2022年1月2日日曜日

理論心理学会第67回大会を開催しました (2)―実行機能とメタリーズニング

  大阪市立大学で開催された理論心理学会第67回大会では、企画されたものとして、理事会企画シンポジウムのほか、準備委員会企画シンポジウムと基調講演が行われた。準備委員会企画シンポジウムは、菅村玄二先生と私が企画したもので、学際的研究が理論によって触発されるということを示すために、3名の話題提供の先生に、実行機能が理論として各領域での事象を説明するのに用いられていることをテーマにお話ししていただいた。実行機能とは、ワーキングメモリの下位システムの1つである中央実行系の働きとされ、情報の更新やルールのシフト、および自動的な出力の抑制が主たる機能とされている。

 実際、実行機能は多くの領域で「理論」の役割を果たしている。知能心理学では、IQテストに反映される一般知能とは何かという問題が議論されてきたが、実行機能はその有力な候補である。思考心理学では、不良定義問題における計算の爆発に対する限界認知容量という概念が求められて来たが、実行機能はそれにフィットする。また、感情・欲求心理学や臨床心理学では、セルフコントロールが議論されているが、実行機能が大きな役割を果たしていることが提唱されている。神経基盤研究では、実行機能は前頭前野の局在が推定されている。さらに、哲学の重要な課題である「意識という難問」に対して、ワーキングメモリや実行機能は、何らかの視点を与えている。シンポジウムでは、関口理久子先生からはさまざまな行動パフォーマンスの予測理論として、川邉光一先生からは精神疾患モデル動物の行動を説明するための理論として、また、土田宣明先生からは加齢変化を説明するための理論として、実行機能が議論された。もちろん記憶研究者によって実行機能自体が説明対象ともなるが、このシンポジウムではその言及よりも、実行機能がどのようにグランドセオリー足りうるのかという点が追及されていた。

 基調講演は、時差が7時間のイスラエルからインターネットのライブで、Rakafet Ackerman先生が、Meta-Reasoning: How do people allocate their thinking efforts?というタイトルでお話しされた。人間が推理を行うときに、どのように心的努力を割り振るのかという判断が、推理のための推理ということでメタリーズニングと名前を付けられている。この働きを説明するために、二重過程理論では熟慮的システムのメタ部門である内省的なモニタシステムが想定されている。概してこの判断は、直感的で暫定的な解答への過剰確信によって歪められ、それ以上の熟慮的努力が注がれない結果となる。私自身は、この過剰確信にどういう意味での合理性があるのか個人的に知りたかったが、横道にそれてしまうからなのかこの点への追及はなかった。過剰確信は、おそらく実行のエネルギーになると同時に、周囲を説得・同調させるという点で適応的なのだろう。勝ち目がない戦いでも、メンバー全員が勝てると過剰確信していると、勝利する場合もある。

 心理学の研究は、それぞれの領域での精緻的な実証と理論化は重要である。しかし、ある程度の成果が集まれば、どきどきは振り返ってその背景にあるグランドセオリーは何なのかを思索するのも楽しい。理論心理学会は、その楽しみを追求できる学会なのではないかと思う。

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理論心理学会第67回大会を開催しました (1)―理事会企画シンポジウム「共感覚と多感覚統合」

2021年12月12日日曜日

理論心理学会第67回大会を開催しました (1)―理事会企画シンポジウム「共感覚と多感覚統合」

  去る1127日と28日に、大阪市立大学で日本理論心理学会第67回大会を開催した。理論心理学会は、心理学系の中では日本で3番目に古いが、会員数は多くはない。心理学の研究者で、「社会心理学」や「認知心理学」が専門という人はそれぞれの学会を主戦場にしていると思うが、「理論心理学」が専門という人はほとんどいない (私もそうではない)。そうすると、「○○心理学会」が乱立する中で、理論心理学会まで足を延ばす人はどうしても少なくなるというのが現状だろう。

 しかし、この学会は、日本の心理学のレジェンドのような先生が会員に多く、少人数でそのような先生方と議論できるという非常に恵まれた学会であるということを、今回改めて認識できた。67回大会は、6件の口頭発表以外に、理事会企画シンポジウム、準備委員会企画シンポジウム、基調講演が企画されたが、全体的にはこじんまりとしたものであった。

 理事会企画シンポジウムは、楠見孝先生の企画によるもので、「共感覚と多感覚統合」がテーマである。出発点は、「黄色い声」のように、ある感覚を表すのに異なるモダリティの表現が用いられるという共感覚比喩の解明である。なぜ聴覚的特徴を表すのに、「黄色い」のような視覚的モダリティの表現が借用されるのか。その回答の1つに、共感覚がある。つまり、そのような声を聴くと、黄色い色が見えてくるという共感覚によって生じているのではないかという解釈である。しかし、話題提供者の横澤一彦先生によれば、実際には、そのような共感覚も持ち主は決して多いわけではない。そこで提唱されるのが、共感覚の有無という二分法でとらえるのではなく、その強弱の問題として一次元でとらえる視点である。この一元論者たちは、共感覚より弱い感覚間協応という現象に目をつけたが、これを弱い共感覚と位置付けたわけである。感覚間協応とは、音の高低と色の明暗の対応で、これは多くの人に共通で見られる現象である。

 しかし、横沢一彦先生が実証された共感覚の特異性や、もう一人の話題提供者である日高聡太先生の多感覚統合についての知見から、この一元論には無理があるという暫定的結論が下されるに至った。共感覚比喩、感覚間協応、共感覚を一次元でとらえるのではなく、二元論あるいは多元論でとらえて、それぞれにおける認知的メカニズムを解明していくという方向づけがより適切な研究戦略ではないかということが提唱されたわけである。とくに、それぞれにおいて特有な個人差や、自閉症あるいは自閉症スペクトラムとの関係が見いだされていることを踏まえると、シンプルで魅力的な一元論は棄却せざるを得ない。これらの研究は、ここで終わりというよりは、むしろ更なる困難が待ち受けているという印象であった。それを聴衆とともに確認できたというのは、非常に有意義であったと思う。

 なお、理事会企画シンポジウム以外の企画については、次の機会に触れてみたい。

2021年11月30日火曜日

京都サンガJ1昇格

  J1J2を行き来するエレベータークラブと言われながら、2011年にJ2に降格して以来、11年ぶりに京都サンガのJ1昇格が決まった。この11年間、惜しい時もありまた迷走した時もあったが、この春から指揮をとった曹貴裁監督のもと、見違えるようなチームになり昇格にたどり着いた。2019年には中田一三監督のパス&ポゼッションで面白いサッカーになったが、後半になって相手に研究されだすと勢いは止まった。2020年の實好礼忠監督がそれを修正したチームを作ろうとしたが、残念ながら不調に終わった。

 曹貴裁監督のサッカーは、豊富な運動量に支えられた、ハイプレスで攻守の切り替えが非常に速いサッカーである。最も得意とする攻撃のパターンは、ハイプレスからボールを奪ってのショートカウンターで、この切れ味は抜群だった。しかし思い返せば、2008年のユーロ大会、2012年のワールドカップを制覇したスペインのパス&ポゼッションサッカーは華麗で見ていて面白く、かつ強かった。私は、これがサッカーの完成形で、当時はこれ以上強くなりようがないのではないかと思った。実際、同じようなスタイルのバルセロナやマンチェスター・ユナイテッドは、面白いようにパスが回るサッカーで相手を翻弄していた。しかし、このようなサッカーは、いくらボールを保持していても、決定力が弱いと縦に速い攻撃に脆い。とくに守備を固めてカウンターを狙われたり、ハイプレスをかけられたりすると、ボロが出てくる。現在、縦の速さのために最も組織化されているのはマンチェスター・シティではないかと思うが、攻守の切り替えが速く、攻撃時には一気に前線にボールが運ばれるサッカーは、非常にエキサイティングである。

 ただし、曹貴裁監督が目指しているのは、マンチェスター・シティというよりはリバプールで、ユルゲン・クロップのサッカーを目標にしているようだ。リバプールと同じ4-1-2-3のフォーメーションで、両SBを高めにとり、アンカーに運動量があってボール奪取がうまい川崎颯太を置いている。3トップは、松田天馬、ピーター・ウタカ、宮吉拓実で、カウンター時には縦に速く、相手の守備が整った状態では、サイドからの崩しというのが基本のようだった。ただし、リバプールと比較すると3トップの破壊力が足りない。リバプールのサラー、マネ、ジョッタのような得点力は京都には欠けていた。松田天馬は、曹貴裁監督のサッカーを具現化するキープレーヤーだと思ったが、得点力という点では物足りなかった。むしろ松田には、2列目で動き回られるほうが、相手にとっては嫌なのではないかと思う。

 来季は久しぶりのJ1である。強化部はすでにJ1で戦うための選手の補強に動いているようだが、来季はどのようなサッカーを見せてくれるのか、曹貴裁サッカーがどのように完成されていくのか、今から楽しみにしたい。

 

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めざせJ1昇格―2020年シーズンの京都サンガ

2021年11月12日金曜日

人間は論理的か―『心理学理論バトル』の章

  繫桝算男先生編纂による『心理学理論バトル』9月に新曜社から出版された。これは、心理学におけるさまざまな領域における論争を「バトル」として紹介したもので、私もその中の章を執筆させていただいた。出版前から、「ピアジェ対ヴィゴツキー」(2)、「進化心理学対文化進化論」(5)、「文化心理学対適応論」(7)、「形式的合理性対実質的合理性」(9)などを特に楽しみにしていたが、いずれも期待に違わなかった。

 私は「人間は論理的かー進化心理学と二重過程理論」(8)を担当した。人間の思考が論理的なのかどうかは、古典的な哲学以来の伝統的論争である。認知心理学においては、人間がどのような内容にも適用できる抽象的な論理スキーマをもつのかどうかという論争 (もつならば「論理的」である) が、197080年代には、まずそのようなスキーマが領域固有なのか領域普遍なのかという議論に発展した。「論理的」という主張は領域普遍側に結びついている。

 1980年代は、論理課題にどのような内容が織り込まれるかによって正答率が異なるという内容効果がこの領域固有性として説明され、これを進化心理学はモジュールを想定することによって説明した。モジュールとは、入力から出力までが迅速で固定的かつ自動的なシステムで、特定の領域にのみ敏感である。たとえば論理的思考では、社会的交換場面という領域に反応して違反に敏感な「社会的交換モジュール」が知られている。違反があれば「偽」と判断できるからであるが、これは「人間が抽象的な論理的思考能力をもつ」という主張とは真逆である。

 進化心理学は、ヒトの認知機構をモジュールの集まりと考えているが、二重過程論者は、これを直感的システムと位置づけ、それに直感からの出力を修正できる熟慮的システムを想定している。したがって、論理的か否かというバトルは、この熟慮システムを認めるか否かという議論に発展したわけである。進化心理学側は、このようなシステムが原理的に進化によって形成されないとし、二重過程理論側は、進化によって増大した処理容量がこれを可能にしたと主張した。

 現在、二重過程理論の大きな論争の1つに、この熟慮的システムが直感的システムの非合理的な出力をどの程度修正可能なのかという議論に発展している。つまり、「論理的」と主張する側は、修正が可能と考えている。私の章では、ひょっとしたら読者は、おそろしく議論が飛躍したなと感じられたかもしれないが、これを「歴史的自然実験」で検証している。ここまで来るともうすでに「論理的か否か」を超えて、「規範的か否か」に問題がすり替わっているのだが、道徳的規範に従うという点で、17世紀後半から18世紀の啓蒙の時代と、第二次世界大戦以降の人権意識の高まりに焦点をあてている。すなわち、これらの歴史的変化を熟慮的システムによる制御の現れとして解釈し、人間は完全な論理性が保証されているのかどうかはわからないが、少なくとも歴史的には規範的になってきていると結論づけた。

2021年10月24日日曜日

『「生きにくさ」はどこからくるのか』はなぜ売れない?

  珍しく、拙著『「生きにくさ」はどこからくるのか』があるブログで紹介された。DavitRiceという方の、道徳的動物日記においてで、比較的高く評価していただいて感謝している。この本は、直感的システムと熟慮的システムを想定する二重過程理論の枠組みにおいて、熟慮的システムが歴史的にどのように直感的システムの非規範的あるいは非合理的な出力を制御してきたのかという視点で現代を捉えているが、その点を十二分に理解していただいている。

 にもかかわらず、DavitRice氏は、ツイッター等で、なぜほとんど話題になっていないのかを不思議がられているようである。私自身も、力作と思っているのでこれは残念なのだが、さらに売れ行きもあまり芳しくない。自分自身でもこの理由を考えてみた。

 第1の理由は、私自身のネームバリューのなさだろう。これは仕方がないことだが、心理学の領域では少しは知られているかもしれないが、それ以外ではほとんど知られていない。残念ながら多くの心理学の研究者からは、私が何かわけのわからないものを書いていると思われているかもしれない。

 第2の理由は、タイトルのつけ間違いだろう。実は、本書はタイトルが最後まで決まらなかった。ビッグ・ヒストリーを入れるのはおこがましいし、現代の繁栄をとりたてて強調しているわけでもない。そこで、現代の繁栄の影の部分として、分業化と多文化共生によって、阿吽のコミュニケーションができなくなっていることに「生きにくさ」があるとして、このようなタイトルになった。しかし、「生きにくさ」を感じている人々が本書に解決を求めても、おそらくほとんど役には立たない。拙著への失望だけが残ってしまう。

 第3の理由は中身の薄さである。DavitRice氏は、ピンカーの『暴力の人類史』などと比べてもずっと簡単に読めるので、このタイプの主張に興味がありつつもどの本も分量がすごくて手を出せなかったという人にはおすすめといってくださってはいる。しかし、同時に、薄いぶん味気なかったり議論が浅いかったりするところがあるとも述べていて、実は、私もここが致命傷かなとも考えている。というのは、拙著は、『暴力の人類史』やリドレーの『繁栄―明日を切り拓くための人類10万年史』などが好きな人が読者としてターゲットになっているが、彼らはさまざまな科学的根拠に照らしてビッグ・ヒストリーを物語として描写したものではないと満足できないはずである。そうすると、この薄さにはどうしても不満が残るのではないだろうか。私も、ピンカーやリドレーのような著作を書いてみたいとは思う。しかし残念ながら、あのレベルまで大量の文献やデータを紹介しながら論を展開する能力は私にはない。

 そして第4は、おそらくこれが最も大きな理由だが、「現代は良くなっている」と論述するよりも、「現代の民主主義の危機」とか「現代人の精神の貧困化」、「現代人のモラルの低下」を訴えるほうが人々の耳目を集めやすいということだ。この点は、ピンカーも『暴力の人類史』の前書きで述べている。人々はおそらく進歩よりも、悪化・劣化に敏感で、悪化・劣化を指摘する人間を賢人とみなす傾向があり、そのような出版物を好むのだろう。

 

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『「生きにくさ」はどこからくるのか―進化が生んだ二種類の精神システムとグローバル化』出版

2021年9月7日火曜日

なぜいまだに「PCR検査をすべての国民に」という呼びかけを?―基礎比率無視誤謬?

  先日、私が通勤に使用する駅で、共産党の人たちが通勤客に呼び掛けていたが、そのなかに「PCR検査をすべての国民に」というメッセージがあった。昨年来、岡田春恵氏がしきりと主張していたことだが、これは、PCR検査の誤差がゼロという条件なら有効かもしれない。しかし、少しでも誤差があると、感染していないにもかかわらず陽性反応となる人が多くなる。この点について、すでにウェブ上でいくつかの記事があるようだが、知られていないようなので、ここでも改めて解説してみたい。

 PCR検査の誤差については、いろいろと議論があるようだが、精度は最も高く見積もっても95パーセントとしよう。さて、もし何も症状がないあなたがPCR検査を受けて、「陽性」と判定されたときに、本当に感染している確率はどの程度だろうか。95パーセントの精度があるならば感染確率は95パーセントだと考えてはいけない。少しでも誤差がある場合には、人口に占める感染者の割合は何パーセントくらいなのかという基礎比率を無視してはいけないのである。

 東京都において、仮に感染者が1パーセントとして、都民1000万人が検査を受けるとしよう。10パーセントの誤差として、新型コロナウイルスに感染しているにもかかわらず陰性となる確率が5パーセント、非感染にもかかわらず陽性となる確率が5パーセントとしてシミュレートしてみよう。すると図のように、まず10万人の感染者と990万人の非感染者に分かれる。さらにそれぞれから陽性反応が出る人を計算すると、感染者から9.5万人、非感染者から49.5万人となる。したがって、陽性反応者が真の感染者である確率は、

確率=9.5 ÷ (9.5 + 49.5)=約16パーセント

となる。感染確率95パーセントどころか、非感染である確率が極めて高い。もし人口の半数が実際に感染していれば、陽性反応者の感染確率は95パーセントになるが、1パーセントだとこの数値になる。この1パーセントという事態を考慮しないのが基礎比率無視誤謬で、直感的な推定でよく起きる。

 このように考えると、希望者すべてにPCR検査を行うことのコスト、保健所ではとても捌ききれない非感染陽性者の数など、感染者拡大対策として極めて非現実的な戦略であることがわかる。日本の戦略は、感染者の濃厚接触者の追跡というものだったが、初期の対策として極めて現実的で効果的だったと思える。

 では、共産党の「PCR検査をすべての国民に」というメッセージは何なのだろうか。政府の方針を批判する材料があれば何でも良かったのだろうか。それとも、単なる科学リテラシーの欠如なのだろうか。このデメリットを理解しておきながら、「すべての国民に」というメッセージを発するといかにも国民に寄り添う印象を与えるという理由で行っていたならは、この確信犯はとても許されるものではない。


2021年9月4日土曜日

村越茂助を思い出させた菅義偉氏―馬鹿がよい。とくに愚直なものがよい

  一昔前、日本人のリーダーには「説明責任」が欠如していると良く言われていたのに対し、最近の政治家やリーダーと呼ばれる人たちは、以前よりはだいぶましになったと個人的に考えていた。中には、どこからこんな説明が湧くのかと理解不能な鳩山由紀夫氏のような総理大臣もいたが、それでも小泉純一郎氏以来、日本のリーダーが説明責任という点で変化したという印象は強かった。しかし、菅義偉氏は、久しぶりに説明責任が欠如した総理大臣だったなとつくづく思う。ボキャ貧のためなのか、意見というものがないのか、あるいは支持勢力への忖度から言いたいことが言えなかったのかはわからないが、一気に前世紀に舞い戻ったように思えた。日本学術会議の新会員候補の任命拒否理由についても、新型コロナウイルスの感染拡大のリスクの東京オリンピックの強行理由についても、説明らしい説明はほとんどなかったように思う。

 菅義偉氏は、安倍内閣では名官房長官だったのではないかと思う。内閣の方向性自体については私のような素人には評価しかねる点もあるが、ブレないという印象は強かった。官房長官ならそれでも良かったのかもしれないが、総理大臣はやはり説明責任を伴うことが必要である。

 この菅義偉氏から連想される人物が、村越茂助(直吉)である。茂助は、関ヶ原の直前の、清州城で福島正則や黒田長政ら豊臣恩顧の諸将が江戸の家康の出陣を待っているという状況で、家康から清州に遣わされた使者である。福島正則や黒田長政が豊臣恩顧ということで、いつ裏切られるかわからないという状態で、家康は、あれこれ思案するよりも愚直に家康自身の言葉を伝えることができる使者として村越茂助を選んだのである。豊臣諸将は、家康はなぜ出陣しないのかと茂助に詰め寄ると、茂助は、家康が豊臣諸将にまだ懐疑的であり、石田方を攻撃しなければ信用して出陣できないという家康の懸念を伝えたのである。これは本来なら豊臣恩顧の諸将の怒りを買ってもおかしくない発言だったが、福島らは家康に信頼してもらうために、石田方が押さえていた美濃国への進撃を開始したという。

 どこまでが史実なのか私自身は知らないが、家康は、この危険なメッセージを伝えるために、余計な知恵をめぐらすような人物ではむしろ危ないと考えたようだ。豊臣諸将に気を遣っていては仮に石田に勝ったとしても自分が絶対的なリーダーになるのは困難である。少々リスクがあっても、これを正確に伝えてくれる使者が望ましかったわけである。司馬遼太郎の『関ケ原』では、家康は、使者の選考にあたって、

 「馬鹿がよい。とくに愚直なものがよい」

というセリフを本田正信に投げかけている。菅義偉氏も、官房長官ときは村越茂助で十分だった。しかし、自分がリーダーとなったときは、説明なきブレのなさは、国民に大きな不安とフラストレーションを与えるだけだった。

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