2025年9月11日木曜日

総理大臣の資質とはー素人による政治談議

  石破総理大臣の辞任が決まったようだ。個人的には、実は、あの持って回った言い方が嫌いで、ほとんど期待していなかったが、この外交的な難局をうまくかじ取りしたのではないかと思う。また、物価高の中で最低賃金の上昇も、経済の停滞もあまり招かずにある程度は成し遂げるつつあるのではないかと思う。

 さて、私が個人的に総理大臣に望むのは、第一に外交能力であり、第二にSDGを考慮しながら経済と産業を発展させることができるパースペクティヴをもっていることである。もちろん政治の左派か右派かという本質は、税金として集めた金を、再分配にどの程度使うのかという点にあるが、これは副次的なことだ。

 外交については、ロシアと中国という独裁覇権的枢軸国やそれに加わった北朝鮮に地勢的に近く、かつ中国との経済関係をあまり破綻させたくないという困難な状況で、さまざまな課題に直面している。これらすべての国が民主的で国民が豊かな国に生まれ変わることができるなら最良である。つまり、現体制を転覆させることができる戦略があれば良いのだが、そのためには他の国々とどのような連携を組み、どのような形で枢軸国の覇権的行動を抑止するのかを模索していく必要があるし、あるいは政権転覆のチャンスを逃さないことも重要かもしれない。差し当っての目標は、ロシアにウクライナ侵攻を止めさせることと、中国による台湾侵攻を思いとどまらせることだが、短期的な目標と長期的な目標をどのように設定するのかは重要だろう。

 内政にしても、課題は山積している。この30年の経済の停滞によって、最先端のITなど多くの日本の優位性が失われた。これらが如実に反映されていてショッキングなのは、一人当たりのGDPの世界での順位が著しく低下していることである。G7の最下位だったイタリアだけではなく、スペイン、韓国、台湾、プエルトリコ、スロベニアにも抜かれた。スロベニアは旧共産圏で初めて日本を追い越した国となった。もちろん、この理由として、日本が物価高に対して世界の優等生だったこともあるだろうが、それが低賃金に支えられているという悪循環からなかなか抜け出せなかったのだ。さらに、国が貧乏になって、論文生産数に反映されるように研究活動が停滞し、それがITなどの新技術創出を阻害している。

 総理大臣は、このような問題に合理的かつ総合的に対処できる資質をもった人を望みたい。それぞれの課題は専門家に任せるとして、それらを総合的に俯瞰できる人物が必要である。中国はその動向を常に監視しなければいけない独裁専制の国だが、国粋主義的な対峙しかできない人は総理大臣には不向きである。現在、北朝鮮の動向に神経を尖らせている韓国や、フィリピン、インドネシア、さらには米国、オーストラリアなどと連携していく必要があるとき、国粋主義は不要であり、日本は歴史修正主義にかじを切ったと疑われるのは得策ではない。また、さまざまな問題に対処するのに、総合的に俯瞰できないままに妙に実行力だけが伴ってしまうのも怖い。以前、プラスチックごみが問題視されていたときに、レジ袋有料化を推進した政治家がいたが、これだけ何も考えずに実行するのかとかなり恐怖を感じたのを覚えている。経済の進展と環境保全は、どうしてもトレードオフになるが、どこでウィンウィンにできるのかなど、やはり全体を俯瞰しないと政策は決定できない。このような政策決定には、重回帰方程式などを用いたシミュレーションが必要なはずだ。このシミュレーションにおいて、どのようなパラメータを考慮すべきなのか、またパラメータの重みを推定するためのデータとして何を参照するのかといった議論にはかなり学力を必要とするのだが、その学力が欠けていると、実行力の暴走になる。端的に、思考心理学の用語を適用すると、全体的 (ホリスティック) かつ分析的 (アナリティック) な思考能力が必要なのだ。次期総理大臣には、そのような資質を有する人物が選ばれることを切に願っている。

2025年8月24日日曜日

野球部員全員の尊敬する人物が監督とはー広陵高校野球部の不祥事

  今年の夏の高校野球では、非常に後味が悪い広陵高校野球部の不祥事があった。寮で暴行等を受けた生徒が転校するなど、明らかに出場辞退に相当することがありながら、それを過少報告したりして大きな批判を浴びた。真相は必ずしも明らかではないので、この点については私はこれ以上の言及はしないが、非常に驚いたのは、甲子園の選手名鑑に掲載されていた、尊敬する人物に部員全員が監督の中井哲之氏を挙げていたことである。これは、甲子園の常連校では「よくあること」なのかもしれないが、甲子園を教育の場として称賛しているメディアや教育関係者は、これを「異常なこと」として認識する必要があろう。

 もちろん、集団のメンバー全員がリーダーを尊敬するということは悪いことではないし、このようなリーダーが称賛される場合もあろう。しかし、大半の場合、何らかの圧力がかけられている可能性があり、満場一致のパラドクスと呼ばれる現象ではないかと思える。これは、全員の意見が一致しているように見える場合に、むしろその意見の信頼性が低いという統計学上のパラドクスである。つまり、参加者が意見を表明する際に何らかの圧力が加わっていたり、また、参加者の判断を誤らせるような偏見が存在していたりする可能性があり、さらに、集団の結束を乱したくないという思惑から、自己検閲が働いてしまって、意見の信頼性が低下するわけである。

 権威主義的独裁者や戦前の天皇とその周辺を観察すれば、この現象の責任の大半はリーダーやその取り巻きにあると思われるが、現代の教育現場を見れば、このような圧力は、教師あるいは監督のパーソナリティの責任が大きい。大学教員を見ていても、自分は学生に尊敬されるべきと勝手に考えているナルシストがその典型だ。学生を支配したがり、自分自身を、学生を理解している理想の教員であると勝手に思い込み、把握できていない学生のプライバシーがあったりすると不安に陥る。そして、悩みごとを自分ではない教員 (たとえば学生相談室など) に相談したりすると、烈火のごとく怒ったり、相談内容を教えろとねじ込んだりする。こういう教員の下では、指導をうける学生が忠誠心競争をしがちになり、アカデミックハラスメントやパワーハラスメントの温床になる。

 中井哲之氏の場合は、外面としては名監督として、部員から何らかの尊敬は受けていたかもしれない。しかし、甲子園での勝利が至上目標になれば、監督の意に沿わない (たとえば、寮のルールを守らないなど) 部員には、容赦のない制裁が監督自身からではなく集団のメンバーから加えられ、それを監督が隠ぺいするという、独裁国やトップダウン経営の企業でよく見られることが起きる。そういう意味で、広陵高校野球部のケースは決して特殊なわけではない。このほか環境的要因があるとすれば、高校野球あるいは甲子園大会をもちあげるメディア等の姿勢だろう。勝利至上主義を蔓延させ、しょせんはアマチュアの指導者を「名将」などと持ち上げてスター扱いすることが、この「異常なこと」をもたらしている。

2025年7月24日木曜日

『万物の黎明』を読む(3)―農業革命とアドニスの庭

  『万物の黎明』において語られることがらで特徴的な点は、今世紀に入ってからの考古学の成果や人類学の新しい知見が盛りだくさんなことである。これらの知見によって、これまで当然とされてきた通説に多くの疑問が投げかけられている。そのうちの一つが農業革命についてである。

 私が抱いていた農業革命のイメージは、レバント地方およびチグリス川とユーフラテス川に沿ってペルシャ湾に至るいわゆる肥沃な三日月地帯と呼ばれる地域において、最終氷期の終焉とともに定住がすすみ、いったん寒冷への揺り戻しがあったが、その後野生種の小麦や豆類などを栽培・収穫を行うようになったというものである。そして農業革命によって人口が増え、巨石文化とともにヨーロッパを西進していった。農業革命の西進を受けた側は、ものすごいものを造る豊かな大集団が東からやってきたと、その文化に圧倒されていたのではないかと私は想像していた。

 しかし、詳細な事実が積み重ねられると、状況はそれほど単純なわけではない。そもそも、この三日月地帯において植物の栽培化が完成するのに3000年を要している。この理由は、コムギ等の栽培化への遺伝子変異に時間がかかるからではない(最短で230年、長くてもせいぜい200年で済む)。栽培に手を染めてはやめ、やめてはまた始めるという狩猟採集民が多かったからである。まともに農耕に取り組むと、真剣に土壌を保全し、雑草を除去し、収穫後には脱穀等も必要である。この労力は、狩猟採集民のこれまでの活動をかなり阻害してしまう。比較的容易だったのは氾濫農耕で、これは季節ごとに氾濫する湖や河川の周辺で行われてきた。労働という点ではかなり容易なだけではなく、どこが栽培に適するかも年によって変化するので、土地の所有という習慣には結びつかなかったようだ。

 しかし、農業が広まったのは低地かもしれないが、起源はこのような低地ではない。著者たちは、肥沃な三日月地帯を、高地三日月と低地三日月に分類しているが、高地三日月のほうが野生穀物の多様性が高かった。人々は、まず「管理的採集」を行い、そこから「半栽培」へと移行したと考えられる。実際、現在のトルコ東部やイラン西部の高地地域で、野生種と栽培種の中間的な植物利用の痕跡が発見されている。これらの作物が低地の氾濫農耕に用いられたわけである。コムギやマメ類などの栽培が、肥沃な低地三日月で単線的に始まったわけではない。高地は生態系が多様で、遊動的な生活と定住的な生活を柔軟に組み合わせることが可能で、人々は定住と農耕を短期的に試したり、中止したりする余地があったわけである。

 そもそも農耕は、生存のための食糧生産のためというよりは、祭儀・遊び・季節的な実験として始まった可能性がある。つまり、急ごしらえの即席菜園で、女性たちが短期間だけ植物を育てる儀式に使われ、成長や収穫が重視されず、再生や生命の象徴として機能したわけである。農耕の始まりは、儀式的・余暇的に栽培を楽しむ中で発展したという点で、肥沃な高地三日月地帯は、「アドニスの庭」だったわけだ。

 高地と低地の違いについて、さらに興味深い事実がある。高地三日月地帯では、狩猟採集民の時代から、季節性の可能性もあるとはいえ、すでにヒエラルキーが顕著だった。これは、ギョベクリ・テぺの巨石建造物などから推定される。氾濫農耕で農業の規模が大きくなった低地ではあまり階層化は見られず、これらの事実は、農業革命によって余剰食糧で養う官僚や神官が生まれて国家が形成され、階級社会が生じたという通説に大きな疑義を投げかける。人類は長い間、狩猟、採集、部分的な農耕、移動生活などの多様な生活様式を組み合わせて暮らしていたと推定できる。たしかに、帯通り、人類史の通説に大きな疑義を生じさせる著作であるといえるだろう。

2025年7月12日土曜日

『万物の黎明』を読む(2)―「不平等の起源」という想定の問題点

  大著である『万物の黎明』では、ホッブス対ルソーという対立を超えることが試みられているが、暴力だけではなく、不平等についても議論されている。ホッブス派は、不平等についてはあまり言及がないが、順位制を保った社会的哺乳類として進化した人類は、強固な不平等から始まって、文明化あるいは啓蒙によって平等という概念・社会が確立されたと、漠然と想定されている。一方、ルソー派によれば、人類は小集団のうちは平等だったが、農耕によって一集団当たりの人口が増え、食糧の余剰が神官や戦士、官僚などの非生産階層を支え、それによる階級化で不平等が生じてきたことになる。著者のグレーバーとウェングローは、ホッブス派に賛成しているというわけではないが、本書では、主としてこのルソー派の見解についての批判が行われる。彼らによれば、そもそも「不平等の起源」を求めようとするアプローチは意味をなさない。原始共産主義のような、太古に平等な社会があったという想定自体がおかしいのだ。

 彼らが提起した論点は3つある。第1は、生産の増大で人口が増えても、必ずしも集団が巨大化しなかったという点である。不平等は、巨大化とそれに必要な組織化の結果とされるので、人口の増大は必然的に不平等を生み出したわけではないということだ。彼らは、考古学的・人類学的証拠から、集団がむしろ閉塞化したケースが多いことを報告している。

 第2は、豪奢な副葬品や、神殿などを含む都市の遺構など、階層性や不平等の証拠と考えられてきた遺物が、必ずしも恒久的な不平等の証拠ではないという点である。たとえば、メソポタミアやインダスなどの初期の都市では、平等主義的な制度が維持されていた例が多いと推定されている。さらに彼らによれば、先史時代の狩猟採集社会や初期農耕社会において、季節ごとに平等・不平等についての社会的な仕組みが入れ替わることがあったようだ。つまり、ある季節には平等主義的な生活があっても、別の季節には首長や支配者が登場するような制度に移行するというわけである。副葬品の豪華さは不平等の証拠として考えられやすいが、一定の季節だけあるいは儀礼のときだけの身分差の現れであるとも推定されている。ましてや、それらが高位の世襲化の結果であるという結論を導くことはできない。

 第3は、これまで人類学者等以外にあまり知られていなかった、とくに北米先住民などの研究からの知見である。つまり、それらの文化では、農業革命が余剰生産物とそれによる貧富の差を生み、大規模な権力格差にむすびつくというこれまで考えられてきた法則に合わないことが起きていたわけである。たとえば、16世紀のフロリダのカルーサである。彼らは非農耕民であるが、かなり権力が集中していた首領がいた。また、17世紀にウェンダット族の首長であったカンディアロンクは、フランスからの移民たちに対して行った発言が記録に残っているが、フランスの自由のなさを批判している。ウェンダットによれば、貧富の差はあっても、それが権力格差に結びつかず、彼は自分たちの自由を高く評価していた。つまり、富イコール権力ではない文化が存在するというわけだ。北米の先住民たちは、しばしば「高貴な野蛮人」の代表のように思われていたが、決して愚かな民ではない。

 グレーバーとウェングローによれば、文明の進展に伴う不平等の拡大は、自然な進行ではなく、特定の歴史的条件や人々による選択の結果である。人間は自由と平等を選択する能力を持つ存在であり、私たちが想像するよりも、社会制度をはるかに創造的に構築してきたと強調している

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『万物の黎明』を読む(1)―ホッブス対ルソーという対立を超えて

2025年6月29日日曜日

『万物の黎明』を読む(1)―ホッブス対ルソーという対立を超えて

  故デヴィッド・グレーバーとデヴィッド・ウェングロウによる『万物の黎明』は、帯に「人類史を根本からくつがえす」と書かれており、非常に楽しみにして読んだ。これは日本語訳で本文600ページに及ぶ内容たっぷりの大著で、まだまだ消化不良なのだが、私自身の忘備録として紹介してみたい。

 第一の、そして本書の最も大きなテーマは、平等で無垢な人類が文明の発展とともに不平等で暴力的になっていったとするルソー的視座と万人の万人に対する闘争の中から文明によって人々が啓蒙されたとするホッブス的視座の対立を、どちらも正しくないと批判して、対立を乗り越えようとする試みにある。私自身は、太古は争いがなかったとする言説には誤りが多く、文明によって人類の知性も向上し、それが暴力的衝動を抑制できるようになったというホッブス的視座に依拠した書籍やチャプターをいくつか書いているので、どういうことだろうと興味深かった。本書の論の進め方として、両者の立場をいくぶん誇張している点があり、私にはそれが藁人形論法のようだという印象もあったが、本書には、人類学者や考古学者以外にあまり知られていない、北米先住民の記録、最終氷河期末期や農業革命および都市の発展などの新しい発見について、かなり詳細に取り上げられており、この情報量に圧倒されてしまった。

 まず著者たちが示したのは、狩猟採集社会から農耕社会、都市産業社会へと線形的な発展を遂げたとする人類史モデルへの疑義である。このモデルの中で、ルソー派はこの発展によって平等が崩壊して争いが増したとし、ホッブス派は文明的発展によって争いが少なくなったとしている。しかし実際には、社会構造は非常に多様であり、とくに狩猟採集社会は、単一の形態に収まるものではなく、季節的に異なる社会形態を持っていたりして、単純に、闘争状態だとか、平等で平和だとか断定できない証拠が数多く挙げられている。たとえば、狩猟採集社会を描くために、人類学的な現代の事例からお好みの対象が選ばれるときに、ルソー派には比較的平等主義的なハッザ族やクン族が、ホッブス派には好戦的とされるヤノマミ族が好まれるようである。要するに、ルソーやホッブスがいう「自然状態」とは、実際には存在しない仮想的な概念であり、歴史的証拠ではなく思弁的想定に基づくものというわけだ。

 また、ルソー派もホッブス派も、狩猟採集民は「愚かな民」という想定をしている。前者は、愚かで争うことさえしない「高貴な野蛮人」という想定であり、後者は、愚かで私欲のための争いばかり繰り広げているという想定である。これは明らかな間違いであり、狩猟採集で未開とされてきた、多くの歴史的証拠、とくに北米や南米の先住民資料によって覆されている。

 このように、本書は、人間社会の多様性を再認識し、ルソー的・ホッブズ的な単純化を超える視点を提案して、歴史観の再構築を試みるものである。

2025年6月2日月曜日

日本認知心理学会優秀発表賞を受賞しましたーCultural differences in religious belief, religious dialectical thinking, and the relation between thinking style and religious belief.

  前回の記事から随分と期間が空いてしまったが、ブログをやめようと思っているわけではない。ある書籍を紹介しようと思って読んでいるのだが、消化不良で時間がかかっているだけである。その代わりといってはなんだが、531日、61日と、京都大学で日本認知心理学会があり、発表賞国際部門を受賞したので、その報告をしたい。

 私の受賞対象は、昨年度の、Maxime BoulierVeronique Salvano-PardieuKen Manktelowとの共著の Cultural differences in religious belief, religious dialectical thinking, and the relation between thinking style and religious belief.というタイトルでの発表である。この研究は、昨年のミラノにおける思考の国際学会でも発表しているので、すでに過去の記事でも紹介しているが、宗教的ビリーフについての弁証法的態度と、思考スタイルによる宗教的ビリーフの促進・抑制の文化差を検討したものである。

 私たちは、日・仏・英3か国からそれぞれ100名づつの参加者にウェブ調査を行ったが、3つの大きな発見があった。第1は、日本人は、フランス人や英国人と比較して、弁証法的なビリーフをもっていたということである。東洋人が弁証法的であることは、比較文化研究領域でよく知られていることだが、宗教的ビリーフにおいても確認できた。たとえば、「地獄は迷信」と思っていても「地獄は怖い」のである。

 第2の発見は、これが研究の主目的だったのだが、英国人とフランス人では、内省的な思考スタイルが宗教的ビリーフを抑制していたが、日本人ではそういう抑制は生じず、直感的な思考スタイルが宗教的ビリーフを促進していた。概して、超常的なビリーフは内省的思考によって抑制され、宗教的ビリーフはその1つである。しかし、日本人は宗教に対して弁証法的な姿勢を示しており、それによって内省で抑制する必要がないのかもしれない。

 第3の発見は、偶然的なものである。宗教的ビリーフには、いくつかの側面があるが、そのうち、悪いことをすれば報いがあるなどの「応報的観念」は、日本人において強かった。そこで、試みに、宗教を信じているかどうかも加えて分析をしてみたところ、日本人では宗教(主に仏教)を信じているかどうかでほとんど差がなかった。英国人とフランス人では、宗教(主に、カソリックまたはプロテスタント)を信じている人たちの応報的観念の強さは、日本人とほとんど差がなかったが、信じていない人たちのスコアが低かったのである。信じていない人は、日本でも英仏でも6070%だったが、英仏では彼らが全体のスコアを押し下げているということがわかった。おそらく西洋人の無宗教者はほとんどが無神論者であり、かれらは、強烈に神を否定しているのだろう。日本人は、無宗教であったとしてもパワースポットを訪れたり初詣に行ったりと、宗教的な生活を否定しているわけではなく、ここに両者の大きな違いがあるのではないかと思える。

 これらの3つの結果は、私自身もおもしろいと思っている。宗教の違いや文化の違いを交叉的に捉えることができ、さらにそれを内省がどの程度抑制しているのかということもわかった。これらを評価していただいて、たいへんうれしく思っている。


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10th International Conference on Thinking (2)―宗教的ビリーフにおける東洋人の弁証法

日本認知心理学会優秀発表賞を受賞しましたー”Cultural differences in preference for enthymemes: A cross-cultural study of the Japanese, Koreans, Taiwanese, French, and British

 

2025年4月5日土曜日

“Human and Artificial Rationalities. Advances in Cognition, Computation, and Consciousness”が出版されました

  2022年からパリで行われているHuman and Artificial Rationalityのカンファレンスだが、23年分から出版を開始し、20249月に行われた分が3月末に出版された。昨年は、私はパリでのカンファレンスに参加していないので、私が筆頭著者である章は含まれていないが、とりあえず編集に加わり、編者に名を連ねさせていただいている。本書は、Artificial Reasoning and ModelsArtificial Intelligence and CognitionRationality and Dual ProcessMoral ReasoningEducationReasoning and Special NeedsExperimental Procedures in Cognitionの部門に分類され、合理性を論ずるもの、人工知能およびそれとのかかわり、および教育への応用などが論じされている。

 私が筆頭著者となっている論文は本書に含まれていないが、Maxime Bourlierが筆頭となっている論文の著者の中に入れていただいている。この研究は、モラル判断のテーマとして有名になった、トロッコ問題と歩道橋問題を材料として用いている。トロッコ問題とは、進行中のトロッコが5人の作業員に向かって進んでおり、このままでは5名が死ぬが、レバーによって進行方向を切り替えれば死者は1人だけになるという設定で、レバーを引くか否かという問題である。5人を助けるために1人を犠牲にするか、何もしないで5人を犠牲にするかという倫理的ジレンマ状況を提供しているわけである。この状況だと、レバーを引いて5名の犠牲よりも犠牲を1名だけにする功利論的な選択肢が好まれる。ところが、歩道橋問題では、歩道橋の上の太った人を線路に突き落としてトロッコを止めるという方法で5名を助けるかどうかという判断になる。この場合は、突き落とすという行為に抵抗感があり、この功利論的選択が激減する。つまり、「突き落としてはいけない、これは殺人だ」という義務論的選択が増加するわけである。

 なぜ歩道橋問題になると、功利論的選択が減少して義務論的選択が増加するのかという内容効果には、いくつかの説明が提唱されているが、最も重要な要因は、歩道橋問題ではいくら5名を救うためであっても殺人自体が目標になっているという点だろう。Bourlierが注目したのは、その行為で責任を取らされるか否かである。そこで、責任を取らされないように「1名を犠牲にする許可を得る」か否かを独立変数として操作した。その結果、歩道橋条件では、「許可を得る」ことによって、太った人を突き落とすという功利論的選択が増加したのである。なお、トロッコ条件では、最初から功利論的選択が多く、許可の効果が現れなかったが、これは天井効果であろう。許可を得るということは罰せられないということで、このことが、内容効果の根本的要因なのかどうかはわからない。しかし少なくともこの効果の生起に寄与しているということがわかった。

 このカンファレンスおよび論文集の出版は、2025年分も継続される。2025年も9月にパリでカンファレンスが開催される予定だが、今年は私も発表および論文投稿の予定である。