2020年4月23日木曜日

かなりはまる『ダウントン・アビー』 (1)―英国のアイロニー


 先日、アマゾンのプライムビデオから映画版の『ダウントン・アビー』を見ようとして、間違えてドラマ版を見たのだが、これがなかなかおもしろく、かなりはまってしまった。長編シリーズドラマなので、これで当分娯楽に事欠かない。

 ドラマの「ダウントン・アビー」はNHKでも放送されたようだが、私はそのときは残念ながら見ていない。これは、1912年から1925年の英国ヨークシャの架空のダウントン・アビーにおいて、その持ち主のグランサム伯爵クローリー家とその使用人たちの生活を、当時の史実や社会情勢を背景に描いているドラマである。シリーズドラマで、誰が主人公というわけではなく、クローリー家の人々や使用人などのたくさんの登場人物の群像劇で、登場人物それぞれの人生がとても丁寧に描かれている。シリーズの最初の部分では、最近縁の男系男子1人にだけに爵位と財産のすべてを相続させる「限嗣相続制」ルールの中で、3人の娘がいるだけという現グランサム伯爵が、どのようにして相続権がある血縁男子に、娘のうちの誰かを結婚させるという問題がクローズアップされている。もし娘たちが、相続権がある男子と結婚しなければ、すべてこの家から出なければいけないのである。

 このシリーズから私が連想するのは、BBCで長期にわたって放映されている『イーストエンダーズ』である。これは、ロンドンの下町の労働者階級の人々が多く住む東の端、つまりイーストエンドでのさまざまな人々が登場するソープオペラである。イーストエンダーズがロンドンの下層の人々の物語ならば、ダウントン・アビーは上流階級の物語といえ、また時代も異なるのでドラマの背景は大きく異なるはずなのだが、登場人物がそれぞれの文化背景をもっており、些細な出来事や重大な事件を登場人物の人間関係の中で描くというドラマの手法はほとんど同じで、人間って同じなんだということを実感させる。『イーストエンダーズ』は2008年に私が英国に住んでいたときに時々見ていた。しかし、英国に住みながら自分の英語がちょっとは上達していることを実感する中で、人々のコックニーなまりのつよい日常会話は、最後までなかなか理解できなかった。

 『ダウントン・アビー』は、字幕付きで見ているが、20世紀前半の古い英語の言い回しではないだろうか (私はその領域の専門ではないので、あくまで推測である) と思える表現が散見される。また、特に貴族たちの間で、遠回しの当てこすりや皮肉など、文化習慣などのコンテクストを知っていないと理解できない会話が多い (字幕では、それがかなりわかりやすくされていたり、省略されていたりしている)。一般に、丁寧とされるコミュニケーションでは直接的な表現よりも間接的な表現が好まれることが多い。実際に使用されるのかどうかの真偽は定かではないが、京都の「ぶぶ漬けでもいかがどすか」 (「もう帰りなさい」という意味) も同類である。これらは、典型的な高コンテクストコミュニケーションなのである。

 しかし、英国は、コンテクストに依存しない低コンテクストコミュニケーションを規範とする文化の典型であると比較文化研究で推定されている。それであるにもかかわらず、文化背景を共有できる人たちの間で実際に交わされる会話は、極めて高コンテクストコミュニケーションなのだろう。皮肉などのアイロニーは、文化的伝統や教養というコンテクストを使用しなければ通じないし、英国のアイロニー文化はそういう中で生まれてきたということをこのドラマで実感できる。


関連記事


0 件のコメント:

コメントを投稿