2024年2月18日日曜日

5th International Symposium on Academic Writing and Critical Thinking参戦記

  216日に、5th International Symposium on Academic Writing and Critical Thinkingが名古屋大学で行われ、参加してきた。これは、名古屋大学のアカデミックライティングセンターが主催しているもので、今回はコロナ後の久々の対面開催だった。アカデミックライティングは、まだまだ多くの大学では、論文を書くときのコツあるいは英語のネイティヴチェック程度にしか認識されていないが、名古屋大学をはじめ、独立したセンターを開設して専任の教員を置くところが増えつつある。センターのスタッフは、クライエント (院生など) の研究企画段階から加わることもあり、そうすると指導教員とのコンフリクトが起きることがあるらしいが、クライエントは、どうすれば「新しい発見」が重要なのかの伝え方を専門を超えて学ぶことができる。そういうわけで、アカデミックライティングは、クリティカルシンキングとは切っても切れない関係を保っているわけである。クリティカルシンキングは、思考心理学の重要テーマの1つである。

 今回のシンポジウムのテーマは、ChatGPTに代表されるAIとアカデミックライティングの関係である。キーノートでは、生成AIのツールとしてのラージ言語モデルのメカニズムとその働きについての解説だったが、AIの中身に詳しくない多くの参加者には、かなり理解するのが難解だったのではないだろうか。一方、個人発表で多かったのは、ChatGPTなどがアカデミックライティングにどのように役立つかというものである。ChatGPTに、アカデミックライティングのサポートして、何ができて何ができないかということが多くの発表において議論された。その対比から、AI側とその活用側とでちょっとギャップがあったようにも感じたが、両方を理解できる専門家は決して多いわけではないので、仕方がないことかもしれない。活用側のいくつかの発表において、AIあるいはChatGPTサポートで論文を書くことの倫理的問題に触れられていたが、この点は、残念ながら議論は弱かったように思う。この問題については、これだけの短い時間で、研究倫理の専門家がいない中で、論じきるには無理があるだろう。

 私は、クリティカルシンキングの立場から、これまでこのシンポジウムに招待していただいたことはあるが、自分の個人発表は今回が初めてだったので、ちょっと気合を入れていた。しかし、AIChatGPTと関係するものではなく、Academic writing as communication in a low-context culture: Are Japanese in a high-context culture not good academic writers?というタイトルでの、高コンテクスト文化・低コンテクスト文化という視点をアカデミックライティングに導入したものである。日本は、暗黙の前提などのコンテクスト依存が高い高コンテクスト文化なのだが、そうすると低コンテクスト文化コミュニケーションスタイルが好まれるアカデミックライティングでは、どのような困難と対処方法があるのかという問題を議論した。実は、高コンテクスト文化の日本人を含めたアジア人も、誰が聞き手かによってコンテクストの高低を調整するというコードスイッチングを行っていることが私たちの研究から示されており、このスイッチングスキルを伸ばしていこうということが結論である。

 私自身は、アカデミックライティングに直接携わっているわけではないが、4年生や院生の論文指導において、アカデミックライティングで学んだことが活かされているのではないかと思う。クリティカルシンキングやコミュニケーションスタイルの研究者としてだけではなく、この実践からのフィードバックでこの領域に貢献できればと願っている。

 

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2024年1月21日日曜日

ポピュリズムについて (2)ー左派ポピュリストの典型例とその危険性

  前回の記事では、今どき珍しい右派ポピュリストを例示してみた。右派ポピュリストは、米国ではトランプの例もあるが、第二次世界大戦後の「人権高揚の時代」の中では基本的には絶滅危惧種なのではないかと思う。日本で力をもつとすれば、今後、海外からの移民をより多く引き受けることによって、自分たちの職がなくなると危機感をもった非熟労働者の支持を得たときだろう。

 ポピュリストを支持するのは、文化普遍的に、中流階級から脱落しつつあったり、あるいはその危機感を感じていたりする人たちである。日本の場合、この不満が政権に向けばポピュリストが勢いを増すが、それは多くの場合は左派的ポピュリストになるのではないかと思う (この右派・左派という区別は、元来が経済政策的なもので、利益を完全に平等に配分するという極と利益はすべて稼いだ個人に与えられるという極のどちらに近いかで右派・左派に分類されるはずなのだが、フクヤマによれば、この区別は一種のアイデンティティになってしまっている。ちょうど、トランプ右派が地球温暖化を信じなかったり、日本の左派が反原発運動と直結していたりするようなものである。ここでは、このアイデンティティとしての右派・左派の意味で使用したい)

 日本における危惧すべき左派ポピュリストは、山本太郎氏が率いるれいわ新選組だろう。これは日本だけではなくいわゆる民主国家に共通する現象だが、左派は、概してリベラルとされて、非中流化による政権不満層だけではなく、中産階級のインテリ層にも人気が高いので、左派ポピュリストはこの勢いで一気に政権を奪うことが可能である。れいわ新選組は、現時点では少数派だが、SNSを駆使し、能登の震災にいち早く現地入りしたり、福島原発について「ベクレている」という扇情的な表現を用いたり、パフォーマンスがやたら目立つ危険な兆候を見せている。

 また、選挙不正等の陰謀論をほのめかしているのも看過できない。陰謀論は近年の民主主義の敵とみなされていて、ドナルド・トランプが有名だが、この党による「監視の目を増やさなければ選挙不正」というほのめかしは、民主的制度に対する挑発だろう。陰謀論と並んでフェイクニュースもポピュリストの常套的な戦法である。ラサール石井氏が能登半島地震についての、二次避難について有償という問題含みのツイートを行ったのは記憶に新しい。本人にはフェイクニュースという意図はなかったかもしれないが、結果的に社会的に有害なフェイクとされた。ところがこれに対して、れいわ新選組のやはた愛氏は、無償であることを伝えてなかった政府が悪いと、逆に政府批判を展開したのである。党員に、全くのデマ・フェイクを拡散した人物を擁護したり、論点をすり替えて政府や首相を非難したりする人物が存在することは、ポピュリスト党としての体質を示している。誤解を助長する発信しておきながら「誤解させた政府が悪い」と開き直るのは異常である。

 前回の記事でも示したが、左派ポピュリストには経済的ポピュリズム的で、実現あるいは持続不可能な経済政策を掲げているものが多い。れいわ新選組も、消費税をゼロにするという公約を掲げているが、私の情報収集不足もあるとは思うが、その不足財源についての明確な声は聞こえてこない。これまでの左派系の主張に習えば、「行政の無駄をなくす」とか「大企業に増税」、「防衛費を削減」等があると思う。それで消費税分の減収をまかなえるだろうか。また、大企業への増税は、大企業の海外資本との競争力を低下させるというリスクがあるが、どの程度低下させるのかというシミュレーションを行っているのだろうか。このような点を考えれば、もし万が一政権与党となったときに、日本に経済的破綻が訪れるの確率は極めて高くなる。さらに想像力を逞しくすれば、その後は、中国による経済的植民地化や右派によるクーデターなどの悪夢のようなシナリオとして思い浮かぶ。

 

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ポピュリズムについて (1)ーフクヤマによる分類と典型的右派ポピュリスト

2024年1月12日金曜日

ポピュリズムについて (1)ーフクヤマによる分類と典型的右派ポピュリスト

  すでに言い古された感があるポピュリズム・ポピュリストという用語だが、おそらく多くの日本人が思い浮かべるポピュリストには、橋下徹やドナルド・トランプがいるのではないだろうか。しかし、これまで多くの政治学者たちが議論しているにもかかわらず、定義は必ずしも明確ではないようだ。国民の熱狂的な支持を受けた怪しげな政治家が新たに登場したりすると、再定義が必要になってくるからである。私が好んでいる二重過程理論を適用すれば、ポピュリストは熟慮的システムよりも直感的システムに訴えることが巧みである。直感的システムは、行動を喚起する大きなエネルギーを伴うので、何かを変革する必要があるときには重宝されるが、残念ながら熟慮的システムがもつ合理性が欠けている。その意味で、ポピュリストは「怖い」のである。

 かつては、ポピュリズムは右派の専売特許で、ナショナリズムと結びつきやすかった。ヒトラーやムッソリーニが国の方向を誤らせたのは何度も語られた例だろう。しかし、第二次世界大戦以降は、左派のポピュリストも数多く現れている。このような状況を鑑みれば、フランシス・フクヤマの形態分類は役に立つ。この分類によれば、第1は、カリスマ的リーダーシップで、「わたしはみなさんの代表である」というアピールである。本当に代表しているのかどうかよりも、そう思わせるのが巧みなわけだ。第2は、国民を特定の形質でのみ勝手に定義し、それから外れた人たちを排除するゆがんだナショナリズムを標榜するものである。ゲルマンの純潔を訴えたヒトラーやドナルド・トランプなど、右派系のポピュリストが採用しがちな戦略である。第3は、経済的ポピュリズムで、実現あるいは持続不可能な経済政策を掲げるものである。これは、左派系ポピュリストが多く、ベネズエラのチャベスが代表例である。チャベスの政策の結果、あれだけ石油資源が豊富であるにもかかわらず国民は貧しくなり、チャベス自身も権力を維持するために強権的な独裁を選択している。バラマキ政治もこの一種だと思うが、これについては右派も左派も関係ない。

 民主的国家においては、第二次世界大戦以降、とくに人権意識高揚の過去50年の間に、第2のタイプが現れる可能性は少なくなっているのではないかと思ったが、偏狭なナショナリズムやステレオタイプや差別はやはり人間の心に普遍的に巣食っているのか、日本にもとんでもない国会議員が現れた。杉田水脈氏である。LGBTに対する差別的発言 (本人は「区別」と言っているようだが)、女性差別は存在しないとする見解、アイヌ民族に対する差別的発言など、私などは、戦前の亡霊を見ているように感ずることがある。賛同する人は少ないという点でポピュリストとは呼べないのかもしれないが、決して失脚するわけではなく、何やら自由民主党の重鎮、あるいはネトウヨと呼ばれる人たちからは支援を受けているようなので、上記の第2のタイプのポピュリストなのかなと思う。杉田氏の支持者が今後増えるとは思えないが、民主主義が壊される火種の1つではあろう。

2023年12月29日金曜日

アメリカンエクスプレスどころかアメリカンブリッツクリーク(電撃戦)―ホモ・サピエンスのアメリカ大陸での拡散

  だいぶ前になるが、20171119日の記事で、ホモ・サピエンスの出アフリカからオーストラリアへの拡散が、ユーラシア大陸の内部やヨーロッパへの拡散と比較してはるかに迅速で、シーショアエクスプレスと呼ばれているのに対して、それよりもはるかに速かったアメリカ大陸の北から南への拡散がなぜアメリカンエクスプレスと呼ばれていないのかという小論を書いた。

 シーショアエクスプレスは、比較的安全で食糧も豊富な海岸沿いの拡散で、それでも少なくとも1万年以上を要している。しかし、アメリカ大陸の場合は、コロンビア氷床を超えてわずか約千年で南アフリカの南端にたどり着いている。このアメリカ大陸での拡散には呼び名がないと思っていたのは完全に私の知識不足で、エクスプレスどころか、ブリッツクリーク (電撃戦) と古生物学者のポール・マーティンに命名されているようだ。ブリッツクリークとは、ナチスドイツが第二次世界大戦においてポーランド侵攻やフランス侵攻に用いた機械化された戦闘部隊による作戦で、航空部隊による支援との連繋下で戦車などの機甲部隊を進めるという戦術である。侵攻が電撃のように強烈で迅速ということでこの名がついた。アメリカ大陸における拡散は、エクスプレスよりもその比喩が適切というわけだ。

 概して、南北の移動は異なる気候帯を通り抜ける必要があるので東西の移動よりも年月を要するはずである。それにもかかわらず、コロンビア氷床を抜けた地点 (今のカナダ) から南米の端までの南北の移動にわずか千年というのは、あまりにも速い。このブリッツクリークとまで呼ばれる快進撃を支えたのは、当時の最新のテクノロジーや武器を備えたクローヴィス文化の狩猟民だが、さらに南北アメリカ大陸は、人間を怖がらない大型哺乳類の宝庫だったようだ。人間を見たことがないので、人間に対する恐怖心が小さく、狩猟が極めて容易だったのである。この豊富な動物性たんぱく質が人口増を促し、人口が増えれば新たな土地へ移住する。この移住先でも、ライバルとなる他部族もいないのでさらに豊富な獲物が期待できるとなれば、拡散が促進されるのは当然なのだろう。

 また、考古学的資料として、この拡散の時期に、南北アメリカ大陸で多くの大型哺乳類が絶滅している。これらの絶滅が、ホモ・サピエンスの拡散によるものなのかどうかについては、まだ完全に断定できるわけではないようだが、マンモス、マストドン、巨大ナマケモノ、巨大アルマジロ、巨大ビーバー、ラクダなどが次々に絶滅し、バイソンやシカ、アザラシなどの個体数も激減した。そして、食物連鎖の頂点にいたサーベルタイガーもそれに伴って絶滅している。この多くの大型哺乳類の絶滅を伴った拡散の異常な速さが、ブリッツクリークと呼ばれたゆえんである。

 

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2023年12月21日木曜日

京都サンガ2023年シーズンの総括

  京都サンガがJ1に昇格してから、今年は2年目のシーズンであった。昨シーズンはプレーオフで辛うじて残留できたことと比較すれば、今シーズンは最終節前に残留を決め、結果的には13位だったので力がついてきたといえるだろう。

 正直、J11年目である昨シーズンは、J1というよりは、J1.5あるいはJ2レベルの選手が多かった。チーム全体としてもJ1.5であり、強いチームに真っ向から立ち向かうという爽快さはあったものの、力の差は大きく、また、相手選手に、いわゆるチンチンにされることがたびたび見られた。しかし、今シーズンは、川崎颯太、福田心之助、金子大毅などの個々の選手のレベルアップが見られ、全体的にJ1レベルの選手が揃った。とくに金子大毅は、昨シーズンは、スペースのカバーなど、全体を見渡したプレーはできるのだが、足元の技術はおぼつかないという印象だった。しかし今シーズンは、アンカーを任され、ボランチとしてのかじ取りと相手ボールの奪取がレベルアップし、サイドや縦に長短のキラーパスを繰り出せるようになった。最終節の横浜マリノス戦で見せたFWの豊川雄太への一瞬の縦パスは、豊川の見事なゴールに結びついている。また、福田心之助は、開幕戦で見たときは極めて心もとなかったが、非常に攻撃力がある右SBとして成長している。

 また、今シーズン途中加入の原大智とク・ソンユンの存在は、残留という点で大きかった。京都は、昇格の立役者のピーター・ウタカの後釜としてガンバ大阪からパトリックを迎えたが、彼は決定力があるとはいえ、シーズンを通してのプレーが難しかった。しかし、夏に加入の原大智は、デビュー戦こそ存在感が薄かったものの、京都のサッカーに慣れてくるとパフォーマンスが安定してきた。ゴール前でのポストにもなり、器用な足元でDFを剥がしたり、パスを受けてのダイレクトであったりとシュートがうまい。また、昨年の正GKである上福元が移籍し、昇格時に正GKであった生え抜きの若原智哉が伸び悩み、海外からの鳴り物入りGKが全く試合に出場できない中、J1にしろJ2にしろ、出場経験がほとんどなかった太田岳志が奮闘して、降格を免れる功労者の1人になってくれた。しかし、やはり太田では心もとないと思っていたら、札幌からク・ソンユンがレンタルで来てくれた。彼の加入後は、守備が安定し、また、一発のロングフィードが京都の大きなチャンスにもなるなど、終盤の好調を支えてくれた。2024年シーズンのク・ソンユンの完全移籍という情報もあるが、ぜひ実現して欲しい。

 今年が3年目だった曹貴裁監督のサッカーは、豊富な運動量に支えられた、ハイプレスで攻守の切り替えが非常に速いサッカーである。FWさえも前線からのプレスを求められるという、選手にとってはハードな戦術だが、現代サッカーの特徴である、全員攻撃全員守備と縦への速さを追求したサッカーになっている。ここであげた選手はこのサッカーに非常にうまくマッチしていると思う。昨年までは、京都の怖さはボール奪取からのカウンターのみだったが、今シーズン途中から、守備を固めた相手に対してサイドからの崩しが加わった。また、セットプレーからの攻撃も冴えるようになってきた。京都は、現時点でサッカーファンなら誰もが知っているというスター選手がいないが、地味ながら確実に進歩が見られる面白いチームになっている。今から2024年シーズンが楽しみである。

 

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2023年12月1日金曜日

一神教と多神教―(2) 浄土真宗は一神教?

  牧畜民が起源であるユダヤ教、キリスト教、イスラム教は一神教だが、仏教はインドのそれ以前の多神教社会を受け継いで、多神教であるとされる。実際、仏教では、さまざまな多神教を吸収した結果、オールマイティというよりは、覚者 (仏陀) を頂点に、役割と職能が特化したさまざまな仏や聖人が列挙される。阿弥陀、廬舎那、薬師などの如来や、一段下位の文殊、地蔵、観音、弥勒などの菩薩がそれらに相当する。なお、覚者はあくまで人間であって、神ではない。このような意味で仏教には、多神どころか、逆に神が存在しないともいえるわけである。

 そのような仏教の中で、浄土真宗は、非常に一神教的な側面を持っているように思える。というのは、浄土真宗では「弥陀の誓願 (本願とも呼ぶ)」、すなわち阿弥陀如来が一切衆生を救済しようとする誓いが非常に重視される。つまり、浄土真宗では、信者はただひたすら「南無阿弥陀仏」と唱えるのだが、阿弥陀如来のみに救いを求めているわけである。阿弥陀如来を神とした一神教そのものなのだ。さらに、浄土真宗は、一向一揆に見られるように宗教戦争の歴史がある。一般に宗教戦争は一神教の専売特許で、中東やヨーロッパでは、キリスト教対イスラム教、キリスト教の宗派間、イスラム教の宗派間などさまざまな宗教戦争があったが、多神教世界では珍しい。

 この一神教的側面は、景教の影響を受けたからではないかということを、以前、キリスト教学の先生から教えていただいたことがある。景教は、キリスト教世界で異端とされたネストリウス派の中国での名称で、唐の時代に宣教師たちによって布教された。唐には、当時、日本の浄土宗や浄土真宗に非常に大きな影響を与えた浄土教の開祖の善導がいたが、この善導が景教の宣教師たちと交流があったらしいのである。なお、善導の名前は、浄土真宗の最もポピュラーなお経である「正信偈」にも登場し、それでは、「善導独明仏正意 (ただ独り善導だけが仏の教えの真意を明らかにした)」と述べられている。

 ところが、親鸞の弟子が記した「歎異抄」には、「たとひ、法然聖人にすかされまゐらせて(騙されて)、念仏して地獄に落ちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ・・(中略)・・とても地獄は一定すみかぞかし」という文章がある。一神教では、このような根幹を揺さぶるような問いかけがあるだろうか。もちろん、キリスト教においても、「理性によって神の実在を決定できないとしても、神が実在することに賭けても失うものは何もないし、むしろ生きることの意味が増す」のだから神を信仰するほうがよいとする、パスカルの賭けという発想がある。しかし、歎異抄におけるこのような仮定 (実際、歎異抄のこのくだりでは、これ以外にも仮定がいくつか登場する) や、「地獄しかない」という文言は、絶対的に神を信仰する中東やヨーロッパの一神教にはありえないのではないだろうか。「地獄に落ちてもかまわない」という親鸞の強烈な決意は、むしろ一神教に近いという解釈もあるのかもしれないが、私には、一神教との大きな違いを表しているように思える。

 

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一神教と多神教―(1) 牧畜民の一神教

2023年11月25日土曜日

一神教と多神教―(1) 牧畜民の一神教

  比較宗教学にまで乗り込む気概は私にはないが、宗教心や信仰の文化差に関わると、どうしても気になるのが一神教と多神教の違いである。宗教起源的には、ヒトが宗教的な萌芽を示し始めて以降の、つまりアニミズム信仰、シャーマニズム、祖先崇拝、死後世界信仰、地母神や産土神などの地域神信仰の時代は、概ね多神教の世界が築かれていた。

 それらを背景に、枢軸時代と呼ばれる紀元前10世紀から5世紀くらいの間に、その後に影響を及ぼす世界的宗教が次々に誕生した。仏教は古代インドの多神教社会を受け継いだが、ユダヤ教やキリスト教は、周囲の多神教社会を次々に一神教に変容させていった。誕生は遅いが、イスラム教も一神教である。なお、世界的な影響力は小さいが、エジプトのアテン信仰も一神教である。

 一神教の登場が新しいからといって、一神教が多神教よりも発展的あるいは進歩的な宗教というわけではない。一神教が生まれるためには、経済的、生態的な条件が必要である。枢軸時代の重要な変化は生産性の向上による人口増加で、それによる集団間の紛争の激化が、宗教の形態に大きな変化を与えた。つまり、宗教にもさまざまな側面があるが、そのうちの集団の結束と協力を強める機能が重要になってきたわけである。それは、一神教的側面をもつ「我らの神」あるいは「高みからの神」の誕生である。この神は、集団の結束を高める上で大きな力を発揮し、さらに高みから、集団のそれぞれの成員が非道徳的な行為をしないかどうか監視する。つまり、集団に不利な利敵などの行為や、集団内での結束を乱す騙しや盗み、暴力・殺人に対して、罰が下されるというわけである。このような神は、集団が小さい状態でももちろん存在する。それらの集団がそのまま雑居的に維持されれば、多神教のままかもしれない。しかし、国のように大きくなった集団をまとめ上げるには、一神教はずいぶんと役立つことになる。

 このような一神教の神は、牧畜民から生まれやすいようだ。アテン信仰にしろ、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教にしろ、すべて牧畜民から生まれており、実際、旧約聖書には羊飼いや牛飼いが頻繁に登場する。牧畜民は、牧草地をめぐって常に近隣集団を緊張状態になりやすく、大きな集団をまとめ上げることができれば生き残りに有利である。この傾向は定住型農耕民よりも強い。余談になるが、集団主義文化と対比される個人主義文化も牧畜民から生まれやすい。牧畜民は、気候変動や隣接集団が敵になるのか味方になるのかなどによって、個人で迅速に意思決定を行わなければならない機会が多いためという説明がなされる。しかし、「我らの神」あるいは「高みからの神」との契約という発想が個人主義を促進している可能性も低くはないだろう。