2025年12月19日金曜日

京都サンガ2025年シーズンの総括

  J1リーグ2025年シーズンを、京都サンガは、3位というこれまでの最高順位で終えることができた。一時は降格を覚悟した昨シーズンも、後半の成績は3位だったので、その勢いを持ち越したともいえるが、今シーズンは、いくつかの点でレベルアップが見られたと思う。昨年後半の快進撃を支えたラファエル・エリアスやマルコ・トゥーリオが怪我で出場できないことが何試合かあったが、それでも順位を落とすことはあまりなかった。

 2025年シーズン開幕前のキャンプでは、ボールを失ったときに素早く帰陣する練習が行われていたと聞いている。その結果、非常に攻守の切り替えの速いチームになり、また、それによって攻撃時に多くの選手の攻撃参加が可能になった。チャンスの時に、アタッキングサードに京都の選手が湧き出るように侵入し、この分厚い攻撃によって、相手は、マンツーマンで守っていてもマークできない選手が現れ、ゾーンで守っていてもその隙間を破られるという事態に陥ってしまう。この攻撃に、決定力があるラファエル・エリアスが加わると、鬼に金棒であった。

 この全員攻撃を可能にしているのが守備陣の踏ん張りである。京都は、フォーバック布陣といいながら、両サイドバックを積極的に攻撃参加させるので実質ツーバックになることが多かったが、センターバックの鈴木義宜と宮本優太が豊富な運動量と対人の強さで非常によい守備をしていた。さらに、これまでJ2でさえもあまりレギュラーになっていなかったゴールキーパーの太田岳志が的確なディフェンダーへの指示と卓越したセービングをみせて、鈴木、宮本、太田の逆三角形が、守備を非常に安定させていた。京都の選手はよく走る。統計的に、走行距離もスプリント回数も他のチームを凌駕しているが、鈴木と宮本も、ディフェンダーとしてはるかに平均を上回っている。これが、安定した守備と湧き出るような攻撃を可能にしているのだろう。

 また昨シーズンまでは、京都は、ボール保持率とパス成功率が常に相手チームよりも低かった。その代わり走行距離とスプリント数で上回って、なんとか降格を免れてきた。ところが、今シーズンはパス成功率が高くなった。前々からトライしてきたファイブレーン練習の効果なのか、新たに何か行ったのか、あるいは新たにコーチ陣に加わった梅崎司の指導法の効果なのかはわからない。とにかく、ボールを奪った後は、ゴールまで手数をかけず、切れ味がよいカウンター攻撃を見せてくれる。また、これまで時々見られた、攻撃の選手が重なることがほとんどなくなった。さらに、守備を固めた相手に対しても、ワンタッチで相手守備陣を崩し、ペナルティエリア内に侵入していく様は、昨年までとは別チームのようである。

 ボール保持率は上がっているわけではない。しかし、今シーズンは、ハイプレスによっていつでもボールを奪える自信があるのか、ボール保持にあまりこだわっていない。さらに、相手にボールを持たせるという戦術も採ることができるようになった。それによって、これまでは、ゲーゲンプレス状態でへとへとになった選手から交替ということが多かったが、プレスにも強弱をつけることができるようになった。やはり90分間のプレスというのはいくら体力がある選手でも困難で、この強弱によって体力を温存できる時間帯を作ることができるようになったわけである。このようにしてゲーム後半の得点が増え、見ていても非常にスリリングで面白いサッカーが楽しめるようになった。

 曺貴裁監督のハイプレスサッカーは、今シーズンは、新しいステージに達した。このままより高みに上っていくのだろうか、それともどこかで頭打ちになるのだろうか。素人の私には予想できないが、前者であることを祈るばかりである。

 

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2025年12月5日金曜日

リベラルなはずの人たちが、なぜ中国共産党擁護?―リベラルアイデンティティの陥穽

  右派と左派、リベラルと保守という対立は、ここ10年ほどの間に世界の多くの国において激しくなってきた。それだけではなく、「既存の価値への革新的態度対伝統的態度」、「個人の自由平等を優先対秩序のための権威の尊重」といった、本来の対立軸を離れて、地球温暖化への態度や原子力発電への賛否などの、左派右派の軸と必然的に結びついていない問題と連動して、対立を深めている。

 その中で、日本において非常に不思議なのは、中国共産党に対するリベラル派の態度である。チベットや東トルキスタン (ウイグル) を武力併合するだけではなく彼らの人権を著しく軽視し、香港人の自由を奪い、それと同じことを台湾にも試みようとし、他にも南シナ海で周辺国を武力的に圧迫しているのが中国共産党である。また、そもそも中国国民にすら満足な自由を与えていない状態を続けている。原理的には、中国共産党に対してもし少しでも良いから賛意を示すとすれば、リベラルではなく、保守のはずである。人権や自由を党の権威と権力によって制限する現状は、確かに秩序を保つためには効率的で、考え方としては保守に近いはずだ。ところが、これまで中国共産党に対して肯定的な態度をとってきたのは、日本においては、保守というよりもリベラル (あるいは自称リベラル) に属するとされる人たちである。とくに、現首相の高市早苗氏が、「中国による台湾侵攻が起きた場合、日本の安全保障上の危機」と国会答弁したことに対して、中国共産党は、「中国の主権と領土の一体性に対する重大な侵害であり、力介入を容認する危険な示唆」だと非難して、発言の撤回を求め、自国民に対して、日本への渡航を控えるように言い渡したりしている。この強圧的な反発は、民主的な政体では絶対に見られないのではないだろうか。

 ところが、このことで中国共産党寄りの立場をとって高市氏の発言を批判しているのが、鳩山由紀夫氏や日本共産党、あるいは自称リベラルたちである。元首相の鳩山由紀夫氏は、高市氏の発言に関して「日本は中国の内政問題に干渉すべきではなく、中国の反応は当然」と述べて、強く批判している。また、日本共産党なども、高市氏の発言を「非常に危険で無責任」として、発言の撤回を求めた。日本の軍国主義の復活という中国共産党の強弁に賛同する人たちもいる。また、中国共産党の圧力による日本人アーティストのコンサートのキャンセルなどにおいても、中国共産党のこのような常軌を逸脱した反応を批判するのではなく、高市氏を批判するという自称リベラルの芸能人もいる。彼らは、台湾の人たちがいかに自由を失いたくないと願っているか、香港の人たちがいかに自由を取り戻したいと望んでいるかに対して、かくも鈍感なのだろうか。

 この現象をどう解釈するだろうか。確かに、日本のリベラルには、自由と平等のために資本主義を敵視して共産主義を理想化し、親旧ソビエト連邦、親中国の伝統があった。しかし目標が自由と平等ならば、さまざまな政策に対して、その目標を目指して取捨選択すればよいはずで、対中国という点においてなら、人権軽視が著しい中国共産党に批判的であるべきである。しかしそうならないのは、「リベラルはこうあるべき」という強烈なアイデンティティが原因となっているのだろう。アイデンティティという用語は、便利なのだが、多くの心理学者には少々使い古された概念で、ここ20年程は「アイデンティティが高いということはどのような適応的意義があるのだろうか」などと、アイデンティティを分解するような問いが重要になっている。しかし、ここでは、あえて「リベラルアイデンティティ」という概念を使用しよう。「リベラルは、共産主義であるべき、したがって中国共産党には当然賛同すべき」というアイデンティティが非常に強烈で、これに囚われてしまって合理的な思考ができなくなっているのだろう。彼らは、自由を失うことを強く懸念し、高市氏の発言に感謝している台湾の人たちの不安を感ずることができなくなっている。

2025年11月2日日曜日

文化形成・伝搬の偶然的要素と必然的要素

  現役 (本当は昨年度末にいったん退職してはいるので正確に現役と呼べるかどうかわからないが) 最後の年に、やり残したこととして、文化形成・および伝搬の偶然的要素と必然的要素の検討についての文学研究科内プロジェクを発足させた。心理学、哲学、歴史学、民俗学からのメンバーが集まって議論を重ねていくことになり、非常に楽しみである。

 「やり残した」というよりは、個人的には、私にとってはスタートかもしれない。私自身は文化形成・伝搬を、説明しようとするとき、何らかのモデルを提唱するが、このモデルは、決定論つまり必然性を目指したものである。それは当然のことで、そもそも科学全般において、「理論によって何らかの事象を説明する」ことの目標は、常に決定論で、必然的に説明あるいは予測ができなければ、理論に欠陥があることになる。

 しかし、文化形成・伝搬のような複雑な事象に対しては、最初から決定論的な理論を構成できるわけではない。それはちょうど生物学的進化が、偶然の遺伝子変異と、ある程度は決定論的な自然選択によって生ずることと似ている。生物進化のメタファーとして、ミームという造語がリチャード・ドーキンスによって導入されているが、ミームにも生物進化のメカニズムが適用されている。遺伝子変異に相当するのが文化的ドリフトで、これは、特定の文化的要素 (慣習、言語、信仰など)が、機能的・合理的な理由とは無関係に、偶然の要因で広まったり消えたりする現象である。選択圧がほとんどない状態での変化で、村ごとに異なる方言などのように、小集団で特に顕著である。自然選択に相当するのが文化的選択で、これは、ある文化的要素が、それを採用した個人や集団にとって有利だからこそ、拡散・維持される現象である。文化的要素が、適応的かどうかが鍵となり、当然かもしれないが目的合理性や機能性がある文化が残る。現代の私たちが持っているさまざまな便利な科学技術や、教育制度、書記体系などが選択を受けたといえる。

 さらに、この偶然性は、制度論 (institutional theory) とも親和性があり、制度の誕生や変化を合理性だけでなく、偶発的な要因によって説明することが重要である。制度論における偶然性には、初期の偶然的な選択が将来の制度構築に大きく影響して不可逆的な変化に結びつくパス・ディペンデンス (path dependence)、歴史のある時点で、戦争や災害などの外的要因によって制度的な分岐点が生じ、その後の安定的な制度に影響を与えるクリティカル・ジャンクチャー (critical juncture)、初期の偶然的な制度が、変更コストの高さや慣習の蓄積によって維持されるロックイン効果 (lock-in effect) がある。これらは文化的選択では説明しきれない非合理的な制度継続や地域差の理由に適用される。

 文化形成・伝搬のような複雑な事象について、単純化して必然的とされるモデルや理論を構成する方向性は必要である。しかし、それに満足していると重要な偶然的要素を見過ごしたり、無視したりする可能性がある。ただし一方で、これらの偶然性も、ミクロ的に突き詰めれば、何らかの必然的な要因によって生じている可能性もある。したがって、私たちは、単に必然性が観察不能なために偶然に見えているだけなのか、本当に偶然なのかを追求する必要がある。とてつもない大きな問題なので、偶然なのか必然なのかについての結論を導くのではなく、理論・モデル構成をしていくうえで、これらを議論したいということの提唱なのである。

2025年10月13日月曜日

神は迷信であると確信するが、罰せられたら怖いー第4回Human and Artificial Rationalities (3) での私の研究発表

  第4Human and Artificial Rationalitiesでは、私も発表を行った。タイトルは、 Easterners dialectical acceptance of religious contraction but not of general contradiction.で、新しい研究データというよりは、これまでの私自身の2つの研究結果の違いを、どのように説明するのかというものである。

 東洋人が弁証法的であると言われながら、相反する陳述に同時に賛成するか否かという比較文化研究はほとんどない。そこで、かつて大阪市立大学に研究生として在籍した張君は、たとえば「外国の文化を受け入れることは、グローバル化する世界に対応できる国になるために良いと思う」、「外国の文化を受け入れることは、古来の伝統文化や習慣・習俗が壊れるために良くないと思う」というような相反する陳述の両方にどの程度賛成するかという弁証法的思考を指標にして日本人、中国人、英国人を比較した。その結果、なんと日本人が最も弁証法的ではなかったのである。同時に行った「相反する2つの意見をきくと、大抵両方の意見に納得します」のような質問紙 (弁証法的自己尺度と呼ばれる) では、日本人や中国人の弁証法的傾向が、英国人のものよりも高かったにも関わらずである (弁証法的自己尺度のこのような結果は多くの比較文化研究で確認されており、東洋人が弁証法的であるという言説の根拠の1つである)

 しかし、私たちの宗教的弁証法の研究 (まだ学会発表を行っただけで論文として出版されたわけではない) では、「信仰は、人生の意味を与えてくれる」、「信仰が、人生の意味を与えてくれることはない」というようなやはり相反する陳述を用いて、この両方にどの程度賛成するのか日本人、英国人、フランス人を比較した。この研究の意図の一つは、現代における宗教と科学の両立に言及することである。その結果、日本人は、英国人やフランス人と比較して、宗教的材料ならば弁証法的であるということがわかったのである。神は迷信であると確信すると同時に、悪いことをして罰せられたら怖いという感覚が同居しやすいというわけである。

 さて、では、日本人の、この「一般的矛盾」では弁証法的ではないが「宗教的矛盾」において弁証法的になるという結果をどのように説明できるだろうか。現時点でこれを説明できる理論は、宗教的・哲学的伝統に依拠するもののみである。つまり、日本 (あるいは東洋) の思考的伝統には、道教の陰陽思想や仏教の無と縁起など、弁証法的発想が多く含まれ、その結果、東洋人が弁証法的になったという説明である。ところが、一般的陳述での矛盾においては日本人は弁証法的ではないという張君の発見を加味すると、この宗教的弁証法的思考は、一般的矛盾の受け入れという弁証法に転移することはないと推定できる。つまり、宗教的弁証法は、宗教的題材に特化した領域固有的な弁証法なのだ。現時点で、宗教的・哲学的伝統に依拠する理論は、東洋人の弁証法的傾向を説明できる有力な理論の1つである。しかし私自身の発表では、宗教的弁証法的思考が領域固有的だとすると、領域一般的な弁証法的自己を説明することに大きな疑問が生ずるという提案で締めくくった。この発表内容は、Springerの書籍の中の1つの章として出版の予定である。

 

Zhang, B., Galbraith, N., Yama, H., Wang, L., & Manktelow, K. I. (2015). Dialectical thinking: A cross-cultural study of Japanese, Chinese, and British students. Journal of Cognitive Psychology, 27(6), 771-779.

2025年10月2日木曜日

第4回Human and Artificial Rationalities (2)―Dan Sperberのキーノート

  第4回Human and Artificial Rationalitiesのキーノートに、『関連性理論』や『表象は感染する』など、その著作のうちのいくつかが日本語訳されているDan Sperberが招待されていた。講演題目は、Rationality and reasoning in an evolutionary perspectiveである。

 Sperberの主張は、この30年間一貫しており、進化理論に基づいた認知的アーキテクチャーの想定である。なお、二重過程理論では、進化的に形成されたモジュールの束である直感的システムと、それらモジュールを制御できる熟慮的・内省的システムの両方が想定されるが、Sperberは、この熟慮的・内省的システムを認めないわけである。実際、進化のメカニズムだけから考えると、汎用的な熟慮的・内省的システムが進化したことが認めがたいのは事実である。確かに私たちは大きな脳容量・認知容量によって支えられるこのシステムによって、未知の問題にも対処していくことができ、生存に極めて有利になっている。しかし、Sperberに代表される進化理論の立場では、そもそも野生環境でエネルギーを節約しないと生存し続けにくい生物に、未知の問題までも解決できる汎用性が高いシステムが進化したことはあり得ないというわけである。

 Sperberは、そもそも人間の推論の汎用性が高いという見立て自体が誤りで、推論は鳩ノ巣原理 (pigeonhole-principle) の直感的なものであると主張する。とくに、二重過程論者が、熟慮・内省的システムの起動にかかわっているとして重視しているメタ推論 (熟慮・内省的システムの機能とする立場もあれば、このシステムから独立したさらに上位のシステムと想定する考え方もある) について、心の理論の心的表象のように、あくまで直感的であるとして、熟慮・内省的システムを想定する必要がないことを説いている。なお、他者の行動を、その背後に心の働きがあると想定して解釈する推論は「心の理論」と呼ばれているが、一見複雑な推論のようで、実は直感的でモジュール的であるとされている。このような推論モジュールが、表象を形成し、推理 (推論よりもう少し複雑で、実用的なものを推理と呼ぶ。なお、シャーロックホームズが行うのは推理であって推論ではない) が可能になるが、推論表象が直感的である限りこれは領域固有的であり、汎用的ではなくメカニズムも固有的ということになる。

 私の個人的な印象として、二重過程理論にもSperberのモジュール表象理論についても、問題は残されていると思う。二重過程理論における大きな問題は、メタ推論の潜在性である。ヒトの思考の高次性は、顕在性と直結しているので、熟慮・内省システムの機能であるとしても、その上位のシステムであるとしても、この問題は残されたままである。一方、Sperberのモジュール表象理論における問題は、認知容量とのかかわりである。進化理論であっても、認知容量が何らかの淘汰圧によって大きくなったことは認めている。二重過程理論では、思考に使用される認知容量が大きいほど、柔軟で汎用的な思考ができると考えているが、Sperberは、この点についての言及はほとんどしていない。

2025年9月29日月曜日

第4回Human and Artificial Rationalities (1)―全般的印象

  昨年は、大阪公立大でRationalityについての国際シンポジウムを行ったため、パリでのHuman and Artificial Rationalities (3) に参加できなかった。したがって、今年は2年ぶりの参加・発表となった。思えば、第1回の3年前は、コロナの明け初めで、主催者のJean Baratginの関係者やパリ第8に関わる研究者、および日本からの数人の参加が中心だったが、今回は、フランス国内だけではなく、イタリア、スイス、スペイン、英国、米国からの研究者が集まった。もちろん日本からも、院生や私自身を含めて7名が発表を行った。

 第1回や第2回は、Human and Artificialというタイトルがありながら、どうしても心理学を専門とする発表者が多く、人工知能研究とのかかわりにしても、新しい生成AIとどう付き合っていくのかといったテーマの発表が散見されただけだった。しかし、今回は、AI研究者だけではなく、AI哲学の研究者の発表がかなり多くなった。そして、こちらとしては非常に嬉しいことなのだが、彼らの中の多くが、心理学の研究成果に興味をもってくれていたことである。

 AI側の研究の多くは、LLM (large language model) のエージェントを用いたものである。たとえば、今回のキーノートの一人であるMirco Musolesi の講演は、Modeling Decision-making in Societies of Humans and AI Agentsというタイトルで、AIによる繰り返しがある囚人のジレンマゲームを扱ったものだった。囚人のジレンマゲームとは、協力か裏切りかの意思決定を求められるもので、相手が協力を求めるときに自分が裏切ると自分の大きな利益になり、逆に自分が協力しようとて相手から裏切りに合うと大きな損失になる。そして、双方とも協力だと中程度の利益があり、双方とも裏切りだと中程度の損失となる。このゲームを反復する中で安定的に利益を得るためには、双方とも協力という選択が望ましいが、それにAIがどのように到達するのかというのが議論されていた。LLMによって深層学習を行うAIの複数のエージェント (multi-agent system) は、ある環境で協力や裏切りなどを行うと、それに応じた報酬 (損失も含める) を受け取る。それを何度も何度も繰り返すと同時に、エージェント間での相互作用を行わせるわけである。さて、モラルの意思決定には、ベンサム流の功利主義と、カント流の義務論主義がある (功利主義的になると利得に目が行き、義務論的になると、「裏切りはいけない・許せない」となる) が、Musolesiの研究では、これらが明示的にトップダウン的にAIに教えられ、繰り返しによる報酬・損失の経験がボトムアップ的に複数のエージェントに深層的に学習される。そうすると、LLMのエージェントの中で、功利主義的か義務論主義的かという次元が構成され、LLMはある場合には非合理的にふるまったりもする。これは、AIが、人間の行動と社会を研究する新しいツールになりうることを示している。

 Human and Artificial Rationalitiesは、来年からも続けられる予定である。生成AIが、合理性の心理学の研究と今後どのようにかかわってくるのか、期待を感じさせる大会だった。

2025年9月11日木曜日

総理大臣の資質とはー素人による政治談議

  石破総理大臣の辞任が決まったようだ。個人的には、実は、あの持って回った言い方が嫌いで、ほとんど期待していなかったが、この外交的な難局をうまくかじ取りしたのではないかと思う。また、物価高の中で最低賃金の上昇も、経済の停滞もあまり招かずにある程度は成し遂げるつつあるのではないかと思う。

 さて、私が個人的に総理大臣に望むのは、第一に外交能力であり、第二にSDGを考慮しながら経済と産業を発展させることができるパースペクティヴをもっていることである。もちろん政治の左派か右派かという本質は、税金として集めた金を、再分配にどの程度使うのかという点にあるが、これは副次的なことだ。

 外交については、ロシアと中国という独裁覇権的枢軸国やそれに加わった北朝鮮に地勢的に近く、かつ中国との経済関係をあまり破綻させたくないという困難な状況で、さまざまな課題に直面している。これらすべての国が民主的で国民が豊かな国に生まれ変わることができるなら最良である。つまり、現体制を転覆させることができる戦略があれば良いのだが、そのためには他の国々とどのような連携を組み、どのような形で枢軸国の覇権的行動を抑止するのかを模索していく必要があるし、あるいは政権転覆のチャンスを逃さないことも重要かもしれない。差し当っての目標は、ロシアにウクライナ侵攻を止めさせることと、中国による台湾侵攻を思いとどまらせることだが、短期的な目標と長期的な目標をどのように設定するのかは重要だろう。

 内政にしても、課題は山積している。この30年の経済の停滞によって、最先端のITなど多くの日本の優位性が失われた。これらが如実に反映されていてショッキングなのは、一人当たりのGDPの世界での順位が著しく低下していることである。G7の最下位だったイタリアだけではなく、スペイン、韓国、台湾、プエルトリコ、スロベニアにも抜かれた。スロベニアは旧共産圏で初めて日本を追い越した国となった。もちろん、この理由として、日本が物価高に対して世界の優等生だったこともあるだろうが、それが低賃金に支えられているという悪循環からなかなか抜け出せなかったのだ。さらに、国が貧乏になって、論文生産数に反映されるように研究活動が停滞し、それがITなどの新技術創出を阻害している。

 総理大臣は、このような問題に合理的かつ総合的に対処できる資質をもった人を望みたい。それぞれの課題は専門家に任せるとして、それらを総合的に俯瞰できる人物が必要である。中国はその動向を常に監視しなければいけない独裁専制の国だが、国粋主義的な対峙しかできない人は総理大臣には不向きである。現在、北朝鮮の動向に神経を尖らせている韓国や、フィリピン、インドネシア、さらには米国、オーストラリアなどと連携していく必要があるとき、国粋主義は不要であり、日本は歴史修正主義にかじを切ったと疑われるのは得策ではない。また、さまざまな問題に対処するのに、総合的に俯瞰できないままに妙に実行力だけが伴ってしまうのも怖い。以前、プラスチックごみが問題視されていたときに、レジ袋有料化を推進した政治家がいたが、これだけ何も考えずに実行するのかとかなり恐怖を感じたのを覚えている。経済の進展と環境保全は、どうしてもトレードオフになるが、どこでウィンウィンにできるのかなど、やはり全体を俯瞰しないと政策は決定できない。このような政策決定には、重回帰方程式などを用いたシミュレーションが必要なはずだ。このシミュレーションにおいて、どのようなパラメータを考慮すべきなのか、またパラメータの重みを推定するためのデータとして何を参照するのかといった議論にはかなり学力を必要とするのだが、その学力が欠けていると、実行力の暴走になる。端的に、思考心理学の用語を適用すると、全体的 (ホリスティック) かつ分析的 (アナリティック) な思考能力が必要なのだ。次期総理大臣には、そのような資質を有する人物が選ばれることを切に願っている。