2021年2月20日土曜日

プレスリリースー法廷での後知恵バイアスを大学生 114 名の実験により実証!~法廷における判断に貢献~

 先日、心理学の国際誌であるApplied Cognitive Psychologyに理論論文が採択され、オンラインではすでに掲載されている。 自然科学系の学術誌と比較するとインパクトファクターが見劣りするが、社会科学系の応用論文で、司法判断に貢献できるとして、プレスリリースしていただいた (ただし、諸般の事情により、大学のウェブサイトからは訪問できなくしている)。以下がその内容で、本ブログでも紹介したい(一部略)

大阪市立大学 法廷での後知恵バイアスを大学生114名の実験により実証!

 大阪市立大学大学院文学研究科の山 祐嗣教授は、しんゆう法律事務所の秋田 真志弁護士・川﨑 拓也弁護士と共同で、「裁判での証言のための後知恵バイアスの検証」の実験成果をまとめました。本研究は、ある水難事故の裁判で山 祐嗣教授が心理学の専門家として証言を求められた際、『裁判において、悲惨な事故等における責任の所在が争点となるときも後知恵バイアスが働き、人々はその事故が予測可能であったと思い込んでしまう』と仮定し、実際の射流洪水の予測可能性の認識における後知恵バイアスを、大学生114名の実験を基に調査研究したものです。

 本研究の成果は202129日に国際学術雑誌「Applied Cognitive Psychology」へ掲載されました。

~研究者からのコメント~

 このほか非常に重要な点は、後知恵バイアスには文化差があり、日本人を含めた東洋人において大きいという事実です。これはすでに私の文化比較研究において明らかにしています。日本の法廷ではとくに後知恵バイアスに用心しなければならないのかもしれません。Yama, H., Manktelow, K. I., Mercier, H., Van der Henst, J-B., Do, K. S., Kawasaki, Y., & Adachim K. (2010). A cross-cultural study of hindsight bias and conditional probabilistic reasoning. Thinking and Reasoning, 16, 346-371. doi: 10.1080/13546783.2010.526786

【掲 載 月】202129

【発表雑誌】Applied Cognitive Psychology (IF=1.83)

【論 文 名】Hindsight bias in judgements of the predictability of flash floods: An experimental study for testimony at a court trial and legal decision making

【著    者】山 祐嗣、秋田 真志、川﨑 拓也

【掲載URLhttp://dx.doi.org/10.1002/acp.3797

<研究の背景>

 人間の判断は、多くの認知バイアスの影響を受けやすいものです。意外な結果を知ったときにさえもそれを「予測できていた」と勘違いする後知恵バイアスもその一つです。このような現象はすでに知られていたにもかかわらず、実際の裁判において、後知恵バイアスが起きている可能性があることを示した実験に基づく議論はこれまで全くありませんでした。類似のものとして、あらかじめがん患者のレントゲン写真であるという結果の情報を与えられてから当該写真を観察すると、結節陰影を発見しやすくなるという知覚的後知恵バイアスがありますが、このような研究もまだ系統的には行われていません。

<研究の内容>

 本研究は、射流洪水による水難事故に係る裁判で、秋田 真志弁護士から心理学の専門家として証言を依頼された山 祐嗣教授が、その証言の根拠として行った、知覚判断と確率判断の後知恵バイアスの実験に関するものです。実験1では、実際に裁判で証拠となった写真を大学生に見せ、濁りの知覚判断と、射流洪水の確率を求めました。※ここで示されている写真(図1)は、実際に実験で用いられた裁判の証拠としての写真 (公開不可) ではなく、実験前の練習で用いられたものです。

左 1:実験1で用いたダミー写真

 射流洪水情報がない条件とある条件(その情報を知らないと仮定して判断するように求めた)を比較した結果、射流洪水情報がある条件のほうが、濁りが大きく、射流洪水確率が高いと判断され、明確な後知恵バイアスが示されました(図2)。

 ただし、濁りと射流洪水の因果関係は、レントゲン写真とガンの関係(がん患者のレントゲン写真には結節陰影がある)ほど人々に知られてはいません。そこで実験2では、実際に射流洪水が起こったという情報の有無以外に、濁りと射流洪水の因果関係を教示するグループとしないグループで比較しました。この因果関係が教示されると、少しの濁りも見逃すまいと知覚が行われたと見られ、因果関係を教示したグループの方がより濁っていると判断しました。


左 2:濁りの判断 (7段階評定) の結果

 この結果は、事故現場の目撃者に証言を求める際、たとえば検事が事故に関する因果関係の教示を行うと、それが誘導尋問になる可能性があることを示唆しています。このようなバイアスは、「結果を知ることによって以前の記憶が書き換えられる」として説明されてきましたが、本研究では、そのような記憶の書き換え理論を、「結果を知ることによって、結果を知らないときにどのように知覚するかを想像できなくなる」という修正した仮説を提唱し、後知恵バイアスの理論的発展にも貢献しました。


<期待される効果>

 本研究は、実際の裁判においても後知恵がいかに人々の判断にバイアスをもたらすのかということを示しています。さらに裁判だけではなく、医師や政治家・行政などの判断が評価されるときに、結果による後知恵が影響するということが人々に認識されれば、より適切な評価が可能になると期待されます。

2021年2月16日火曜日

大河ドラマ『麒麟がくる』では本能寺の変の要因はどう描かれただろうか?

  いろいろとアクシデントがあった大河ドラマ『麒麟がくる』だったが、非常に面白かった。18日の記事で、本能寺の変の要因が『麒麟がくる』では、諸説ある中からどれが採用されるかを予想したが、あまり当たらなかった。「狡兎死して走狗烹らる」説は採用されなかったようで、佐久間信盛の追放は、ワンシーンがちらりと放映されたが、それで明智家中が動揺という記述はなかった。また、徳川家康の長男である信康の自害についても、それが自分に及ぶことを光秀が心配したような描写もなかった。まあ、18日の予想は惨敗ということである。

 ドラマで描かれたのは、信長による、光秀、正親町天皇、足利義昭への非道と、信長自身が自分を制御できなくなっている苦悩だった。「夜もゆっくり眠りたい。長く眠ってみたい」というセリフは、光秀を謀反に誘っているようにも聞こえた。そして、光秀を追い詰めた「将軍義昭を殺害せよ」という命令は、殺害が目的というよりは、光秀の忠心を試しているようだった。「私を好きだったら○○して」と無理難題をふっかけて恋人を困らせているのと何ら変わりはない。ドラマでは、母親の土田御前に愛されなかった信長には「人に喜んでもらいたい」という強い承認欲求 (実は心理学で、こういう用語があるのかどうかよくわからないのだが) があるという設定になっていたが、それがこのような忠心の確認としての非道となり、本能寺の変の要因の一つになっているようだった。

 また、信長近習の森蘭丸の、光秀への「上様に粗相をなさったな。無礼であろう」という激しい口調のセリフも妙にひっかかりがある。この背景はドラマでは描かれておらず、視聴者の想像を刺激しただけだが、蘭丸のような若い近習が功績がある重臣にこのような叱責が許されるということは、近習が文治派として信長政権の中で台頭しつつあることを示していないだろうか。ちょうど、結果的に豊臣政権を崩壊に導いた武功派 (加藤清正や福島正則) と文治派 (石田光成や大谷吉継) の対立が、信長の時代にも起きつつあるということとを想像させてくれるのである。豊臣政権では武功派の勝利を家康がちゃっかりと利用したが、信長政権では本能寺の変となった。

 こうして見ると、佐久間信盛の追放と信康自害の強要説は不採用だったかもしれないが、「狡兎死して走狗烹らる」説は、あながち的外れとは言えないかもしれない。近習が、走狗を烹るお手伝いをしているというわけだ。ドラマは歴史的事実 (これとて、確実というわけではない) に必ずしも忠実である必要はないが、非常にリアリティがある描き方で、見応えがあったと思う。

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2021年2月4日木曜日

森喜朗氏のあまりにも呆れた失言―ステレオタイプと女性への蔑視と敵意?

  失言は、スローな直感的システムとファストな熟慮的システムを想定する二重過程理論からみて興味深い現象である。いわゆる「本音」を構成するファストをスローが制御できなくなって、ポロリとやってしまうのが失言の代表的なものであろう。ファストには人間としての欲望が渦巻いているのが当然なので、ファストをスローが制御しながら生きている人間に対して、「裏表がある人間」という嫌悪感を抱くようなことは、私自身はあまりない。人間はある程度は裏表があって当然であり、不道徳な欲望を消し去ることができた聖人は別として、多くの普通の人たちは、社会で受け入れられにくい欲望を言動に直結させないようにスローによって制御しているのが現実だからである。しかし失言は、この制御不能の結果であり、それが公的になれば看過できないのは当然であろう。

 元首相で東京オリンピック・パラリンピック組織委員会の会長である森喜朗氏は、失言が多いことで有名である (今や、海外にまで知れ渡ってしまった)。スピーチが上手いと評されてもいるが、それは、後援会やある特定の団体などにおけるその場でのウケ狙いが成功してきたためだろう。聴衆に迎合したり、ご機嫌をとったり、あるいはその場でのウケを狙ったりしての発言は選挙での集票に有効かもしれない。しかし、ウケはその集団内だけでのことであり、外部に漏れると失言ということになる。代表的な例が、20005月の神道政治連盟国会議員懇談会における「日本は神の国」失言だろう。森氏が、このような「日本は神の国」という考え方や「神とは何なのか」という定見をもっていたかは定かではないが、少なくともこの状況では、森氏自身は「ウケる発言」と考えたのであろう。

 そういう意味で森氏のこれまでの失言は、比較的害が少ない「状況依存型」と名付けたい。しかし今回の、

「女性っていうのは競争意識が強いんです。誰か1人が手をあげて言うと、自分も言わなきゃいけないと思うんでしょうね。それでみんな発言されるんです。前の発言に関連したものではなく、思いのままに」

は、森氏のファストにおける本音をスローが制御できなかった例である。あるいは、男性がヘゲモニーを示している集団で、これを言えば「ウケる」とも考えていたのかもしれないが、「ウケる」どころか受け入れがたい森氏の本音が十分に伝わったという点で「制御不能型」と呼んでおこう。

 この発言には2つの大きな問題がある。第一は、「女性っていうのは競争意識が強いんです」という、どうしようもないステレオタイプ的視点である。競争意識に性差があっただろうか? 仮に、百歩譲って、女性の競争意識の平均値が男性のものよりに高いとしても、競争意識が高い男性や低い女性も多く混在しているはずで、このようなステレオタイプ化は、有害なバイアス以外の何物でもない。

 第二は、この文言の背景にある女性への強烈な蔑視と敵意である。おそらく会議などで「対抗するように思いのままに発言」する人は男性にも多いと思う。しかし、女性の発言のみについて「競争意識が強いから」と述べて迷惑千万と断言する態度は、少なくとも平等的人権意識をもっている人間には看過できないものになる。端的にいえば、「女は黙っとれ」というファストからの強烈なメッセージなのである。

 こういう人間が文教族として日本の教育に大きな影響を持っていたと思うとぞっとする。また、組織委員会は森氏をトップのままにしておくのだろうか。これでは、組織委員会だけではなく、日本人全体が彼の態度を容認していると、世界が認識すると危惧するのだが。

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2021年1月24日日曜日

そろそろ「老害」という表現を止めませんか? (2)―長老支配についての忘備録

  長老支配とは、高齢の政治家によって支配される政治体制を指すが、政治だけではなく、学界やマスメディア、伝統芸能、芸能人、スポーツなどにおける年長者が支配している体制をも含めている。これは古い習慣が単に残っているだけなのだろうか。ちょっと気になって調べてみるといろいろと興味深い要因が浮かび上がる。

 私自身は、長老が尊敬されるとすれば、それは知識の蓄積と伝承がより重要になった時代になってであって、知識より体力が優先される時代や常に飢餓の心配があって「働かざる者食うべからず」のような時代には、身体が弱くなって生産性が低い老人は尊敬されていなかったと思っていた。日本の各地に残されている姥捨ての伝承がそれを物語っている。

 ところが、狩猟採集民の民族誌的な研究から、年長者がかなり崇敬されているということが推定されているようだ。狩猟採集民といえども体力勝負だけではなく、伝統的な知恵・知識が貴重なのである。動植物についての知識と狩りの方法、さらにたとえば旱魃に陥ったときにどこに移動すればよいかなど、年長者の知識蓄積と世代伝達能力は私たちが想像するよりも、はるかに貴重なようである。

 さらに、このような環境では、医療が未発達で多くの人々が若くして命を失う。そうした状況で、年長者は長寿であるという理由だけで尊敬される。病気にならず、生き延びるための知恵を持っているかもしれず、また、長寿のためのまじないなどに精通している可能性が高い。さらに、概してこのような伝統的社会では、呪術や儀式などが重要分野となるが、それらの知識の伝承に長寿者は不可欠なのである。

 長老支配の形成にこのような要因があるならば、年長者への崇敬は、狩猟技術の革新や宗教の萌芽が見られたおよそ5万年前の文化のビッグ・バンのころから本格的になったのかと思う。しかし、もう一つの可能性として、生殖年齢を過ぎた後の長寿と関係しているとする見解もある。この長寿は、文化伝達が非常に重要なヒトにのみ見られる現象(狩りのスキルをかなり学習に依存しているシャチにも見られるそうだが)で、最も近縁のチンパンジーでさえ観察されない。ヒトにおいては、生殖を終えた祖父母の文化伝達における役割が大きく、年長者が崇敬されるようになったというわけだ。

 ただし、役立つ知識が年長者ほど蓄積されるというのは、社会や環境が比較的安定した状態に限られるようだ。変化が大きいと昔の知識が役に立たなくなる。現代は、科学の発展が異常に速く、知識を次々に更新していないといけないが、このような状況は人類史においてかなり稀なことである。このような状況では、新しい知識を取り入り入れることが苦手な高齢者は、残念ながら崇敬されない。だからこそ「老害」という呼称は止めるべきなのだ。弱者への差別的侮蔑語以外何物でもない。

 

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2021年1月17日日曜日

そろそろ「老害」という表現を止めませんか? (1)―年齢差別という認識を

  差別は、倫理学においてその規範的問題が、心理学においてそれを行う心理的メカニズムが研究されている。この正確な定義は難しいが、特定の集団のメンバーをステレオタイプ的にとらえ、それに否定的なレッテルを貼り付けて、不公平に扱うと同時に侮蔑的な態度を示すことであるという点には、多くの人が同意するだろう。

 この定義を受けて、ステレオタイプ的で侮蔑的な呼称は「差別用語」と呼ばれ、一般的に使用を禁止されていたり、控えることが望ましいとされていたりしている。それならば、「老害」は、明らかに差別用語に相当するはずである。ところが、「老害」は最近頻繁に使用されていて、他の差別用語の使用差し控えが、「言葉狩り」ではないかと思える程度まで厳しくなっているのと対照的である。

 これはなぜなのだろうか。大きな理由として、老人、特に政治家の老人は支配階級であり、彼らを批判するのに、少々侮蔑的な表現を用いても許されるという暗黙の規範があるのかもしれない。私も、少なくともメディアの報道からは、森氏、二階氏、麻生氏などの権力行使のしかたは目に余るものがあるという印象を受ける。なぜ彼らのこのような長老支配が可能なのかは別の機会に考えてみたいが、この長老支配という権力を批判するならば、「老害」は許されるというわけだ。

 しかし、この使用は許されるべきではない。個人的にも極めて不快である。残念ながら、加齢によって、記憶力の低下は免れないし、前頭葉の萎縮は感情の制御機能を衰えさせる。だからといって「老害」という言葉を浴びせても良いことにはならない。自分が言われなくても、不快だけではなく、何やら悲しさを喚起させる表現である。

 朝の情報番組である『とくダネ!』の司会者の小倉智昭氏が、ネットなどで「老害じゃないか」という書き込みを見つけるとへこむということを述べているようだ。小倉氏のコメント等に賛成できないのなら、それを批判すればよいだけで、やはり「老害」は人権意識の欠如だと思う。定年が高齢者差別の可能性があると指摘されるようになっているが、「老害」は明らかに差別語であるという認識が必要だろう。

2021年1月11日月曜日

出席予定者に新型コロナウイルス感染が疑われた人がいたから成人式を中止?―どうみても論理が破綻している

  新型コロナウイルス感染の拡大が止まらない。口からの唾液あるいは飛沫にウイルスが多く含まれているので、マスクをとっての口呼吸が必然的に生じてくる会食が最も感染にハイリスクな行動のようだ。年末年始の爆発的な拡大は、飲食店に限らないホームパーティなども含めた会食の影響だろう。それならば、いくら式後の会食を自粛せよと注意を喚起しながら行うとしても、成人式は暴挙といえるのではないだろうか。そもそも大人数が集まるような状態では、いくらマスクをしていても、会話をすれば当然マスクの隙間からはマイクロ飛沫が拡散されるだろうし、式後の会食は、誰がどうやって止めるのだろう。大人数が集まれば、その中から規則を守らない人が何パーセントかは出るということは、常に想定しないといけないことだ。

 那覇市内の一部の中学校区では出席予定者に新型コロナウイルス感染が疑われたため、式典開始2時間前に急きょ中止が決まったという報道がある。英断だとは思うが、2時間前ということで、いろいろと混乱があったようだ。しかし、中止の理由が、もし式典に感染者がいればそこでの感染の確率が高いからということだとすれば、どうみても論理の破綻である。つまり、成人式のような式典では感染が生じやすいということを認識しながら計画するということ自体が問題であろう。那覇市のこの校区では、もし新型コロナウイルス感染疑いがある人が発見されなければ、実施したということなのだろうか。式典で感染者がいれば感染が広まる確率が高いというこの認識は正しいと思う。しかし、それならば、ウイルス感染疑いがある人が発見されなかったとしても、無症状のままの感染者が参加する確率は決して低くないという判断ができなかったのだろうか。実際、これだけ感染者が増えて検査での陽性率が高まっている現在、式典に無症状感染者が紛れ込む可能性は決して低くないはずである。

 感染しないようにだけではなく、感染させないようにという自分が無症状感染者であることも想定した行動が求められている中、この那覇市だけではなく多くの自治体において成人式が執り行われたことは、どうみても論理が破綻している。滔々と祝辞を述べている市長などを見ると、この大変な時期にそんな暇があるのかと思ってしまう。私自身は出席していないので理解できないのかもしれないが、成人式ってそんなに重要なのだろうか。私は、つくづく大学も含めた日本の学校や社会には、意義がわからない行事が多すぎると思うが、そのような形だけの行事よりも大切なことが他にもっとあるはずだ。

2021年1月8日金曜日

本能寺の変の要因―大河ドラマ『麒麟がくる』ではどう描かれるだろうか?

 初の年越しの大河ドラマとなったが、『麒麟がくる』も大詰めを迎えてきた。ここにきて、この作品において本能寺の変の要因がどのように描かれるのかが視聴者の興味を掻き立てているようだ。歴史の専門家の間では、怨恨説、義憤説、黒幕説など、さまざまな議論がなされているようで興味深くはあるが、私は歴史の専門家ではないので、歴史的にどの説が妥当なのかは判断できない。

 しかし、『麒麟がくる』ではどの説が採用されるのか、一視聴者として推理ドラマを楽しむようにいろいろと思案できる。配役という点で気になる存在が、金子ノブアキが演ずる佐久間信盛である。ドラマでは、信長の家臣団の中で重要なはずの滝川一益と丹羽長秀が登場していない中で、信盛がかなり大きな役になっている。この理由として、本願寺攻めなど光秀と接することが多かったためだろうということは推測できる。しかしそれ以上に、佐久間信盛が、本願寺との戦いが終結した1580年に、信長から19ヶ条にわたる折檻状を突きつけられて追放されていることが大きいのではないだろうか。追放の後にこの佐久間軍団を任されたのが光秀だが、明智家中には「明日は我が身」と思った者もいたようだ。古典に詳しい光秀なら、史記の「狡兎死して走狗烹らる」を知っていただろう。なお、信盛は本能寺の変の5ヶ月前の1582年に高野山または熊野で死去しているが、これも光秀にはショックだったのではないだろうか。本能寺の変は宿敵の武田氏滅亡の2か月後だが、本願寺の後は佐久間(信盛以外に、宿老の林通勝や美濃衆の安藤守就も追放されている)、武田の後は次は誰だろうかと猜疑心が増していったのは十分に想像できる。

 もう一つの要因は徳川家康である。1月3日の放映で、「信頼できるのは明智のみ」というセリフで、ネットでは家康黒幕説が騒がれた。しかし、家康を黒幕とすると、なぜ変の後に三河にすぐに逃げ戻らなければならなかったのかなど、いろいろと無理が生じてくる。注目したいのは、家康の息子である信康である。信康は、実母の築山殿とともに武田との内通を疑われ、本能寺の変の3年前の1579年に信長の強い意向で、家康の命で自害させられている。ドラマで築山殿は、そりゃ織田に嫌われるだろうろうと思われるセリフを嫌味ったらしく述べていたが、信康を自害に追い込まざるをえなかった家康の悲しみは大きかったはずである。息子がいた光秀も、これは他人事ではないと考えざるをえなかったのではないだろうか。

 このように、功臣が徐々に生贄にされていくのを横目で見ているうちに、信長および嫡子の信忠が無防備に近い状態で京都に滞在という絶好の機会が訪れ、突発的に変を起こしたというのが『麒麟がくる』で採用される要因ではないだろうか。ただ、ふと考えてみれば、信長は、家臣や服属大名に何度も裏切られている。光秀以外に、実弟の信行、浅井長政、荒木村重、松永久秀の名前が挙がる。彼らがなぜ裏切ったのかについてはさほど議論とされず、なぜ本能寺の変だけがミステリーとされているのかもちょっと不思議な気がする。変のあざやかな成功と、その後の山崎合戦にいたる光秀らしからぬ緻密さの欠如が、人々の想像を掻き立てるのだろう。