戦国時代、平和の理想をどのくらいの人々が考えていただろうか。地方大名の中には、弱体化していた室町幕府を支えて争いのない世の中をという発想は16世紀の前半にあっただろう。しかし、戦国時代後半の大規模な勢力がしのぎを削るパワーゲームの時期は、各大名あるいはその家臣たちは平和の理想のようなことを考えていただろうか。
秀吉などの大勢力によって統一が進むと、その大勢力の一員となった側の間で、井伊家レベルの小勢力間の争いが減り、治安も良くなってきたという実感は芽生えてきたであろう。そして、統一達成後の文禄(1592~1596)以降は、国内での戦乱はいったんほぼ収まった。その時代の人々の間で、「元亀天正の世(1570~1592)に戻したくない」と語られるようになって、ここへ来て、平和への価値観が共有され始めたかもしれない。最初から理想として目指されていたかどうかは疑問だが、結果的に「平和は良いもの」という結論に達したわけである。
それが、秀吉没後の争いにも現われてくる。石田三成が徳川家康に反旗を翻したとき、勢力が拮抗した状況で、かなり多くの人々は長い内戦になると予想していた。真田昌幸・信繁父子、黒田如水の行動は、戦乱が長引くことを予想した上でのものだったはずである。ところがこの戦乱は、結局は関ケ原の一戦でほぼ決着がついてしまった。わずか一日で決着がついたというこの背景には、もう長い戦乱はこりごりという人々の切なる願いもあったのではないかと思われる。
さて、冒頭にも記した直虎のシーンだが、1580年代前半の時点で、こういうセリフははたしてありえたのだろうか。残された書簡等の中にこういう文章のようなものがあれば証拠になるのだが、私は歴史の専門家ではないのでわからない。しかし、領内の人々と密接につながっていた小領主なら、大きな勢力の傘下に入ると、軍役や徴兵の回数が減り、戦死者が少なくなり、人々が安心して生活できるようになりつつあることが実感できたかもしれない。そういう状況で、聡明な領主なら、「平和を目指すために徳川に」くらいのセリフは言った可能性が十分にあるのではないだろうか。あながち、ドラマにおける主人公の美化と歴史の結果を知っている現代人の後知恵いうわけでもないかもしれない。