2022年2月3日木曜日

『馬・車輪・言語』を読む(1)―中央アジアの草原にて

  ジャレド・ダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』では、ユーラシアの文明的発展の大きな要因の1つとして、長距離移動や輸送に利用できるウマの存在が指摘されている。その時点で、私は、野生のウマがいてそれが家畜化されたとしても、中央アジアの草原自体ではあまり文明的発展がなく、どのようにそれがユーラシアの発展に結びついたのかという素朴な疑問を抱いた。また、梅棹忠夫『文明の生態史観』では、中央アジアの草原や砂漠は、野蛮と暴力の根源のような描かれ方をしている。そこで、「ウマの家畜化がメソポタミアやギリシャ・ローマ世界に伝わり、そこで文明が花開いた」というのが、この矛盾に折り合いをつけるための私の想像だった。しかし、デビッド・アンソニーの『馬・車輪・言語』を読むと、これが間違いだったことがわかる。

 中央アジアの考古学の成果が知れわたるようになったのは、ソビエト連邦崩壊の後で、特にここ20年程の間 (したがって『銃・病原菌・鉄』が出版された1997年にはまだあまり知られていない) に、様々な発見が西側諸国に知られるようになったようだ。黒海北部からウラル山脈にかけての草原や砂漠には野生種のウマがいたが、それが家畜化されたと推定されるのがBC4800年ころである。これを突き止めたのは、著者のアンソニーで、彼は、ハミ痕があるウマの骨の分析からこの時代を推定している。ヒツジ、ヤギ、ブタ、ウシの家畜化よりは遅いようだ。乗馬の起源は、BC43004000年と推定されており、たとえば、牧羊犬を1匹連れていれば200匹のヒツジを管理できるが、それに騎乗が加わると、管理できるヒツジは500匹に増えるらしい。

 この乗馬以降の最も大きな発明は車輪であり、車輪をつけた荷車をウマに引かせると、これまでよりはるかに効率的に食糧や物資を輸送することが可能になる。この地域は、騎乗開始以前から銅の交易が盛んだったが、四輪荷車をウマに引かせることによって交易が益々盛んになったと推定できる。

 乗馬は戦いにも有利である。この時代のこの地域では大きな戦争があったわけではないが、部族間の闘争において、ウマを使用すると襲撃と逃走に断然有利になる。さらに、この騎馬牧畜民は農耕社会も攻撃するようになるが、この構図は、貧しい牧畜民が豊かな農耕社会を寄生的に攻撃するというものではない。この牧畜民たちは、草原からの豊富な食料と金属細工の技術を持つ豊かな人々であった。人類で最初の都市を築いた豊かなメソポタミアに対しても、襲撃してくる野蛮人というわけではなく、豊富な地下資源で、ウルクなどの都市における銅、金、銀の需要を満たしていたようだ。

 かれらの、いわゆる騎馬民族の、武力を伴った居住地の拡張が、古ヨーロッパの終焉といえる大惨事を引き起こしたと考えられている。それまで、黒海北部の草原の西に位置するドナウ川流域では、ビーナスと呼ばれる女性小像が多かった、それが作られなくなった。明らかに騎馬民族の侵入によるものである。さらに、BC2100年ごろに、チャリオットと呼ばれる二輪戦車が戦争に使用されるようになり、彼らの軍事的優位はさらに高まることになった。彼らはたしかに戦闘では強く、その結果として侵入に有利だったようだが、野蛮人が文明人を襲ったというわけではなさそうだ。なお、下の写真は、チャリオットを使用したライオン狩りを描いたアッシリアのレリーフで、私が大英博物館で撮ったものである。BC700年ころと推定されていて、時代は随分と新しい。



2022年1月30日日曜日

『善と悪のパラドックス―人の進化と自己家畜化の歴史』を読む (2)―いとこたちの専制

  前回の記事で家畜化の特徴についてまとめてみたが、本記事では、ヒトがどのようにして自己家畜化されたのか、『善と悪のパラドックス』の筆者のリチャード・ランガムの主張からまとめてみたい。

 進化の上で参考になるのは、ボノボとチンパンジーの対比だろう。彼らが進化的に分岐したのは約300万年前で、遺伝子上極めて近い種同士である。にもかかわらず、ボノボは、チンパンジーと比較して犬歯が小型化し、極めて攻撃性が低い。ランガムによれば、ボノボの非攻撃性の進化の大きな要因は生息地で、ボノボが棲むコンゴ川南岸は、山地が少なくゴリラがいないようである。そうすると攻撃性が強いゴリラと争う必要がなく、食べ物を仲間と分け合う習慣や、「ホカホカ」と呼ばれるメス同士の同性愛的行動が生まれたという可能性が指摘できる。さらに、このメス同士の同盟は、チンパンジーに見られるようなオスの暴力を抑制する力となり、攻撃性が抑制されてきたのではないかと推察できる。暴君のオスは、メス全体から排除されるというわけだ。

 ヒトの場合も、このような弱い立場とされる側が同盟によって強者の暴力を抑え込むことができたことが、自己家畜化の大きな要因であろう。この視点は、処刑仮説としてまとめられる。つまり、横暴な暴君が、被支配者側の同盟によって処刑されるという慣習によって、攻撃性が抑制されたとする仮説である。文化人類学などの調査の成果から、概して、小規模狩猟採集社会は、私たちが想像する以上に比較的平等で自由なようだ。しかし、この平等は、暴君などに対する私刑あるいは死刑によって支えられていると考えられている。このような社会では、死刑は秘密裡に行われ、関係者以外は、横暴な首長が消えたという事実しか分からないらしい。そして、暴君は殺されるらしいという噂だけが人々の間に伝えられて、「食べ物の独り占めは止めよう」などのモラルが浸透していく。

 これは、アーネスト・ゲルナーの用語を借用すれば、「いとこたちの専制」である。つまり、王を取り巻く実力者たち (古代社会では、いとこである場合が多いようだ) が、王を暴君にしないように見張り、権力がだんだんと集団合議制に移っていくという現象である。この「いとこたち」の代わりに、ボノボと同じように、女性の同盟によって暴君が処罰される場合もあったと思われる。ちなみに、本年度の大河ドラマである『鎌倉殿の13人』もそれに当てはまるかもしれない。なお、処刑仮説に対して、首長が集団内の評判を気にして攻撃性を抑制するという評判仮説も有力とされてはいる。しかし、大きな権力を握った暴君は評判を気にしないのでこの影響は少ないはずという問題点がこの仮説にはある。

 さらにヒトの場合は、社会的哺乳類として進化する中で、高い知能、高度な協調性、社会的学習といった能力を身につけた。これらの能力が、攻撃性はペイしないということの学習を可能にし、それが抑制されてきたのだろう。

 

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『善と悪のパラドックス―人の進化と自己家畜化の歴史』を読む (1)―家畜化の特徴

2022年1月20日木曜日

『善と悪のパラドックス―人の進化と自己家畜化の歴史』を読む (1)―家畜化の特徴

  これまで、ヒトにおける暴力や殺人がどのように歴史的に減少してきたのかを、二重過程理論における熟慮的システムによる攻撃性の制御として、私自身、いろいろと書いたり話したりしてきた。しかし、ヒトの進化レベルでの攻撃性の減少についての知識は空白のままだったので、リチャード・ランガムの原著 (The goodness paradox) の日本語訳が出版されたのを幸い読んでみることにした。

 ヒトは、ネコ、イヌ、ウシ、ウマ、ヒツジなどを家畜化してきたが、ヒトの攻撃性の減少に至る進化は、自己家畜化と呼ばれている。ヒトの進化における大きな特徴は、反応的攻撃の低下である。反応的攻撃は、能動的攻撃と区別され、挑発などへの反応としての攻撃で、衝動的である。一方、能動的攻撃は、計画された熟慮的な攻撃であって、家畜化によって抑制されるわけではない。反応的攻撃は、どちらかというと防御的で、多くの動物にも見られるが、ヒトの場合は、たとえばカッとなって殺人を犯してしまうような例があてはまり、感情を抑制する前頭前皮質の活動が不活発であることが一因である。一方、能動的攻撃は、たとえばネコ科の動物の狩猟があてはまる。この場合、獲物あるいは犠牲者への感情移入は起こらず、行動の後悔もない。ヒトでは、能動的攻撃を抑制する扁桃体の不活発がみられるサイコパスの攻撃が代表的な例になる。この攻撃性は進化的に抑制されず、ヒトにおいては、大規模な戦争やジェノサイド、計画的殺人として残っているというわけだ。

 家畜化についてのよく知られた実証的研究は、1950年代に行われたベリャーエフのものである。毛皮になるギンギツネの養殖で、おとなしい個体を掛け合わせ続けると、3035世代で、7080パーセントが従順になるという結果が知られている。また、おとなしくなると、星形変異と呼ばれる白いぶちが現れるのだが、これは神経堤細胞と呼ばれる細胞群の遊走パターンの変化によると推定されている。家畜化で遊走が止まると、メラニン色素を作らなくなって白いぶちが現れるようだ。

 自己家畜化によって、ヒトは、ペドモルフォーシス (幼形進化) と呼ばれる進化をたどってきた。これは、恐怖に対する反応が強くなる年齢の遅れ、遊び好き、学習の測度・効率の上昇を伴っている。さらに、協調的コミュニケーションに優れるようになるが、これはイヌやネコにも見られている。たとえば、 イヌはヒトの指差しをある程度理解でき、協調的コミュニケーションが可能である。ところが、イヌよりもはるかにヒトに近いはずのチンパンジーにはこの理解ができない。つまり、ヒトとの協調的コミュニケーションが可能かどうかは、ヒトに近い知能を持っているか否かよりも、家畜化によるペドモルフォーシスが重要というわけだ。

 以前の記事で、中央アジアにいたウマはヒトに馴れるが、アフリカのシマウマは絶対に人間に馴れないという理由を知りたいと述べた。つまり、「人間に馴れる」とはどういうことなのかを知りたかったのだが、本書はそれに現時点での研究成果による回答を与えてくれている。

 

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「哺乳動物が人間に馴れる」とは?

2022年1月2日日曜日

理論心理学会第67回大会を開催しました (2)―実行機能とメタリーズニング

  大阪市立大学で開催された理論心理学会第67回大会では、企画されたものとして、理事会企画シンポジウムのほか、準備委員会企画シンポジウムと基調講演が行われた。準備委員会企画シンポジウムは、菅村玄二先生と私が企画したもので、学際的研究が理論によって触発されるということを示すために、3名の話題提供の先生に、実行機能が理論として各領域での事象を説明するのに用いられていることをテーマにお話ししていただいた。実行機能とは、ワーキングメモリの下位システムの1つである中央実行系の働きとされ、情報の更新やルールのシフト、および自動的な出力の抑制が主たる機能とされている。

 実際、実行機能は多くの領域で「理論」の役割を果たしている。知能心理学では、IQテストに反映される一般知能とは何かという問題が議論されてきたが、実行機能はその有力な候補である。思考心理学では、不良定義問題における計算の爆発に対する限界認知容量という概念が求められて来たが、実行機能はそれにフィットする。また、感情・欲求心理学や臨床心理学では、セルフコントロールが議論されているが、実行機能が大きな役割を果たしていることが提唱されている。神経基盤研究では、実行機能は前頭前野の局在が推定されている。さらに、哲学の重要な課題である「意識という難問」に対して、ワーキングメモリや実行機能は、何らかの視点を与えている。シンポジウムでは、関口理久子先生からはさまざまな行動パフォーマンスの予測理論として、川邉光一先生からは精神疾患モデル動物の行動を説明するための理論として、また、土田宣明先生からは加齢変化を説明するための理論として、実行機能が議論された。もちろん記憶研究者によって実行機能自体が説明対象ともなるが、このシンポジウムではその言及よりも、実行機能がどのようにグランドセオリー足りうるのかという点が追及されていた。

 基調講演は、時差が7時間のイスラエルからインターネットのライブで、Rakafet Ackerman先生が、Meta-Reasoning: How do people allocate their thinking efforts?というタイトルでお話しされた。人間が推理を行うときに、どのように心的努力を割り振るのかという判断が、推理のための推理ということでメタリーズニングと名前を付けられている。この働きを説明するために、二重過程理論では熟慮的システムのメタ部門である内省的なモニタシステムが想定されている。概してこの判断は、直感的で暫定的な解答への過剰確信によって歪められ、それ以上の熟慮的努力が注がれない結果となる。私自身は、この過剰確信にどういう意味での合理性があるのか個人的に知りたかったが、横道にそれてしまうからなのかこの点への追及はなかった。過剰確信は、おそらく実行のエネルギーになると同時に、周囲を説得・同調させるという点で適応的なのだろう。勝ち目がない戦いでも、メンバー全員が勝てると過剰確信していると、勝利する場合もある。

 心理学の研究は、それぞれの領域での精緻的な実証と理論化は重要である。しかし、ある程度の成果が集まれば、どきどきは振り返ってその背景にあるグランドセオリーは何なのかを思索するのも楽しい。理論心理学会は、その楽しみを追求できる学会なのではないかと思う。

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理論心理学会第67回大会を開催しました (1)―理事会企画シンポジウム「共感覚と多感覚統合」

2021年12月12日日曜日

理論心理学会第67回大会を開催しました (1)―理事会企画シンポジウム「共感覚と多感覚統合」

  去る1127日と28日に、大阪市立大学で日本理論心理学会第67回大会を開催した。理論心理学会は、心理学系の中では日本で3番目に古いが、会員数は多くはない。心理学の研究者で、「社会心理学」や「認知心理学」が専門という人はそれぞれの学会を主戦場にしていると思うが、「理論心理学」が専門という人はほとんどいない (私もそうではない)。そうすると、「○○心理学会」が乱立する中で、理論心理学会まで足を延ばす人はどうしても少なくなるというのが現状だろう。

 しかし、この学会は、日本の心理学のレジェンドのような先生が会員に多く、少人数でそのような先生方と議論できるという非常に恵まれた学会であるということを、今回改めて認識できた。67回大会は、6件の口頭発表以外に、理事会企画シンポジウム、準備委員会企画シンポジウム、基調講演が企画されたが、全体的にはこじんまりとしたものであった。

 理事会企画シンポジウムは、楠見孝先生の企画によるもので、「共感覚と多感覚統合」がテーマである。出発点は、「黄色い声」のように、ある感覚を表すのに異なるモダリティの表現が用いられるという共感覚比喩の解明である。なぜ聴覚的特徴を表すのに、「黄色い」のような視覚的モダリティの表現が借用されるのか。その回答の1つに、共感覚がある。つまり、そのような声を聴くと、黄色い色が見えてくるという共感覚によって生じているのではないかという解釈である。しかし、話題提供者の横澤一彦先生によれば、実際には、そのような共感覚も持ち主は決して多いわけではない。そこで提唱されるのが、共感覚の有無という二分法でとらえるのではなく、その強弱の問題として一次元でとらえる視点である。この一元論者たちは、共感覚より弱い感覚間協応という現象に目をつけたが、これを弱い共感覚と位置付けたわけである。感覚間協応とは、音の高低と色の明暗の対応で、これは多くの人に共通で見られる現象である。

 しかし、横沢一彦先生が実証された共感覚の特異性や、もう一人の話題提供者である日高聡太先生の多感覚統合についての知見から、この一元論には無理があるという暫定的結論が下されるに至った。共感覚比喩、感覚間協応、共感覚を一次元でとらえるのではなく、二元論あるいは多元論でとらえて、それぞれにおける認知的メカニズムを解明していくという方向づけがより適切な研究戦略ではないかということが提唱されたわけである。とくに、それぞれにおいて特有な個人差や、自閉症あるいは自閉症スペクトラムとの関係が見いだされていることを踏まえると、シンプルで魅力的な一元論は棄却せざるを得ない。これらの研究は、ここで終わりというよりは、むしろ更なる困難が待ち受けているという印象であった。それを聴衆とともに確認できたというのは、非常に有意義であったと思う。

 なお、理事会企画シンポジウム以外の企画については、次の機会に触れてみたい。

2021年11月30日火曜日

京都サンガJ1昇格

  J1J2を行き来するエレベータークラブと言われながら、2011年にJ2に降格して以来、11年ぶりに京都サンガのJ1昇格が決まった。この11年間、惜しい時もありまた迷走した時もあったが、この春から指揮をとった曹貴裁監督のもと、見違えるようなチームになり昇格にたどり着いた。2019年には中田一三監督のパス&ポゼッションで面白いサッカーになったが、後半になって相手に研究されだすと勢いは止まった。2020年の實好礼忠監督がそれを修正したチームを作ろうとしたが、残念ながら不調に終わった。

 曹貴裁監督のサッカーは、豊富な運動量に支えられた、ハイプレスで攻守の切り替えが非常に速いサッカーである。最も得意とする攻撃のパターンは、ハイプレスからボールを奪ってのショートカウンターで、この切れ味は抜群だった。しかし思い返せば、2008年のユーロ大会、2012年のワールドカップを制覇したスペインのパス&ポゼッションサッカーは華麗で見ていて面白く、かつ強かった。私は、これがサッカーの完成形で、当時はこれ以上強くなりようがないのではないかと思った。実際、同じようなスタイルのバルセロナやマンチェスター・ユナイテッドは、面白いようにパスが回るサッカーで相手を翻弄していた。しかし、このようなサッカーは、いくらボールを保持していても、決定力が弱いと縦に速い攻撃に脆い。とくに守備を固めてカウンターを狙われたり、ハイプレスをかけられたりすると、ボロが出てくる。現在、縦の速さのために最も組織化されているのはマンチェスター・シティではないかと思うが、攻守の切り替えが速く、攻撃時には一気に前線にボールが運ばれるサッカーは、非常にエキサイティングである。

 ただし、曹貴裁監督が目指しているのは、マンチェスター・シティというよりはリバプールで、ユルゲン・クロップのサッカーを目標にしているようだ。リバプールと同じ4-1-2-3のフォーメーションで、両SBを高めにとり、アンカーに運動量があってボール奪取がうまい川崎颯太を置いている。3トップは、松田天馬、ピーター・ウタカ、宮吉拓実で、カウンター時には縦に速く、相手の守備が整った状態では、サイドからの崩しというのが基本のようだった。ただし、リバプールと比較すると3トップの破壊力が足りない。リバプールのサラー、マネ、ジョッタのような得点力は京都には欠けていた。松田天馬は、曹貴裁監督のサッカーを具現化するキープレーヤーだと思ったが、得点力という点では物足りなかった。むしろ松田には、2列目で動き回られるほうが、相手にとっては嫌なのではないかと思う。

 来季は久しぶりのJ1である。強化部はすでにJ1で戦うための選手の補強に動いているようだが、来季はどのようなサッカーを見せてくれるのか、曹貴裁サッカーがどのように完成されていくのか、今から楽しみにしたい。

 

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めざせJ1昇格―2020年シーズンの京都サンガ

2021年11月12日金曜日

人間は論理的か―『心理学理論バトル』の章

  繫桝算男先生編纂による『心理学理論バトル』9月に新曜社から出版された。これは、心理学におけるさまざまな領域における論争を「バトル」として紹介したもので、私もその中の章を執筆させていただいた。出版前から、「ピアジェ対ヴィゴツキー」(2)、「進化心理学対文化進化論」(5)、「文化心理学対適応論」(7)、「形式的合理性対実質的合理性」(9)などを特に楽しみにしていたが、いずれも期待に違わなかった。

 私は「人間は論理的かー進化心理学と二重過程理論」(8)を担当した。人間の思考が論理的なのかどうかは、古典的な哲学以来の伝統的論争である。認知心理学においては、人間がどのような内容にも適用できる抽象的な論理スキーマをもつのかどうかという論争 (もつならば「論理的」である) が、197080年代には、まずそのようなスキーマが領域固有なのか領域普遍なのかという議論に発展した。「論理的」という主張は領域普遍側に結びついている。

 1980年代は、論理課題にどのような内容が織り込まれるかによって正答率が異なるという内容効果がこの領域固有性として説明され、これを進化心理学はモジュールを想定することによって説明した。モジュールとは、入力から出力までが迅速で固定的かつ自動的なシステムで、特定の領域にのみ敏感である。たとえば論理的思考では、社会的交換場面という領域に反応して違反に敏感な「社会的交換モジュール」が知られている。違反があれば「偽」と判断できるからであるが、これは「人間が抽象的な論理的思考能力をもつ」という主張とは真逆である。

 進化心理学は、ヒトの認知機構をモジュールの集まりと考えているが、二重過程論者は、これを直感的システムと位置づけ、それに直感からの出力を修正できる熟慮的システムを想定している。したがって、論理的か否かというバトルは、この熟慮システムを認めるか否かという議論に発展したわけである。進化心理学側は、このようなシステムが原理的に進化によって形成されないとし、二重過程理論側は、進化によって増大した処理容量がこれを可能にしたと主張した。

 現在、二重過程理論の大きな論争の1つに、この熟慮的システムが直感的システムの非合理的な出力をどの程度修正可能なのかという議論に発展している。つまり、「論理的」と主張する側は、修正が可能と考えている。私の章では、ひょっとしたら読者は、おそろしく議論が飛躍したなと感じられたかもしれないが、これを「歴史的自然実験」で検証している。ここまで来るともうすでに「論理的か否か」を超えて、「規範的か否か」に問題がすり替わっているのだが、道徳的規範に従うという点で、17世紀後半から18世紀の啓蒙の時代と、第二次世界大戦以降の人権意識の高まりに焦点をあてている。すなわち、これらの歴史的変化を熟慮的システムによる制御の現れとして解釈し、人間は完全な論理性が保証されているのかどうかはわからないが、少なくとも歴史的には規範的になってきていると結論づけた。