人命軽視の軍隊というと、玉砕と呼ばれる自殺的戦闘や神風という自殺的攻撃に代表される旧日本軍の専売特許と思っていた。しかし、ウクライナ侵攻でのロシア軍の死傷者やウクライナ市民への残虐行為をみると、ロシア軍には人命軽視の伝統があるのではないかと思ってしまう。ウクライナで傍受されたロシア軍内での無線通信には、「われわれは使い捨ての駒。平和な市民を殺している」と嘆く兵士の声があるようだ。
第二次世界大戦において、ソビエト連邦の軍人と市民の死者は群を抜いて多い。中学生の頃に私がこれを知ったとき、ナチスドイツが残虐だったから程度の理由を想像していた。しかし、いろいろと条件が異なるのかもしれないが第二次世界大戦で全土をナチスドイツに占拠されたフランスでの戦死者ははるかに少ない。また、ロシアは第一次世界大戦での戦死者も参戦国の中で最も多いという事実を加味すれば、やはりロシア軍あるいはソビエト軍になにか欠陥があるのではないかと勘繰りたくなる。ナチスからの解放者の名誉を与えられてしまって、その悪行が世界で喧伝されることはナチスに比較して極めて少ないが、スターリンは恐ろしく人命を軽視している。そして、今回のウクライナ侵攻でもそれが露呈したように思われる。
前回の投稿で「海洋」と「大陸」の対照を行ったが、この背景を突き詰めると、どうしても「大陸」が抱える問題に行きつくように思う。この点が指摘されているパイオニア的文献は、梅棹忠夫の 『文明の生態史観』だろう。梅棹は、ユーラシアの東西の端で比較的高度な文明が発展したことを説明するために、ユーラシアを、中央の乾燥地域、それに隣接する東欧と中国、端に位置する西洋と日本に分類し、東西の端が、中央の乾燥地域の「暴力」を受けにくかったと提唱している。中央の乾燥地域が「暴力」的であるとする根拠は、ここでは騎乗によって専制的な軍事帝国が形成されやすく、農業地域である中国や東欧を侵略したという過去の歴史にある。現在の視点からすると少々乱暴な主張だが、海洋での交易よりは、領土が直接接する大陸での交易は、戦争に結びつきやすいというのは真実だろう。
ただし、これらの考察から、ロシア人個人が残虐であるという結論は導くべきではない。「バイキングの伝統から北欧人個人が残虐である」という結論を導くべきではないのと同じ理由である。文化差は個人差ではなく、何らかの状況に対する適応的な行動である。
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