2020年8月15日土曜日

かなりはまる『ダウントン・アビー』 (3)―貴族の価値観と労働運動、それぞれの人生

 『ダウントン・アビー』は、現在NHKBS放送で放映されているが、私はアマゾンプライムですべて見終え、続編として位置づけられている映画版も見た。全体を眺めてみると、第一次世界大戦あるいはそれに付随する出来事によって生じた社会的変化が、いかに英国の貴族社会に大きな影響を与えていたかが実感できる。ドラマがスタートした当初は、長女メアリーの結婚が、最近縁の男系男子1人にだけに爵位と財産のすべてを相続させる「限嗣相続制」ルール (このルールは貴族だけで、王室は例外のようだ) に踊らされているという印象で、グランサム伯爵の「そこにあるから守る」という言葉に彼らの価値観が集約されているように思えた。

 しかし、第一次世界大戦のころから、大きな領地をもってそこで小作人に農業をさせてその収入で生計をたて、使用人を雇ってその地方の雇用に貢献するという従来の方法では貴族社会が立ち行かなくなってきていた。そうした中で、家族や使用人たちの価値観や意識が徐々に変化しだしてきた。出産時に亡くなったが、三女のシビルが当時英国の植民地だったアイルランド出身の労働者階級の使用人であるブランソンと結婚した。また、次女のイーディスは、大戦中に自分も貴族の生活よりも社会貢献がしたいと、従軍看護を願い出たりしていた。このような状況で「何が重要で、何が重要ではないかが見えてくる」というセリフは、現在のコロナウイルス流行という状態ででも言えることかもしれない。

 このような変化において、夫人がアメリカの成金出身という設定は重要だろう。グランサム伯爵夫人のコーラの母は、自由な商業活動に価値を置き、英国の貴族制度にはかなり批判的だった。また、使用人の中にも、労働運動などを通して教育の価値に目覚める人たちが現れはじめた。最後まで保守的だったのは執事のカーソンで、使用人たちがかつての価値観から外れていくことを嘆いていた。しかし、「こういうことをしていたら使用人がいなくなる」という彼のセリフに対し、カーソンの妻になった家政婦長のヒューズの、「使用人自体がいなくなるような社会が来ればいいのよ」という返答が非常に印象に残っている。

 最後に特筆すべきは、このドラマの俳優・女優陣の豪華さだろう。とくにグランサム伯爵の母親を演じたマギー・スミス (日本人には、『天使にラブソングを』の修道院長として最も知られているのではないだろうか) は、アイロニーの中に強烈な厭味を含む貴婦人であると同時に、愛情豊かな毅然とした人間という難しい役を見事に演じている。長女メアリーの事故死した前夫の母親で、貴族社会に批判的なイザベルを演じたペネロープ・ウィルトンとの掛け合いは、今にも飛び散りそうな火花がお互いを理解しあった温かさに変化したりして見応えがあった。最初は不俱戴天の仇だったはずなのだが、いつの間にかお互いに最もよき理解者になっていた。それでもしょっちゅう厭味を言いあいながら喧嘩していたが。

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