2020年12月11日金曜日

皇室って必要なの?(2)―テオコンサバティズム批判

  私は皇室の歴史的な研究については素人だが、日本の皇室はつくづく他国と比べて奇妙だなと思う。皇居の一般参賀などに熱狂的に出かけたり、強固に戦争責任を主張したりする人は別として、私を含めて多くの日本人には、他国の王室に比べて政治に口をはさむわけでもなく、使われる税金は少なく、まあ昔からあるものならとりあえずとくに存続に反対はしない程度の存在だろう。波風立てて積極的に廃止運動を起こそうというわけでもない。

 そういう意味でおそらく政治的にはほぼ無害なのではないかとも思うが、政治利用された過去もあり、また皇室一般参賀やパレードなどでの熱狂、メディアに見られる皇室メンバーへの最上級の敬語、神道的権威を目の当たりにすると、テオコンサバティズム的反動への危惧を感ずることがしばしばある。テオコンサバティズムとは、神権的保守主義を指し、ネオコンサバティズムをもじった造語である。

 テオコンサバティズムに共通するのは、神権などが廃れると、人々はアノミーに陥り、モラル的基盤を失ってしまうという危機意識である。彼らにとって現代は、物質的には豊かになっているのかもしれないが、モラルが廃れて精神が貧困になっている時代と位置づけられ、それを取り戻すためには神権を取り戻すことが重要なのである。欧米のテオコンサバティズムは、18世紀の啓蒙以前の教会の力が大きかった時代を理想の時代と見なす傾向があり、日本のテオコンサバティズムは天皇の権威が大きかった戦前を理想の時代と考えているようだ。前者は異端尋問と魔女狩りの時代であり、後者は日本が軍事的自己肥大を起こした時代で、とても理想とはいえないはずなのだが。

 最近のテオコンサバティズムは、進化理論という「科学的装い」を身にまとっていて厄介である。人間が国家と宗教的一体感を感ずるのは進化の中で形成された生得的な欲求であり、この「自然な」欲求が満たされるためには神権をもった王が必要というわけである。しかし、これは進化理論の誤用である (テオコンサバティズムのことは嫌いでも、進化理論のことは嫌いにならないでくださ~い)。私たちの祖先が一体感を抱いてきた単位は部族または氏族であり、国家という単位ではない。国家は、ホモ・サピエンスの進化史の中で極めて新しい集団で、これを一体化させると覇権に有利になるのは古代文明以降である。王権や神権はこの一体化のために考案された装置の一つで、仮にこれによって得られた満足があったとしても、決して生得的なものではない。神権や王権による国家の形成は、人類の「自然で生得的な欲求」ではなく、無理に無理を重ねた歴史であり、不要ならいつ捨ててもかまわないものである。そして、革命などによって実際に捨て去った国は多い。

 現代の日本の皇室が、テオコンサバティズムによって一気に強権化する可能性は極めて低いとは思う。むしろ、テオコンサバティズムに内在するそのような無理矛盾が積もりつつあり、今回の秋篠宮長女の件で、それが一気に露呈したといえるのではないだろうか。これではとても国家と一体感を感じさせる装置にはならないし、中途半端な装置で一体感を強いられると、皇室つながりで甘い汁を吸っている人たち以外の多くの国民には、迷惑以外の何物でもないものになる。

 

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