

 いずれも、思考研究領域の最前線の成果の紹介だが、むしろこれらが結論というよりは、今後どのようにこれらの議論が発展していくのかを期待できるものだった。これらの発展をどこまで見届けられるかはわからないが、退職後も、これだけは細々とでも現役を続けたいものである。

関連記事

The International Symposium on Rationality: Theories and Implicationsを開催します

2024年8月27日火曜日

The International Symposium on Rationality: Theories and Implicationsを開催します

 日時 2024924

   92 () 10:0017:15

   93 () 10:0017:15

   94 () 10:0015:45

 場所 大阪公立大学杉本キャンパス 法学部棟11F大会議室

 企画者 山 祐嗣 (大阪公立大学)・橋本博文 (大阪公立大学)

 後援 日本認知心理学会、大阪公立大学大学院文学研究科

 参加費・参加資格など

 誰でも参加可能で参加費は無料。またZoomによる遠隔参加も可能。

 Zoom登録リンク

https://omu-ac-jp.zoom.us/meeting/register/tJEvc--pqTwvHNa2065PSFNs2IwQ1vc9g8af

 主旨および目的

 The International Symposium on Rationality: Theories and Implicationsは、単発の国際シンポジウムで、企画者の山祐嗣が研究代表を務めている国際共同研究強化(B)(Religious moral reasoning in the frame of dual process approach: Cultural differences in religious moral reasoning and thinking style.)の研究費によって英国人研究者1名、フランス人研究者5名を招へいし、また日本学術振興会・外国人招へい研究者(短期)プログラムによってインド人研究者1名を招へいし、国内より22名の研究者が集まって、合理性 (rationality) について議論を行うものである。発表はすべて英語で行われ、リモートで世界に向かって研究成果が発信される。近年、合理性についての議論がさまざまな視点から行われ、認知心理学や社会心理学、哲学、工学等にまたがる学際的な領域の研究になってきている。また、学際的な理論としての発展が著しく、同時に、政治的分断やフェイクニュース・陰謀論などの非合理的な思考が世界的に問題視される中で、合理性についての議論は非常に重要になってきている。

 本シンポジウムは、最新の研究成果の発信の場として、この理論的発展と現実の問題への適用に貢献できると期待できる。また、本シンポジウムのもう一つの目的は、若手研究者に国際的発信を奨励することである。日本の若手研究者が日本語で発表しただけでは、興味深い研究であっても日本以外の研究者に声が届かずに終わってしまうということが多々ある。本シンポジウムでの若手研究者の発表は、今後の国際的な活躍のための第一歩となることが期待される。

シンポジウムの内容

 シンポジウムでは、2件のキーノートと5つのセッションが計画されている。Linden Ball教授 (University of Central Lancashire) は、”Meta-reasoning: The monitoring and control of thought” という題目でキーノートスピーチを行う。合理性は、内省が直感を制御するという二重過程理論枠組みで議論されることが多く、メタリーズニングは、内省を開始すべきか否かの判断に関わっている。また、Jean Baratgin教授 (Paris 8 University Vincennes-Saint-Denis) は、”The question of the norm of rationality in the psychological study of human reasoning: Finettian coherence as a solution”という題目でキーノートスピーチを行う。合理性の議論に、規範をどのように設定すべきかという議論があり、命題論理学が規範とされていた論理思考研究に、De Finettiの論理学の導入が試みられる。

 セッションは5つに分かれ、”Rationality & Irrationality”では、合理性そのものについての議論とフェイクニュースや陰謀論などの非合理性についての発表が予定されている。”Rationality & Morality”では、合理的思考と道徳的推論についての発表が行われる。合理性は、内省が直感を制御できるのかという二重過程理論の視点で議論されることが多いが、”Rationality & Dual-process”では、このテーマの発表が行われる。また、ヒトと他の哺乳類との最も大きな違いの一つに協同がある。”Rationality & Cooperation”では、合理的な協同をテーマとした発表が行われる。さらに、文化は人間が適応のために創り出した道具だが、この合理性が”Cultural Rationality”で議論される。

 プログラムは下記のウェブサイト

https://sites.google.com/view/21kk0042/the-international-symposium-on-rationality-theories-and-implications-2024

2024年8月15日木曜日

マイサイドバイアス―政治的二極化の説明

  キース・スタノヴィッチの最新の著作であるThe bias that divides usが東洋大学の北村英哉先生や私の前任校である神戸女学院大学で同僚だった小林知博先生らの訳で『私たちを分断するバイアス』として出版された。本書の中で扱われているテーマは、マイサイドバイアスと呼ばれるもので、現代の政治的分断を非常にうまく説明できる概念だと思う。

 スタノヴィッチは、直感的システムと知能と関係する内省的システムを想定する二重過程論者だが、彼らが常々検証してきたのは、直感的システムの産物である認知バイアスが内省的システムによって制御されており、内省的システムが機能するほど (たとえば、知能が高い人ほど) 認知的バイアスを生じさせないという知見である。ところが、そのような中で、マイサイドバイアスは例外なのである。つまり、知能が高くてもこのバイアスは生じるということだ。

 マイサイドバイアスとは、元々は確証バイアスとよばれていたバイアスの動機的側面を表現したものである。確証バイアスとは、「移民が増えると犯罪が増加する」という命題が正しいかどうかを検証するときに、移民が増えて犯罪が増加した国を探したり、移民による犯罪事例ばかりに注目したりするバイアスである。しかし、確証バイアスには、情報探索の戦略としての側面と、この命題が正しくあって欲しいことを望む動機的側面が含まれている。そのような意味で、前者は現在では正事例検証戦略とも呼ばれ、不確実な命題の真偽を検証するのに、正事例の発見は負事例の発見よりも多くの場合に (あくまで「多くの場合に」であるが) 効率的という意味で陥りやすいバイアスなのである。効率的という理由は、正事例は概して希少で、発見すれば大きなインパクトとなるからである (そもそも日本では移民は圧倒的に少なく、それだけに彼らの犯罪は目立つ)。後者がマイサイドバイアスで、移民の増大に反対している人は、「移民が増えると犯罪が増える」という命題が正しいものであって欲しいと願って、正事例に注目するというわけである。つまり、「移民に賛成」というアザーサイドに対し、「移民に反対」というマイサイドを守るために正事例に注目し、それが多くあって欲しいと願っているわけだ。

 第二次世界大戦後は、日本にしろ欧米諸国にしろ、人権の高揚が見られ、人種差別や女性差別、LGBT差別が減少してる (それでも無くなってはいないが)。それは、高等教育の普及による内省的システムの機能の向上によるものと推察できる (実際に、知能が上昇しているとするフリン効果も報告されている)。つまり、直感的システムの産物である偏見などを生み出すバイアスが、内省的システムにより制御されるようになった結果ともいえるわけだ。このような状況で政治が二極化するのはなぜなのかという問題に、マイサイドバイアスが内省的システムの制御外だという指摘は、うまい解答を与えてくれている。端的に言えば、デビッド・ヒュームがいうように、「理性は情念の下僕」なのだろう。

関連記事

ウェイソン選択課題における誤答は確証バイアスの証拠ではない