ジャレド・ダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』では、ユーラシアの文明的発展の大きな要因の1つとして、長距離移動や輸送に利用できるウマの存在が指摘されている。その時点で、私は、野生のウマがいてそれが家畜化されたとしても、中央アジアの草原自体ではあまり文明的発展がなく、どのようにそれがユーラシアの発展に結びついたのかという素朴な疑問を抱いた。また、梅棹忠夫『文明の生態史観』では、中央アジアの草原や砂漠は、野蛮と暴力の根源のような描かれ方をしている。そこで、「ウマの家畜化がメソポタミアやギリシャ・ローマ世界に伝わり、そこで文明が花開いた」というのが、この矛盾に折り合いをつけるための私の想像だった。しかし、デビッド・アンソニーの『馬・車輪・言語』を読むと、これが間違いだったことがわかる。
中央アジアの考古学の成果が知れわたるようになったのは、ソビエト連邦崩壊の後で、特にここ20年程の間 (したがって『銃・病原菌・鉄』が出版された1997年にはまだあまり知られていない) に、様々な発見が西側諸国に知られるようになったようだ。黒海北部からウラル山脈にかけての草原や砂漠には野生種のウマがいたが、それが家畜化されたと推定されるのがBC4800年ころである。これを突き止めたのは、著者のアンソニーで、彼は、ハミ痕があるウマの骨の分析からこの時代を推定している。ヒツジ、ヤギ、ブタ、ウシの家畜化よりは遅いようだ。乗馬の起源は、BC4300~4000年と推定されており、たとえば、牧羊犬を1匹連れていれば200匹のヒツジを管理できるが、それに騎乗が加わると、管理できるヒツジは500匹に増えるらしい。
この乗馬以降の最も大きな発明は車輪であり、車輪をつけた荷車をウマに引かせると、これまでよりはるかに効率的に食糧や物資を輸送することが可能になる。この地域は、騎乗開始以前から銅の交易が盛んだったが、四輪荷車をウマに引かせることによって交易が益々盛んになったと推定できる。
乗馬は戦いにも有利である。この時代のこの地域では大きな戦争があったわけではないが、部族間の闘争において、ウマを使用すると襲撃と逃走に断然有利になる。さらに、この騎馬牧畜民は農耕社会も攻撃するようになるが、この構図は、貧しい牧畜民が豊かな農耕社会を寄生的に攻撃するというものではない。この牧畜民たちは、草原からの豊富な食料と金属細工の技術を持つ豊かな人々であった。人類で最初の都市を築いた豊かなメソポタミアに対しても、襲撃してくる野蛮人というわけではなく、豊富な地下資源で、ウルクなどの都市における銅、金、銀の需要を満たしていたようだ。
かれらの、いわゆる騎馬民族の、武力を伴った居住地の拡張が、古ヨーロッパの終焉といえる大惨事を引き起こしたと考えられている。それまで、黒海北部の草原の西に位置するドナウ川流域では、ビーナスと呼ばれる女性小像が多かった、それが作られなくなった。明らかに騎馬民族の侵入によるものである。さらに、BC2100年ごろに、チャリオットと呼ばれる二輪戦車が戦争に使用されるようになり、彼らの軍事的優位はさらに高まることになった。彼らはたしかに戦闘では強く、その結果として侵入に有利だったようだが、野蛮人が文明人を襲ったというわけではなさそうだ。なお、下の写真は、チャリオットを使用したライオン狩りを描いたアッシリアのレリーフで、私が大英博物館で撮ったものである。BC700年ころと推定されていて、時代は随分と新しい。
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