2020年4月30日木曜日

おめでとう、笠井信輔さんー悪性リンパ腫闘病の個人的な思い出


 息が詰まるような新型コロナウイルス禍の中で、悪性リンパ腫で入院・闘病をされていたTVアナウンサーの笠井信輔氏の退院は、明るいニュースである。こういうニュースは、同じような病気で闘病する患者の大きな励みになる。私が半年間入院していた2001年には、1998年の脳腫瘍から復活したプロ野球の投手であった盛田幸妃がオールスターで登板している。これは当時の私にとって、非常に大きな励みになった。残念ながら、彼は2015年に再発で亡くなられたが、闘病中の私の恩人の一人だと思っている。一方で、元経済企画庁長官であった高原須美子氏がちょうど2001年の8月に悪性リンパ腫で亡くなられている。実は、このニュースを見た私の家族が、私がこれを知ったらショックを受けるだろうと、できるだけ知ることがないようにしていてくれていたのだが、私は朝のニュースで知ってしまった。ショックを受けたというよりは、ちょっとだけ覚悟を決めたという表現のほうが適切かもしれない。

 悪性リンパ腫にもいろいろな種類があるが、笠井氏の型はほぼ私と同じである。非ホジキンびまん性巨細胞型B細胞リンパ腫で、中高悪性度という分類になる。異なる点が2つあるが、1つは笠井氏の悪性度がちょっと低いこと (当時、私が医師から受けた説明によれば、悪性リンパ腫は、悪性度が高いほうの予後が良いとのことだった。抗がん剤は、細胞分裂が活発な部分を攻撃するので、分裂が活発な高悪性度のほうが効きやすいとのことである。ちなみに、髪の毛が抜ける理由は、抗がん剤が細胞分裂の活発な毛根を攻撃するからであるらしい)、もう1つは、私の場合、非常に珍しい骨の中  (大腿骨骨頭部にちょっとリンパ液が溜まっているところがあるそうだ) が原発だったということである。生存率6割~7割というのは私とほぼ同じで、笠井氏には、退院後は免疫力を高めるような生活を送って活躍していただければと思う。笠井氏が元気になれば、同じ病気で戦っている患者さんたちの大きな励みになるはずである。

 私は、自分自身の退院後は再発の恐怖との戦いになるのかなと思っていたが、意外とそれはなかった。シャバの空気を吸いながら、いろいろな活動を再開できたことの喜びのほうが大きく、仮に再発したとしても、この自由を再び与えてもらえたことに感謝したいと思っていた。退院後、私の場合は股関節を人工骨に置換する手術をしたので、しばらくは自宅リハビリだったが、毎朝起きた時に、「病院じゃない!」と思って、とてもうれしかったのを覚えている。再発のチェックの定期的な検査を受けていて、これまで2度ほど再発の覚悟をきめたこともあるが (一度は、再検査までの間に、入院後のための授業の手当てなどを何人かの方にお願いしていた)、幸い再発ではなかった。このようにして、定年後のプランまで思案することができるとは考えていなかったので、医学の発展には非常に感謝している。私と同世代の医師たちが大学で教育を受けたときは、悪性リンパ腫は不治に近いようだったらしいが、その後の15年の医学の進歩は、それを大きく変えたようだ。私はこのブログで、一貫してグローバル化による発展を支持しているが、それはこのような科学の進歩を鈍化させてほしくないからである。

関連記事

2020年4月27日月曜日

死刑はなぜ廃止されない? ―サウジアラビアのむち打ち刑廃止からの素人的雑感

 425日のニュースで、サウジアラビアの最高裁判所がむち打ち刑の撤廃を発表し、国王および皇太子が進めてきた「人権の進歩」の新たな成果だと称賛したということが報じられた。第二次世界大戦が終わってから、人権意識が世界的に高まる中で、この判断はとてもうれしく思う。身体的な刑罰は、報復感情を満足させるかもしれないが、「報復によってスカッとする社会」ではいけないのだというメッセージになっていると思う。理想とする社会では、半沢直樹は不要とまでは言わないが、一歩退いてもらえればと思う。

 それにつけても考えさせられるのは、日本における死刑制度である。人権先進国であるはずのアメリカにおいてもまだかなりの州でこの制度が残されている。もちろん死刑囚は、少なくとも殺人以上の罪を犯しているし、命をもって償うという考え方にも一理ある。しかし、死刑の恐怖や苦痛はむち打ちの比ではなく、私は人間がここまで人間を裁くことができるのかという疑問は常に持っている。さらに死刑には、冤罪であった場合には取り返しがつかない。

 現在の日本では、死刑と無期懲役の間にはかなり大きな開きがあると思う。そこで私の意見は、死刑に代えて、終身刑を新しく設けることである。ところが、意外なことに、人権について非常に見識があると私が思っているジャーナリストの江川紹子氏は、終身刑に反対で、死刑制度存続派のようである。精力的な取材を行った彼女は、希望がない終身刑のほうが死刑よりも精神的に残酷であると感じているようだ。私は、自分が死刑囚になったことを想像したとき、それが終身刑に変更になったと知らされれば、大喜びなのではないかと思うのだが。

 また、2009年の江川氏の記事では、終身刑のさまざまな問題が指摘されている。終身刑については、死刑の代わりに取り入れている国々からもっと学ぶことができると思うのだが、私を含めて多くの人々には、むしろ終身刑がパラダイスを提供することになることの危惧が大きいかもしれない。死刑囚は拘置所に収容されており、扱いは未決囚と同じで、矯正のための労働等はない。終身刑も社会復帰のための矯正原則が適用されないので、もし死刑囚と同じような処遇で三食付きなら受刑者に非常にありがたいことになる。何らかの苦役は必要なような気がする。また、病気になったときに最高に近い医療が受けられるとすれば、それはもう一つの大きな問題である。とくに、莫大な金額を要する治療だったりすれば、多くの人はそれを理不尽と感ずるだろう。終身刑を制度化するときには、受刑者が受けることができる治療の上限を決めることは重要だろう。認知症等になったときにも、どのような処遇にすべきか制度として明確にしておく必要があるだろう。私は、現時点で明確な考えがあるわけではないが。

 ここでちょっと思考実験をしてみて欲しい。あなたは死刑判決を受け、拘置所にいるとする。これまでの慣習から、そろそろ執行があってもおかしくなく、毎日執行に怯えている。ところが、あるとき末期のガンで余命1か月と診断された。あなたは、この診断でより絶望を感じるだろうか、それとも「これで恐怖の首吊りにならなくて済む」とほっとするだろうか。私は、緩和医療を受けることができるなら、断然後者である。

2020年4月23日木曜日

かなりはまる『ダウントン・アビー』 (1)―英国のアイロニー


 先日、アマゾンのプライムビデオから映画版の『ダウントン・アビー』を見ようとして、間違えてドラマ版を見たのだが、これがなかなかおもしろく、かなりはまってしまった。長編シリーズドラマなので、これで当分娯楽に事欠かない。

 ドラマの「ダウントン・アビー」はNHKでも放送されたようだが、私はそのときは残念ながら見ていない。これは、1912年から1925年の英国ヨークシャの架空のダウントン・アビーにおいて、その持ち主のグランサム伯爵クローリー家とその使用人たちの生活を、当時の史実や社会情勢を背景に描いているドラマである。シリーズドラマで、誰が主人公というわけではなく、クローリー家の人々や使用人などのたくさんの登場人物の群像劇で、登場人物それぞれの人生がとても丁寧に描かれている。シリーズの最初の部分では、最近縁の男系男子1人にだけに爵位と財産のすべてを相続させる「限嗣相続制」ルールの中で、3人の娘がいるだけという現グランサム伯爵が、どのようにして相続権がある血縁男子に、娘のうちの誰かを結婚させるという問題がクローズアップされている。もし娘たちが、相続権がある男子と結婚しなければ、すべてこの家から出なければいけないのである。

 このシリーズから私が連想するのは、BBCで長期にわたって放映されている『イーストエンダーズ』である。これは、ロンドンの下町の労働者階級の人々が多く住む東の端、つまりイーストエンドでのさまざまな人々が登場するソープオペラである。イーストエンダーズがロンドンの下層の人々の物語ならば、ダウントン・アビーは上流階級の物語といえ、また時代も異なるのでドラマの背景は大きく異なるはずなのだが、登場人物がそれぞれの文化背景をもっており、些細な出来事や重大な事件を登場人物の人間関係の中で描くというドラマの手法はほとんど同じで、人間って同じなんだということを実感させる。『イーストエンダーズ』は2008年に私が英国に住んでいたときに時々見ていた。しかし、英国に住みながら自分の英語がちょっとは上達していることを実感する中で、人々のコックニーなまりのつよい日常会話は、最後までなかなか理解できなかった。

 『ダウントン・アビー』は、字幕付きで見ているが、20世紀前半の古い英語の言い回しではないだろうか (私はその領域の専門ではないので、あくまで推測である) と思える表現が散見される。また、特に貴族たちの間で、遠回しの当てこすりや皮肉など、文化習慣などのコンテクストを知っていないと理解できない会話が多い (字幕では、それがかなりわかりやすくされていたり、省略されていたりしている)。一般に、丁寧とされるコミュニケーションでは直接的な表現よりも間接的な表現が好まれることが多い。実際に使用されるのかどうかの真偽は定かではないが、京都の「ぶぶ漬けでもいかがどすか」 (「もう帰りなさい」という意味) も同類である。これらは、典型的な高コンテクストコミュニケーションなのである。

 しかし、英国は、コンテクストに依存しない低コンテクストコミュニケーションを規範とする文化の典型であると比較文化研究で推定されている。それであるにもかかわらず、文化背景を共有できる人たちの間で実際に交わされる会話は、極めて高コンテクストコミュニケーションなのだろう。皮肉などのアイロニーは、文化的伝統や教養というコンテクストを使用しなければ通じないし、英国のアイロニー文化はそういう中で生まれてきたということをこのドラマで実感できる。


関連記事


2020年4月16日木曜日

グローバル化と新型コロナウイルス禍―ユヴァル・ノア・ハラリの提言

 私自身は、グローバル化には基本的に賛成である。グローバル化の対極が自給自足だが、人類は、交通手段や通信手段を通してグローバル化を目指し、それが高度な分業と専門化を促して現在の繁栄をもたらしている。さらに、国家間のグローバル化は、経済・産業的相互依存をもたらし、この相互依存が戦争の大きな抑止力になっている。反資本主義的イデオロギーからは、各国の弱い産業を衰退させて「貧富の格差が増大する」という批判もあるが、世界全体から見れば、グローバル化の恩恵によってかなりの国において貧困が著しく改善されている。このことは、拙著『「生きにくさ」はどこからくるのかー進化が生んだ二種類の精神システムとグローバル化』の中でも、Adapting human thinking and moral reasoningにおいても主張してきたことである。

 そんな私でも、この世界的なコロナウイルス禍については、グローバル化の大きなマイナス面であり、少しは見直す必要もあるのかと思った。しかし、『サピエンス全史』の筆者であるユヴァル・ノア・ハラリによる、「この厄災もグローバル化によって解決」というメッセージには説得力がある。当然のことかもしれないが、産業だけではなく、グローバル化による科学・学術の発展は計り知れないものがある。情報科学の発展は誰の目にも明らかだが、そのテクノロジーによって、他の領域もその恩恵をかなり受けている。1990年代前半には、画像一つ見るにも数十秒要していたインターネットも、おそろしく高速になり、国境を越えて研究者間の情報共有が可能になった。情報伝達が大量かつ迅速になると、ある研究者のアイデアが別の研究者によって具体化され、それがさまざまな研究者に伝わるというように、発信・受信の相互ネットワークが緊密になり、それがイノベーションや研究の発展を加速してくれるのである。新型コロナウイルス禍によって、人的な移動などの物理的なグローバル化は一時的に停滞するが、情報のグローバル化は、現状況の解決をもたらしてくれると確実に期待できる。

 私の大学もそうなのだが、前期の科目を遠隔授業にする大学が多い。それで、私もスカイプ以外にあまり利用してこなかったZoomなどのウェブ会議のシステムを利用し始めたのだが、これが便利である。授業の開始は5月からではあるが、すでに卒論演習と大学院演習で使用してみたのだが、悪くはない。いわゆる文科系で、このようなウェブ会議システムに無関心だった教員も、必死に使用法を学んでいる。今年は、海外においても国内においても学会が次々とキャンセルになっているが、これを使えば、かなりグローバルに意見・情報交換ができそうだ。ヨーロッパでペストが流行して、ニュートンのような自宅に逼塞している研究者たちから革新的なアイデアが生まれたというエピソードがあるが、新型コロナウイルス禍は、遠隔ウェブ会議革命をもたらし、遠隔地同士の研究のグローバル化を促進させたという事例として、50年後あるいは100年後に語り継がれるということになるかもしれない。

2020年4月4日土曜日

ザ・デイ・アフターー新型コロナウイルス禍の後は?


 武漢でウイルスによる肺炎が流行しているようだというニュースを聞いたとき、私もまさかその後、世界がこのような惨状になるとは夢想だにしていなかった。当初は、空気感染しないということや、致死率の低さから、それほど恐れる必要がないのではないかとも思っていた。しかし、感染力の強さは尋常ではなく、感染が大きく拡大している。とくに、感染者の急増と病院内での医療従事者の感染による医療崩壊のリスクは非常に高く、医療崩壊すれば医療が受けられない感染者が増え、治療を受けられなければ致死率が跳ね上がる可能性もある。ということで、京都から大阪に通勤する私自身もかなりの恐怖を感じている。

 短期間で終息させる最良の方法は、人と接する機会をことごとく遮断することだろう。しかし、これでは生活が成り立たなくなるということで、現在の政府は、「自粛」を促して、経済は完全にストップさせず、とにかく医療崩壊を起こさないようにすることを第一目標にしているようだ。ピークを先送りして感染が集中しないようにして、そのうちに治療方法が開発されると考えているのかもしれない。

 しかし、イタリアやスペイン、あるいはアメリカのニューヨークを見ていると、これで良いのだろうかという疑念も湧く。イタリアやスペインでは、感染者が頭打ちになったとも聞くが、最悪の状況として、多くの人々が感染し、医療崩壊が起こり、医療を受けられない患者が増えて致死率が10パーセント以上になるだけではなく、それ以外の病気を抱えた患者の死亡率も上昇するという可能性も十二分にある。治療できるリソースが限られてくれば、「死んでもいい人」と「治療する人」に分類するトリアージを適用しなければいけなくなるかもしれない。これは地獄を見ることになる。

 感染者が人口の過半数を大きく上回り、多くの人々が免疫を持てば、この事態は収束するだろう。しかし、高齢者や医療弱者を中心にかなり人が亡くなり、人口も減少する。ところが、高齢者人口比率問題を抱え、年金と医療費が頭痛の種である国にとっては、これは幸いかもしれない。このザ・デイ・アフターの可能性は、ヨーロッパにおいて猛威を振るったペストを連想させる。1415世紀の大流行の後はヨーロッパの人口が半分くらいになったようだ。いたるところにもう助からない患者や死骸が横たわっている惨状は、地獄絵のように多くの絵画に描かれている。ところが、経済統計学者によると、ペストが去った後は、人々は豊かになったらしい。つまり、土地にむすびつく資産・資源が限られている状況で、人口が減ると、残された一人一人は豊かになるというわけである。そして、この豊かさがルネッサンスの要因の一つだともいわれている。

 この豊かさを伴ったザ・デイ・アフターの到来を望む気持ちは、日本あるいは世界の国々の為政者や人々の心の片隅に居座っていないだろうか。弱者切り捨ての優生保護の悪魔からのこのささやきに、お願いだから抵抗してほしいものである。