2023年12月29日金曜日

アメリカンエクスプレスどころかアメリカンブリッツクリーク(電撃戦)―ホモ・サピエンスのアメリカ大陸での拡散

  だいぶ前になるが、20171119日の記事で、ホモ・サピエンスの出アフリカからオーストラリアへの拡散が、ユーラシア大陸の内部やヨーロッパへの拡散と比較してはるかに迅速で、シーショアエクスプレスと呼ばれているのに対して、それよりもはるかに速かったアメリカ大陸の北から南への拡散がなぜアメリカンエクスプレスと呼ばれていないのかという小論を書いた。

 シーショアエクスプレスは、比較的安全で食糧も豊富な海岸沿いの拡散で、それでも少なくとも1万年以上を要している。しかし、アメリカ大陸の場合は、コロンビア氷床を超えてわずか約千年で南アフリカの南端にたどり着いている。このアメリカ大陸での拡散には呼び名がないと思っていたのは完全に私の知識不足で、エクスプレスどころか、ブリッツクリーク (電撃戦) と古生物学者のポール・マーティンに命名されているようだ。ブリッツクリークとは、ナチスドイツが第二次世界大戦においてポーランド侵攻やフランス侵攻に用いた機械化された戦闘部隊による作戦で、航空部隊による支援との連繋下で戦車などの機甲部隊を進めるという戦術である。侵攻が電撃のように強烈で迅速ということでこの名がついた。アメリカ大陸における拡散は、エクスプレスよりもその比喩が適切というわけだ。

 概して、南北の移動は異なる気候帯を通り抜ける必要があるので東西の移動よりも年月を要するはずである。それにもかかわらず、コロンビア氷床を抜けた地点 (今のカナダ) から南米の端までの南北の移動にわずか千年というのは、あまりにも速い。このブリッツクリークとまで呼ばれる快進撃を支えたのは、当時の最新のテクノロジーや武器を備えたクローヴィス文化の狩猟民だが、さらに南北アメリカ大陸は、人間を怖がらない大型哺乳類の宝庫だったようだ。人間を見たことがないので、人間に対する恐怖心が小さく、狩猟が極めて容易だったのである。この豊富な動物性たんぱく質が人口増を促し、人口が増えれば新たな土地へ移住する。この移住先でも、ライバルとなる他部族もいないのでさらに豊富な獲物が期待できるとなれば、拡散が促進されるのは当然なのだろう。

 また、考古学的資料として、この拡散の時期に、南北アメリカ大陸で多くの大型哺乳類が絶滅している。これらの絶滅が、ホモ・サピエンスの拡散によるものなのかどうかについては、まだ完全に断定できるわけではないようだが、マンモス、マストドン、巨大ナマケモノ、巨大アルマジロ、巨大ビーバー、ラクダなどが次々に絶滅し、バイソンやシカ、アザラシなどの個体数も激減した。そして、食物連鎖の頂点にいたサーベルタイガーもそれに伴って絶滅している。この多くの大型哺乳類の絶滅を伴った拡散の異常な速さが、ブリッツクリークと呼ばれたゆえんである。

 

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2023年12月21日木曜日

京都サンガ2023年シーズンの総括

  京都サンガがJ1に昇格してから、今年は2年目のシーズンであった。昨シーズンはプレーオフで辛うじて残留できたことと比較すれば、今シーズンは最終節前に残留を決め、結果的には13位だったので力がついてきたといえるだろう。

 正直、J11年目である昨シーズンは、J1というよりは、J1.5あるいはJ2レベルの選手が多かった。チーム全体としてもJ1.5であり、強いチームに真っ向から立ち向かうという爽快さはあったものの、力の差は大きく、また、相手選手に、いわゆるチンチンにされることがたびたび見られた。しかし、今シーズンは、川崎颯太、福田心之助、金子大毅などの個々の選手のレベルアップが見られ、全体的にJ1レベルの選手が揃った。とくに金子大毅は、昨シーズンは、スペースのカバーなど、全体を見渡したプレーはできるのだが、足元の技術はおぼつかないという印象だった。しかし今シーズンは、アンカーを任され、ボランチとしてのかじ取りと相手ボールの奪取がレベルアップし、サイドや縦に長短のキラーパスを繰り出せるようになった。最終節の横浜マリノス戦で見せたFWの豊川雄太への一瞬の縦パスは、豊川の見事なゴールに結びついている。また、福田心之助は、開幕戦で見たときは極めて心もとなかったが、非常に攻撃力がある右SBとして成長している。

 また、今シーズン途中加入の原大智とク・ソンユンの存在は、残留という点で大きかった。京都は、昇格の立役者のピーター・ウタカの後釜としてガンバ大阪からパトリックを迎えたが、彼は決定力があるとはいえ、シーズンを通してのプレーが難しかった。しかし、夏に加入の原大智は、デビュー戦こそ存在感が薄かったものの、京都のサッカーに慣れてくるとパフォーマンスが安定してきた。ゴール前でのポストにもなり、器用な足元でDFを剥がしたり、パスを受けてのダイレクトであったりとシュートがうまい。また、昨年の正GKである上福元が移籍し、昇格時に正GKであった生え抜きの若原智哉が伸び悩み、海外からの鳴り物入りGKが全く試合に出場できない中、J1にしろJ2にしろ、出場経験がほとんどなかった太田岳志が奮闘して、降格を免れる功労者の1人になってくれた。しかし、やはり太田では心もとないと思っていたら、札幌からク・ソンユンがレンタルで来てくれた。彼の加入後は、守備が安定し、また、一発のロングフィードが京都の大きなチャンスにもなるなど、終盤の好調を支えてくれた。2024年シーズンのク・ソンユンの完全移籍という情報もあるが、ぜひ実現して欲しい。

 今年が3年目だった曹貴裁監督のサッカーは、豊富な運動量に支えられた、ハイプレスで攻守の切り替えが非常に速いサッカーである。FWさえも前線からのプレスを求められるという、選手にとってはハードな戦術だが、現代サッカーの特徴である、全員攻撃全員守備と縦への速さを追求したサッカーになっている。ここであげた選手はこのサッカーに非常にうまくマッチしていると思う。昨年までは、京都の怖さはボール奪取からのカウンターのみだったが、今シーズン途中から、守備を固めた相手に対してサイドからの崩しが加わった。また、セットプレーからの攻撃も冴えるようになってきた。京都は、現時点でサッカーファンなら誰もが知っているというスター選手がいないが、地味ながら確実に進歩が見られる面白いチームになっている。今から2024年シーズンが楽しみである。

 

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2023年12月1日金曜日

一神教と多神教―(2) 浄土真宗は一神教?

  牧畜民が起源であるユダヤ教、キリスト教、イスラム教は一神教だが、仏教はインドのそれ以前の多神教社会を受け継いで、多神教であるとされる。実際、仏教では、さまざまな多神教を吸収した結果、オールマイティというよりは、覚者 (仏陀) を頂点に、役割と職能が特化したさまざまな仏や聖人が列挙される。阿弥陀、廬舎那、薬師などの如来や、一段下位の文殊、地蔵、観音、弥勒などの菩薩がそれらに相当する。なお、覚者はあくまで人間であって、神ではない。このような意味で仏教には、多神どころか、逆に神が存在しないともいえるわけである。

 そのような仏教の中で、浄土真宗は、非常に一神教的な側面を持っているように思える。というのは、浄土真宗では「弥陀の誓願 (本願とも呼ぶ)」、すなわち阿弥陀如来が一切衆生を救済しようとする誓いが非常に重視される。つまり、浄土真宗では、信者はただひたすら「南無阿弥陀仏」と唱えるのだが、阿弥陀如来のみに救いを求めているわけである。阿弥陀如来を神とした一神教そのものなのだ。さらに、浄土真宗は、一向一揆に見られるように宗教戦争の歴史がある。一般に宗教戦争は一神教の専売特許で、中東やヨーロッパでは、キリスト教対イスラム教、キリスト教の宗派間、イスラム教の宗派間などさまざまな宗教戦争があったが、多神教世界では珍しい。

 この一神教的側面は、景教の影響を受けたからではないかということを、以前、キリスト教学の先生から教えていただいたことがある。景教は、キリスト教世界で異端とされたネストリウス派の中国での名称で、唐の時代に宣教師たちによって布教された。唐には、当時、日本の浄土宗や浄土真宗に非常に大きな影響を与えた浄土教の開祖の善導がいたが、この善導が景教の宣教師たちと交流があったらしいのである。なお、善導の名前は、浄土真宗の最もポピュラーなお経である「正信偈」にも登場し、それでは、「善導独明仏正意 (ただ独り善導だけが仏の教えの真意を明らかにした)」と述べられている。

 ところが、親鸞の弟子が記した「歎異抄」には、「たとひ、法然聖人にすかされまゐらせて(騙されて)、念仏して地獄に落ちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ・・(中略)・・とても地獄は一定すみかぞかし」という文章がある。一神教では、このような根幹を揺さぶるような問いかけがあるだろうか。もちろん、キリスト教においても、「理性によって神の実在を決定できないとしても、神が実在することに賭けても失うものは何もないし、むしろ生きることの意味が増す」のだから神を信仰するほうがよいとする、パスカルの賭けという発想がある。しかし、歎異抄におけるこのような仮定 (実際、歎異抄のこのくだりでは、これ以外にも仮定がいくつか登場する) や、「地獄しかない」という文言は、絶対的に神を信仰する中東やヨーロッパの一神教にはありえないのではないだろうか。「地獄に落ちてもかまわない」という親鸞の強烈な決意は、むしろ一神教に近いという解釈もあるのかもしれないが、私には、一神教との大きな違いを表しているように思える。

 

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一神教と多神教―(1) 牧畜民の一神教

2023年11月25日土曜日

一神教と多神教―(1) 牧畜民の一神教

  比較宗教学にまで乗り込む気概は私にはないが、宗教心や信仰の文化差に関わると、どうしても気になるのが一神教と多神教の違いである。宗教起源的には、ヒトが宗教的な萌芽を示し始めて以降の、つまりアニミズム信仰、シャーマニズム、祖先崇拝、死後世界信仰、地母神や産土神などの地域神信仰の時代は、概ね多神教の世界が築かれていた。

 それらを背景に、枢軸時代と呼ばれる紀元前10世紀から5世紀くらいの間に、その後に影響を及ぼす世界的宗教が次々に誕生した。仏教は古代インドの多神教社会を受け継いだが、ユダヤ教やキリスト教は、周囲の多神教社会を次々に一神教に変容させていった。誕生は遅いが、イスラム教も一神教である。なお、世界的な影響力は小さいが、エジプトのアテン信仰も一神教である。

 一神教の登場が新しいからといって、一神教が多神教よりも発展的あるいは進歩的な宗教というわけではない。一神教が生まれるためには、経済的、生態的な条件が必要である。枢軸時代の重要な変化は生産性の向上による人口増加で、それによる集団間の紛争の激化が、宗教の形態に大きな変化を与えた。つまり、宗教にもさまざまな側面があるが、そのうちの集団の結束と協力を強める機能が重要になってきたわけである。それは、一神教的側面をもつ「我らの神」あるいは「高みからの神」の誕生である。この神は、集団の結束を高める上で大きな力を発揮し、さらに高みから、集団のそれぞれの成員が非道徳的な行為をしないかどうか監視する。つまり、集団に不利な利敵などの行為や、集団内での結束を乱す騙しや盗み、暴力・殺人に対して、罰が下されるというわけである。このような神は、集団が小さい状態でももちろん存在する。それらの集団がそのまま雑居的に維持されれば、多神教のままかもしれない。しかし、国のように大きくなった集団をまとめ上げるには、一神教はずいぶんと役立つことになる。

 このような一神教の神は、牧畜民から生まれやすいようだ。アテン信仰にしろ、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教にしろ、すべて牧畜民から生まれており、実際、旧約聖書には羊飼いや牛飼いが頻繁に登場する。牧畜民は、牧草地をめぐって常に近隣集団を緊張状態になりやすく、大きな集団をまとめ上げることができれば生き残りに有利である。この傾向は定住型農耕民よりも強い。余談になるが、集団主義文化と対比される個人主義文化も牧畜民から生まれやすい。牧畜民は、気候変動や隣接集団が敵になるのか味方になるのかなどによって、個人で迅速に意思決定を行わなければならない機会が多いためという説明がなされる。しかし、「我らの神」あるいは「高みからの神」との契約という発想が個人主義を促進している可能性も低くはないだろう。

2023年10月23日月曜日

パリでのカンファレンス(3)ーDaniel Lassiterのキーノートから

  20239月のHuman and Artificial Rationalitiesのカンファレンスでは、3件のキーノートがあった。そのうち、印象に残ったのは、言語学者のDaniel LassiterThe crucial role of linguistics in reasoning studiesというタイトルでのトークである。私が言語学者の研究発表に触れるのは、これまでは主として日本認知科学会である。しかし、ここ15年ほどはこの学会に足が遠のいているので、このような話を聞くことができたのは久しぶりで、消化不良でもあるが、面白かった。

 条件文推論において、人間が非規範的な誤りを犯すことはよく知られている。しかし一方で、規範通りの推論のはずが、日常言語として受け入れることができなくなるというのが、Lassiterの問題提起である。たとえば、「If A, then B」かつ「A」から「B」を導くのは、Modus Ponensと呼ばれ、論理学では鉄板の論理式である。このABには何を代入しても、成り立つはずである。「もし雨ならば、マイクは傘をさす」かつ「雨」からは、「マイクは傘をさす」を導くことができるのは、誰が見ても明白だろう。ところが、「もし雨ならば、マイクは常に傘をさす」かつ「雨」ならどうだろうか。Modus Ponensにしたがえば、結論は「マイクは常に傘をさす」となる。しかし、この結論には違和感を抱かないだろうか。その理由は、「常に」の意味が異なってしまっているからである。If節の中で使用されると、雨が降るというあらゆる機会において「常に」という意味になっているが、結論では、マイクが常に傘をさすという習慣が真であるという意味に変容しているからである。If節がなければ、「常に」は習慣を表現するのがデフォルトなのである。

 この問題は、形式のみからの議論では解決は期待できない。コンテクストと意味論からのアプローチが必要になってくる。一般に、「常に」のような量化副詞は、If節の中で使用されると、If節は、これによって「常に」の量化領域が制限されるというように解釈される。この例の場合には、「雨降りというあらゆる機会において」というように量化されているわけである。そこで、習慣的日常言語において、このような量化の変容が生ずるということを受け入れた上で、論理式の再定式化が必要になってくる。Modus Ponensの鉄板化のためには、If節の中の「常に」の意味が、「雨の間はずっと」という意味に変換できるような注釈をつけるというアイデアなどが考えられるかもしれない。しかしこれでは依然として日常言語においてなぜこのようなことが生じてしまうのかという問題への回答にはならない。

 こうしてみると、推論の心理学は、まだまだ言語学や論理学から学ぶべきことが多いように思える。心理学では、これまではなぜ人間の推論は、論理学などの規範から逸脱しやすいのかということが主として論じられてきた。しかし、論理学自体あるいは、それと日常使用言語との相互作用に注目することによって、より新たな発展が期待されるかもしれない。

 

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パリでのカンファレンス(2)2nd International Conference on Human and Artificial Rationalities

2023年10月14日土曜日

ハマスの暴虐に抗議する

 日本においては、リベラルはパレスチナ支持で、イスラエルを応援すると極右のレッテルを貼られることがある。そうすると大学などに勤務している人間はイスラエルを支持しにくいのかもしれないが、この2023年の10月に起きたハマスの、イスラエルに侵入しての暴虐行為は断じて許されるものではない。それにもかかわらず、ハーバード大学の一部学生団体がイスラエルの反撃を非難する声明を出したりしているが、こうなるとリベラルも自分の思考をリベレートしていないのではないかと思える。この暴虐行為は、ただのテロではなく、ホロコーストあるはジェノサイドである。なぜ原理主義者たちはこうなりやすいのか、なぜガザにおいて原理主義者が育ちやすいのかという問題は置いておいて、ここではイスラエルの大学の学長連合が表明した共同宣言を紹介したい。以下は、その全文の拙訳である。

 

わが朋友、全世界の大学学長へ

 困難な時を迎えた。私たちは、あなたたちの多くからいただいた支持や懸念について感謝している。

 周知のとおり、先週土曜日の早朝、ハマスはイスラエル国内で主に民間人に対して異常に残忍かつ暴力的な攻撃を行った。一部の学術機関の指導者らが公的な非難を発表している一方、他の機関では、これが、イスラエル人とパレスチナ人の間の多視点から理解可能な現在進行中の紛争における「また一つ加わった事件」にすぎないとみなされていることが分かっている。

 これは真実とは程遠いということを強調したい。これは特異的に野蛮な暴力行為であり、徹底的に絶たねばならない。なぜそうなのかを示すためには、バイデン大統領の演説で言及され、現在国際報道で明らかになっている、いくつかの真実の懸念詳細を共有する必要がある。私たちは、これらのことが私たちを揺るがしたのと同じくらい、あなたたちを不安に陥れるということを知っている。

 安息日と仮庵祭の休日、そして運命のヨム・キプール戦争 (第四次中東戦争) からほぼ50年が経った日に、ハマスはガザからイスラエルにロケット弾による奇襲攻撃を行い、その攻撃は北のテルアビブとエルサレム地域にまで及んだ。彼らは国境を突破し、国境を越えたイスラエル国内のコミュニティに住む女性、高齢者、子ども、若い家族などを残忍に虐殺した。 何百人もの、音楽祭に参加する子どもたち、平和活動家、80代のお年寄り、幼児をである。 多くはその場で虐殺され、あるいは発見されて殺されるまで何時間も家の中で身をかがめていたり、死の脅威に絶えずさらされて自宅やコミュニティで人質に取られたり、捕虜になってガザに連れてこられた人もいた。ガザのハマスが投稿した恐ろしいビデオには、負傷した人質が大歓声の街頭を練り歩かされる様子や、子どもたちへの残虐行為、高齢者への嘲笑、強姦や拷問などが映されている。

 これはすべて、ユダヤ人の町とベドウィンやアラブ人の村の両方を襲った無差別ロケット弾発射により、数百人のイスラエル人が負傷または死亡したことによるものである。つい2日前、アブ・ゴーシュ村のモスクがロケット弾の攻撃を受けた。

 はっきりさせておこう。これは「いつもの戦争」でも、イスラエル・パレスチナ紛争の単なる新たな一章でもない。「双方の側に良い人間」はいない。

 ハマスとイスラム聖戦は、タリバンやイスラム国を彷彿とさせる残忍で野蛮な組織であることが証明されている。私たちは、イスラエル以外の国々の一部のキャンパスで、ハマスやイスラム聖戦の行動を支援するために教員や学生が主導的に行っていることを聞いている、そのような支援の兆候に対して学術指導者から常に明確な反応があったわけではないことを理解している。アルカイダやイスラム国への支援がないのと同様、西側の民主主義社会ではそのようなテロ組織への支援はありえないということに、あなたたちも同意していただければ幸いである。民間人の意図的な虐殺や民間人を人質にとる行為を支持することはできない。

 高等教育と学術界の守護者として、人類の利益のため積極的に知識を追求し、明日のリーダーシップのロールモデルおよび教師として、私たちはすべて、コミュニティを教育する責任を共有してる。

 私たちはどのような価値観を伝えているのだろうか。それは、無条件に言論の自由と学問の自由である。しかし、民間人に対して行われる野蛮な暴力に対する抵抗というスタンスは加わるだろうか。私たちは、あなたたちもそのような暴力行為の放棄に協力してくださっていることを知っている。

2023年10月7日土曜日

パリでのカンファレンス(2)ー2nd International Conference on Human and Artificial Rationalities

  国際共同研究加速基金(B)によって、昨年もパリでHuman and Artificial Rationalitiesのカンファレンスに参加したが、このカンファレンスは、2回目と銘打って今年も行われた (2nd International Conference on Human and Artificial Rationalities)。なお、2024年には3回目も開催で、917-20日の日程で行われる予定である。本科研の海外拠点はツール大学で、そちらでは共同研究も進行中だが、今回の渡仏では、このカンファレンスのほうがプロジェクトに組み入られる形となって、主目的となった。2回目は4日間という日程で、参加者も随分と増えた。

 このカンファレンスは、テーマ題目にもあるように、合理性を人間側だけではなく人工側 (主としてコンピュータやロボット) からのアプローチにも注目している。とくに、ここ近年の深層学習を取り入れたチャットGPTに見られるAI側の発展には目を見張るものがあり、1980年代の認知心理学とAIの蜜月、すなわちAI側は認知心理学の知見を利用してより人間の柔軟さを取り入れたプログラムの開発を試み、認知心理学側はAIプログラムの成功・失敗から人間の認知において用いられる原理を模索するという両者の関係を再び夢見ているのかなと思ったが、このカンファレンスでは、AI側のそのような発表は少なかった。その代わり、現代における切実な問題として、AIとどのように付き合うのか、言い換えれば、どのようにAIやロボットを使用するのかあるいはそのお世話になるのかという発表や、使いやすいAIやロボットはどのようなものかという発表が多かった。

 私の発表は、Are humans moral creatures? A dual-process approach for natural experiments of history.というタイトルである。これは、これまで書籍『生きにくさはどこから来るのか』やAdapting Human Thinking and Moral Reasoning in Contemporary Societyにおいて書いてきたことを、二重過程理論における内省的システムが直感的システムをどのように制御するのかという問題を軸とし、歴史における自然実験を材料にして、「人間は道徳的な生き物なのか」という問いかけを行うものであった。「歴史における自然実験」では、一般に独立変数が設定されている場合が多い。たとえば、ある国において、特定の制度を取り入れた地域と取り入れなかった地域で、その後の発展 (これが従属変数になる) がどのように異なったのかを検討するような研究が代表的だろう。しかし私が用いたのは、大きな社会的変化 (従属変数) があった場合、どのような要因が独立変数となっているのかを、内省的システムの制御という視点から検討するという手法である。つまり、モラルが向上されたとする18世紀ヨーロッパの啓蒙の時代と人権の大きな高揚が見られる第二次世界大戦後を材料として、それを内省的システムの制御として内省的システムを機能させた独立変数を探り、小説の普及とそれを理解するマインドリーディングを内省的システムが制御させた結果であるとする結論が導かれた。“Are humans moral creatures? という問いかけに対する回答は、yesである。

 

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