2021年1月24日日曜日

そろそろ「老害」という表現を止めませんか? (2)―長老支配についての忘備録

  長老支配とは、高齢の政治家によって支配される政治体制を指すが、政治だけではなく、学界やマスメディア、伝統芸能、芸能人、スポーツなどにおける年長者が支配している体制をも含めている。これは古い習慣が単に残っているだけなのだろうか。ちょっと気になって調べてみるといろいろと興味深い要因が浮かび上がる。

 私自身は、長老が尊敬されるとすれば、それは知識の蓄積と伝承がより重要になった時代になってであって、知識より体力が優先される時代や常に飢餓の心配があって「働かざる者食うべからず」のような時代には、身体が弱くなって生産性が低い老人は尊敬されていなかったと思っていた。日本の各地に残されている姥捨ての伝承がそれを物語っている。

 ところが、狩猟採集民の民族誌的な研究から、年長者がかなり崇敬されているということが推定されているようだ。狩猟採集民といえども体力勝負だけではなく、伝統的な知恵・知識が貴重なのである。動植物についての知識と狩りの方法、さらにたとえば旱魃に陥ったときにどこに移動すればよいかなど、年長者の知識蓄積と世代伝達能力は私たちが想像するよりも、はるかに貴重なようである。

 さらに、このような環境では、医療が未発達で多くの人々が若くして命を失う。そうした状況で、年長者は長寿であるという理由だけで尊敬される。病気にならず、生き延びるための知恵を持っているかもしれず、また、長寿のためのまじないなどに精通している可能性が高い。さらに、概してこのような伝統的社会では、呪術や儀式などが重要分野となるが、それらの知識の伝承に長寿者は不可欠なのである。

 長老支配の形成にこのような要因があるならば、年長者への崇敬は、狩猟技術の革新や宗教の萌芽が見られたおよそ5万年前の文化のビッグ・バンのころから本格的になったのかと思う。しかし、もう一つの可能性として、生殖年齢を過ぎた後の長寿と関係しているとする見解もある。この長寿は、文化伝達が非常に重要なヒトにのみ見られる現象(狩りのスキルをかなり学習に依存しているシャチにも見られるそうだが)で、最も近縁のチンパンジーでさえ観察されない。ヒトにおいては、生殖を終えた祖父母の文化伝達における役割が大きく、年長者が崇敬されるようになったというわけだ。

 ただし、役立つ知識が年長者ほど蓄積されるというのは、社会や環境が比較的安定した状態に限られるようだ。変化が大きいと昔の知識が役に立たなくなる。現代は、科学の発展が異常に速く、知識を次々に更新していないといけないが、このような状況は人類史においてかなり稀なことである。このような状況では、新しい知識を取り入り入れることが苦手な高齢者は、残念ながら崇敬されない。だからこそ「老害」という呼称は止めるべきなのだ。弱者への差別的侮蔑語以外何物でもない。

 

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2021年1月17日日曜日

そろそろ「老害」という表現を止めませんか? (1)―年齢差別という認識を

  差別は、倫理学においてその規範的問題が、心理学においてそれを行う心理的メカニズムが研究されている。この正確な定義は難しいが、特定の集団のメンバーをステレオタイプ的にとらえ、それに否定的なレッテルを貼り付けて、不公平に扱うと同時に侮蔑的な態度を示すことであるという点には、多くの人が同意するだろう。

 この定義を受けて、ステレオタイプ的で侮蔑的な呼称は「差別用語」と呼ばれ、一般的に使用を禁止されていたり、控えることが望ましいとされていたりしている。それならば、「老害」は、明らかに差別用語に相当するはずである。ところが、「老害」は最近頻繁に使用されていて、他の差別用語の使用差し控えが、「言葉狩り」ではないかと思える程度まで厳しくなっているのと対照的である。

 これはなぜなのだろうか。大きな理由として、老人、特に政治家の老人は支配階級であり、彼らを批判するのに、少々侮蔑的な表現を用いても許されるという暗黙の規範があるのかもしれない。私も、少なくともメディアの報道からは、森氏、二階氏、麻生氏などの権力行使のしかたは目に余るものがあるという印象を受ける。なぜ彼らのこのような長老支配が可能なのかは別の機会に考えてみたいが、この長老支配という権力を批判するならば、「老害」は許されるというわけだ。

 しかし、この使用は許されるべきではない。個人的にも極めて不快である。残念ながら、加齢によって、記憶力の低下は免れないし、前頭葉の萎縮は感情の制御機能を衰えさせる。だからといって「老害」という言葉を浴びせても良いことにはならない。自分が言われなくても、不快だけではなく、何やら悲しさを喚起させる表現である。

 朝の情報番組である『とくダネ!』の司会者の小倉智昭氏が、ネットなどで「老害じゃないか」という書き込みを見つけるとへこむということを述べているようだ。小倉氏のコメント等に賛成できないのなら、それを批判すればよいだけで、やはり「老害」は人権意識の欠如だと思う。定年が高齢者差別の可能性があると指摘されるようになっているが、「老害」は明らかに差別語であるという認識が必要だろう。

2021年1月11日月曜日

出席予定者に新型コロナウイルス感染が疑われた人がいたから成人式を中止?―どうみても論理が破綻している

  新型コロナウイルス感染の拡大が止まらない。口からの唾液あるいは飛沫にウイルスが多く含まれているので、マスクをとっての口呼吸が必然的に生じてくる会食が最も感染にハイリスクな行動のようだ。年末年始の爆発的な拡大は、飲食店に限らないホームパーティなども含めた会食の影響だろう。それならば、いくら式後の会食を自粛せよと注意を喚起しながら行うとしても、成人式は暴挙といえるのではないだろうか。そもそも大人数が集まるような状態では、いくらマスクをしていても、会話をすれば当然マスクの隙間からはマイクロ飛沫が拡散されるだろうし、式後の会食は、誰がどうやって止めるのだろう。大人数が集まれば、その中から規則を守らない人が何パーセントかは出るということは、常に想定しないといけないことだ。

 那覇市内の一部の中学校区では出席予定者に新型コロナウイルス感染が疑われたため、式典開始2時間前に急きょ中止が決まったという報道がある。英断だとは思うが、2時間前ということで、いろいろと混乱があったようだ。しかし、中止の理由が、もし式典に感染者がいればそこでの感染の確率が高いからということだとすれば、どうみても論理の破綻である。つまり、成人式のような式典では感染が生じやすいということを認識しながら計画するということ自体が問題であろう。那覇市のこの校区では、もし新型コロナウイルス感染疑いがある人が発見されなければ、実施したということなのだろうか。式典で感染者がいれば感染が広まる確率が高いというこの認識は正しいと思う。しかし、それならば、ウイルス感染疑いがある人が発見されなかったとしても、無症状のままの感染者が参加する確率は決して低くないという判断ができなかったのだろうか。実際、これだけ感染者が増えて検査での陽性率が高まっている現在、式典に無症状感染者が紛れ込む可能性は決して低くないはずである。

 感染しないようにだけではなく、感染させないようにという自分が無症状感染者であることも想定した行動が求められている中、この那覇市だけではなく多くの自治体において成人式が執り行われたことは、どうみても論理が破綻している。滔々と祝辞を述べている市長などを見ると、この大変な時期にそんな暇があるのかと思ってしまう。私自身は出席していないので理解できないのかもしれないが、成人式ってそんなに重要なのだろうか。私は、つくづく大学も含めた日本の学校や社会には、意義がわからない行事が多すぎると思うが、そのような形だけの行事よりも大切なことが他にもっとあるはずだ。

2021年1月8日金曜日

本能寺の変の要因―大河ドラマ『麒麟がくる』ではどう描かれるだろうか?

 初の年越しの大河ドラマとなったが、『麒麟がくる』も大詰めを迎えてきた。ここにきて、この作品において本能寺の変の要因がどのように描かれるのかが視聴者の興味を掻き立てているようだ。歴史の専門家の間では、怨恨説、義憤説、黒幕説など、さまざまな議論がなされているようで興味深くはあるが、私は歴史の専門家ではないので、歴史的にどの説が妥当なのかは判断できない。

 しかし、『麒麟がくる』ではどの説が採用されるのか、一視聴者として推理ドラマを楽しむようにいろいろと思案できる。配役という点で気になる存在が、金子ノブアキが演ずる佐久間信盛である。ドラマでは、信長の家臣団の中で重要なはずの滝川一益と丹羽長秀が登場していない中で、信盛がかなり大きな役になっている。この理由として、本願寺攻めなど光秀と接することが多かったためだろうということは推測できる。しかしそれ以上に、佐久間信盛が、本願寺との戦いが終結した1580年に、信長から19ヶ条にわたる折檻状を突きつけられて追放されていることが大きいのではないだろうか。追放の後にこの佐久間軍団を任されたのが光秀だが、明智家中には「明日は我が身」と思った者もいたようだ。古典に詳しい光秀なら、史記の「狡兎死して走狗烹らる」を知っていただろう。なお、信盛は本能寺の変の5ヶ月前の1582年に高野山または熊野で死去しているが、これも光秀にはショックだったのではないだろうか。本能寺の変は宿敵の武田氏滅亡の2か月後だが、本願寺の後は佐久間(信盛以外に、宿老の林通勝や美濃衆の安藤守就も追放されている)、武田の後は次は誰だろうかと猜疑心が増していったのは十分に想像できる。

 もう一つの要因は徳川家康である。1月3日の放映で、「信頼できるのは明智のみ」というセリフで、ネットでは家康黒幕説が騒がれた。しかし、家康を黒幕とすると、なぜ変の後に三河にすぐに逃げ戻らなければならなかったのかなど、いろいろと無理が生じてくる。注目したいのは、家康の息子である信康である。信康は、実母の築山殿とともに武田との内通を疑われ、本能寺の変の3年前の1579年に信長の強い意向で、家康の命で自害させられている。ドラマで築山殿は、そりゃ織田に嫌われるだろうろうと思われるセリフを嫌味ったらしく述べていたが、信康を自害に追い込まざるをえなかった家康の悲しみは大きかったはずである。息子がいた光秀も、これは他人事ではないと考えざるをえなかったのではないだろうか。

 このように、功臣が徐々に生贄にされていくのを横目で見ているうちに、信長および嫡子の信忠が無防備に近い状態で京都に滞在という絶好の機会が訪れ、突発的に変を起こしたというのが『麒麟がくる』で採用される要因ではないだろうか。ただ、ふと考えてみれば、信長は、家臣や服属大名に何度も裏切られている。光秀以外に、実弟の信行、浅井長政、荒木村重、松永久秀の名前が挙がる。彼らがなぜ裏切ったのかについてはさほど議論とされず、なぜ本能寺の変だけがミステリーとされているのかもちょっと不思議な気がする。変のあざやかな成功と、その後の山崎合戦にいたる光秀らしからぬ緻密さの欠如が、人々の想像を掻き立てるのだろう。

2020年12月30日水曜日

茨城県のヤンキーとエセックスガール

  私は、国民性という用語は好きではないが、県民性も同じように好きではない。にもかかわらず、「茨城県はヤンキーが多いというイメージ」という記事が興味深かったので、自分の主義に反してちょっとこの現象を考えてみたい。なお、その記事ではあくまでイメージ調査と記されているので、実際に茨城県にヤンキーが多いのかどうかまでは定かではない。

 茨城県民には申し訳ないが、この記事からすぐに連想されたのは、英国のエセックスガールである。エセックスガールとは、田舎臭い英語とされるコックニーに似たテムズ河口域方言で話し、派手好きでナイトクラブが好きな誰とでも寝るエセックスあたりからロンドンに出てきた女という意味で、私がエセックスにいた時には、他の地方の英国人から、「絶対に使うな」といわれていたステレオタイプ的侮蔑表現である。エセックスは、ロンドンから北東に6~70キロで、まさに東京に対する水戸という地理的位置になり、訛りなどからいろいろと笑い者にされているという点も似ている。

 茨城県とエセックスに共通するのは、どちらも大都市に近い田舎であるという点だろう。茨城県民の県民性、エセックス州民の州民性というよりは、このような状況で生ずる典型的な人間の行動といえそうだ。京都府でも、ちゃんとした統計で確認したわけではないが、校内暴力が絶えなかった時代に非行に染まりやすい中学生は京都市内というよりも市の周辺の地域に多かったということを聞いている。

 大都市周辺で見られるこのような現象の大きな理由は、都会への憧れと劣等感だろう。大都市から大きく離れてしまえば、都会そのものを知らないので、あるいは都会の情報はメディアや伝聞でしか伝わってこないので、憧れがあったとしてもそれは別世界の出来事になる。しかし、もう少し身近になると憧れに手が届く範囲になる。また、都鄙の違いを直接見せつけられるようになる。かといって、スノッブな都市文化の一員になろうとしても、それはかなり困難で相当の努力が必要になる。そうなると自然と染まりやすくなるのは、都会のサブカルチャーやアンダーグランドカルチャー、すなわちナイトクラブやヤンキー文化ということになる。サブカルチャーであっても、地元に戻れば「都会の匂いを身に着けた人間」というわけだ。ロンドンではこんなのが流行しているのよと派手な衣服を身にまとえば、もちろん顔をしかめる人もいるだろうが、エセックスではそれなりの注目を集めたというわけだ。

 エセックスガールに比べれば、まだチバラギのほうが使用許容度は高く、千葉県民や茨城県民も自虐にも使用しているようだ (映画『翔んで埼玉』の自虐ぶりは称賛に値する。納豆を鼻の穴に突っ込まれる刑は受けたくない)。それでも、このヤンキーを茨城の県民性としてラベルを貼り付けたくはない。単に、大都市からちょっと離れた周辺で普遍的に見られる文化的現象である。

2020年12月11日金曜日

皇室って必要なの?(2)―テオコンサバティズム批判

  私は皇室の歴史的な研究については素人だが、日本の皇室はつくづく他国と比べて奇妙だなと思う。皇居の一般参賀などに熱狂的に出かけたり、強固に戦争責任を主張したりする人は別として、私を含めて多くの日本人には、他国の王室に比べて政治に口をはさむわけでもなく、使われる税金は少なく、まあ昔からあるものならとりあえずとくに存続に反対はしない程度の存在だろう。波風立てて積極的に廃止運動を起こそうというわけでもない。

 そういう意味でおそらく政治的にはほぼ無害なのではないかとも思うが、政治利用された過去もあり、また皇室一般参賀やパレードなどでの熱狂、メディアに見られる皇室メンバーへの最上級の敬語、神道的権威を目の当たりにすると、テオコンサバティズム的反動への危惧を感ずることがしばしばある。テオコンサバティズムとは、神権的保守主義を指し、ネオコンサバティズムをもじった造語である。

 テオコンサバティズムに共通するのは、神権などが廃れると、人々はアノミーに陥り、モラル的基盤を失ってしまうという危機意識である。彼らにとって現代は、物質的には豊かになっているのかもしれないが、モラルが廃れて精神が貧困になっている時代と位置づけられ、それを取り戻すためには神権を取り戻すことが重要なのである。欧米のテオコンサバティズムは、18世紀の啓蒙以前の教会の力が大きかった時代を理想の時代と見なす傾向があり、日本のテオコンサバティズムは天皇の権威が大きかった戦前を理想の時代と考えているようだ。前者は異端尋問と魔女狩りの時代であり、後者は日本が軍事的自己肥大を起こした時代で、とても理想とはいえないはずなのだが。

 最近のテオコンサバティズムは、進化理論という「科学的装い」を身にまとっていて厄介である。人間が国家と宗教的一体感を感ずるのは進化の中で形成された生得的な欲求であり、この「自然な」欲求が満たされるためには神権をもった王が必要というわけである。しかし、これは進化理論の誤用である (テオコンサバティズムのことは嫌いでも、進化理論のことは嫌いにならないでくださ~い)。私たちの祖先が一体感を抱いてきた単位は部族または氏族であり、国家という単位ではない。国家は、ホモ・サピエンスの進化史の中で極めて新しい集団で、これを一体化させると覇権に有利になるのは古代文明以降である。王権や神権はこの一体化のために考案された装置の一つで、仮にこれによって得られた満足があったとしても、決して生得的なものではない。神権や王権による国家の形成は、人類の「自然で生得的な欲求」ではなく、無理に無理を重ねた歴史であり、不要ならいつ捨ててもかまわないものである。そして、革命などによって実際に捨て去った国は多い。

 現代の日本の皇室が、テオコンサバティズムによって一気に強権化する可能性は極めて低いとは思う。むしろ、テオコンサバティズムに内在するそのような無理矛盾が積もりつつあり、今回の秋篠宮長女の件で、それが一気に露呈したといえるのではないだろうか。これではとても国家と一体感を感じさせる装置にはならないし、中途半端な装置で一体感を強いられると、皇室つながりで甘い汁を吸っている人たち以外の多くの国民には、迷惑以外の何物でもないものになる。

 

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2020年12月8日火曜日

論文を募集します―Frontiers in Psychologyの特集号 ”The Role of Culture in Human Thinking and Reasoning”

  1か月ほど前に、Frontiers in Psychologyの担当の方から文化と思考についての特集号を出したいので、ゲストエディタになって欲しいという依頼があった。ゲストエディタは3名以上の多国籍チームが望ましいということで、英国Wolverhampton大学のNiall Galbraithさんとパリ第8大学のJean Baratginさんに加わっていただけることになった。特集号のトピックは、タイトルにもあげたように”The Role of Culture in Human Thinking and Reasoning”である。

https://www.frontiersin.org/research-topics/18106/the-role-of-culture-in-human-thinking-and-reasoning

 説明文にあるように、”role of culture”は、必ずしも文化が思考や推理に影響を与えていることを示す研究だけではなく、より挑戦的な、思考が文化を創造・創発するような研究も歓迎したい。また、実証研究だけではなく、理論的研究・思弁的研究も歓迎で、心理学だけではなく、文化人類学などからの投稿も歓迎したい。

 

Call for papers

Dr. Niall Galbraith, Dr. Jean Baratgin, and I, who are guest editors of Frontiers in Psychology, are calling for papers. The title of research topic is “The Role of Culture in Human Thinking and Reasoning.” We encourage those who are engaging in this topic to submit an abstract and a manuscript. Please visit the following website which shows the details of this topic.

https://www.frontiersin.org/research-topics/18106/the-role-of-culture-in-human-thinking-and-reasoning