差別は、倫理学においてその規範的問題が、心理学においてそれを行う心理的メカニズムが研究されている。この正確な定義は難しいが、特定の集団のメンバーをステレオタイプ的にとらえ、それに否定的なレッテルを貼り付けて、不公平に扱うと同時に侮蔑的な態度を示すことであるという点には、多くの人が同意するだろう。
この定義を受けて、ステレオタイプ的で侮蔑的な呼称は「差別用語」と呼ばれ、一般的に使用を禁止されていたり、控えることが望ましいとされていたりしている。それならば、「老害」は、明らかに差別用語に相当するはずである。ところが、「老害」は最近頻繁に使用されていて、他の差別用語の使用差し控えが、「言葉狩り」ではないかと思える程度まで厳しくなっているのと対照的である。
これはなぜなのだろうか。大きな理由として、老人、特に政治家の老人は支配階級であり、彼らを批判するのに、少々侮蔑的な表現を用いても許されるという暗黙の規範があるのかもしれない。私も、少なくともメディアの報道からは、森氏、二階氏、麻生氏などの権力行使のしかたは目に余るものがあるという印象を受ける。なぜ彼らのこのような長老支配が可能なのかは別の機会に考えてみたいが、この長老支配という権力を批判するならば、「老害」は許されるというわけだ。
しかし、この使用は許されるべきではない。個人的にも極めて不快である。残念ながら、加齢によって、記憶力の低下は免れないし、前頭葉の萎縮は感情の制御機能を衰えさせる。だからといって「老害」という言葉を浴びせても良いことにはならない。自分が言われなくても、不快だけではなく、何やら悲しさを喚起させる表現である。
朝の情報番組である『とくダネ!』の司会者の小倉智昭氏が、ネットなどで「老害じゃないか」という書き込みを見つけるとへこむということを述べているようだ。小倉氏のコメント等に賛成できないのなら、それを批判すればよいだけで、やはり「老害」は人権意識の欠如だと思う。定年が高齢者差別の可能性があると指摘されるようになっているが、「老害」は明らかに差別語であるという認識が必要だろう。
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