牧畜民が起源であるユダヤ教、キリスト教、イスラム教は一神教だが、仏教はインドのそれ以前の多神教社会を受け継いで、多神教であるとされる。実際、仏教では、さまざまな多神教を吸収した結果、オールマイティというよりは、覚者 (仏陀) を頂点に、役割と職能が特化したさまざまな仏や聖人が列挙される。阿弥陀、廬舎那、薬師などの如来や、一段下位の文殊、地蔵、観音、弥勒などの菩薩がそれらに相当する。なお、覚者はあくまで人間であって、神ではない。このような意味で仏教には、多神どころか、逆に神が存在しないともいえるわけである。
そのような仏教の中で、浄土真宗は、非常に一神教的な側面を持っているように思える。というのは、浄土真宗では「弥陀の誓願 (本願とも呼ぶ)」、すなわち阿弥陀如来が一切衆生を救済しようとする誓いが非常に重視される。つまり、浄土真宗では、信者はただひたすら「南無阿弥陀仏」と唱えるのだが、阿弥陀如来のみに救いを求めているわけである。阿弥陀如来を神とした一神教そのものなのだ。さらに、浄土真宗は、一向一揆に見られるように宗教戦争の歴史がある。一般に宗教戦争は一神教の専売特許で、中東やヨーロッパでは、キリスト教対イスラム教、キリスト教の宗派間、イスラム教の宗派間などさまざまな宗教戦争があったが、多神教世界では珍しい。
この一神教的側面は、景教の影響を受けたからではないかということを、以前、キリスト教学の先生から教えていただいたことがある。景教は、キリスト教世界で異端とされたネストリウス派の中国での名称で、唐の時代に宣教師たちによって布教された。唐には、当時、日本の浄土宗や浄土真宗に非常に大きな影響を与えた浄土教の開祖の善導がいたが、この善導が景教の宣教師たちと交流があったらしいのである。なお、善導の名前は、浄土真宗の最もポピュラーなお経である「正信偈」にも登場し、それでは、「善導独明仏正意 (ただ独り善導だけが仏の教えの真意を明らかにした)」と述べられている。
ところが、親鸞の弟子が記した「歎異抄」には、「たとひ、法然聖人にすかされまゐらせて(騙されて)、念仏して地獄に落ちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ・・(中略)・・とても地獄は一定すみかぞかし」という文章がある。一神教では、このような根幹を揺さぶるような問いかけがあるだろうか。もちろん、キリスト教においても、「理性によって神の実在を決定できないとしても、神が実在することに賭けても失うものは何もないし、むしろ生きることの意味が増す」のだから神を信仰するほうがよいとする、パスカルの賭けという発想がある。しかし、歎異抄におけるこのような仮定
(実際、歎異抄のこのくだりでは、これ以外にも仮定がいくつか登場する) や、「地獄しかない」という文言は、絶対的に神を信仰する中東やヨーロッパの一神教にはありえないのではないだろうか。「地獄に落ちてもかまわない」という親鸞の強烈な決意は、むしろ一神教に近いという解釈もあるのかもしれないが、私には、一神教との大きな違いを表しているように思える。
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