前回の投稿で、いわゆる「進歩的知識人」の進歩嫌いが、ロマン主義運動にたどり着くとするピンカーの主張を紹介した。しかし、それは一つの側面であって、そもそも「知識人」と称する人々は「進歩恐怖」と呼べるくらいに進歩を嫌っているには、さまざまな理由があるというのがピンカーの意見である。
概括すれば、これは「進歩的知識人」のインテリ文化の特徴であろう。世の中は現在よりも良くなるだろうか悪くなるだろうかという問いに、「良くなる」と答える人間は、おバカだと思われる風潮がある。楽観主義者ならともかく、楽天家とか夢想家、極端な場合は「極楽トンボ」などと命名され、オツムがちょっと弱い人間というイメージが付随するのだ。現在、世界的規模で生じている地球温暖化の環境問題や紛争・テロに無関心なおバカさんというわけだ。また、実際、何かを評するときに、肯定的な評価をする人よりも否定的な批評をする人のほうが賢いとみなされやすい。「進歩的知識人」は、この傾向にちゃっかりと乗っかっているというわけだ。
しかし、知識人が本当に進歩的であろうとすれば、人々のネガティヴィティバイアスを修正することが大きな役割の一つである。人間の認知は様々なバイアスの影響を受けるが、このネガティヴィティバイアスを引き起こしている利用可能性バイアスが心理学において知られている。利用可能性バイアスとは、利用可能性が高い情報を根拠に判断を行うことによって真実からズレていく現象で、代表的なものがメディアの報道の多さを根拠にした判断である。たとえば、日本におけるこの1年の新型コロナウイルスによる死者数は、肝炎ウイルス関連の死者数と比較してどの程度と推定できるだろうか。実は前者は約14000人、後者は約40万人で圧倒的に後者が多いのだが、私たちは新型コロナウイルスの死者数が多いのではないかと思ってしまう。これは前者の報道が頻繁だからである。
そして、このバイアスを生み出すニュースには、良かったことよりは悪かったことのほうがはるかに多いのである。かくして、人々は良い出来事よりも悪い出来事の方が多いという方向への利用可能性バイアスの影響を受け、悲観主義に陥るというわけである。「進歩的知識人」の役割は、この利用可能性バイアスを修正することにあると思うのだが、むしろ人々の性向におもねるようにして、このバイアスに加担している。彼らが果たすべき役割は、過去を評価し、そこから未来に向けてシミュレーションを行っていくうえで、利用可能性バイアスによって隅に追いやられたパラメータを復権させていくことなのではないかと思うのだが、なかなかそういう「進歩的知識人」は現れてくれない。
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