2017年11月12日日曜日

日本人は論理的に考えることが本当に苦手なのか―比較文化編

 前回の投稿では、少なくとも遺伝子頻度の差異で思考スタイルの文化差を説明するには無理があるという主張を行ったが、今日は、その思考スタイルの文化差についても触れておこう。拙著『日本人は論理的に考えることが本当に苦手なのか』でも解説されており、1211日の大阪市大の公開講座でも紹介する予定である。

 過去20年の間にさまざまな思考の比較文化研究が行われたが、その多くは東洋人と西洋人を比較したもので、1999年にカイピン・ペンとリチャード・ニスベットがアメリカン・サイコロジスト誌で発表したパイオニア的研究に端を発する。彼らの研究では、東洋人は西洋人と比較して、対立する意見や矛盾にたいして弁証法的な解決を好むということが示されている。

 彼らの主張は大別して二つある。一つ目は、たとえば、「過度の謙遜は半分自慢」のような矛盾を含む諺を中国人のほうがアメリカ人よりも好むという結果に基づくもので、東洋人は矛盾を許容する度合いが大きいという主張につながる。二つ目は、「家族への緊密さが満足した社会的関係に結びつく」と「家族との結びつきが弱い子どものほうが成熟する」という一見対立した意見が同時に提示されると、アメリカ人はどちらかに賛成または反対という傾向が強いが、中国人は両方の意見への賛成度が極端にならないという結果に基づくものである。つまり、東洋人は、矛盾した意見に出会ったときは、その中庸をとるという傾向が強いというわけである。

 彼らの研究以降、私たちのものも含めて、東洋人の思考が弁証法的かどうかについての比較文化研究が行われ、支持するものもあれは不支持なものもあるという状況だった。ここでそれぞれの研究を紹介するのはたいへんなので、それらを簡潔にまとめよう。現時点の暫定的な結論は、東洋人は矛盾する主張に出くわしたとき、中庸を行くような弁証法的な意思決定を実際には行うわけではないが、世界は矛盾に満ちていて当然というような弁証法的な世界観をもっており、また弁証法的思考により価値をおいているのではないかということが推察されている。

 ところで、弁証法は、矛盾している命題を受け入れるという意味で、確かに「論理的」ではないのかもしれないが、一方で、真と偽からなる二値論理を超えて、より高度な思考(ヘーゲルによれば、「止揚・アウフヘーベン」と呼ばれる)であるともいえる。しかし、かといって東洋人の思考スタイルは西洋人のものより高度であるという結論は早計であろう。東洋人の弁証法は、止揚のような高度なものではなく、陰と陽が表裏一体であるとする陰陽思想等の文化的伝統の影響を受けた世界観に基づくものと考えるのが現時点で最も無難であろう。


0 件のコメント:

コメントを投稿